設計事務所の裏窓

夫は建築士。設計事務所をやってます。
裏から眺めた感想、日々の独り言。
不定期便で頑張ります~!

今年も花見

2006年03月28日 14時39分23秒 | 独り言
都心で桜が見ごろ 今週半ば、雨の予報 (朝日新聞) - goo ニュース

日本人というのは どうしてこうも桜なるものが
大好きなのだろうか。

毎年 桜は咲いたか!宴会日和か!という話題が沸騰する。
何も桜の下で宴会をしなくてもいいのだが 事実 桜の花を
じっくり愛でながらの風流人など 殆どいないのが現実なのだから。

それでも なんとなく桜=春というのは 皆の心をどこか
ウキウキとさせたり 誰かとの別れでしっとりとさせたりと
春は不思議な魔力を持つ季節でもある。
きっと誰もが 一つや二つの 甘いか辛い(?)かの思い出を
持っている事だろう。

自分の桜といえば 何十年も前に社会人として初めて
参加した研修の帰りにバスの中から見た 隅田川沿いの桜。
なーんか自分たちが看守の車から見ているようで なんとも
虚しかった記憶がある。
「あーもう社会人なのだ。自由はないのだ・・・・」
なんて ぶーたれながらの桜は その美しさと見事さが
逆に皮肉にも目に映ったようだった。
車内は同じ年に入社した同期達がごったがえしていたが
桜並木を目の前に感動しながらも 誰もが無口だったのを
覚えている。皆 自分同様 学生だった去年とは違った
桜を見る自分たちの現実を ヒシヒシと感じていたのかもしれない。
まあ、そんな感慨深げな感触は翌年 会社の同僚達との
お祭り騒ぎ花見で吹っ飛んでしまっている訳だが・・・

最近は花見日和がぶつかる休日には 浅草か上野辺りでの
家族だけの花見となっている。
花見といっても ものぐさ母のやる事は お決まりの
テキ屋ものを買いながら なんとも行儀悪く立ち食べながらの
桜観賞となるのだが・・・・

隅田川の花火大会でもそうだが 絶好の場所というのは
代々 そこに住んでおられる先住民の方(?)が案外しきって
いらっしゃったりする。テレビでもやっていたが
絶好の場所を一人1000円とかで場所探しに来ている人達に
売るのである。これが結構儲かる。人は一日だけ!という限定だと
なぜか財布のヒモがゆるむ。又 面倒な場所取りだの 探しだのを
する労力を考えればお手軽というものかもしれない。
自分も何度か上野公園とか隅田川沿いでは そうやっていそいそと
労働(?)している方達を見かけた事がある。
なんでも一年分の収入になるような稼ぎを展開する人もいるらしい。

桜という風流な花の中で 誠に現実的な でも逞しい
商売も動いてるという現実。

やはり桜の季節でも 人は上ばかり見て おっとりと
している訳ではないらしい。
これが現代人の花見の象徴のようで ちと悲しいが
今年も ついつい桜の花の下ばかりに目がいってしまい
そうである。

ハコの物足りなさ

2006年03月20日 09時40分38秒 | 独り言
昨日 リフォーム番組の人気者
「劇的ビフォーアフター」という番組がとりあえず
最終回だった。

匠と呼ばれる建築家を起用してのリフォーム番組。
個人的に結構好きで見ていたけど なんでもこのテの
番組の中でも高視聴率だったような・・・

それにしても 次から次へと
「なんでこうなるのお~~~!!」とぶっ飛びのような
ケースのお宅が出てくる事が凄い。

お風呂出たら脱衣室もなく いきなり家族団らんの
リビングだったりとか 外階段をのぼって寝室だとか
窓を開ければ隣の家の壁に手がついちゃうとか・・・

うーん 昔の家というのは なぜにこんなにも
生活空間という一番大事な家の基本を無視した家なのか
ほとほと現実はこうなんだと実感させられた。

日本人にとって「家」っていうのは雨風しのげて寝れて
それだけでいいっていう空間だったのかもしれない。
だから今だに風呂さえあればいい 部屋数は三つあればいい
というような「あればいい」発想的な家も多いのだ。
でも 皆それがいいのかと思えばそうでなく だから
こんなリフォーム番組が大流行だったのだろう。

