設計事務所の裏窓

夫は建築士。設計事務所をやってます。
裏から眺めた感想、日々の独り言。
不定期便で頑張ります~!

陸の孤島なる・・・

2006年05月24日 17時24分57秒 | 独り言
「陸の孤島」
そう勝手にあだ名化してしまっている知り合いがいる。

パソコンなし。携帯なし。ファックスなし。
プラス自宅の電話に留守電なし。

ここまで来るとアッパレとしか言い様がない!

専業主婦のくせに携帯~?というのは もう古く
自分の周囲の近所知り合い達も合言葉は
「後でメールするから~」という言葉。

わざわざ時間を選んで電話するという行為が
消えかかっているのが実情だ。
しかし この陸の孤島(?)なる知り合いは 何も
ないので たまに用がある時は電話となる。
やたらと忙しい身であるようなので 留守電もない電話が
虚しく鳴り響くと もう居所を突き止めるのは
無理となる。

「携帯持って~」などと 親しい知り合い達からは言われる
らしいが「こんな時代に こういうのもいるといいでしょ~」と
陸の孤島なるご本人はカラカラと毎度笑ってる。

たまにしか会わないし そう親しい間柄ではないが
自分は この陸の孤島知り合いといると なんだか
原点に毎度戻らされる。
メール云々もそうだが「楽しむ」とか「元気」という
言葉は 自分の中から作っていくものという
そんな原点に毎度気づかされるのだ。

決して バリバリ働いているような人でもなく
変わった事をしている訳でもなく 陸の孤島知り合いは
自分と同じ母であり 普通の主婦であるが
何をしていても楽しそうである。
それが子供の学校の用事であっても 自分の趣味であっても。

周りが こうしているから焦るとか 周りがこうだから
合わせるという事もなく 嫌みなく自然体を感じる。

だから たまに陸の孤島知り合いと話す機会が
あると なんだか元気になれる自分がいる。

この知り合いは しかめっ面で携帯片手にメールを
打っている姿より誰かとカラカラと笑いながら話している
姿の方がしっくりとくる。

勝手ながら 時代と逆行してくれ~と思ってしまう。

明るさと前向きさというのは 何でもアリとして
しまうところが やはりアッパレである。

娘は欲しかったけど

2006年05月19日 15時32分01秒 | 独り言
性同一性障害を受け入れ 小2男児、女児として通学 播磨地域 (神戸新聞) - goo ニュース


女の子が欲しかった・・・・
何度もしつこいが♂2匹の母である自分・・・
まさか 自分の腹から異性が飛び出すとは考えられなく・・

「♂はうるさい」
『♂は大変」
「♂は育てにくい」
こんな世間一般の噂も 面倒な事大嫌いの自分にとって
「女の子~~~~!」という願いになった要因の一つかも・・

しかも夫の実家は揃いも揃って♂揃い。
夫が男ばかりの3兄弟の真ん中。
義兄のところが男の子二人、そして当時飼っていた
ペットまでもが♂(あんまり関係ないが・・)

我が家を開ければ あれよあれよと♂二人誕生と・・・・
皇室じゃあないし 何も継ぐような一族じゃないくせに
産まれるのは全て男・・・・

まあ、夫の実家がため息をつくのも無理はない。
無事 生まれればそれだけで・・・・という ありがたさも
どっかに吹っ飛んでいる。いけない。いけない。

でも生まれてしまえば単純な自分は同性の兄弟の方が
良かったかもとか 女の子の可愛さは一時かとか
勝手に今は どうでもよくなってきている感じだ。
現に年が近いせいか 喧嘩も多いが親すら入れない
兄弟のバリアは強く 同じ年の女の子の母知り合い達からは
嫌というほど「同じ女同士」のいやらしさを聞く度
「まあ、男の母でいいか」と一人 寂しく納得である。

そんな母も納得しているというのに 次男は少々
長男に比べて女くさい。
別に身なりがどうのとか 遊び方がどうのじゃなく
やたらと細かく やたらと目につくところが女の子チック。
気が合うような仲間も どうやら女の子の方が多いし・・・
女の子は確かに欲しかったが 正直 違った意味での
娘にはなってほしくない。勝手な言い方かもしれないが・・

