設計事務所の裏窓

夫は建築士。設計事務所をやってます。
裏から眺めた感想、日々の独り言。
不定期便で頑張ります~!

昔の曲で

2005年02月28日 12時38分00秒 | 独り言
最近昔自分がよく聴いていた音楽が聴きたくてたまらない。
死期が近いのか?不吉な事の前兆か?なんだか不気味に
なるが 単に年を取ってきて昔が懐かしいというのが
妥当な悲しい理由なのか・・・・・

昔よく聴いていたのはユーミンこと松任谷由実さんの曲。
こう書いてしまうと年と時代がバレバレじゃあないかあ~~
となってしまうのだが ここで声を大にして言いたいのが
自分には5歳年上の姉がいる。聴いていた音楽はこの姉の
影響大なのだ。だから時代がほんの少し昔だという事だ!

ちなみに専門屋(夫)は姉と同じ年である。
だから昔の音楽の話をするとき なぜか
「そんな昔の事 知らないわ。ホーッホッホ」
とやってやりたいのに なぜか出来ない!
「やっぱり松任谷時代もいいけど荒井由美時代の曲もいいよね」
こんな事を言われると
「そうなんだよねえ」
言ってしまってからハッと気がつく。なぜか知ってる現実が
悲しい・・・・

でもここで「中島みゆきの昔が・・・・」なんて話だと マジで
「知らないなあ~~そーんな大昔の話~~」となれるのだ。
ひょーっひょっひょ。

まあ、そんな微かな優越感を同じ家の中でやってどうするという
感じだが・・・

昔のCDをごっそり聴きまくっていたこの頃だが このCDには
この曲がよくて あっちのCDに入っているあの曲がよくてと
いわゆる自分で好きな曲をチョイスしたいなあ~としみじみ
思い始める。ふとそんな事を専門屋(夫)に漏らしたら
「音が悪くていいのなら パソコンに入れればいいのに」
「へっ???パソコン????」

何しろ 超こういう機械もんには疎いので改めて自分の
macさんを眺める。
「いやあ~~貴方様には そんな凄い事も出来ちゃうのね!」
当たり前だ!!という世界なのだろうが こっちはひたすら感動。
後は呆れ顔の専門屋(夫)に任せ ひたすら自分は
「へえ~~編集も出来る。へえ~~凄いねえ」
この文句だけで傍観者・・・・・
という訳でめでたく今も昔のサザンやらオフコースやらの
(物凄く大昔の人になっている!)懐メロを流しながらの
ブログ書きとなっている。
ドラマの主題歌だった曲がかかれば
「あの時は こうだったなあ~」
その時の出来事まで思い出される。音楽ってやっぱり偉大で凄いものだ!

最近こうやって家の中を懐メロが流れるものだから この間
気がついたら 子供の鼻歌がユーミンの「守ってあげたい」の
ワンフレーズになっていた。
「まも~おってあげーたい~~」なんて一体いつの時代の
子供か!!という感じで・・・しかも裏声だし・・・
今は お願いだから学校で歌わないでくれと願うのみ。
母の年齢がバーレバレとなってしまう・・・・・

甘酸っぱい時代を回想して

2005年02月27日 10時36分00秒 | 独り言
たまに乗る電車内で若いOLの女性が全身紺ずくめで
立っていた事があった。
「おっかしいなあ~~」そう思ってジッと見てしまった
事がある。おかしい筈である。バッチリお化粧で奇麗な
マニュキュアを施している若き女性は よく見れば
現役バリバリの女子高校生らしいのだ。気をつけて見れば
高校の紋がついたカバンも持っている。

大昔の自分の高校時代が単にダサかったせいなのか
時代のせいなのか今 巷で見る女子高校生の殆どは
バッチリとお化粧のお顔で歩いている。
制服さえ着ていなければ 学生なんだか社会人なんだか
見分けがつかない。

「色つきのリップが可愛い」だの「匂いのするリップを買った!」
こんな事で騒いでいた自分の高校時代が みょーに子供チックに
感じてならない。

高校に入って なんとなく「楽だ~~」と感じたのは自分だけ
だろうか。特に田舎の県立高校だったので規則も緩く 先生達の
自分たち生徒を見る目も「ちょっと大人」という見方が
毎日の生活が楽に感じた事だったのかもしれない。

夕暮れ色に染まる古びた校舎や なんとなく埃くさい教室。
休み時間になると廊下にあふれかえる生徒の熱気。
高校時代を振り返るとき いつも自分にはこの時にしか
感じ得なかった匂いとショットが思い浮かぶ。
それは甘酸っぱいような それでいてそんな甘酸っぱさも
思い出せない位 悲しいほど色あせてしまったものだ。