個人住宅のクライアントの方達を見ていると 不思議なのは
最初は「あればいい」的な家をどうしても頭に思い描きがちで
リビングはこの位の大きさで子供部屋は絶対人数分でという
お決まりの要望を毎度聞くのだが 毎日の暮らしで何を
重視したいか 子供に対しての思いは何なのかなど
話を煮詰めていくと当初のお決まりが消えていく事がある。
それを煮詰めていく作業も 建築士と造る家ならではと言えるが。

窓がほしい。部屋がほしい。風呂がほしい。
それをパズルのように一つの敷地の中に何も考えずに埋め込む。
そんな作業なら実は素人だって出来るのだ。
でも それでは家は機能だけがある単なる「ハコ」である。
そんな「ハコ」でも昔は満足出来た。
それが今は 「ハコ」で暮らしている矛盾を徐々に皆が
気がつき始めたのかもしれない。しかもたかがの「ハコ」を
造るのに膨大な訳のわからないお金を使われている時もあるし・・

個人的には好きだった番組が終わるのは寂しいが 徐々に
匠が建築家というより単なる細工を考える家具職人チックに
なっていくのだけは あまり好きではなかったので
この辺りで終りというのもいいのかもしれない。

本当は絡繰りばかりの家具で「なんという事でしょう」と
驚かせるのではなく 建築家本来の空間の魅せ場を
もっと見たかったと勝手ながら思うのである。



3月は別れの月

2006年03月16日 10時08分03秒 | 独り言
3月は別れの季節ともいうらしいが今月限りで
息子達が通っていた幼稚園の先生達がゴッソリと
辞めていくという。

もう卒園して何年もたつものの 近所のせいか
まだ在園児のいる知り合い達から色々な話が
どこからともなく聞こえてくるのであるが
息子達が登園していた時代の先生達がごっそり
辞めていくという話は もう関係ないながらも
ちょっと衝撃という感じであった。

息子達が通っていた幼稚園は この辺りでは
「ほどほど」という言葉がピッタリの幼稚園だった。
子供が少ないと言われる現在で なぜか自分が住んでいる
近所には余るほどではないが 選択肢出来る幼稚園が
多少ある。その中でも我が家が選んだというか母の
自分が勝手に決めた幼稚園は 今風の英才教育バリバリの
いわゆるお勉強幼稚園でもなく 園底を裸足で駆け回させる
伸び伸び一本の幼稚園でもなく ほどほどに伸び伸びあり
ほどほどに平仮名などを教える事もありという・・・
そう「ほどほど」という中間ちっくな言葉がぴったりの
幼稚園だったのだ。

でもそんな「ほどほど」よりも自分が気に入ったのが
ともかく先生達の在職期間が長いという事だった。
10年近くいる先生が多く 一年サイクルで退職していく
というのがザラという幼稚園に比べると 本当に
先生達が変わらないという事で有名だったほどだ。
そう考えると確かに 適齢期にかかった先生達が
ごっそり退職というのもタイミング的にはありかもしれないが
それでも納得しない在園児の保護者達に対して緊急の
保護者会が開かれたほどだったという。

今や幼稚園は設備や保育内容云々に特色があるというが
結局「いい先生がいる」というポイントが高かったと
いう事になる。

幼稚園は母と子供が初めて挑む小社会。
だからこそ平仮名がいくつ覚えられるかとか
ローマ字が書けるようになったとかより
大切な事が皆わかっているのである。

卒園して何年もたっても 時には街角で
「○○君!」という息子達を呼んでくれる幼稚園時代の
先生達と会う事があった。
もう そんな事もなくなると思うと 少々寂しい限りである。


ふと「老い」を考え

2006年03月15日 17時24分52秒 | 独り言
もうすぐ又々 自分の生誕日がやってくる。
なぜこんなに早い・・・???と確か去年も書いたような・・

大昔 寝る前に 自分はどうして生まれて 消える時は
どうなるのか。はたまた 地球はなぜあって 宇宙の
果ての果ては どこまでいくのか なんてバカらしい
飛躍事まで考えて眠れなくなったものだ。

最近はこんな飛躍じゃなく10年後20年後という
割と近い未来を漠然と考え 少し怖くなったりもする。

介護保険とやらの導入後 スーパーや駅で車イスに
乗っている老人とそれを押している介護ヘルパーの
ような人達をよく見かけるようになった。
昔は身体が不自由になれば在宅するのみとなっていたが
今では こういうサービスを利用して外に出られる
機会が設けられる。
自分が そういう立場になった時をまたふと考えるのである。
そう 車イスで買い物に来る人達を遠い視線で追いかけ
られない自分にちょっとギョっとするのである。

