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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

分りにくい逆の錯視

2008-05-31 23:07:48 | 眼と脳の働き

 なにげなしに見れば図Aは図Bの縦線部分に見え、図Dは図Cの縦千部分に見えます。
 ところが実際は図Aは図Cの縦線部分であり、図Dは図Bの縦線部分です。
 図Dは平行な垂直線なのですが、これに斜めの線が加えられたのがB図であり、斜めの線が加わったために、縦線は垂直に見えなくなっているのです。
 もしB図を模写しようとするなら、縦線は垂直に見えないのに垂直に描かなければならないということになります。
 また、もしC図を模写しようとするなら、縦線が垂直に見えるのに、A図のようにやや斜めに描かなければなりません。
 見えたとおりに描くと、思ったとおりの結果が得られないのです。

 B.エドワーズ「脳の右側で描け」では模写をするとき原図を逆さまにして描けばうまくいくというふうに書かれています。
 わたしたちはものを見るとき既成概念で見る、つまり主として左脳を使って見るので、ありのままに見えないためうまく模写できないというのです。
 しかしB図にしてもD図にしても、これらの図を逆さまにしても見え方が変るわけではありません。
 B図は逆さまにしても縦線が垂直に見えるようにはなりませんし、C図も逆さまにしても縦線はやはり垂直に見えます。
 両方とも逆さまにすれば逆さまには見えますが、ありのままに見えるようになるわけではありません。
 
 B図の縦線が垂直に見えないのは、斜めの線が遠近感をもたらすためなのですが、視線を動かさなければ遠近感が感じられなくなり、縦線は垂直に見えるようになります。
 ひとつの方法はB図の上端と下端を同時に見る方法です。
 目を見開いて図の上端と下端を同時に見ると焦点が画面の後方になり、両眼開放視の状態になり、縦線は垂直に見えるようになります。
 もうひとつの方法は、図の真ん中に焦点をあて視線を動かさないで凝視する方法です。
 図の上端も下端も周辺視野に入りますが、縦線は垂直に見えるようになります。

 ところがC図の縦線が実は垂直ではないことを見破るのは、B図の垂直線が垂直であることを見破るようにはいきません。
 C図の上端と下端を同時に見ても、あるいは図の真ん中を凝視しても縦線はA図のように見えてはきません。
 「曲がって見えるものが実はまっすぐ」という場合は、見破ることができても、「まっすぐに見えるが実は曲がっている」ということを見破るほうが難しいのです。
 Bの中の縦線が実はD図のように垂直であるということは、垂直線はイメージしやすいけれども、A図のような直線はどの程度の傾きかあらかじめ分らないのでイメージしにくいからです。
 正しいことはイメージしやすいけれども、正しくないということは具体的にはイメージしにくいからです。


便利な既成概念

2008-04-08 23:30:32 | 眼と脳の働き

 渡辺茂「ピカソを見わけるハト」によると、人間は不正確なくずれた情報からその元になったものを探り当ててしまう能力を持っているといいます。
 図の1から5はそれぞれ六個の点が三角形を作っているように見えます。
 よく見るとどの場合も、点を結んでいって三角形を形作ってみると、きちんとした三角形でなく、ゆがんでいることがわかります。
 ところが指摘されなければ極端なものを除いては、疑問を持たず三角形と思ってしまいます。

 この図は原型となる三角形と、これをくずしたのが1から5までで、そのほかにデタラメニ配置したランダムドットが示されています。
 被験者にはランダムドットと原型を少しくずした図形(たとえば2)を最初に見せておいて、つぎに原型を含む6個の図を見せ、最初に見せた三角形にどの程度にているか評点をつけさせています。
 この場合は最初に見せた図形が2なのですから、2が最も高い評点がつくはずなのですが、原型の三角形に最も高い評点をつけてしまうそうです。
 

 この結果に対して著者は、人間は変形されたものを見せられたときに、その元になったものを見たと思っているのだとしています。
 つまり人間はものを詳しく見ないで、既成概念に当てはめて見てしまう傾向があるということです。
 詳しく正確に見ていこうとすると、時間とエネルギーがたくさん要りますが、既成概念に当てはめるのならエネルギーも時間も少なくてすむので便利です。
 その反面たとえば原稿の校正をするとき、誤字があっても気がつかない場合のように不都合な面もあります。