人の青春時代なんて年齢には関係ないと思うが
どの人にもある この甘酸っぱさの時代は やっぱり
10代の後半に向かう この時代かもしれない。
まるっきり子供でなく 大人でもなく それでいて
ただ「若い」というそれだけが怖いもの知らずで そのくせ
その「若さ」に振り回され苛立つ時期。

高校生達を見るとそんな時代が 変な話 匂いやショットと
なって自分に思い出される。
でも 最近のお化粧バッチリ女子高校生からは おばさんの
せいか そんな匂いもショットも思い出されない。
彼女達からは あのざわついた教室の雰囲気も 照れ臭そうに
廊下で語り合う 校内のカップルの姿さえも思い出されない。
むしろなんだか自分たちと同じような完成された大人の
香りさえもするのだ。

それでもこの間は部活の帰りなのであろうか。
真っ黒に日焼けしたジャージ姿の女子高校生集団が
電車に乗り込んできた。
なぜか そんな女子高校生達を見てホッとしている自分がいる。
やっぱり自分も年取ったよな・・・・そう思う瞬間である・・

命令子育ての卒業

2005年02月26日 11時10分00秒 | 独り言
褒められた育児は展開していないし 正直子育てが
超苦手である。だから子供に対して
「これが我が家のモットーです」と胸を張れる教育方針もない。
それでも いくらか冷静にこれだけは子供達に言うまい。
そう決めている言葉がある。それは
「勉強しなさい」

いつも思うのだが この言葉で本当に「勉強」をしている
子供がいたら凄いとしか言い様がない。
「勉強しなさい!!」こう怒鳴り 子供らを机に座らせるのは
実は超簡単だ。でもきっと言われて机に向かった子供達は
「勉強」しているのではなく 親の怒りの「命令」に
従ったにすぎない。そして言った親も
「子供の為に言う」のではなく「勉強」している子供の
後ろ姿を見て「ホッとしたい自分」がいるのではないだろうか。

「忙しい」を連発する人に限って実は暇だったり
「貴方の為よ」という人に限って それは自分の為だったりする。

いい加減な人間のくせに 偉そうな事を言ってしまっているが
本当に忙しい人や 人の為に動いている人というのは
案外 何も言ってないものである。というよりも言う余裕が
ないほど必死なのか・・・・

子供が大きくなるにつれて「~しなさい」と命令で終わる
育児はなくなっていく。楽でいいじゃないかと最初は
思ったがとんでもなかった。
「勉強」にしても 自分がこの時間なぜ机に向かわなくては
いけないのか?それが自分で理解し納得して向かわなければ
「自分の勉強」ではない。何しろ身に付いた知識は親が
使う訳ではない。命令されて身に付いたものは自分のものでもない。

これは何も「勉強」に限らない。
自分が今尤も子供と格闘しているのは「片付け」
使った物を元通りにする。こーんな簡単な行為が毎日
怒りの元源となるから呆れ返る。ちらりと見れば息子どもの
机の上は どっちゃりと物があふれていくしで・・・・
こんな時一気に「片付けろ~~~!!」こう怒鳴るのも
簡単である。まあ、日頃から鬼母の如くだから今のところ
こう一発やれば ビクビクとしながらさっさと片付ける
事だろう。でもそれでは彼らは何で片付けるのか?という
意味は考えない。ひたすら母の怒りが怖いから。
これじゃあ どうしようもない時期なのだ。

一発怒鳴りたいのを毎度こらえ 
物を散らかす=必然的に物はなくなる=自分が困る
しいては 他人にも迷惑をかける事にもなりかねない。
自分の管理が出来ない事や 自分で自分の事が何も出来ないと
一体一番誰が困るのか?それは自分自身である。
といった事を説明するところから始まる。
ここで出来てない親であるから 言いながら猛然と
怒りの感情が出てきて まーったく冷静に諭せない。
子供から見れば クドクドと説教して・・・と
なってしまってるのか・・・・

小さい頃は 早く大きくなれば言ってわかる筈だという
思いがあった。その「言って聞かせる」という行為が
実は今の自分には本当に難しい。
親なんてものは こうやって子供に言い聞かせながら
結局自分にも言い聞かせているものなのかもしれない。

人のやる事は いつも完璧がない・・・・

追いかけっこ

2005年02月25日 08時51分00秒 | 独り言
とうとう息子達の通う小学校でも 不審者侵入に対する
対応訓練が実施される。
昔は学校で そのような訓練など考えられなかった。
親なんて いつの時代も学校に行くまでの道中は心配でも
一歩 我が子が学校の門に入ってしまえば一安心という
そんな気持ちがあったのではないだろうか。
過去の神話は どんどんと崩れてきている。
一体 学校でさえ安全ではないとしたら どうしたらいいのか。
でも 現実は そんな嘆きを言ってられない。
現にそういう事件は起きていて死者までも出ているというのだから。

