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カタカナ語の意味の理解

2007-11-11 23:08:01 | 言葉と文字

 リストラという言葉は日本流の短縮語で、字だけを見ては意味が分かりませんし、もちろん外国人が聞いても何のことか分りません。
 これはリストラクチャリングの略で、事業再編成といったような意味ですが、社会人のほとんどはそんなことは分らなくても、意味は人員整理つまり首切りのことだと理解していました。
 学者は言葉の意味を文字を見ることで理解しようとするので、リストラのようにわけの分らないカタカナ語は理解できないと非難するのですが、一般の人は言葉の形がどうだとかいうことでなく、現実的な意味で受け止めているのです。

 バブル経済という言葉が流行したときも、バブルのことをバルブと言っている人がかなりいましたが、valve(弁)とかbulb(電球)という意味で言っていたわけではありません。 そう言った人たちもバブル経済がどういうものか分っていなかったというのではなく、言葉を言い間違っていたのです。
 つまり、多くの人は言葉の意味を全体として捉えて理解していて、文字の意味から理解しているわけではないのです。

 カタカナ語は長くなると日本流に短縮してしまって、意味がなんだか分らなく例としてよくあげられるのが「コン」を使った短縮形です。
 パソコンとかマザコンとかいった場合のコンは、実はコンピューターのコンだったり、コンプレックスのコンだったりして、中身が違うのに同じコンで表わされているので、コンという部分は耳で聞いて分らないだけでなく、目で見た文字からも意味が分からないというのです。
 漢字にも同音異義語というのがありますが、漢字の場合はたとえばコウという発音の言葉は図のようにたくさんあっても、文字を見れば意味が分かります。

 そんな風に言われれば、なるほどもっともだと思ってしまいそうですが、その議論は筋違いです。
 これらのコンというのは言葉の主要部分(語根)でなくて、「共に」とか「まとめる」といった意味を付加する接頭辞です。
 カタカナ語の短縮語は音声を言いやすいようにまとめているだけで、意味をまとめているわけではありません。
 意味をまとめているほうが合理的ではないかという考えかたもありますが、短縮語というのは元の単語を知っているから短縮形が理解できるので、短縮形から元の単語が分るとは限らないので、音声をまとめた場合より優れているとはいえません。
 英語の略語は意味単位の略語ですが、CIAのIはintelligence、FBIのIはinvestigation、ITのIはinformationで、Iという文字を見ただけでは意味が分かるわけではありません。
 単語全体の意味を知っていて、その短縮形だということで使用しているのです。

 漢字の「コウ」と読む字はこの例の倍ほどあるので、漢字は見れば意味が分かるといったところで、それだけの漢字を覚えるだけでも大変で、それを使いこなすともなればさらな大変ですから、漢字が使い勝手がよいとは言えません。
 また英語のcomとかconと言った文字が先頭に付く語はそれこそ何百とあるので、「コン」が意味を思い浮かばせる印にはなりません。
 しかしカタカナ語でコンがどんな言葉のコンか分らなといっても、英語のすべてをカタカナ語にしようというわけではないので、そんなに気にすることはありません。
 学者は文字面から意味が分からないと非合理だと不満に思うのですが、普通の人は実用できればそれでよいのです。


カタカナ語と漢字

2007-11-10 23:25:19 | 言葉と文字

 カタカナ語で意味が分らない言葉を調べようと、カタカナ語辞典を書店でさがすと、結構収録語数の多いことにびっくりします。
 三省堂のデイリーコンサイスで見出しが23000語、コンサイスカタカナ語辞典では約43000語ですから、コンサイスの国語辞典の見出し語焼く65000語と比べ、とても多くなっています。
 国語辞典の中にも約7100語のカタカナ語が含まれているので、国語辞典のカタカナ語を除く見出し語は約58000語ですから、カタカナ語辞典はこの75%近くの見出し語数となります。

 普通の人が理解している言葉の数は約3万語程度だといわれますが、その大部分は国語辞典の見出し語に含まれると考えられますので、カタカナ語についてはカタカナ語辞典の見出しのごく一部しか知らないということになります。
 つまりカタカナ語は、日本語として(日本人にしか通用しない)使われているのに、普通の人には意味の分からない言葉が大部分だということになります。

 カタカナ語は文字を見ても意味が分からないので、なるべく漢字を使って置き換えたほうがよいという意見があります。
 たとえば、ディスクロージャーなどは情報公開、アカウンタビリティは説明責任といった具合で漢字を使った訳語のほうが短くかつ分りやすいので、カタカナ語よりすぐれています。
 それではすべてのカタカナ語について、漢字による訳語に変えたほうがよいかというと、必ずしもそうとはいえません。