 またここでは、被験者が最初に見た図形をきちんと記憶しているかどうかを問題にしていません。
 人間の視覚的な記憶というものはあいまいで、また持続しないのが普通です。
 たいていの人は図形を見て、あとからその図がその図がどんな図形だったか正確に思い出すことはできません。
 視覚的な記憶力の不足を既成概念で補うので、元の形を選ぶのです。

これに対して似たような実験をハトについて行うと、ハトのほうは原型のほうよりも最初に見せられた図形のほうを選ぶそうです。
 ハトは指示に対して忠実で、思い込みで判断をしないで見たとおりを選ぶのです。
 ハトは三角形といった概念を持っていないのかもしれませんが、視覚的な記憶力が人間よりも優れているので、既成概念で判断するような便法を使わないですむのかもしれません。 


形の見方

2008-04-07 23:10:45 | 眼と脳の働き

 山口真美「視覚世界の謎に迫る」によると乳児は左上の図Zの中に完全な円と四角形を認識できるといいます。
 この中に円も四角形も完全な形では示されていないけれども、輪郭を補って見ているというのです。
 乳児はしゃべることができないのにどうしてそういえるのかというと、まずZを乳児に学習させた後、完全な円と欠けた円を見せると完全な円のほうを選択するので、Zの中に完全な円を見ているというわけです。
 同じように完全な四角形と欠けた四角形を見せると、完全な四角形を選ぶので、Zの中に完全な四角形を見ているというのです。

 少し考えれば、Zを学習しなくても、円と欠けた円を見せれば円を選びそうな気がするので、なんだか結論が先にあったような実験法のように感じられます。
 普通に考えればZを見せた後、完全な円と並べて選ばせる欠けた円は、E図のような円でなく、D図のような円でもよいはずです。
 わざと選びにくいE図の円を選択肢にしたのでは、結果を見るまでもないのです。

 つぎにA図を見た場合大人であれば円の一部分が四角形に遮蔽されて見えないと感じますが、生後9ヶ月までの乳児は、遮蔽された円を見ることができず、Eのように見てしまうそうです。
 ハトもAのような図を見ると円の隠れた部分を見ることができないで、Eのように欠けた円しか認識できないそうですから、ハトの認識能力は9ヶ月の乳児以下ということになります。
 ただし、A図で四角形が円を遮蔽しているというのは、画像の見方の問題で実際に遮蔽しているわけではないので、ハトや乳児はありのままに見ているだけで、四角能力が劣っているということではありません。
 乳児の場合はA図を見てZと同じと見ることができれば、Zを見て完全な円を認識できるというのですから、A図からでも円を認識できてもよさそうなものです。
 円を認識できないということは、A図では四角形のほうが目立っているの
で四角形のほうに注意を奪われてしまうということでしょう。
 部分に注意を奪われ、全体的な見方ができないのです。

 C図はA図の四角形を半透明にしたもので、遮蔽された円が透けて見えるという形です。
 こうすると6ヶ月ぐらいの乳児でも円を認識できるそうで、乳児の認識能力は①線を補って見る②半透明なものの後ろに形を見る③隠された形を補って見るという順に隠されたものを見る能力が完成されるといいます。
 半透明なものの後ろに形を見るというのが発達段階というのは、あまりに文明的で、自然の中には半透明のものの後ろに形を見るチャンスはめったにないので納得できません。
 
 C図は透明の四角形といってもこれは、画像上の表現で、実際は濃度の違う三つの図形が隣接しているだけです。」
 ここで円が認識できるのは輪郭が見えるからで、四角形が半透明に感じられるからではありません。
 四角形と円が重なっている部分がたとえば黄色になっていても、輪郭が見えるので円は認識できます。
 ここで円が認識できるというのは、二つの図形にまたがって一つの輪郭を見ることができているということです。
 したがって形の認識は①形の特徴でとらえる②輪郭線でとらえる③見えない部分を補うという順で発達すると考えられます。


部分から全体を判断

2008-04-06 22:53:10 | 眼と脳の働き

 図は渡辺茂「ピカソを見わけるハト」にある実験のものです。
 ハトの頭が遮蔽物の上に見えている画像と、遮蔽物だけの画像を区別できるようにハトを訓練した後、図のようにハトの全身像、ハトの頭だけの像、ハトの頭を上下二つつけたものをハトに見せて、反応を調べています。
 人間であれば上の図はハトが遮蔽物で隠され、頭だけが見えていると考えて、ハトの全身像に最も強く反応するところです。
 当然ハトもハトの全身像に最も反応すると予測されるところですが、実際は三つの画像のどれにも同じ程度に反応したといいます。
 つまりハトはハトの頭(見えている部分)が含まれていればどれにでも反応したということで、ハトが遮蔽物で隠されていると見たわけではないということです。