都内のとある私立小学校では生徒のランドセルについている装置が
校門を出るときに作動して親の携帯に「今 校門を出た」
とお知らせメールが来るそうな・・・・
そのメールを受け取ると 親は大体我が子が後どの位で帰宅
するのかと安心になるという訳だ。

ランドセルに発信機なるものが付いているのは 今年に入って
からも爆発的に売れたらしいが このままいくと
子供の安全を守る為に 今に身体に埋め込む みたいな事も
あり得るかもしれないと ちょっとゾッとする。

そこまで子供を管理下に置かなければ 命の保障に繋がらない
というのも何とも悲しい世の中だ。

息子の友達でも当たり前のように首から携帯をぶらさげてる子が
結構多くなってきている。
一方では携帯による弊害が生まれ 一方では安全の為に
携帯の普及率が次第に低年齢化していく。
こんな追いかけっこは当分続きそうである。

絶対 安全なところというのは確かに昔からなかった。
極端な話「行ってきます~」と子供が遊びにいけば
親は無事帰ってくるのを 賭け的な気持ちで待っているしかない。
自分だって一歩外に出て 何かの事故に巻き込まれないという
保障は絶対ないのだから。
それでも昔は 自分だけが気をつければ防げるという事態が
多かった。でも今は違う。自分が気をつけても 安全に対しての
注意を払っていても 巻き込まれる。

安全対策や対応訓練に追われるのも大事かもしれないが
その前に「どうしてこんな事件を起こす事になったのか」
そういう背景から いわば加害者の予備軍的存在の今の
子供達を育てていかなくてはいけないのかもしれない。

「子供 子供」と我々大人達が騒ぐ中 実は一番
問題の中心になっているのは 我々大人の事なのかもしれない。
きっとこんな追いかけっこも当分続きそうである・・・・

効果のほどは???

2005年02月24日 09時37分00秒 | 独り言
シェイプアップスリッパ・・・・この名前 妙に懐かしい。
確か大昔 ふつーの主婦だった人が考案して大ヒットした商品。
歩くだけで痩せるとか 足首が引き締まるとか 数々の
「本当か!?」と女性が喜んでしまうような伝説を生んだ。
結果がどうかはわからないが「歩くだけ」とか「立ってるだけ」
という「~だけ」という 自分のようなサボり大好き人間には
前から気にはなっていた。

その商品が この間買い物に行ったディスカウントストアで
みょーに安く売られていた。ディスカウントのせいか
はたまた 他の高いスリッパより機能的に落ちるものなのか・・・
でもワンコイン以内で買える安さに つい購入。
今は家の中で お試し中という訳だ。

スリッパの内側は足の裏を刺激するボコボコが付いているので
この痛さに慣れるまでが数日かかった。
それだけ悪い内蔵が多いせいなのか、単に痛がりのせいなのか・・・

説明書には つま先で歩く感覚なので足首が引き締まるだの
部屋の中を歩くだけで坂道を登っているようだとか
書いてあったが 確かに前のめりの姿勢が何となく
「効いてるぞお~~~」という気持ちにさせてくれる。

母がなんだか違う姿勢で歩いているせいか 最初のうちは
息子どもが「履かせて 履かせて」コールでこれまた うるさい。
だがさすがに長男は一回履いたらあっさり飽きてしまったようだ。
だが 昔からかぶり物系が大好きな 女くさい要素のある
次男はそうではないらしい・・・・

トイレに入ってスリッパを脱ぎ 出てくるとスリッパはもう
次男の足に付いている。足の大きさが小さいからお前には
何も効果がないと言い聞かせても 気がつくとスリッパは
次男の足に付いている。

次男は昔からこういうところがあって 上が男でしかも
育てている母がこんなに男っぽいというのに
なーんか女くさい・・・・
幼稚園のお遊戯会で普段男の子があまり履かないタイツを
身に付けた時は ちょっぴり「うっとりと」タイツをつけた
自分を見ていた・・・・・
うーん 確かに娘は欲しかった・・・だがそういう意味での
娘(?)は 正直 欲しくないよお~~という感じだ。

こんな一風も二風も変わった次男と争いあってスリッパを
履いているものだから 効果のほどは???
イマイチ 期待がもてなさそうである・・・

達成感の味わい

2005年02月22日 14時42分30秒 | 独り言
今現在 家を造ろうという方々にとって
「どこで頼むか?」こう考える時の選択肢は多分
三通りあるのではないだろうか?
工務店 ハウスメーカー うちのような設計事務所。
どこでどう頼んでも多分 頼んだ人の考えで長所 短所が
生まれると思う。これは もうどうしようもないと
個人的には思う。
だが これは勝手な解釈だが こういうタイプのお施主さん達は
うちのような設計事務所に頼もうとすると お施主さん達も
設計事務所もちょっと苦しい関係になってしまう。
それは「ともかく簡単に家を造りたい!三ヶ月位で
    さっさとやりたい。面倒な事は大嫌い」
こう宣言する お施主さんであろうか・・・・・
設計事務所といっても施工から不動産まで扱う設計事務所も
あるから何も言えないが 多分普通の設計事務所は
こんな事を言われたら 簡単に仕事として引き受けないだろう。

