設計事務所の裏窓

夫は建築士。設計事務所をやってます。
裏から眺めた感想、日々の独り言。
不定期便で頑張ります~!

本来の勉強

2004年12月26日 18時02分55秒 | 独り言
いよいよ年末も近い。
子供達も冬休みに突入となる。
今回の冬休みは、なんだか長い。
そのせいなのか いつもより宿題が出た。
そんな宿題には関係なく 冬季講習だとか特別塾とかで
多くの子供達が忙しいのであろう。

思えば自分の小さい頃も受験戦争はあったし
様々な試験をかいくぐってきた。
たった一枚の答案用紙が自分という人間を評価して
一枚の答案用紙に人生が振り回される事も
あったのかもしれない。
今は、そんな時代ではなくもっと違う評価でとか
ゆとりを持ってというのが合言葉な訳だが
今の子供達は、意地悪な考えを持ってしまうと
そんな教育改革の実験材料のようなものでもある。

子供達の学校は今年から授業日数確保の為に
二学期制になった訳だが・・・・・・
単に授業日数の帳尻を合わせようと必死な行動が
なんとも虚しい・・・・

大体 自分も本当の勉強の意義がわかってきたのは
つい最近。
わからない事が わかった時のあの快感と喜び。
それが本来の勉強であるかもしれない。
だから人は未知を学び それを楽しいと思えるのだ。
そこにはテストでいい点を取れば親が喜ぶとか
偏差値を上げて もっと上位の学校に入りたい
という余計な感情は無いはずなのに・・・・・

まあ、そんな理想論を追いかけても現実は
全く違う訳だが、この年になってもう勉強しなくて
いいのだという立場になればなるほど
「ああ、もっと勉強しておけばよかった」
という気持ちになる。勿論 いくつになっても
何でも勉強は出来るのだが その時 その時に
吸収していったものが懐かしい。

息子達の宿題を見ながら ふと帰れない昔を
悔やんでみたりする。
もう今年もお終いで 来年こそは、こういう
後ろ向き考えを打破したいと毎年思っているような
気がする・・・・何度学んでも こっちの学習は
全く身に付いてない・・・・

踏み台

2004年12月24日 10時37分16秒 | 独り言
小さい頃 両親の言うことが世界中の中で
絶対正しいと思い込んでいる時期があった。
父親がこう言っている。それは絶対間違っていないとか
母親が思っている事は、正しいのだとか
まあ、今考えれば何血迷っていたか・・・・
なんて思うのだが 幼くて弱き存在の子供にとって
両親の庇護なしでは生きられぬ存在にとっては
庇護してくれる親の考えが一番正しいと
思い込むのは自然な成り行きなのかもしれない。

いつの頃からだろうか。
親の言う事や考えに
「はあ~~?何言ってるのだか・・・・」
という反発とは違った自分の考えが生まれ始めていたのは。

今は、自分もいい年になり親と同じ立場の子供の
親となる。
だから たまに実家に帰り老いていっている親と
話したりすると
「はあ~~~??」
という感情にとらわれる事は、しばしばあり・・・・
まあ、個人的に自分の親達と あまり合わないという
欠点が一番自分を
「はあ~~~??」
という感情にさせる訳だが・・・・
毎回 どうしてこうも固い固い脳の持ち主かと思う位
親達の固執した考えに閉口する。これも老いの表れかとも
思うのだが・・・・・

結局 人の成長はいかに絶対化していた親を
単なる自分と同じ生身のおっかしいところも多々ある
単なる人間なんだと認識するところから始まるような気がする。

最近では、自分が明らかに矛盾して子供を怒鳴り散らしている。
当たり散らしか??自分でもこうわかっていて苛々している時など
長男をちらり見ると
「はあ~~~???」
という目で こちらを見ている。
もう誤魔化しの効かない時期にさしかかっているようだ。

自分という親を否定して息子達は成長していくと
いうのも少しはあるのかもしれない。
そう考えると親という存在は、いつも踏み台的な存在
なのかもしれない。

まあ、それで大きく成長して飛び立っていってくれれば
いいものだが・・・・・
自分をい振り返れば いい加減な親の踏み台を超えても
この程度らしく、やはり踏み台も日々成長していかなければ
いけないようである。