 たとえばAのようにすでに使い慣れてしまっているカタカナ語の場合は、漢字の訳語はあるのですが、漢字の訳語のほうがかえって分かりにくくなっています。
 漢字の訳語のほうは見慣れていないので、個々の漢字の意味のほうに注意が向き、漢字の意味から言葉の意味を限定しようとしてしまいます。
 ところがすでによく知っている言葉というのは、その表わしているものについて、辞書的な説明を超えた多くの知識を伴っています。
 ビールという言葉から、味とか銘柄とか飲み方などのイメージが思い起こされるのに、麦酒という文字からはすぐには具体的なイメージがわきません。
 こうした言葉をいちいち漢字で表わしていれば、普通の人にとっては文章がかなり読みにくくなり、かつ分りにくくなります。
 
 これとは逆に、意味の訳語ではなく音訳の場合は、本来漢字で表現する必要はないのですが、国名などは漢字が使い勝手がよいので残っている場合があります。
 アメリカとかイギリスの場合は米国とか英国、さらには米英のように短縮すると使いやすいので不合理ではあっても残っています。
 フランスとかドイツの場合でも仏蘭西とか独逸という表記は廃れていますが、仏独という短縮表現は生きています。
 同じようでも都市名のロンドンとか、パリ、ベルリンなどは漢字での表現は使われなくなっていますから、使用頻度が高ければ短縮表現が選ばれるということのようです。

 カタカナ語の大部分は外来語ですが、外来語を漢字を使って翻訳するとなると、実は簡単ではありません。
 たとえば明治時代に、societyという言葉を漢字で翻訳した例というのは20ぐらいあったそうで、その中で社会という訳が定着したのです。
 社会という訳語はこの文字を見ても意味が必ずしも分るわけではないのすが、世間とか仲間とか分りやすい言葉は、すでにある言葉なので誤解を生むから分りにくい社会のほうが定着したのかもしれません。
 せっかく漢字で翻訳しても意味が分からないことには変わりなく、使われ続けているうちに何となく意味が分るようになったのです。
 カタカナ語であれ、漢字訳語であれ使用頻度が分かった感じの基になるのです。
  


書き言葉のあいまいさ

2007-11-06 23:50:11 | 言葉と文字

 「学んで時にこれを習う、また説ばしからずや」という論語の言葉がありますが、この場合の「説」は「悦」つまり「よろこぶ」と読むことになっています。
 「説」は「せつ」という読みと「えつ」という二つの音読みがあって、「えつ」と読むときは「悦」と同じ意味だそうです。
 同じ意味なのに二つの漢字があるので紛らわしいのですが、Aのように文字が違いながら同じ意味のものはほかにもいくつもあります。
 賛成と讚成、廻送と回送は同じなので易しいほうの文字を使用するようになっていますが、二つの書き方がなければ成らない理由は分りません。
 漢字は特定の人物がすべて作ったわけではないので、あいまいな部分とか余分な部分があるということでしょう。
 
 Bの例は明治時代に使われていた表記の例で、異見と、意見では文字が違うので意味も違いそうですが、同じ意味にも使われています。
 用心、要心、要慎などは字面で見て違うものの、何となく意味は同じように感じるのですから、文字同士に意味の共有部分があれば表記法がいくつもあることがわかります。

 「様子」という言葉を「ありさま」という意味と解すると、「ありさま」という意味の言葉を漢字熟語で表そうとするとCのようにいくつもの形が考えられます(さらに形状、現状、現況、現情、光景など)。
 これらはお互いに意味が違うのですが、お互いに意味が似通っている部分があるので、共通要素としての「様子」で置き換えることができます。
 ルビで「ありさま」とか「ようす」と振ることができるわけで、意味の共通性を持つ漢字がいくつもあるため、いくつもの表現が可能でなのです。

 Dの例で、旱害は日照りによる損害ですが、干は日照りの意味はなく、日照りによってかわいてしまうので代用できないことはないとはいえます。
 饗応の饗には酒食のもてなしの意味がありますが供にはありません。
 「さしだす」というような意味があるので「もてなし」もその中に入るという風にいえないことはないということでしょうか。
 蛔虫は身体の中をめぐり歩く虫ですが、回虫ではめぐり歩く虫でどこをめぐり歩いてもよいことになります。
 この場合のように文字の置き換えがなされていても、置き換えた文字の意味の類似性というのはごくゆるやかで、比喩的に関係があるという程度のものもありますが、現在では定着してしまっています。

 Eの例は意味が煮ていても少し違うのですが代用させている例で、輔佐は助ける意味なのを補うとしていてもそれで通用しています。
 こうした例から見ると、文字で書かれた言葉の意味もかなりあいまいなで、緩やかな部分を持っていることが分ります。
 