 これは画像を見せての反応を調べたもので、自然の中でもおなじようにハトが反応するとは限りません。
 遮蔽物で隠されているというのは、画像の上のことで、人間はそのように解釈しますが、ハトを含めて動物が同じように解釈するとは限りません。
 画像に見えているハトの頭の部分は、ハトには単なる模様に見え、四角い遮蔽物もそれに隣接する模様としか見えていないかもしれません。
 そうすればハトは画像の中で印象的な部分として、頭の部分をおぼえ、下の三つの画像はどれも頭の部分を含んでいるので、同じ程度に反応したと考えられます。
 つまり部分を見ることで全体を推理するのではなく、特徴的な部分に注目したに過ぎないと考えられます。

 しかし全体を詳しく見てから判断するというのでは、とても手間がかかって能率が悪いので、部分によって全体を判断するのが便法となります。
 この例のように部分的特徴に対して反応するというのは、レベルの低い反応のようですが、人間でも同じような反応をするので、このことからハトの認知能力が劣るとすることはできません。
 画像のように自然にはない、過度に人工的なものについて動物の反応を見ようとするとどうしても、人間の考えるような反応はえられません。
 画面上では四角形は人間の解釈ではハトを遮蔽しているといっても、実際はハトの頭の部分と四角形は並べて描かれています。
 三次元世界の中で遮蔽されているのであれば、四角形のほうが手前にあって、ハトの頭は奥にあるので見るときそれぞれ焦点が変わります。
 ハトは描画法などは知らないのですから、平面に描かれた画像で、片方がもう一方の図を遮蔽していると感じないのでしょう。
 

 

 


見えない部分を見る能力

2008-04-05 22:45:10 | 眼と脳の働き

 図Aを見せたときハトは棒がつながっているとは見ないで、二本の棒だと見るそうです。
 隠れている部分は見えないためで、人間の乳児やチンパンジーもやはり、見えない部分を補ってみようとせず、一本の棒と見てしまうそうです。
 ところが後ろの棒をBのように動かすと、人間の乳児もチンパンジーも一本の棒だとみなすようになるといいます。
 つまり左右の見えている部分が同時に動くことによって、つながっていると感じるのです。
 
 人間の大人はA図を見て棒がつながっていると見るのは、見えない部分を補って見ているからだとと普通は説明されてそれで納得します。
 乳児やチンパンジーは、認知能力が未発達なので隠されている部分を補ってみることができず、棒が動いて初めてつながっていると感じるのだというわけです。
 人間は脳が発達しているので、見えない部分をも補ってみる能力があるということなのですが、この補ってみるということが結果的に正しいかどうかは保証されているわけではありません。

 隠れている部分は直接には見えないので、本当につながっているかどうかは、見ただけでわかるとは限りません。
 棒は見えている部分だけしかないのかもしれませんし、隠れているところで途中で切れているかも知れません。
 実際つながっているかどうかは、たしかめてみなければわからないのです。
 Bのように左右が一緒に動いた場合であっても、棒が真ん中あたりで切れていて、一緒に動かされているに過ぎないということもあるのです。
 
 実際、手品とか奇術では別の棒なのに一緒に動かして見せ、隠れている部分がつながっているように感じさせることで成り立ちます。
 人間がありのままに見て、あくまでも見えた部分は見えた部分として、見えない部分を補って見ようとしなければマジックは成立しません。
 いわゆる高度の認知機能を持つようになったためにだまされるのです。
 
 ところで、A図の場合に乳児やサルが棒がつながっていると思わなかったのは、見えない部分を補ってみる能力がないためかどうかハッキリはわかりません。
 C図のように棒を遮蔽する部分が小さいとどうかといえば、このように遮蔽部分が小さければ棒をつながっている見るのではないでしょうか。
 A図の場合は遮蔽部分の割合が大きいので、四角形と棒が接する左右の部分を同時に観察するのが難しくなっています。
 同時に離れた二箇所に視線を向けなければならないので。認知能力の劣るチンパンジーには同一の棒とみなすのが困難なのかもしれません。
 C図のように遮蔽部分がせまくなれば棒のほうが一体的に感じられるのですから、乳児やチンパンジーでも見えない部分を見ることができないというわけではないのです。