不発弾と大当たり

2004年12月22日 10時14分58秒 | 独り言
息子達は今 公立の小学校へ通っている。
当たり前だが先生方は皆 公務員。
公務員だから駄目だとか 公立だから駄目だとか
そうは思っていないが、正直「当り」の先生に
出会った事はない。
個人差もあるし 個人的な考えだともいえるが
どうも公務員丸出しの「公務員センセイ」が多い・・・・

比べる訳ではないが 幼稚園時代の先生達は今の
学校の先生が「不発弾」だとすれば皆「大当たり」の
先生が多かった。これも個人差があると思うのだが
大変失礼だが 公務員という安定した立場もなく
きっと物凄く高給取りという訳でもないのに
本当に熱心にやってくれた先生方が多かった。

猿のような本能の固まりの園児を一人や二人でなく
何十人と相手にする。
それだけで子供が苦手な自分には、到底出来ない仕事だ。
それなのに 親のこっちが気がつかない事も たまに
先生に会えば 先生の方から話してくれたり
心配事があれば いつでも熱心に相談にのってくれた。

子供一人一人を 本当によく見ている。
そんな印象が園時代にはあった。

親である自分も 二人目が通園する頃には、すっかり
園や先生と慣れて ある日こんな失礼な事を担任の
先生に聞いてみた事がある。
「正直 先生の仕事は大変ですよね。嫌な子供とかいるでしょ?」
な~~~んて おばさん!超ひねくれた質問である。
でも先生は苦笑いでもなく 困った感じでもなく
ごくごく自然に
「私 子供大好きなんですよ。本当に可愛いから 
 今まで嫌だとか 大変なんて思ってないですよ~」
こう答えてくれた。

今 公務員センセイに会ってガッカリする度
根本はきっとこれなんだろうなあ~と思う。
一体 どれだけ学校の先生達の中でこの
「子供が好きだから 無条件にこの職業に就いた」
こう胸を張って言える人がいるのだろうか。
「安定しているから」「就職難だから」
「教師という立場が世間体では なんとなくいいから」
こんな理由でなった方達が殆どではないのだろうか。

まあ、こんな理由じゃなく素敵な先生もきっといるだろう。
そして学校が 学校がと文句を言えるような立派な
親じゃない事は、自分が一番よく知っている。

結局 子供への一番の教育現場は家庭なのであるし
影響を一番与えるのも親という訳だ。
学校に期待出来ないという現状がある今は、それが
一番大切といえるのだろうか・・・・・

やはり親というのは いつまでたっても
気が抜けない・・・嫌な商売だ・・・・

一人ランチ

2004年12月21日 15時18分30秒 | 独り言
専業主婦の昼ご飯ほど侘びしいものはない。
家族が出払った家の中で 一人の時間は至福で
一人きりの、気ままな楽々昼ご飯もたまらなく
嬉しいが、同時に大変面倒・・・・・

一人というのは、都合がいいが どうでもいいという
事にも繋がる。
本当なら食べなくてもいい位 昼が来るのが憂鬱に
なる事がある。

近所の知り合いに言わせると、一人きりの昼は
どうやったら食器を汚さずに食べれるかが
勝負らしい。くだらない勝負かもしれないが
なるほど~~と頷いてしまった。
確かに誰に作るというのでなく 単に自分の食欲を
満たせばいいとなると 何か新しい物を作るなんて
いう発想はみじんも無い。
だから毎度 自分一人の時の昼ご飯の貧しさといったら・・・
だれにも見られたくない!という感じだ。
仮に「突撃 隣の昼ご飯!」なんてテレビがやってきたら
「奥さ~~ん このショボイ食卓はなんですかあ~?」
とか言われてしまいそうだなあ~といつも思う。

今日は、久しぶりに近所の知り合い宅で昼ご飯となる。
やっぱり誰かとしゃべりながらだと全く違うランチタイム!
食事の内容は、自分が買っていった「ほか弁」という
ショボイ内容だが 気持ちは満たされて帰宅。
つくづく食事とは、単に食欲を満たす行為だけでは
ないような気がする・・・・・・

でも、もうすぐ冬休み。
嫌でも応でも 子供の昼を作らなければならない。
そして うるさいとか煩わしいとか思いながら
騒がしい昼の食卓に向かう事だろう。

そして必ずこう思う。
「早く一人ランチがしたい~~~」と・・・・
本当に勝手な事だと自分でも思う・・・

失えば得るもの

2004年12月17日 14時42分46秒 | 独り言
先日 越していった近所の知り合いに久々に会えた。
お互い一応母であるので 会って話せる時間は
子供達が学校から帰るまでの数時間。
会ったら あれもこれも話そうと思っていると
時間は瞬く間に終わる。

