左側の図は一見しただけでは、なんだか分からないでしょう。
眼を近づけてよく見ようとしても、なかなか何だか分からないと思います。
逆に眼を遠ざけて眼を細め、画像がぼやけるような見方をすると顔らしきものの形が見えてきます。
実は、これはリーカーンの小さな写真を拡大したものだと聞けば、ナルホドと思います。
そうすると、目を細めたりしなくても、リンカーンの顔らしく見えてくるから不思議です。
もちろん、リンカーンを知らない人や、名前を知っていてもイラストや写真を見て顔の特徴を知らない人にはわかりません。
言葉が意味を呼び起こし、意味がイメージを呼び起こしているのです。
リンカーンの顔のイメージを持っている人は、リーカーンという言葉を聞いたときこの図をリンカーンの顔に見立てることが出来たわけです。
このようにあいまいな図は何回見ても、見ているだけではなかなか分からないのですが、一つの言葉を与えられると、そこでハタと気がつくのです。
見たことのあるリンカーンの写真などが、この図のとおりでなくても、リンカーンという言葉を聴いて、その記憶イメージと結びつけることが出来たのです。
「百聞は一見にしかず」ということわざの逆現象が起きたのですが、言葉によってイメージが呼び起こされ、それによって見方が変わるのです。
つぎに右の図をみると、「ああこれは、リンカーンの顔を描いたものだな」と思うでしょう。
左の図がリンカーンの顔だといわれたので、リンカーンのイメージが頭に残っていて、類似のイラストを見れば、リンカーンの顔だと思い込んでも不思議はありません。
そう思い込むと、この絵はいろんな絵が隠されている、いわゆる隠し絵なのだということに気がつきません。
髪の毛のところは、帽子をかぶったピエロ、目の部分が逆さのカタツムリ、鼻から口にかけてが鳥、胸の部分に犬の首が黒く描かれていることが見て取れます。
そのように見ていくと、この絵は白黒反転させて見ると、人間の横顔、ねずみ、らくだなどがネガで描かれていることに気がつきません。
一つの見方が体制化されると、その見方に制約されてしまって、ほかの見方があるのだということが見過ごされてしまいがちなのです。
もちろん、この場合もピエロとかカタツムリとかいったもののイメージを持っていなければ、それと気がつくことがないので、どのように見えるかということは経験や知識によって大きく左右されるということになります。