奥行き感があると描きにくい

2008-02-11 23:12:41 | 眼と脳の働き

 図には上下にそれぞれ三つの顔が並んでいますが、上段は下段の顔を逆さまにしたものです。
 一番左の顔の場合は逆さまになっていても、下の顔と同じ顔だということが分りますが、まん中の顔の場合は同じ顔であるとはとても思えないのないのではないでしょうか。
 まん中の顔はケネディの写真ですからかなり見慣れたもので、成立していればすぐに分るのですが、逆さまになると誰だかわからなくなります。
 なぜ左の顔は逆さまにしても同じように見えて、まん中の場合は同じ顔に見えないのかと聞かれればなんと答えたらよいでしょうか。
 
 サルは逆さまにした顔の写真を見ても、もとの写真と同じだと分るとそうで、これはサルが樹上で生活していて、木から逆さまにぶら下がって見たりする経験が多いためだといわれています。
 人間は逆さまになってモノを見る経験が少ないので、逆さまにした写真で顔を見分けることができないということなのですが、それでは左の顔の場合はわかるという理由が説明できなくなります。
 左側は絵で、まん中の場合は写真だから違うのだろうというふうにも考えられますが、それではなぜ写真と絵では違うのかということが分りません。

 ところで一番右の場合はどうでしょうか。
 右の場合は写真ではなく、絵なのですが上の絵と下の絵は同じようには見えないのではないでしょうか。
 下の絵を見ないで上の逆さまの顔だけを見た場合に、すぐにこれは誰の似顔絵かわからないでしょう。
 ところが下の正立の絵を見れば、すぐにこれは小泉元首相の似顔絵だと分るのですが、逆さまだとわかりにくくなるのです。
 つまり写真でなく絵であっても逆さまにすると分りにくい場合があるのです。

 それでは同じ絵であっても、左の絵は逆さまにしても分りやすく、右の絵は逆さまにすると分りにくいのでしょうか。
 それは左の絵は奥行き感を与えないのに対し、右の絵は奥行き感を与えるからです。
 左の絵は正面を向いているのに、右の絵は斜めから見た顔を描いているので立体感があり、奥行きを感じさせます。
 写真の場合は陰影によって立体感がありますが、絵の場合でも立体感があれば逆さまにしたとき元の絵と見え方が大きく異なるのです。

 立体感のある絵を模写しようとすると難しいのは、平面の上に奥行き感を表現しようとするからです。
 奥行き感のない左の絵のような場合は、成立の場合でも逆さまの場合でも見えたとおりに描けばよいので、大きな間違いはしないでしょう。
 ところが奥行きが感じられる右のような場合は、紙という平面に模写しようとするとき見えたとおりに描こうとしてうまくいかないのです。
 逆さまにすれば正立の場合のようには奥行き感が感じられないので、見えたとおりに線を描きやすくなるのです。
 奥行き感を感ずるのは右脳とか左脳とかの問題ではないので、奥行き感を感じない工夫をすれば模写がうまくいきやすくなるのです。 


遠近法は左脳の働き

2008-02-10 22:15:30 | 眼と脳の働き

 図はこれもデューラーの版画で、遠近法を使って壷を描いている様子が示されています。
 透明な画面なら、それを通して見えた立体的な像をそのままなぞれば、正確な輪郭を写し取れるだろうと普通は思います。
 見えたままを写し取るのですから、正しい輪郭が描けるはずだと思うのですが、実際にそうしようとしても、なかなかうまくいきません。

 実際に透明な画面を通してモノを見ながら、透明な画面上で輪郭をなぞろうとしても、目が動いてしまうと見え方が変わってしまうために、うまく輪郭をなぞることができません。
 この版画に描かれた画家は、後ろの壁に紐を固定し、紐をまっすぐに伸ばした先に筒を着けその筒を覗きながら輪郭をなぞっています。
 紐は視線の代わりで、画家が目の位置を動かしても、紐をピンと張り、筒を張った紐に合わせて、筒を除けば固定されたいちからの線上にあるので、ひもをこていした位置から見た輪郭を描くことができます。
 つまり画家の目の位置を固定する代わりに、後方の固定した視点を設定しているのです。
 
 また筒を通して見ているので、当然片目で見ているわけであり、両眼で見たときのようにペン先や壷が二重に見えたりすることがありません。
 両眼で見るとペン先を見ると壷が二重に見えますし、壷のほうを見るとペン先が二重に見えて輪郭が描きにくいのですが、片目で見れば二重には見えなくなって正確な輪郭が描けます。
 これはちょうど鉄砲を撃つとき、片目を閉じて照準を当てて狙いをつけるのと同じ要領です。