長男がハイハイしていた頃からだから かれこれ
10年以上の付き合いになるだろうか。

大げさな言い方だが 自分は、このテの近所の
数少ないが 知り合い達に何度救われたかわからない。

自分中心で面倒な事が大嫌いな 典型的な親に向いていない
自分にとって、子供によって煩わされる時間が
本当に苦痛の時期があり、そんな時近くに住んでいた
同じく育児真っ盛りの知り合い達の
「ウチも同じよ」
こんな一言に 今考えればバカらしいがスッと気持ちが
落ち着いた事を思い出す。

その知り合い達の何気ない言葉は、どんな高名な専門家が
書いた育児書の言葉よりもベテランの先輩母達の言葉
よりも あの頃の自分には、本当に救いだった。
確かに忙しい時間を割いて サラリーマンだった専門屋(夫)も
育児には協力していた。でも、やっぱり当たり前だが
自分が一番濃厚に子供と向き合い 時間も最も長くいた。
こらえ性のない性格だから たった二人の育児に
アップアップしていた自分にとって
「ウチも同じよ。」
という言葉は、
「一緒に頑張ろうね」
という声にいつも変わって心の中で
こだましていた。同じ事を共鳴するというのは
弱き自分には、とても助かったのだ・・・・・

人は、失うものがあれば必ずそれを補うかのように
得るものが生まれるという。

子供によって確かに自分だけの自由が若干削られた
一時期に こういう知り合い達と会えたという事は
正にそういう事かもしれない。

嫌だとか 鬱陶しいと思っている子育てから
自分は知らぬ間に 素晴らしい恩恵も受けているらしい。

量より質

2004年12月15日 17時21分50秒 | 独り言
人が3人寄れば 人間関係が生じるという。
どうしてこうも自分に合う 合わないという
人が生まれてしまうのか不思議だ。

子供には
「誰とでも いろんな人と仲良くしてほしい」
こんな事を平気で言えるのに じゃあ自分は
どうだ?と問われるとねえ・・・・・と以前
知りあいが言っていたが・・・・
確かに その通りである。

大昔 友人の結婚式の二次会が盛んだった頃
呼ばれると すかさず別の友人からの
打診が入るのが必ずの常だった。
「○○の二次会行く?」という打診。
女の人には多いタイプなのだが 友人の二次会で
肝心の友人を祝うという事より 誰と行くか?
誰と一緒にいるか?が肝心になってしまう。
なんとも子供以下のくだらぬ事だが これは笑えない。

徒党を組みたがるというのは女特有だと聞いた事もあるが
一人でいる=孤独になっているというのが皆耐えれないと
いう事だろうか。自分がないとは、こういう事だと思うのだが
年を取って子供の親にもなっても そんな気質は変わらない。
現に子供の園時代の親だけの謝恩会の席決めといったら・・・
隣は、知っている人か?全く知らない人だろうか・・・・
そんな話ばかりで肝心の 子供の謝恩会が・・・という
事は、どっかに飛んでいる。これも笑えない。

だから子供には、説教くさく「誰とでも仲良く」なんて
言わないようにしている。
人である限り 合う 合わないはあるだろうし、
多くの友人に囲まれ いつも楽しそうな人が
実はフタを開けると 誰とも仲良くなかったという
事は、結構あると思うし・・・

ただ言える事は、「友は数少なくていいから大事に」
これだろうか。友は「量より質」これも大有りかな。
大体、親に悩みを打ち明けて解決していくなんて 
この先数年だけだと思う。自分も振り返れば 
親には申し訳ないが友人に何度助けられたかわからない。

たった一人でも 自分の話を真剣に受け止めてくれる。
そんな人がいるといないとでは大違い。

友を得るのも出会いの一つ。
親子であるのは偶然の出会いだが 友を得るのは
少しの運命と自分の力もいるようだ。
いい出会いを子供達には勝ち取ってほしいものだが
親の自分が 学校の役員会に知りあいは来るかなあ~
なんて くだらぬ打診をしているようでは・・・・
困ったものである。
子供以下の親の自分に ホトホト今日も呆れる。