家造りに「簡単」という言葉はないように思える。
本当に「大変だ」という事がつきものだ。
大体 お施主さん達は当たり前だが皆仕事を持っている。
長き期間の打ち合わせは 自分の休日 或いは仕事が
終わっての夜遅くからなんて事も・・・・・
我が家でも お施主さんの休みに合わせて打ち合わせを
しているが お施主さんの仕事帰りにどこか中間地点で
落ち合ったりという事もしょっちゅうである。

勿論 家造りが一生に一回の大イベントだからといって
それだけに全生活はかけられない。どの家族も
日々の生活や仕事を持っている。そんな忙しい身で
多分家造りをしている期間というのは もう一つの
重要な仕事を抱えている状態であろう。

我が家だけとの打ち合わせだけでなく きっとお施主さん達は
家に帰っても家族と ああだのこうだのと家について
話し合う時間も多くなる。
たったちょっとの間取りを巡って何時間も話し合ったという
お施主さん家族もいらしたような・・・・・

世の中には 時間をかけなくても合理的に出来る事があふれている。
でも家造りにおいては 勝手な素人解釈だがかけすぎて駄目な事は
あまりないように思われる。
家は「妥協の産物のハコ」ではない。
勿論「ハコでも何でも住めればいい」こういう解釈も有りだろうが
「簡単に造りたい 面倒は嫌だ」こう宣言している方々の方が
後で「こうしたかった これが失敗だった」こういう言葉を
耳にする。

一生懸命に取り組んだ事は その人にしか味わえない宝にもなる。
「あの時は大変だったけど 今考えれば楽しかった」
そんな事を漏らした お施主さんを見ると つくづくそう思う。
関係ないながらも ちょっぴり羨ましい。
何しろ自分は面倒な事が大嫌い人間だから 達成感の味わいを
ちょっぴり嗅がせてもらうだけで 羨ましくなるのだ・・・・

終の住み家

2005年02月21日 09時38分52秒 | 独り言
以前 専門屋(夫)が設計した老人ホームをちらりと
見る機会に恵まれた。実は大昔の学生時代 老人ホームを
見学した事があった。その時の印象は物凄く偏見的な見方だが
「姥捨て山・・・・」という印象だった・・・・
今 思えばなんと嫌な考え方か・・・
でもその時見てしまった老人ホームは なんとなく暗い
部屋に何人もの老人の方々が生活して そこに暮らしている
方々の顔も暗かったような・・・・そんな印象がある。
多分 自分もうんと若く そんな感じにしか受け止められなかった
というせいもある・・・

専門屋(夫)が設計している段階から そんな自分のイメージを
専門屋(夫)に話すと
「老人ホームは今や姨捨山という感覚じゃなく 終の住み家という
 感覚にすぎない」
そんなふうに言われても 実際建物を見るまでは相変わらず
「暗い 暗いイメージ」そんな事が頭にあったのだと思う。
だから実際に見に行った時は「あれ?」いい意味でのギャップが
生じていた。
「これは自分が描いていた老人ホームじゃない」
そう思った。外観もそうだが 入ってからの明るい印象と
当たり前だが全て一人一人の個室の広さや明るさ。
時代の流れもあるだろうし 手前ミソながら設計事務所が
入った老人ホームという事で様々なメリットが融合したもの
ではあると思うが 大昔の家族がいなかった自分と
親になっている今の自分が見る印象も大分違うのではと感じた。

老人ホームに入居というと なんだか家族のいない孤独な
イメージがつきまとうが 勿論身体が弱ってとか身寄りがなく
という方々もいるだろうが 家族がいて一緒に暮らせる
スペースがあっても自らこういう施設を終の住み家と選択する
方々も増えているらしい。

結局 ベッタリ家族と一緒にいるのだけが幸せではないし
どこで住もうが 最終的に自分が納得出来て満足ならば
それが一番いいのかもしれない。

むしろ自分も息子を生んでわかった事は 子供はいつかは
自分と違う別個の大人になるという事だ。
別個の価値観を持つ大人同士が密着して過ごせば
様々な弊害も生じる。そうでなければ 大人同士とは
いえないのかもしれない。

「いつかは こういうところが自分の住み家かも・・・」
冗談ではなく ちょっと真剣に思ってみる。
「でも 入るには多少の資金がねえ・・・・」
こんな専門屋(夫)の現実めいた言葉を耳にすると
ますます老人ホームが明るく輝いて見えてきた・・(どよ~ん)

