「学んで時にこれを習う、また説ばしからずや」という論語の言葉がありますが、この場合の「説」は「悦」つまり「よろこぶ」と読むことになっています。
「説」は「せつ」という読みと「えつ」という二つの音読みがあって、「えつ」と読むときは「悦」と同じ意味だそうです。
同じ意味なのに二つの漢字があるので紛らわしいのですが、Aのように文字が違いながら同じ意味のものはほかにもいくつもあります。
賛成と讚成、廻送と回送は同じなので易しいほうの文字を使用するようになっていますが、二つの書き方がなければ成らない理由は分りません。
漢字は特定の人物がすべて作ったわけではないので、あいまいな部分とか余分な部分があるということでしょう。
Bの例は明治時代に使われていた表記の例で、異見と、意見では文字が違うので意味も違いそうですが、同じ意味にも使われています。
用心、要心、要慎などは字面で見て違うものの、何となく意味は同じように感じるのですから、文字同士に意味の共有部分があれば表記法がいくつもあることがわかります。
「様子」という言葉を「ありさま」という意味と解すると、「ありさま」という意味の言葉を漢字熟語で表そうとするとCのようにいくつもの形が考えられます(さらに形状、現状、現況、現情、光景など)。
これらはお互いに意味が違うのですが、お互いに意味が似通っている部分があるので、共通要素としての「様子」で置き換えることができます。
ルビで「ありさま」とか「ようす」と振ることができるわけで、意味の共通性を持つ漢字がいくつもあるため、いくつもの表現が可能でなのです。
Dの例で、旱害は日照りによる損害ですが、干は日照りの意味はなく、日照りによってかわいてしまうので代用できないことはないとはいえます。
饗応の饗には酒食のもてなしの意味がありますが供にはありません。
「さしだす」というような意味があるので「もてなし」もその中に入るという風にいえないことはないということでしょうか。
蛔虫は身体の中をめぐり歩く虫ですが、回虫ではめぐり歩く虫でどこをめぐり歩いてもよいことになります。
この場合のように文字の置き換えがなされていても、置き換えた文字の意味の類似性というのはごくゆるやかで、比喩的に関係があるという程度のものもありますが、現在では定着してしまっています。
Eの例は意味が煮ていても少し違うのですが代用させている例で、輔佐は助ける意味なのを補うとしていてもそれで通用しています。
こうした例から見ると、文字で書かれた言葉の意味もかなりあいまいなで、緩やかな部分を持っていることが分ります。