活字中毒

2004年12月14日 17時27分34秒 | 独り言
ちょっと活字中毒のところがある。
こう言い切るとなんだかカッコいいが
流れ読みのように ずらずら気に入った本を
読んでいるだけだから 何も頭に残ってない。
それでも「中毒」とはうまく言ったもので
何も読まない毎日を送れば それはそれで
いいのだが、一回でも本を読み出すと
読み終わって次なる本がないと苛立つ。
ちょっとした暇にボーッとしているのが
許せない。たった読書という事なのに
どうもここまで貧乏性。

本好きになったのは、遥に遡って多分小学生の頃。
父親が通勤電車で読んでいた単行本がうずたかく
積もった一角が家にあり、それは書斎なんて呼べる
ものでもなく 単なる物置。
でも そんな小さな空間に乱雑に積まれた小さい小さい
文字の本が なんとなく秘密めいて チラリと読んでみる。
確か長男と同じ位の年だったか・・・
「案外 読めて面白い!」
これが第一の感想。学校図書で勧められている本より
子供向けに児童向けに読まされていた本より
結構のめりこむ。でも こっそりと・・・・
なぜ こっそり?きっと子供心に なんだか
後ろめたい気持ちがあったのか・・・・
その後ろめたさの本は、「失楽園」の作者で有名な
渡辺淳一氏の本・・・悪いというものではないが
小学生がねえ~~という内容で・・・・
でも元 医師であったという渡辺氏の作品には
男女の機微な話だけでなく 病院の裏側の人間模様の
話から命の尊厳や様々な事を考えさせられる話もあり・・・

狭い家の事である。そのうち こっそり学校から帰ると 
そんな一角で読みふけっていた事は、すぐに親にバレる事となる。
「ああ、雷が落ちる」
そう覚悟して呼ばれた父親の元へ行けば
「これは もっと面白いぞ」
小学生の娘に違う本を当たり前のように差し出している
変わっとる父がいた。

そこからは父の追いかけっこの始まりだった。
父が読んだ本をポンと どっかに転がせば
どれどれと読んでみる。
そんな調子だった。

本を読みましょう。
今は、子供の学校にいけば標語のように言われる。
そんなにいい事なのかなあ~
実は、自分でもよくわからない。
ただ言える事は、あのこっそり読みを頭ごなしに
雷落とされていたら 今の活字中毒の自分はないかも
という事だけ。まあ、好きな事を一つ増やしてくれた
父に今は感謝だろーか・・・・

子供の好きな事を どう伸ばすか。
難しい課題のように問われるが 
親が好きな事やっていればいいのかなとも
今は思う・・・・・

♂であっても♀であっても

2004年12月13日 17時51分43秒 | 独り言
実は娘が欲しかった。
自分も娘の立場だからわかるが、娘は年取っても
結婚して妻となって母となっても
娘である部分がある。

電話して話したり 一緒に買い物に行ったりと
母親にとってはいくつになっても娘である。
ところがである。息子はそうはいかない。
というか 結婚して夫となって父親になって
それでも母親と電話しあっていたら・・・・・
それは、違った問題が生じる・・・・・
だから同じ母でも娘を持っているのと
息子だけの母では、なんだか老後の寂しさも
違うような気がする・・・
なんとも勝手な解釈だが、そういう事だけでは
ないのだが なんとなく自分の腹から異性が出てくる
というものおかしな感じで、妊娠した時から
「これは♀だ!!」そう勝手に思い込んでいた。

ピンクのおくるみやピンクの母子手帳まで買って
準備万端!!
ところがどっこい!誕生した赤子は立派な
ブルーのおくるみに包まれた息子であった・・・・

次男の時は、なぜか消極的に黄色のおくるみ。
こんな消極さがピッタリしてしまったのか
見事 次に生まれた赤子もブルーのおくるみに
包まれる。

赤ん坊といっても不思議なもので どの顔も同じ猿顔で
どれも同じように見えるのに ♂赤子をピンクの
おくるみで包んだ時の違和感といったら・・・・
みょーにおっかしい。

世の中には、♂じゃなければ子供じゃないと
いわんばかりのヘンテコな世界もあるらしく
そんな世界の お嫁様達は本当に可哀想だと思う。
取る跡もなく 何か引き継ぐ財もないくせに
我が家は 自分の願掛け虚しく♂ばかり・・・・
うまくいかないものである。