 人間の目はカメラとは違うために、見えたままを平面の紙に写し取るということは如何に大変かということが分ります。
 E.エドワーズ「脳の右側で描け」では人間は左脳で、ものの形はこうだという固定観念で考えるために、正しい輪郭が描けないのだといっていますが、そうではないことが分ります。
 見えたままに描こうとしても、視線や焦点が変化するために見え方が常に変わるので、うまく描けないのです。
 遠近法は写真を撮るように、視線や焦点を固定させる方法を考えて実施するというのですから、まさに左脳の働きにしたがって描くことになります。
 
 芸術は右脳のはたらきだという固定観念があるために、正しい輪郭の絵を描くときは右脳がはたらいていると思ったのでしょうが、実際は違います。
 そういえば音楽の場合もプロの音楽家は、音楽を聞いているときは左脳が働いているということですから、芸術イコール右脳と無理に思い込むべきではないのです。


縦書き、横書きと文字種

2007-10-08 22:52:35 | 眼と脳の働き

 縦書きと横書きとではどちらが読みやすいかという場合、眼の構造による生理的な観点からすれば横書きのほうが有利に思えます。
 目が二つ横についているので、視野は左右に広いので横書きのほうが長い文字列が自然に目に入ります。
 したがって、横書きのほうが楽に読めて理解もしやすいのではないか、と考えられそうです。

 どちらが速く読めるかという点については、小中学生では縦書きのほうが速く、年齢が進むにつれて差が少なくなり、大学生ではほとんど差がなくなるという実験データがありました。
 これは、おそらく文字の習い始めは縦書きが多く、学年が進むにつれ横書きに接する機会が増えるためと思われます。
 社会に出ると、ビジネス文書はほとんど横書きですし、広告チラシなども大部分が横書きですから、縦書きのほうが読みやすいという根拠は内容にも思えます。

 一方で、読んだ場合の眼の疲れやすさという点では、客観的な測定基準はありませんが、横書きのほうが疲れやすいという意見はあります。
 普通に考えれば縦書きよりも横書きのほうが、長い文字列が目に入るので疲れないように予想されます。
 逆に横書きのほうが疲れるというのは、生理的な問題よりも経験的な要素が多くかかわっている、ということではないかと考えられます。
 
 たとえば、国語の教科書が縦書きなので、単語(主として漢字語)は縦書きで覚えており、漢字熟語などは縦書きのほうが自然に頭に入るように感じます。
 実際、上の図で見るように、漢字熟語は縦書きのほうが横書きよりも見やすく頭には入りやすいように感じます(誰でもというわけでなく、年代とか経験によって異なると思いますが)。
 ひらがなや、カタカナになれば縦書きのほうが頭に入りやすいというほどではありませんが、アルファベットになるともちろん横書きのほうが読みやすくなります。
 
 図にはありませんが、数字(アラビア数字)になると、これはもう断然横書きが読みやすく縦書きは苦しくなります。
 そういう点では、ビジネス文書や広告チラシは数字が大きな役割を占めているので、横書きでなければならないということが分ります。
 従来の普通の小説や、読み物などは漢字かな混じり文は縦書きのほうが読みやすいと考えられますが、カタカナやアルファベットが多く使われるような文章になると事情が違ってくるでしょう。
 


文字の読み取りやすさ

2007-10-07 23:18:37 | 眼と脳の働き

 一番上の図の線は何本あるか数えようとすると、よほどの集中力が必要です。
 左端から数えていっても、途中で迷うとどこまで数えたか分らなくなってしまうからですが、同じ線が沢山近接しているためです。
 これが二番目の図のように色分けされていると数えるのは楽になります。
 左端から順に一本ずつ数えていっても、上の場合と違って赤い線が目印になるので、どこまで数えたか迷わずにすみます。
 一番上の図の場合は、途中まで来ると多くの線が視界に入るため、脳が情報をうまく処理できなくなるのですが、二番目の図の場合は赤い線で区切られた区間に注意を絞ることができるので、処理が楽になるのです。

