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カタカナ語の言い換え

2007-11-13 23:56:32 | 言葉と文字

 国立国語研究所というところで、外来語の言い換え帳というのを作っていますが、これをみるとカタカナ語の言い換えというのがなかなか難しいことが分ります。
 Aの例のように一つの言いかえですむもの(最適かどうかは別として)ものだけではなく、Bの例のように一つの言葉にいくつかの言いかえがあるものもあります。
 どの国の言葉でも一つの言葉には一つの意味しかないとは限らず、いくつかの意味を持っている多義語というのが多数あります。
 外来語というのは、はじめは一つの意味として借入されるのですが、同じ原語から多くの言葉が取り入れられると、同じ言葉のほかの意味も借用されるようになります。
 
 英語でも以前はアイデアは「考え」、アートは「芸術」、パイロットは「操縦士」といったふうにそれぞれ一つの意味で受け入れていました。
 漢字なら「先」は「先頭」、「先日」、「先方」、「先見」、「先生」などいくつかの意味に使われています。
 それだけ漢字は日本語の中に深く入り込んでいるのは、漢字が日本に入ってからの歴史が1000年以上にもなるからです。
 Bの例のようにいくつもの意味を持つものとして受け入れられるものが出てきたということは、英語がだんだん日本の中に深く入り込みつつあるということです。

 たとえば「ポイント」はそれぞれ使われる場所によって、要点とか、重点、地点、点数などとそれぞれ言い換えればいいのですが、使う人の頭の中にそれぞれが「ポイント」という言葉でまとめられいれば、「ポイント」という言葉のほうがふさわしく感じ、自然と「ポイント」という言葉を使うようになり、聞く側も自然に受け止めるようになります。
 このように英語の単語が、多義語は多義語として受け入れられるという傾向は、英語がどんどん日本に受け入れられるに従って増えてくるでしょう。
 これまで英語の意味を限定して受け入れているという批判がありましたが、すこしずつ多義語は多義語として受け入れられるようになると、こんどは英語が深く入り込みすぎるという恐れのほうが強くなるでしょう。

 Cの例は言いかえができない例で、日本にはなかった制度とか仕組みなので、そのままカタカナで書くしかない例です。
 明治時代なら何とか漢訳をする能力のある人がいて、強引にでも漢訳したかもしれませんが、これまでになかったものは漢訳したところで意味が分かるわけではありません。
 明治時代にソサエティーを社会、デモクラシーを民主主義と訳していますが、いつまでも社会とは何かとか民主主義とは何かといったことが論議されているのですから、訳せば意味が分かるというものではないのです。
 こうしたことから考えると、Aのように日本語化できるものは日本語化したほうがよいのですが、全体としてはまだカタカナ語は増える傾向にあると思われます。