器用な人種

2005年02月20日 15時59分00秒 | 独り言
世の中には「器用な人種」というのがいる。
この「器用」は手先が器用だとか そういう事ではなく
生き方全般というか 過ごしているやり方というか
そんな器用さである。
自分のように あくせくやっと努力して得た事などを
この「器用な人種」たる人達は 淡々とスマートに
やってこなす。しかも「必死」や「努力さ」というのが
感じられない。

この年になると「あの時こうしておけばよかった」とか
「なぜ あの頃こうしなかったのか」
そんな後悔事が後を絶たないものだが「器用な人種」たる
人達は もうすでに「こうしておけばよかった事」を
やってしまっている事もある。そうして不器用に生きている
自分などがハタと気がつき あくせくしている中
もう既に先の事を淡々と「器用な人種」たる人達はこなしている。

不器用人間と器用人間は どこまで行っても平行線ではない
ように感じられる。不器用人間は結局 どこまでいっても
器用人間の後を続くのみなのか・・・・・

知りあいにも 「この人は器用に生きているよなあ~」
感心してしまう人がいる。
最近 ふとそれを当の本人に漏らしたら
「とんでもない!自分はいつもジタバタとしているんだ!」
こんな答えが返ってきた。そしてこんな事も
「何か自分に出来ない事 駄目だった事 それは神様がくれた
 人生の宿題かもしれない」と・・・・・

結局 器用に生きていくやり方なんて実は無いのかもしれない。
知り合いのように前向きな考えが 次の「頑張ろう」に
繋がるだけかもしれない。

不器用な人間は気持ちまで不器用なものだから 自分で
努力もしないで出来ない事をひたすら「不器用だ 駄目だ」
この一言で片付けてしまうだけなのかもしれない。

そのたったちょっとの差だけで「器用」「不器用」に分かれる。
わかってはいるものの なかなか「不器用人間」から
弱き自分は抜けられないようである・・・・・・

猫背歴

2005年02月18日 10時15分59秒 | 独り言
昔から猫背である。
猫背は見た目もみっともないが健康にもよくない。
気をつけようと言い聞かせているが フと気がつくと
町中にある全身が写るショーウィンドーなどに
自分の全身が写っていると「おっ」と声が出る。
あまりに背中の丸いオババがいると思ったら
自分だったから・・・・こういう時は心底悲しい・・

思えば猫背歴は長い。
うんと小さい頃から言われ続けている。
それはちょっとした理由がある。

今では平均身長バッチリの背の高さだが 今現在の
身長は小学校6年で止まったまま。
要は158センチがランドセルをしょっていた。
まあ、大きい方である。

幼稚園時代からクラスで背の順をすれば絶対一番後ろだった。
「大きいわねえ~~~」
こんな言葉を何度背中に聞いたかわからない。
その時の今の自分と同世代位のおばさんの言葉は
「大きいわねえ~~(凄いわ 感嘆)」という気持ちで
言ってくれたのであろうが あの時の自分には
「大きいわねえ~~~(女のくせに可哀想 同情)」
という風に毎度聞こえた。
男の子が大きくても何も話題にのぼらないのに
なぜか女であるというだけで「大きい!」と目を見張られる。

いつしか「大きい」のが妙に嫌で恥ずかしく どうしたら
小さく見えるか そんな事ばかり考えていた。
そんな事が全て猫背に影響したかわからないが 今までの
急成長が嘘のように息を潜め 中学時代から背の順が
どんどんと前にさかのぼっていっているのにもかかわらず
猫背が治らない・・・・・・

なんだか自分の後ろ向きの性格が猫背に反映しているようで
ならない。大体 前向きに明るく生きている人には
猫背はいないようにも思える・・・・

今は街ですれ違う若い女の子の大きい事といったら・・・
でも彼女達は 割としゃんと背筋をのばし全く
「大きい」事なんかに動じていないような・・・

「厚底の靴を履いて歩くと 下を見下ろせて
 いつもと違う感触が気持ちがいい」
そんな事をテレビで言ってた女子高生もいたような・・・

治りもしない身体特徴を悪気なしでも言ってしまった
言葉は戻らない。
そして それをどう受け止めるかでも大きく違う。

もう若き年月には戻れないが これから先少しは
猫背を治さねばと今は思っている。
それには何よりも とりあえず気持ちが下を向いて歩く
のではなく前を向いて歩く事なのかもしれない。
年を重ねると下を見たり上を見たりは簡単だが
なかなか自分の「前だけ」というのは難しい・・・
猫背が治らないのは 年月と共にこんな厄介な気持ちが
自分の背中にぶらさがってきているせいかもしれない。