漢字の意味と単語の意味

2007-11-05 23:26:37 | 言葉と文字

 図のAのように、すい星、ら致、だ捕、う回、破たんなどといわゆる交ぜ書き表示をすると、何となく間延びがして読みずらい感じがします。
 彗星、拉致、拿捕、迂回、破綻と漢字で表示したほうが読み取りやすいのですが、交ぜ書きにしたからといって意味が分からなくなると言うことではありません。
 交ぜ書きしてある場合の、仮名書きの部分の漢字「彗、拉、拿、迂、綻」の意味は何かと問われて答えられる人はそう多くはないでしょう。
 すい星は水星と紛らわしいとはいえ、水星なら交ぜ書きをしないので、彗星のことだと分ると思います。
 彗星がほうき星だと知っていれば、彗という漢字はほうきの意味だと見当がつきますが、ほうきは普通なら箒と書くので彗だけを見ては分らないでしょう。

 拿は「つかまえる」迂は「遠回りをする」、綻は「ほころびる」という意味なので、捕、回、破と似たような意味で、交ぜ書きされても漢字表記されている部分から単語全体の意味がだいたい分ります。
 拉致の場合は拉がひらがな表記されると漢字部分の致だけが目に付くのですが、この致という文字からは、「無理やり連れて行く」というような意味にはつながりにくいです。
 それでも、ら致で意味が分かるのは「ラチ」と読んでその音声イメージから「無理やり連れて行く」という意味の言葉と分るのです。
 つまり拉致という漢字を知らなくても、耳からの知識で「ラチ」という言葉の意味を覚えているのです。
 「ら致」という表記をするよりも、むしろ「ラチ」としたほうが読みやすいくらいで、交ぜ書きが読みにくいのは、意味が分からなくなるというよりも、交ぜ書きすることによって単語の外見の一体性が損なわれるためです。

 Bの例は単語の一方の漢字を仮名でなく、音読みが同じ別の漢字に置き換えた例で、似たような意味となるため現在では置き換えた易しい漢字のほうが定着しています。
 防禦の禦は「ふせぐ」で、御は普通は御者の例のようにコントロールの意味と受け取れれていますが、「ふせぐ」の意味にも使われます。
 意嚮の「嚮」は「むかう」で「向」と同じような意味で、現在では意向のほうがほとんどつかわれ、こちらのほうしか知らない人のほうが多いでしょう。
 慰藉の藉は「なぐさめる」で謝るということとは違うようですが、慰謝でも何となく近い意味なので慰謝が通用しています。
 漢字の意味にこだわれば少し意味が違っても、易しい字で置き換えているのですが、厳密な意味にこだわらず使っていてそれが受け入れられているのです。

 Cは漢字は易しい字なのですが、意味は分からないままに遣われていることが多い例です。 
 番茶は煎茶とか抹茶、焙じ茶と同じような用法に見えますが、番は「そまつ」という意味でお茶の加工法とは関係ありません。
 番人という場合の「番」も順番ではなく「みはり」で、「番人」の意味は分かっていても。「番」の意味には注意を向けたことがない人が多いでしょう。
 「立春」とか「立秋」という場合の「立」にしても、どういう意味かと改めて聞かれると「立つ」ではないのかなどと思ってしまいますが、「はじめ」の意味です。
 こうした例は意外と多く、読破の「破」は「破る」ではなく「やりぬく」、警句の「警」は「警告」ではなく「すぐれた」で、よく注意すると漢字の個々の意味を考えないで単語を読み書きしていることが多いことが分ります。


理解より記憶が先に

2007-11-04 22:29:42 | 言葉と文字

 「門前の小僧習わぬ経を読む」という慣用句がありますが、これは一般的には普段接していると自然にお経のように難しいものでも身につく、というように理解されています。
 ところが実際には、子供が普段お経を聞きなれたために、お経を口真似できるようになったとしても、意味まで分かるということはありません。
 お経を読むことを習った坊さんでさえ、お経の文句をすべて理解しているとは限らないのですから、門前の小僧が理解できているはずはありません。
 門前の小僧が習わぬ経を読むとすれば、それは意味が分からずに口真似をしているに過ぎないのです。
 それは本当に身につけた知識技術でなくて、表面的な真似事に過ぎないということを言っているというふうに解釈するほうが自然です。
 人は意味がわからなくても言葉を覚えてしまい、それを口にしたりすることがあるといいうことを示しているのです。

 国語学の世界では、個人が話したり読み書きするのに使用する単語には、使用語彙と理解語彙の二種類があるといわれています。
 使用語彙というのは自分が話したり書いたりするときに使うことばで、理解語彙というのは自分では使用することがなくても、読んだり、聞いたりしたときに理解できる言葉をも含んだものです。
 図で表わすとAのような関係で、使用語彙は、話したり書いたりするのに使う(表現語彙)ので当然自分が理解している(誤解も含めて)と思っている理解語彙の一部であるとされています。
 
