日本語は同音異語が多いので、漢字でどう書くかを思い浮かべないと意味が通じにくいというふうに言われることがあります。
たとえば「コウエンに行く」と聞いても「コウエン」は「公園、講演、公演」など同音いごがあるので、どの「コウエン」なのか文字でどう書くかのヒントがないと分らないといいます。
日本語は音声だけでは十分なコミュニケーションができず、漢字を思い浮かべることを補助手段にすることでうまくいくというのですが、逆もいえます。
たとえば図のように「上水」という単語は訓読みでは「うわみず」、音読みでは「じょうすい」です。
「うわみず」は「上澄みの水」、「じょうすい」は「飲料用の水」ですから意味が違います。
「大きな足跡を残した」と書かれていたとき、「あしあとを残した」と読めばよほどの足が大きいという意味に受け取れますし、「ソクセキを残した」と読めば「業績が大きい」という意味になります。
「色紙に書く」と書かれてあったとき、「いろがみ」と読めば色のついた紙ですが、「シキシ」と読めば書画用の厚い紙のことで、で色がついているとは限りません。
つまり、一つ一つの漢字の意味が分かれば単語の意味が分かるとは限らないのです。
音で読むか訓で読むかによって意味が違うのですから、文字面だけ見ていては意味が分らないので、音声に頼らなくてはならないということになります。
話し言葉が文字の助けを必要とする場合があるように、書き言葉もどう読むかという音声イメージの助けを必要とする場合があるのです。
もちろん、音で読むか訓で読むかは文章の中での使われ方を見れば分る、つまり文脈から自然に判断できるという意見もあるでしょうが、それはそれぞれの単語の意味をあらかじめ知っている場合に言えることです。
文字面だけでは音で読むべきか訓で読むべきかが分らないのであれば、訓読みというのはもともと和語の組み合わせなので、いっそのこと仮名書きにすればよいという考え方もあります。
ところが音読みでも必ずしも読み方は一通りとは限らないというのですから厄介です。
たとえば「作物」は音読みで「サクモツ」ト「サクブツ」の二通りがあります。
「サクモツ」といえば農作物のことをいい、「サクブツ」は芸術作品など作ったものですが、農作物は「ノウサクブツ」と読むのでややこしいのです。
「後世」は「コウセイ」と読めばあとから生まれてきた人ですが、「ゴショウ」と読めば自分の死後の世界のことです。
読みの種類が一通りでなくて紛らわしければ、読みを確定する方法としてルビを振るという方法がありますが、これはあくまでも読みの確定です。
読みが分っても意味が分かるとは限らないので、言葉の意味は別に覚えなければなりません。
一つ一つの漢字を知っていれば、漢字を組み合わせた熟語の意味が自然と分かるとは限らないので油断はできません。
漢字は漢字を組み合わせて新しく言葉が作られるので、便利で合理的に見えるのですが、大勢の人が造語しているので、造られ方がかならずしも一貫しているわけではありません。
漢字が便利だと強く主張する人は、漢字をよく知っている人で、多くの学習をしなければ特に便利ということでもないようです。
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