「性同一障害」なんて言葉を初めて聞いた時は
次男の事が頭をかすめたのも事実。
それにしても 記事にあるような事が今後
頻繁におきるのかもしれない。
日本という国は前例が大好きだから 事実が出来るまでは
大変だが 事実が出来てしまえば その後に続くのは
簡単になる。

でもなあ~~と一人の親として首かしげる。
自分の意志で自分の希望で男から女、またはその逆を
どうしようと もうそれは個人の考えで親の出番もない。
親とすれば複雑きわまりない気持ちは捨てられないだろうが
自分だって万が一の万が一 次男が「そうしたいの!お母さん!」
なんて言ってきたら最終的には「お前の人生、好きにせい!」
という言葉で送るのか(ここで毎度勝手な想像巡らせ)

子供が自分の意志で「自分は男か?女か?」と認識
しながら納得の上で 性別を変える意志を発揮しているのか。
「男になりたくない!」という叫びの奥底には
全く違うものはあるような・・・そんな気がしてならない。

ご家族で一人や二人じゃなく何人もの専門家と
治療なりカウンセリングなり あらゆる手を
つくしたのだろうか。
安易に「女の子として扱いましょう」はいいけれど
これから先 周囲が何も問題なく受け入れるとは
思えない。

素人だし何もわかってないかもしれないが
自分の性別を受け入れない=自分を受け入れないと
同じではないのだろうか。
性別も含めた自分という人間から それか他の
問題から何か逃げる時に 人は変身願望が強いとも聞く。

なにがいいのかわからないし 勝手に他人の事を
ああだのこうだのと言えないが 言える事は
女になろうと男になろうと その人自体は同じであると
いう事だ。

周囲に潰されず 逆に周囲に躍らされず 自分が一番
幸せだと この記事の少女(?)が後何十年後に言って欲しいなあと
個人的には思う。。。。。



空洞

2006年05月18日 09時20分48秒 | 独り言
ゴミ屋敷・・・最近この話題が夕方のニュースで
やたらと特集される。

家の中だけでなく 家の周囲どころか一般の道にも
ゴミがあふれている。

物凄く勝手な解釈だが 多分 精神的に何か病んでいる??
と、勝手に解釈してしまう。。。
単に「勿体ない」とか「捨てられない」という
普通の感情よりも もっと深いものが潜んでいるような
気がする。

何かの本で読んだが 物でも何でも自分の周りに
あふれているとホッとする。
そういう感情が沸き起こる病気があるらしい。
満たされない心を何かで埋める。
それがゴミなのか 人から見れば不要な物といった
ところだろうか・・・・

ここまで極端じゃなくても「なかなか捨てられなくて」
という愚痴はよく聞く。
あっても使わない。でも捨てられない。
結果 家の中にたまりにたまるという悪循環。
ある程度 家の中がごちゃごちゃしている方が
気持ちが落ち着く なんていう人もいる。

まあ、自分なんて こういう部類かもしれないが(汗)
それは言い訳で 一気に片付けるとスッキリするから
単なる怠け者なのだが・・・・

こういう理由とは別に「何かを支配下に置きたい」
そんな欲求が強い人もゴミ屋敷たる主になってしまう
のでは・・・とこれまた勝手に最近思う。

自分の目の届くところに何でも存在してほしい。
相手がゴミの場合は周囲が迷惑し 相手が人ならば
事件性にもなりかねない。

ゴミで満たされようと 物で満たされようと
何かを支配下に置こうと 自分の中で何かが
空洞ならば 何も意味はないのだけど・・・・

現代病のようなゴミ屋敷問題・・・・
自分の空洞を抱える人が増える限り このテの
ニュースが流れ続けるのだろうか。

安全圏

2006年05月17日 17時24分27秒 | 独り言
「変わった子ねえ」
こう言われるのが一番嫌だった幼少期。。。

明るく活発的な姉に比べると 大人しくて
扱いやすい分「何考えているかわからない」的な
自分は 毎度 母親からこう言われたものだ。

今でも覚えているのが 初めてレコードのアルバムと
いう代物を買った時の事。
あれは「風見鶏」という さだまさしのアルバム。
確かに・・・・4年生といえば10歳あたり・・・
そんな子供が買うという代物には思えない・・・