子連れ銀座

2005年02月16日 10時54分35秒 | 独り言
先日 知りあいに誘われ映画の試写会へ行った。
場所は銀座のヤマハホール。いいじゃん、いいじゃんと
盛り上がりつつ・・・子供は???と考えたが
何でも子供連れの試写会だそうで・・・・
映画の内容も「インディジョーンズ」ばりの冒険物だとか。
映画の内容云々ではなく子連れで銀座が・・・超引っ掛かるが
知り合いは自分も我が家同様の♂息子二人のくせに
息子達を連れてよく銀座に出没しているらしい。
「大丈夫よお~」の明るいというべきか大胆というべき
一言に押され行くことになる。

勿論 今まで子連れで銀座に行った事はあるが毎度
「なーんか落ち着かない!!」この感想で終わる・・・

変な意味での自意識過剰のせいなのか銀座を歩く人は
皆 なぜか優雅でお金持ちに見えてしまうから不思議だ。
通りに止まっている車も 自分の町ではお目見え出来ない
外車も多く・・・・子供を連れているお母さん達は皆
なぜか奇麗で子供も なんか上品そう・・・という
先入観から入ってしまう。
でもよ~~~く目を凝らして見れば 子供も我が家
同様「くそガキ」部類に入りそうなお子様もいたりして
「あんまり変わらないじゃん」そう思うのだが・・・・

それでもやっぱり銀座。
試写会の始まるまで お昼を食べさせようと探索したところ
ごはん専門の楽しそうなお店があるので覗いてみる。
「おにぎり!おにぎり!」
子供達の声に誘われ陳列棚を見れば 奇麗な三角おにぎり。
美味しそうじゃないかと知りあいと見てみれば・・・・
一個 平均200円近い・・・しばし無言。
やはり銀座は おにぎりまでも高級チックであった。

試写会も無事終わると外はもう夕暮れだったが 街は
休日のせいか歩行者天国だ。
「お茶でも ゆっくりしたいねえ~」
そんな我々の声をかき消すかのように♂息子4人は
歩行者天国の中を鬼ごっこをしながら走り回り・・・・
揚げ句に最近出来たばかりのブランドビルのショーウィンドーを
巣にして鬼ごっこまで始めた・・・・・

その後 お互いの息子どもを叱り飛ばし
とっとと銀座の街を退散となる・・・・・

やはり銀座には子連れは似合わない・・・・

ほんの少し先の難しさ

2005年02月14日 09時32分58秒 | 独り言
最近 自分の「八つ当たり的」言動に反旗を翻す長男がいる。
同じ年ごろの子供達よりも「ボケー」っとしている
ところが多々あったので「今のは 明らかにマズイ」
そう自分が放ってしまった言葉にグスグス泣いている
だけだった・・・・・まあ、ひどいもんだ。言葉の虐待か?
そんなグズグズを見ていると こんなひどい母も
ちょっとは反省の色だったが・・・・・

最近では「だって こうじゃないの!」とか
「それって おかしいじゃん!」などと息巻いている
長男がいる。実はご尤もなのだが ここで素直に
謝れるほど出来ている親じゃないから 自分が悪いくせに
さらにムッとしてしまう。
だけど不思議なもので長男に反旗を翻されタジタジと
なり 逆切れの如くムッとする感情と共に
「ヨシ!」っと心で頷いている自分もいたりする。

複雑な感情なのだが
「よくぞ母の間違いを冷静に受け止めたり~~」
という感じなのだ。だからといって顔に笑みが出るほど
しつこいようだが出来ている親じゃない。
それでも こうやって子供の成長というのは親の価値観の
レールを「この道 ちょっとおかしいなあ~」と
自分なりに解釈して 時には他の道を引き始めたり
時には修正していくものかもしれない。

そして こういう作業をし始めている長男は
徐々に自分と別の価値観を作り始めているようである。
これは親離れの作業の手始めかもしれないなと思う。

野生動物は子供をわざと巣から追い出したり 時には
敵のように扱って「子離れ」たる儀式を行うものもいる。
人間も子供が離れる時期というのは こういう荒れる
行為をどこかしらで行っていくものかもしれない。
「反抗期」などという言葉で片付けるけれども
そういう時期も大切な行為かもしれない。

でも今はそんな行為をどこかで止めてしまっているのが
多いらしい。そして止めているのは意外にも自分たち
親達だという。
子供はとっくに「親離れ」をしているのに親が
「子離れ」が出来ない。そんな親子が多いとも言う。

子供が思春期を迎え複雑な心境になるにつれ
実はその親も複雑な心境を迎える事になる。
「親は子供と共に育っていく」
こんな言葉が ここでもピッタリ当てはまる。
本当は ほんの少し先を育っていかなければいけない
のが親なのだろうなと思うのだが・・・・
なかなか難しいから 子供の足を引っ張る
「子離れ」出来ない親達が増えているのだろう。
気をつけなければ・・・くわばら くわばらである・・・