老いというのを考え始めている。
後ろ向きすぎ。マイナスすぎとは思うものの
子供が後数年で独立したら 順番から来たら夫が
先に消えて 後は独りだなあと なんだか怖くなる。

よく子供が頼りと口癖のようにいう知り合いもいるが
子供は子供である。自分の配偶者でもなく ましてや
分身でもない。大人になれば 全く別の世界で生きる
別個の人格である。

きっと老いというのは孤独と身体の弱さが一番辛い
事なのだろうと思う。
一緒に誰かがいるいないに限らず自分が思い通りに
なれない虚しさと虚脱感が襲ってくるのだ。

人は結局は一人だとよく言われるが とんでもない。
生まれる時だって多くの人の手を煩らわせ大騒ぎをして
消える時は きっともっと多くの手を煩らわせる。
野に咲く花のように ひっそりと咲きひっそりと散る
なんて事は 人間は出来ないのだ。

だからこそ 孤独になりつつある年月にゾッとする。
やはり後ろ向き過ぎだと我ながら いけないいけないと
おまじないのように言ってしまう。
こういう小さくなった気持ちも一種の「老い」かも
しれないのだから。

取り換え不可能

2006年03月13日 16時30分41秒 | 独り言
女性から見て男性が羨ましいと思うところランキング (gooランキング) - goo ニュース

人にはないものねだりのところがあり
自分とは違う部分に異常に憧れを持つ傾向がある。

自分と決定的に違うものをいったら やはり性別。
しかし 女性から見ての男性が羨ましいと感じる
第一位がなんと「生理がない」って事だったとは・・・

確かにこういう部類で男性を羨ましい!と思う事なら
自分にも一杯ある。
若い頃にうんと思ったのは まず夏に脱毛しなくていい事。
これは羨ましかった~~
一応 こんな年になっても真夏に袖からボーボーナチュラル!
って訳には今でもいかない。
永久脱毛だの魅惑的な言葉には魅かれるが お金もなくて
エステなんぞは行けないし 毎年脱毛クリームだの
脱毛ワックスだのを使用してとなる。
これだって今までの十数年分を数えたらアホらしいほどの
金額になるし それより何より面倒だ。
その点 ♂はいい。足のすね毛だろうが どこの毛だろうが
ともかく境界線もなければ ジィーっと「そこ」を見つめる
人もいないだろう。

それにやっぱりトイレが短いというのも羨ましい。
我が家も♂ばかりの家族だから 行楽地では♀の自分が
いつもトイレはお並び組となる。
大体個室がいけないと思うけど こればかりはしょうがない。
今では化粧室用のパウダールームというのを やたら広く
造っているトイレもあるが やはり絶対数を増やしていくしか
女性トイレ緩和対策にはならないようだ。

賃金が安い。年齢が気にならない等々 色々な男性への
羨みはあるけれど やっぱり一番の羨みは男性 女性共々
「絶対 とっかえられない性別」という事かもしれない。

だからこそ 好き放題の勝手な事を ああだのこうだのと
述べられるのかもしれないのだ。


見ている

2006年03月09日 17時47分22秒 | 独り言
児童に跳びげり、2か月のけがさせる…教諭停職1か月 (読売新聞) - goo ニュース

教師が生徒に手をあげる。
そんな光景は今や ご法度である。
でも とびげりは ちと大人げなく・・・・
結果だけを見れば どうしようもない教師象だけど
きっとこれまでに来る過程があったのではないだろうか。
ボールを投げられたという それだけじゃない
今までの生徒との関係もあったかもしれない。

どっちがおかしいとは こんな一つの記事じゃいえないが
おかしい子供も多いし おかしい教師も多いというのが
悲しいが実情なのが現代である。

一頃「でもしか先生」なる言葉があったけど
「先生でもなるか」「先生しかなれない」それに加えて
最近は「公務員は安定しているから」という理由が
加わるのか・・・・なんとも情けない・・・

大体 教師になんで公務員?なのか 自分もわからない。

失敗しても失職はなく 実力に関係なく年功的に増える
自分の給料・・・・
こんな環境で誰が他人の子供の為に熱くなれるだろうか。
「教師」という仕事に何が必要か どこかで改革していかない
限り 子供もおかしく教師もおかしく・・・という構図は
消えないような気がする。

それに最近の子供ときたら 極端な無体罰教育で 変なふうに
持ち上げられてしまっている部分も多いから それは各家庭の
責任でもあるような気がする。

子供は大人達と間違っても同等の友達関係ではないのだ。
押し付ける訳でもなく強制でもなく 大人は子供の
一歩前を歩かなければいけない。
嫌でも逃げたくても 子供は大人達を見ている。