まあ、言い訳させてもらえばジャケットの絵が気に入って。
という ただそれしかわからずに買ったのだから。
何しろ 歌っている人も どういうジャンルだかも
わからずに なんだか絵を見て気に入ってしまったのだ。
女の子向きな 水彩画のような可愛いジャケットだったのを
よく覚えている。
で、聴いてみたら詩がわかりやすかったし「いいな」
みたいな感触が出来ていたという事だ。

でも家の大人達は一言
「変わってる」という言葉で片付けた。
それから家族の前では聴かなくなった。
多分 その時の大人達は深い意味もなく放った言葉
だろうが その後「変わっている」という言葉に
結構敏感になった時期があったのは事実である。

あれから何十年もたって 自分が大人になり子供が産まれ
外の世界では やたらと「個性的な!」という言葉を
聞くようになる。まるで「普通」というのが悪であるかの
如くに「個性!」と貫く。

そういう影響もあるけれど「変わっている」という
若干 否定的な言葉だけは 自分の子供には使用したく
ないなという根底がどこかにあり・・・・
「うわ~~~変わっている!」と心で叫んでも
今は 息子どもの行動に口から発するのだけは辞めようと
決めている。

たとえば息子がクラシック聴きながら本読んでたりとか
歴史のうんちくを並べたり 電車の系図をパソコンで
ジーッと眺めている姿にも・・・・

「普通の子供って こういうふうじゃない・・・
 変わっとる・・・」
こう口から出かかっても 本人には言ってない。
そのせいか伸び伸びと(?)世間一般の子供から見れば
「変わってる」行動を多分家の中で息子達は展開している
のだろうなと思う。

この間 大昔からの友に 彼女も同じ母なので
ついついこの自分の率直なぼやきとも悩みともいえる
内容をくっちゃべっていたら 結局 オバサンなりの
話は「普通ってなんだ!」という話題にもなり・・・

結局 自分の中の子供象というのがあるのだろうなと
気がつかされた。多分 今家の中でクラシックを聴いたり
している息子は その象の中には入っていない。
だからイコール「変わっている」という認識になってしまう。

「個性的に!」と言われて理想となりながら 少しでも
「普通」の枠からはみ出ようとすると焦る親達・・・・
こんな感情 誰でも親ならあるかもと友も言ってくれたが・・・

社会一般の常識から逸脱する事と 個性を発揮する事は
根本に違うのだけど ついつい親になると安全圏を
広げたがる。
大昔 自分は大人のたった一言でバカみたいに安全圏を
異常に狭めたという苦い経験を持ちながらもだ。

いつまでたっても 親の自分に戸惑っている。。。


瞬間求めて

2006年05月16日 17時38分45秒 | 独り言
ネットは怖い。
今更 バカらしいが時々そう思う。

ブログ人口も多くなって 何か調べようと
検索すれば 全く知らぬ人達のサイトがぞろぞろと
出てくる。

当たり前だが街角のどこかで会っても 全くわからぬ人達・・・
そんな人達と気軽に意見交換さえも出来る。
しかも それが本人じゃないバーチャル的に作った
人物でも出来る。

こんなショボイ ブログにも怪しいトラックバックを
つけてくれる(?)方達もいたりすると・・・・
暇だなあ~と思いながら「削除」となるのだが・・・

顔が見えないというのは 大胆な事が出来る。
各サイトの掲示板を見たりすると真面目に
喧嘩しあっている感じがあったり 売り言葉に
買い言葉的な とても大人同士とは思えない
やりとりを展開している場合もある。

ため息が出る・・・・
多分 会って話せば・・・
むしろ ネット上で平気で人を傷つけるような事を
書き込める人達って 案外小心者的な感じじゃないだろうか。
まるで お酒の力で大きくなれるかのような。
それがネットの力を借りてというか・・・・