しかし♂でも♀でも結局は自分ではない。
そして子供は親の持ち物でもなく 寂しさを
紛らわせるものでもない。
こんな簡単な事に気がつくまでにも結構時間がかかる。
まあ、そういう愚かなところも一杯あるというのが
親でもあるのだが・・・・

そう思って、今日もブリブリに可愛い格好を
させて歩いている女の子を連れているお母さん達を
ちょっといいなあと思う気持ちを抑えている。
自分も本当に愚かな部分の煮詰った親であるらしい。

笑えない とんちんかん話

2004年12月09日 09時43分01秒 | 独り言
以前 長男が学校から帰宅するや開口一番
「せいつうって何?」との質問。
な~~んにも考えてない母の自分は
「物事に通じている事」
「ふ~~~~ん」
いぶかしげな長男。すると次には
「しゃせいっていうのは何?」
「絵とか描く事だろう」
「ふ~~~ん」
ますます 腑に落ちない長男らしい・・・・

当たり前だった!
その夜「ゲー!!あいつ どこでそんな事知ったのか!?」
いきなり気がついて今頃になって うろたえる自分。
だって長男が言ってた「せいつう」は多分「精痛」か?で
自分が言ってた「せいつう」は「精通」
「しゃせい」は「射精」か?で、自分のは「写生」
まったく とんちんかんな答えじゃないかあ~~と
一人ガーンとした。

それにしても学校の保健体育では、まだそっち分野の
教育はやっていないというのに、クラスでは
そんな話をチラホラと話す オマセなお子様も一杯
いるのだろうなと思う。

何しろ「明るい性教育」を一応目指している自分としては
このままウヤムヤにしておいてはいけない。
興味本位で覚えてもらっては超困るのだ。
それが一番厄介・・・・

昨日のニュースでは大学生が集団で電車内で痴漢を
していたとか・・・・・
こういう事件が起きるたび 小さい頃は、どんな
お子様だったのか・・・という事ばかりが親になって
気になる。

♂は何かの事件が起こる度 勿論被害者の立場にも
なるが加害者の立場になる事も多い。

力が強くなる。欲求も強くなる。弱者が出来る。
思えば♂が変な方向に成長していけば、そんな
自分の勘違いの権威の矛先を、勝手に向ける事は
いとも簡単だ。
だがそれをやったら「人」じゃない。
「人以下」の生き物である。

後日 長男を呼び出し保健体育の教科書を一緒に見ながら
こうだああだとい説明した。もちろん真顔 超真剣。
おかしい事でも恥ずかしい事でもないし ちゃかす事でも
ふざける話でもないんだと説いてみた。
とりあえずは「ふんふん」と神妙な顔つきをしていたが・・・

♂にしたって♀にしたって親の価値観を引き継ぐ。
育てるって、ちょっとした洗脳でもある。
極端話、犯罪者を育て上げるという事だって
実は簡単・・・

長男の とんちんかんな質問に笑ってられない
親の自分がいた。
これだから、やっぱり母なんて向いてない・・・

セールス電話には変身!

2004年12月08日 09時47分05秒 | 独り言
昼間家にいるとセールスの電話がよく来る。
「新しい浄水器のお知らせです~」
「最新の換気扇洗浄です~~」

一言「ウチはいりません!」
こう言えば終わる電話なのであるが その一言を
なんとか言わせないというのが電話セールスの腕。
矢継ぎ早に ともかく話し続けていらっしゃる。
こんな時 小心者ゆえに
「はあ はあ~~」と一番やってはいけない
受け答えをしてしまうのだ。

以前は、こういうセールス電話の第一報
「奥様ですよね?」に「母はいません!」
なんて騙しをよくしたものだ。
これは結構効き目があり、一家の主婦が相手で
ないと知るや、今までの矢継ぎ早は息を潜める。
「では 後ほど~~」こう退散が殆ど。

これはいい!そう味しめた自分は、この娘騙しを
続けたが、ある日の電話セールスで毎度の如く
「母はいません~!」と言うと
「娘さんですか?」「ハイ!」
しばし沈黙後・・・・
「随分 お年を召した娘様と思いますが・・・・」
小心者のくせに こういう時は頭に血が上るオバサン!
「年取った娘もいます!」こう言い放ったが・・・
もう娘騙しは年々辛いらしい。
次回から騙しが出来るとしたら
「留守を預かる年寄りです」なんて変身しか
出来ないかもしれない・・・・