 ところが実際に使われている言葉は、使用している人が理解しているものだけではありません。
 「病膏肓に入る」などという言葉を使っている人が、「膏肓」とは何かと聞かれても、答えられるとは限りません。
 「晴天のヘキレキ」と言った人も、聞いた人も「ヘキレキ」とはどんな意味か分らなかったり、「霹靂」と漢字で書かれているのを読んでも、意味が分からない人のほうが多いでしょう。
 「タウリン1000mg配合」などといった宣伝文句を見聞きしていても、具体的には何のことか分らなくても、身体にいいのだなと漠然と思ったりしています。

 現在のように新しい言葉が大量に増えてきている状態では、見たり聞いたりして知っている言葉はすべて理解できている言葉とは限りません。
 見たり聞いたりして知っている言葉(認知語彙)の一部分が理解語彙で、使用語彙の多くは理解語彙であっても、理解語彙でないものもありますから、これらの関係はB図のようになります。
 人間が多くの言葉を覚えられるのは、意味が分からないままに覚える能力があるためなので、理解できていない言葉を多く覚えているのはやむをえないことです。
 子供のほうが覚えるのは得意で、理解は大人のほうが優れているのですが、要するに記憶が先で理解は後ですから理解できていない言葉が記憶に残っているのです。
 そのため、つい理解をしていない言葉も使ってしまうと言うことがおきるのです。

 


音声参照が必要な読み

2007-11-03 23:18:16 | 文字を読む

 日本語は同音異語が多いので、漢字でどう書くかを思い浮かべないと意味が通じにくいというふうに言われることがあります。
 たとえば「コウエンに行く」と聞いても「コウエン」は「公園、講演、公演」など同音いごがあるので、どの「コウエン」なのか文字でどう書くかのヒントがないと分らないといいます。
 日本語は音声だけでは十分なコミュニケーションができず、漢字を思い浮かべることを補助手段にすることでうまくいくというのですが、逆もいえます。
 
 たとえば図のように「上水」という単語は訓読みでは「うわみず」、音読みでは「じょうすい」です。
 「うわみず」は「上澄みの水」、「じょうすい」は「飲料用の水」ですから意味が違います。
 「大きな足跡を残した」と書かれていたとき、「あしあとを残した」と読めばよほどの足が大きいという意味に受け取れますし、「ソクセキを残した」と読めば「業績が大きい」という意味になります。
 「色紙に書く」と書かれてあったとき、「いろがみ」と読めば色のついた紙ですが、「シキシ」と読めば書画用の厚い紙のことで、で色がついているとは限りません。

 つまり、一つ一つの漢字の意味が分かれば単語の意味が分かるとは限らないのです。
 音で読むか訓で読むかによって意味が違うのですから、文字面だけ見ていては意味が分らないので、音声に頼らなくてはならないということになります。
 話し言葉が文字の助けを必要とする場合があるように、書き言葉もどう読むかという音声イメージの助けを必要とする場合があるのです。
 もちろん、音で読むか訓で読むかは文章の中での使われ方を見れば分る、つまり文脈から自然に判断できるという意見もあるでしょうが、それはそれぞれの単語の意味をあらかじめ知っている場合に言えることです。
 
 文字面だけでは音で読むべきか訓で読むべきかが分らないのであれば、訓読みというのはもともと和語の組み合わせなので、いっそのこと仮名書きにすればよいという考え方もあります。
 ところが音読みでも必ずしも読み方は一通りとは限らないというのですから厄介です。
 たとえば「作物」は音読みで「サクモツ」ト「サクブツ」の二通りがあります。
 「サクモツ」といえば農作物のことをいい、「サクブツ」は芸術作品など作ったものですが、農作物は「ノウサクブツ」と読むのでややこしいのです。
 「後世」は「コウセイ」と読めばあとから生まれてきた人ですが、「ゴショウ」と読めば自分の死後の世界のことです。

 読みの種類が一通りでなくて紛らわしければ、読みを確定する方法としてルビを振るという方法がありますが、これはあくまでも読みの確定です。
 読みが分っても意味が分かるとは限らないので、言葉の意味は別に覚えなければなりません。
 一つ一つの漢字を知っていれば、漢字を組み合わせた熟語の意味が自然と分かるとは限らないので油断はできません。
 漢字は漢字を組み合わせて新しく言葉が作られるので、便利で合理的に見えるのですが、大勢の人が造語しているので、造られ方がかならずしも一貫しているわけではありません。
 漢字が便利だと強く主張する人は、漢字をよく知っている人で、多くの学習をしなければ特に便利ということでもないようです。