60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

理解より記憶が先に

2007-11-04 22:29:42 | 言葉と文字

 「門前の小僧習わぬ経を読む」という慣用句がありますが、これは一般的には普段接していると自然にお経のように難しいものでも身につく、というように理解されています。
 ところが実際には、子供が普段お経を聞きなれたために、お経を口真似できるようになったとしても、意味まで分かるということはありません。
 お経を読むことを習った坊さんでさえ、お経の文句をすべて理解しているとは限らないのですから、門前の小僧が理解できているはずはありません。
 門前の小僧が習わぬ経を読むとすれば、それは意味が分からずに口真似をしているに過ぎないのです。
 それは本当に身につけた知識技術でなくて、表面的な真似事に過ぎないということを言っているというふうに解釈するほうが自然です。
 人は意味がわからなくても言葉を覚えてしまい、それを口にしたりすることがあるといいうことを示しているのです。

 国語学の世界では、個人が話したり読み書きするのに使用する単語には、使用語彙と理解語彙の二種類があるといわれています。
 使用語彙というのは自分が話したり書いたりするときに使うことばで、理解語彙というのは自分では使用することがなくても、読んだり、聞いたりしたときに理解できる言葉をも含んだものです。
 図で表わすとAのような関係で、使用語彙は、話したり書いたりするのに使う(表現語彙)ので当然自分が理解している(誤解も含めて)と思っている理解語彙の一部であるとされています。
 
 ところが実際に使われている言葉は、使用している人が理解しているものだけではありません。
 「病膏肓に入る」などという言葉を使っている人が、「膏肓」とは何かと聞かれても、答えられるとは限りません。
 「晴天のヘキレキ」と言った人も、聞いた人も「ヘキレキ」とはどんな意味か分らなかったり、「霹靂」と漢字で書かれているのを読んでも、意味が分からない人のほうが多いでしょう。
 「タウリン1000mg配合」などといった宣伝文句を見聞きしていても、具体的には何のことか分らなくても、身体にいいのだなと漠然と思ったりしています。

 現在のように新しい言葉が大量に増えてきている状態では、見たり聞いたりして知っている言葉はすべて理解できている言葉とは限りません。
 見たり聞いたりして知っている言葉(認知語彙)の一部分が理解語彙で、使用語彙の多くは理解語彙であっても、理解語彙でないものもありますから、これらの関係はB図のようになります。
 人間が多くの言葉を覚えられるのは、意味が分からないままに覚える能力があるためなので、理解できていない言葉を多く覚えているのはやむをえないことです。
 子供のほうが覚えるのは得意で、理解は大人のほうが優れているのですが、要するに記憶が先で理解は後ですから理解できていない言葉が記憶に残っているのです。
 そのため、つい理解をしていない言葉も使ってしまうと言うことがおきるのです。

 


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