実は嫌だ嫌だと自分も思ってしまう毎日なのだが・・・
どこからどう見ても大きな大人のおばさんでは
しょうがないようだ・・・

無心

2006年03月02日 09時43分56秒 | 独り言
生きているイルカ、近くの漁港に搬送 千葉・九十九里浜 (朝日新聞) - goo ニュース

人というのは面白い二面性を持っている。

自分の利に一文にもならない事でも なぜか損得忘れ
遮二無二突き動かされるが如く 動き回る事も出来れば
どうしてそこまでと絶句するほど残忍で酷な事を平気でやる
時もある。

自分では残忍じゃないと思いながらも 例えば 人の
不幸を同情しながらも 少し喜んでいる本心があったり
動物愛護を訴えながらも 革や毛皮のカバンなりコートを
何とも思わず好きで購入したりする人もいる。

昨日 ふと昼間テレビをつけていたら千葉の海に
何十頭というイルカが打ち上げられ それを必死に
サーファーの人達が救っていた映像が流れていた。

天気は小雨。どう見ても凍えるような寒さである。
それでもサーファーの人達は皆 タオルをイルカに巻き付けたり
大きな巨体を何人かで力合わせ 沖に運ぼうと懸命に
救助していた。
確かにイルカ何十頭が このまま息絶えるのを傍観しているのは
辛い。なんとか助けてやりたい。
しかし それが実際の行動に出るか出ないか。
それは 人としてのほんの一握りの勇気と優しさに
かかっている。

自分の時間をイルカ救助に費やす。
しかも海に慣れている彼らでも 昨日の海の寒さは辛いだろう。
手が冷たい。足が凍える。
でもそんな感覚は身体動かし 救助をしている彼らには
むしろ感じてないのかもしれない。

ただ助けたい。この無心の気持ちが自分の酷なる条件を
打ち破っているのは確かである。

「ただ 何かしてあげたい」
「ただ 喜ばしたい」
この人としての誰にでもある一種の奉仕精神は
「ただ」という無心に支えられているのだ。そこには
これをやればこういう報酬を得られるとか 終われば
自分が有利になれるといった計算がない。
だから余計動けるのかもしれない。

いつの場面でも どこの場所でも皆がこの無心になれれば
いいのだが・・・・・

人はイルカを無償で救いあげる無心を持ちつつ ある一方では
遊びの為だけに無駄な「狩り」をしてみたり どうにかして
人が不幸にならないか 陥れる事は出来ないか そんな
恐ろしい薄汚なさも持っている。

なかなか生きている限り 自分の中で「無心」だけで
貫き通すのは難しいらしい。

独り言 その1

2006年03月01日 09時49分34秒 | 独り言
管理建築士、免許取り消しへ 東横イン違法改造 (朝日新聞) - goo ニュース

アネハ事件のすぐ後だったから やたらとクローズアップされた事件。
しかも違法が発覚した後の社長会見で どうやら皆の
反感をかってしまったのではないだろうか。
免許取り消しされた建築士は 名義貸しをしていたようだし
取り消されても しょうがない事をしたとは思うが
今回のこの事件 社長の態度云々を抜きにしたら
案外 巷では結構ありふれた問題ではないかなと
そう 個人的には感じてしまうのだ。

一歩 町へ出て建物を眺める。
違法と言われる建物って 結構多いのでは。。。

防火地域に耐火建築物じゃないのが建ってたりとか
容積オーバー 高さオーバーの建物って無いのだろうか。
違法駐車をいちいち取り締まっているとキリがないから
目立つところだけやる。
そんな感じで建物に関して 案外無法としていたのかもしれない。

国会は相変わらずメール問題の事ばかり やっているし
そんな事より やっぱり今自分たちが直接関わる
建築問題全般について さっさと問題を煮詰めてほしいもので
ある。正直言って どの議員が辞めるとか入院とかの
問題では人の命は奪われないけれど 明日地震が起きたら
いや 今起きたら・・・と考えるとゾッとする。
偽造問題で騒がれているマンションの近隣の方達も
毎日生きた心地がしないのでは。。。。

軽んじていい事件はないし 後回しにしていい事件もない。
だけど もう少し 国のしがらみとかとっぱらって
ただ摘発して罪を与えるだけじゃなく 早急に
こんな違法が出ない仕組みを考えてほしいものである。