実際に言えないような事もメールでは書けてしまったり
また それが切手貼ってポストに入れてという手間もなく
机上でポンと送れる。

便利になればなるほど 人は大胆になれる。
それがいい意味での大胆さならばいいが
傷つけなくていい事までやってしまう。

でも ブログを通して なぜか知らない人のたった一言に
救われるような瞬間もある。

そんな瞬間がほしくて「怖いなあ」と思いながらも
今日も ここを開いてしまうのだ。

人は単純者だ。特に自分は。。。。

でだし

2006年05月15日 09時43分27秒 | 独り言
本屋で本を選ぶ時 皆様は一体何を基準とするのか。

作者の名前か。話題性か。ジャンルからか。
表紙を見て気に入ってとか。。。。

毎度 自分は「でだし」からと言ったほうが正直かもしれない。
出だし・・・・そう 本当に一ページ目の一文・・・

勿論 作者から選びにいったりとか人に勧められてと
いった具合に本を手にとるが どんなにベストセラーに
なっている今話題の本でも 「でだし」が気に入らないと
もう買う気は失せてしまう。
なんだか その後に続くページが重苦しく手に感じ取れたら
もう その本との縁はないような感じで。。。

不思議であるが大昔からの癖のようだ。

出だしは 人と話している時も感じる。
初対面の人と一番初めに話す「でだし」
これがスムーズだと なんだかその後の関係もスムーズの
ような感じがしてしまう。
まあ、時には最初はあまり話もしなかったような人が
気がついたら 物凄く仲が良くなったりという事も
あるが・・・・・

後で振り返れば「でだし」がいつも自分の生活の
ポイントになっているような・・・
そんな気が最近するのである。

「ああ、心が小さい」
そういう嫌な気分もするが 癖なのでしょうがない。

人と会っての「でだし」の会話は やはり笑顔と話術だろうか。
年をとったせいか コテコテの裏心ある笑顔は
どうも綺麗な笑顔には見えなくなったし
逆に オドオド目を伏せがちでも緊張したシャイな
気持ちがわかる場合もある。
会話の初めに「えっと」とつける人は 結構 言葉を
選ぶ感じで 優しい人が多いような気もする。

本を選ぶように人を見比べてはいけないが 言葉の
始まりは微妙に「ス」の自分が出る。
流れにのるまでの正直な時間。

自分は一体どんな「でだし」を振りまいているのか。
「でだし」を観察するくせに 自分の「でだし」が
ピンとこない。

変な癖を持つ人間は 案外そんなものである。


勿体ない・・・・

2006年05月10日 14時01分30秒 | 独り言
献血敬遠「針が痛いから」 厚労省が初の若者意識調査 (共同通信) - goo ニュース

献血が当分出来ない・・・・
唯一の趣味(?)であったのに残念である。

なんでも狂牛病云々の事で 自分はひっかかるらしい。
確かに1990年にイギリス観光旅行しているが
たった「一日!」でも出来ないというのは・・・・

いつ安全が確認されてOKになるんだ~~と
献血募集をどこかで見る度 ガッカリする。

痛いから敬遠というのは わかるけど 結構いいものだよと
献血未体験者には熱く語ってあげるのになと
勝手ながら思うのである。

人の為や世の為云々じゃなく 自分はいやしくも
後から送られる血液検査の結果が楽しくてやっていた
部類なので偉そうな事も何も言えないけど・・・・

注射というのは 確かに大人になっても嫌なものである。
毎年 インフルエンザを息子達と受けにいくが
大きくなって さすがに泣きわめきが出来ない
息子達でさえ「先にやっていいよ」のくだらぬ
兄弟喧嘩に雷落としながらも いざ自分の番になれば
ちょっと腕が強ばり 針先が「いつ来るか!」で
ますます強ばる。こうやると痛くなる。
わかっているけど息子達に雷落とした手前 平然と
しかし少しはドキドキしながらも毎度受けるのだ。

これが献血の針は 太いのだ。
針がぶすりと刺されるまで 平然装いながらも
心臓ドキドキである。
だから毎回 なぜか事前検査の血圧が高いのか・・・

そこまでして なんで献血好き?と少々呆れられるが
カッコいい理由をどうしても探すと 少しは
何かの役に立っているかな?という自分にほんの
少しだけある善意という気持ちだろうか。

