カタカナ語で意味が分らない言葉を調べようと、カタカナ語辞典を書店でさがすと、結構収録語数の多いことにびっくりします。
三省堂のデイリーコンサイスで見出しが23000語、コンサイスカタカナ語辞典では約43000語ですから、コンサイスの国語辞典の見出し語焼く65000語と比べ、とても多くなっています。
国語辞典の中にも約7100語のカタカナ語が含まれているので、国語辞典のカタカナ語を除く見出し語は約58000語ですから、カタカナ語辞典はこの75%近くの見出し語数となります。
普通の人が理解している言葉の数は約3万語程度だといわれますが、その大部分は国語辞典の見出し語に含まれると考えられますので、カタカナ語についてはカタカナ語辞典の見出しのごく一部しか知らないということになります。
つまりカタカナ語は、日本語として(日本人にしか通用しない)使われているのに、普通の人には意味の分からない言葉が大部分だということになります。
カタカナ語は文字を見ても意味が分からないので、なるべく漢字を使って置き換えたほうがよいという意見があります。
たとえば、ディスクロージャーなどは情報公開、アカウンタビリティは説明責任といった具合で漢字を使った訳語のほうが短くかつ分りやすいので、カタカナ語よりすぐれています。
それではすべてのカタカナ語について、漢字による訳語に変えたほうがよいかというと、必ずしもそうとはいえません。
たとえばAのようにすでに使い慣れてしまっているカタカナ語の場合は、漢字の訳語はあるのですが、漢字の訳語のほうがかえって分かりにくくなっています。
漢字の訳語のほうは見慣れていないので、個々の漢字の意味のほうに注意が向き、漢字の意味から言葉の意味を限定しようとしてしまいます。
ところがすでによく知っている言葉というのは、その表わしているものについて、辞書的な説明を超えた多くの知識を伴っています。
ビールという言葉から、味とか銘柄とか飲み方などのイメージが思い起こされるのに、麦酒という文字からはすぐには具体的なイメージがわきません。
こうした言葉をいちいち漢字で表わしていれば、普通の人にとっては文章がかなり読みにくくなり、かつ分りにくくなります。
これとは逆に、意味の訳語ではなく音訳の場合は、本来漢字で表現する必要はないのですが、国名などは漢字が使い勝手がよいので残っている場合があります。
アメリカとかイギリスの場合は米国とか英国、さらには米英のように短縮すると使いやすいので不合理ではあっても残っています。
フランスとかドイツの場合でも仏蘭西とか独逸という表記は廃れていますが、仏独という短縮表現は生きています。
同じようでも都市名のロンドンとか、パリ、ベルリンなどは漢字での表現は使われなくなっていますから、使用頻度が高ければ短縮表現が選ばれるということのようです。
カタカナ語の大部分は外来語ですが、外来語を漢字を使って翻訳するとなると、実は簡単ではありません。
たとえば明治時代に、societyという言葉を漢字で翻訳した例というのは20ぐらいあったそうで、その中で社会という訳が定着したのです。
社会という訳語はこの文字を見ても意味が必ずしも分るわけではないのすが、世間とか仲間とか分りやすい言葉は、すでにある言葉なので誤解を生むから分りにくい社会のほうが定着したのかもしれません。
せっかく漢字で翻訳しても意味が分からないことには変わりなく、使われ続けているうちに何となく意味が分るようになったのです。
カタカナ語であれ、漢字訳語であれ使用頻度が分かった感じの基になるのです。