サッカー観戦で

2005年02月10日 10時10分04秒 | 独り言
人並みに昨日はサッカー観戦。勿論 テレビ!
最後に一点取った時は きっとテレビでかじりついていた
自分同様だった人達は一様に「ヨッシャー!!」という
掛け声で締めくくったと思うが・・・・

それにしてもサッカーの試合云々ではなく相手国との
いろいろなしがらみが数日前から色濃くテレビなどでは
放送されていて イマイチさっぱりとスポーツだけの
出来事と片付けられないのが悲しいと思う。

日本では正直 大昔の「出来事」について毎日頭に
ある人はどの位いるのだろうか。
愛国心も薄いし 無宗教の人は多いしで 日本人ほど
ちょっといい加減さが多い人種はないのかもしれない。
でもこんなちょっといい加減さがある程度の平和を
生んでいるような そんな気持ちもする。

以前 何かのテレビ番組である国の若者に
「自分が国の中でなにが出来るか?」
そんな問い掛けに
「自分の命を捧げる事」と誇らしげに答えていた人がいた。
ちょっと自分は絶句だった。訪ねていた日本人リポーターも
そうだったようで
「日本の若者は国の為に命を捨てるという概念は
 ないでしょう」というと 答えた相手は 
それはおかしいというジェスチャーだった。

昔の事は忘れましょうは絶対いけないが それだけに
執着していても前には進まない気がするのだが・・・・
結局 国の思想も洗脳。国の思想は今現に世間を
動かしている大人達となる。

いつか子供達が大きくなった頃 こんなしがらみの無い
純粋なスポーツとしてだけの試合が出来ればいいと願う。

ちょっと昨日はテレビから 各選手の光って滴り落ちる
汗を見ながら そう考えてしまった。

いまどきの 私達大人

2005年02月08日 10時36分46秒 | 独り言
子供が被害者になってしまう悲しい事件が起こっている。
「今どきの 子供は」などと偉そうに昔から
私達大人はよく言うが
「いまどきの 大人は」本当にどうしようもない。

自分の苛立った感情や様々な葛藤。
これを抱えても尚 自分の中でどう処理しよう、
どう解決していこうと苦しみながら考え抜くのが
「大人」と一応呼ばれる人種である筈が・・・・・
その方向性を絶対自分には逆らえきれない「子供」へと
向けていく。そういう所だけは「大人」の賢さが
存分に発揮されるらしい。
自分も褒められたような大人ではないが 子供の学校が
防犯ベルを持たせるようになったり いかに危険な
「大人達」から身を守る術などを学校側が教え込んでいる
現実を見るたび ガッカリとなる。
「安全」と呼ばれる場所は 一体どこにあるのだろうか。
そして こんな危険を受けている子供達もやがて自分の
力が徐々についていけば 今度は自分より弱者の者達を
平気で傷つけるようになるのか。

昔 一緒に住んでいる祖母がよく言っていた事があった。
祖母は8人の子供を育て 4人は自分の父も含め男だったのだが
それはそれは 喧嘩が多かったそうな・・・
これは 物凄く想像出来て ちょっとゾッとしてしまう・・
でもドラマにあるみたいに取っ組み合いの喧嘩をさせたのは
兄と弟が同等の身体と体力を持った時にさせたと
言っていたのを思い出す。例え非が弟にあったとしても
それを体力的に絶対優っている兄がねじ伏せれば
それは「喧嘩」とは言わないとも言っていた気がする。

力が優っている兄とすれば力でねじ伏せ自分の気持ちを
発散させるほうが どれだけ楽かしれないが
それをやる事だけは祖母の子育てではご法度だったらしい。
日々 繰返される喧嘩の仲裁で日が暮れたような事も
語っていたような・・・
でも大昔は そうやって家庭じゃなくても近所や学校で
力があっても それを自分で押さえて解決していくという
学習があったのだろうなと思う。

子供が被害に遭う事件が多発して 子供を持っている
親達は一様に自分たちを被害者側の立場に置いて
ひたすら心配だけをしているが 後数年もすれば
立場は逆転となる可能性もある。
こっちも考えたくないが 現実かもしれないのだ。
勿論今の危険な状態を守ってあげられるのも親の
仕事であるが なぜこういう行動に出る人に成長
していってしまうのか。
そこをもっと考えて 今の私達親は子供に接して
いかなければいけないのかもしれない。

本当に嫌な世の中になってきている。
でもそんな嫌な世の中を動かしているのは
やっぱり「今どきの 大人」である私達なのだ・・・

ランチバイキングへ いざ!

2005年02月05日 22時07分32秒 | 独り言
先日 長男の同級生のお母さん達とランチバイキングへ!