自分の血がどこかで もしかしたら誰かの命を
救っていると考えると まんざら生きてて良かったと
大袈裟に思うのだ。
勿論 かなり自己満足の世界だけど・・・・

自分の時間割き 金銭も得られる訳でもなく 
あまり お得ともいえない献血という行為。
でも 会場にいけば それでも人がやってきている。
「善意」という気持ちに少しは動かされた人達。
中には 少しどころじゃない偉い人達も多いのだろうけど。

自分というちっぽけな存在も無駄じゃない。
なんだか そういう確認がしたくて 自分なんぞは
せっせと通っていたのかもしれない。

人って そういうところが多少必要なのかもしれない。

という事は 献血人口が減りつつある今 存在どうの
こうのと考える暇もないほど 皆忙しいって事なのかもしれない。

GWーこの厄介なるものー

2006年05月08日 15時30分00秒 | 独り言
やっと終わったGW・・・・というより
終わってくれたGW・・・・という感想が
自分には近いかもしれない。

毎年毎年思うのが「混んでいる!」という感想。
平日なら いいや普段の土日でも皆がそっぽを向くような
場所でさえ GW中はともかく人があふれている!

あのアリのような人を見るとなぜか頭痛がしてくる
年寄りの自分・・・・
大昔から人混みというのは苦手である。

それなのに 矛盾しながらも毎年GWには ちょっと
どこかへ・・・という「ちょっとお出かけ」をやってしまう。

今年も ついつい出かけてしまったが・・・・
案の定 出かけにいったのか並ぶという我慢比べを
したのかわからないような状態になってしまった。

食事に並び 何かの券を買うのに並び トイレに並びと・・・

ちょっと他家の方達を見回しても 長蛇の列に
飽き飽きと愚図る小さなお子ちゃまや あくびを
かみしめ お疲れ顔のお父さんやら ヒステリーを
おこすお母さんやらと・・・・
皆様も何しに来たのかわからん状態になっている。

それでも皆 出かけ並ぶのである。
食事の値段が高いとか質が悪いとか そんな事も
頭から吹っ飛んでいる。
正にGWマジックというものだろうか。

厄介なGWであるが なぜか毎年躍らされる。

今日は曇りで しかも月曜。
さぞやGW中に混み合った場所もシーンであろう。
そんな時にゆったりするのが本物の贅沢かもしれないけど
貧乏人は日常に戻らなくてはいけない。

ああ、厄介。ああ、今年も混んでたと今頃ぶつぶつ
唱えながらも 早速 今朝は来年のカレンダーを引っ張り出し
GWの赤く塗られた休みの数字を追っている。

貧乏人の日常は こんなものかもしれないが・・・・。

手段間違えると

2006年05月01日 11時41分02秒 | 独り言
偽装物件で収入7千万円 「木村」から姉歯容疑者 (共同通信) - goo ニュース

お金はないよりあった方がいい。
それは生活している全世界の人達の本音だろう。

何をするにも そう、夢を叶える手段の一つでも
お金が全くないよりあった方が便利である。

でもそれだけの物だともいえる。

マンション偽装問題が最近チラチラとニュースで
また取り上げられるようになっている。
必ず感じるのは生活の中に「お金」というのが
先走ると結局 お金はなくなってしまうという事だ。

点数や評価が人より先に歩いている現代 お金が
あるか ないかだけで その人物を決定化してしまう。
そんな幻想を見てしまうと お金の為に名義貸しでも
偽装でも何でもしてしまうのだ。

本来 自分が何の為に建築士という仕事を選んでいるかも
忘れてしまう。
生活があるから設計料をもらうのは当たり前で
仕事の報酬を受け取るのも当たり前。
それが不当に低く抑えられ どうにかして
建物を造り上げる側が一緒になって「儲け!」に
走れば こんな結果が巡ってくる。

お金に走り お金に脅され 最終的に家族も失い
一体 こういう結論を何も予想してなかったとしたら
本当に情けない。

理想かもしれないけど 奇麗事かもしれないけど
何の仕事でも まずお金に結びつく前に
「この仕事に生き甲斐を持っている」という熱意が
前に来て欲しい。

お金は便利な手段である。
ただ「それだけ」という観念がない限り
こんな事件がボロボロ出そうで怖い。。。。