 三番目の図ではまん中の部分に眼を向ければ、眼の中心で見ても真ん中に集中している線の数を数えるのは困難です。
 真ん中に視線を向けた場合、左右の間隔の開いた線は、まん中部分を見るときの視力が1.0であるとすれば0.1以下の視力で見ていることになるのですが、数えることができます。
 まん中に集中している線は、はっきりと見えるのですが数えにくく、外側の線はぼんやりしているけれども数えられます。
 はっきり見えても線が集中していると処理しにくいのです。

 図Aは旧字体の漢字を羅列したものですが、字画が多いため眼を動かさないで一度に読み取れる字数は少なくて七文字でも難しいでしょう。
 たとえば左から七文字は「樂」までですが、視線を動かさずに読み取るというのは難しいでしょう。
 同じ漢字でもa図のように新字体であれば、同時に読み取ることができます。
 同じ文字数でも字画が多くて複雑な文字であれば、読取範囲が狭くなり、眼にも脳にも負荷が多くかかるのです。
 旧字体のほうがよいのだという主張もありますが、読み取りやすさという点では、新字体が断然有利なのです。

 同じ旧漢字の文字列でもB図のように途中で色が変わったりしていると、少し読み取りやすくなり、さらにC図のようにひらがなが混ざっていれば、かなり読み取りやすくなります。
 同じように新字体の場合も、文字色を変えた部分を作ったり、ひらがなが混じったほうが読み取りやすくなります。
 辞書などで重要語の見出しを赤くしてあるものがあるのは、その文字を目立たせるというのが目的なのでしょうが、ほかの文字を読むのも楽になるので効果的です。
 同類の文字が切れ目なくつながっていると、一度に読み取れる文字数が少ないのですが、文字列に切れめがあれば、読み取れる範囲が広がり、読みやすくなるのです。
 漢字かな混じり文は、漢字とひらがながお互いに区切りとなって、脳による処理単位を小さくしているので読み取りやすくなっているのです。

 
 


文字の混み具合と読み取り能力

2007-10-06 23:11:08 | 眼と脳の働き

 本を開いて眼から30cmぐらい離して見ると、ページ全体の文字が見えるのですが、いざ文字を読もうとすると、眼を動かさないではっきりと読み取れるのは7文字ぐらいといわれています(個人差はありますが)。
 上の図の一行目のように漢字が並んでいるのを見ると、何気なく見たときはすべての文字が見えるので、全部読み取れているような感じがします。
 しかし、実際に文字を読み取ろうとした場合は、視線を動かさないで読み取れる範囲は7文字程度になってしまうでしょう。

 2行目は7文字になっていますが、これならまん中の「紺」という文字に視線を向けてみれば、何とか7文字をすべて読み取れるでしょう。
 それでも、あまり真ん中の文字に注意を集中しすぎれば、端のほうの文字がぼやけて読み取れなくなったりしますが、眼の力を抜けば一つ一つの文字を視線を動かさず読み取ることができるはずです。

 視線を固定したままでは狭い範囲しかはっきり見えないのは、網膜の視細胞がまん中に集中しているためなのですが、それなら同じ範囲に文字を多く配置したらどうなるでしょうか。
 3行目は2行目と同じ幅の中に、文字を多く配置しています。
 同じ幅の中に多く文字を配置するためには、文字を小さくしなければならないのですが、こうすると、まん中の「益」という字に視線を向けたまま、すべての文字を読み取ることは難しいでしょう。
 つまり眼の中心から離れていない場合でも、文字が小さければ読み取りにくくなってしまうのですが、これは文字が小さいため読み取りにくいのかといえば、それだけの理由ではありません。

 同じ文字の大きさでも、4行目のように文字を間引いて文字数を少なくしてみると、3行目と比べはるかに読み取りやすくなるのが分ります。
 逆に、5行目のように文字を間引かずに、文字間隔をあけると、文字列の幅は広がるのに3行目と比べると文字を読み取りやすくなります。
 
 3行目のように、文字列の幅が狭く目の中心で見ても、文字が小さくて文字間隔が狭く、文字数が多ければ、読み取りにくいのは脳が処理しきれないからです。
 狭い範囲であっても、一度に多くの情報がそこに示されれば、視覚的にははっきり見えても、読み取り作業が困難なのは、脳の処理能力をこえているからです。
 文字が小さすぎると、脳が処理能力に応じて見る範囲を狭めてしまうということになり、その結果、いつのまにか眼を凝らして読み取ろうとするため、眼も脳も疲れてしまうということになります。
 字が細かすぎると感じたら、そのようなものを読まないか、老眼鏡を使用するなどして無理を避けるのが賢明です。