世の女性陣というのは自分も含め いろいろな種類の
味を少しずつ お腹におさめるのが非常に大好きだ。
だから多種類のケーキをバイキング形式で食べれる
「ケーキ食べ放題」などの店内は いつも女性陣で
あふれかえってる。この「ナントカ食べ放題」という
「放題」という言葉が又々 気をそそる。
だが 冷静に考えれば決められた「放題」の金額を
本当にものにしているかと問われれば・・・・・
いくら自称大食らいを自負している人でも 元値は
全く取れていないだろう。
そこは商売だから当たり前なのだが そうわかっているが
「バイキング」「ナントカ食べ放題」という言葉を
聞くたび ムクムクと行ってみたい気になるのは不思議だ。

バイキング形式をこよなく愛する自分としては 毎度
この機会に恵まれる度 
「食べる前に 落ち着けよ」などと自分を戒めながら
行動している。というのも こういうバイキングでは
自分のように貧乏性な性質だと 皮肉な事に余計 
元値が取れない行動を起こしがちなのだ。

まず お腹が空いている。だから「それえ!」とばかりに
山盛りになった食材からまず お腹に溜まるものばかり
目に飛び込んでくる。カレーやらスパゲティやらと・・・
そう やたら炭水化物をお皿にてんこ盛りにすると
「ああ、これも食べたかった。あれも名残惜しい・・」
という結末に陥りがちだ。

逆に 優雅に鷹揚に振る舞っている方々は 決して
最初に炭水化物などには目はくれない。
ゆったりとサラダとおかずから少量ずつ お皿にこれまた
優雅に取っていたりする。
貧乏性は どこにいっても貧乏性で結局自分の首を
しめていたりする。
さすがにこの貧乏性も 最近では多くの経験から
気をつけるようにはしているが・・・・・

若い頃は「ケーキ食べ放題」が大好きで よく友と
「あそこに出来た、ここにある!」とバカみたいに
はしゃいでいったものだが これにも暗黙の鉄則の
ようなものを多くの経験から学んだ(?)

まず最初は お腹にどっかりと溜まらないチョコレート系、
チーズ系は手をつけてはいけないという事だ。
だから一緒に行った友達がそれらに手をつけ始めると
「もう終わり?」と皆で聞きあったほどだ。

「ケーキ食べ放題」なら貧乏性の性質よりも経験の多さで
勝ってるようだ・・・・
ウンウンと心で満足するものの では今「行こうか!」
という気に全くならない。
甘いものなら今は
「多量より質のいいものを少量でいいから
 食してみたい。」
そんな気持ちに変化してきている。そしてそれは同世代には
同じらしい。一様に「ケーキはちょっと・・・」の声が多い。
なぜだろう・・・・???
明確な答えはズバリ この間友が言っていた・・・
「年をとったから!」
う~~~ん ピッタリすぎて返す言葉無しだ・・・

辛口ブーム

2005年02月02日 17時08分34秒 | 独り言
今 世の中は辛口ブーム。
食べ物ですらヨン様影響か チゲ鍋だのキムチだの
好きな人は大勢いる。

最近ではテレビや雑誌で引っ張りだこの某占い師の
おばさまも何か魅かれる!という人も多いのでは・・・
あの辛口は結構凄い!見ていて気持ちがいいほどだ。

いくら悩める身ですがりつく思いで来た人とはいえ
とりあえず「占い」という行為を お金で買っている。
というのは事実。となると占う相手はお客様となる
筈だが客相手に「こんな事言っていいいのかな~~」と
思う位 辛口のオンパレード。
それでも意外なのは相談者達がその辛口を待ってました
とばかりにうっとり聞き惚れている事。
占いが当たる 外れるの問題ではなくアッパレとしか
言い様がない。
こうなると一人の占い師ではなく殆ど宗教の教祖に近い。

人は思い悩める時 優しく優しく慰めてウンウンと
聞いてもらうより 時にはビシッと
「こうしなさい!!」こう言い放ってほしいもの
なのかもしれない。
弱者は強者に憧れを持つ。こういった心理だろうか。
自分も含め 今の世の中の人達は案外自分の事を
誰かに決めて欲しい、自分では決められないといった
超弱き人間ばかりなのかもしれない。
だから どんどんと辛口人間で強く言い放ってくれる
カリスマが欲しいのかもしれない。

だがこの辛口は建築士の間ではどうか・・・
きっと大先生の建築家ならば絶対OKだろう。
バッサリと大先生が
「こういう家がいいのです!!」
そう断言すればするほど うっとりぃ~の
お施主さんも多いに違いない。

我が家にも そんな「うっとりぃ~お施主さん」が
生まれるといいのだが・・・・・
その前に辛口人間になれるか? 
こっちの方はなかなか難しい・・・・
建築士は辛口人間になるのが苦手人種らしいからだ。