早めに電話を切りたいなら そんな騙しを
やっているより、早々に断るのが一番だと
最近はやっと学習して、早々断りの一言を
入れるようにしている。

小心者のくせに変な騙しをやっていたりして
つくづく 小心者よりオバサン根性が
追いついてきていると感じるこの頃だ・・・


無体罰という誤解

2004年12月07日 09時10分14秒 | 独り言
自分が遥か大昔の中学生の頃は 何かと部活の先生から
ひっぱたかれた。しかも顔!!
たるんでいるとか ダラダラしているとか
確か そんな理由・・・・
あの頃の中学には 体育の怖そうな先生が必ず一人とかいて
女の子であろうが一年生であろうが、何か悪い事を
すると思いきり叩かれていた。
今 そんな事をしたら・・・・・
もう天地がひっくり返るほどの騒ぎになるだろう。
昔の親達というのは 今ほど うるさくないのか
はたまた そういう風習だったか・・・・・

確かに顔なんか叩かれていい気持ちはしない。
叩いて何が変わる?という意見もある。
叩いて叱る事は 今の時代「体罰」という言葉に変わる。
無体罰奨励時代という感じの現代だろーか・・・
でもなあ~と親になってみて思う。
叩かないで言い聞かせる育児ほど困難はない。
最近では「言い聞かせている」と自負している親達の殆どが
「単に甘やかしている」という状態に陥っているのを
よく見かける。
「生まれてから夫婦で一度も この子に手を上げてない」
こう自信満々におっしゃる方々も多い。
申し訳ないが そのお子様 どうひいき目に見ても
外では問題児・・・・・

じゃあ、お宅は立派な育児を展開しているか!?と
問われれば そんな立派なものは展開していない。
我が夫婦は揃いも揃って短気なものだから 時代と逆行
しているかのように よく子供達を叩いたものだ。
さすがに最近は口で言ってわかる年代であり、自分のした
行動を把握出来る年代。いきなり手は下さないが、息子達に
理不尽があったら口が許さない。なんだか毎日ガミガミしている。

結局 こうやって口で戦わせるのも後数年だ。
息子の理不尽をガミガミ言ってくれる外野はいない。
なぜなら他人様の子供の行く末がどうなろうと皆
関係ないからだ。これは当たり前の事だ。
そうなると今 親になった自分がとことん叱り飛ばすのも
大事な仕事でもある。
「子供に嫌われたくない。泣き顔見たくない。
 だから叱らない」
こんなオバカな親もいるという・・・
ちょっと これは信じられない。

体罰はいけない。暴力もいけない。
そして当り散らしは、もっと悪い。
だけど腫れ物に触るように ひたすら学校でも家庭でも
「無体罰奨励育児」を展開していると 変な誤解だらけが
生じるような気がしてならない。

実は誰でも人を真剣に叱ろうと思うと気が重い。
何しろ相手を否定する行為なのだし・・・
後味が悪いのは 相手もそうだが叱った本人も悪い。
だから真剣に叩くのも叱るのも 実は一杯愛情がないと
出来ない行為なのかもしれない。
何しろ どうでもいい相手には、そんな後味悪い行為を
敢えてやる事はないのだから・・・

人が人を育て上げるというのは、やっぱり難しい。

建築士の家と料理

2004年12月04日 11時16分34秒 | 独り言
建築士と一緒に家造りをするという事は
自分専任の料理人に好みの料理を
作ってもらうという事に似ていると超個人的だが
最近思う。

勿論 手早く単にお腹を満たせばいいという人や
ファミリーレストラン或いは、チェーンレストランの
想像出来る味でいいという人。
或いは、究極そういう味が好きなんだ!という人には
この専任の料理人の料理は七面倒な事ばかりで
全く向いてない。

確かに専任であるからには、自分だけの料理が出来るし
大ざっぱな好みと食感を談義して 後は料理人の腕に任せて
ワクワクして待っているという楽しみもある。

優秀な料理人は 単にお客の好みの料理を作るのだけでなく
関西人のお客なら 薄味で白だしをきかせという風に
自分なりの お客に合ったアレンジをきかせる事を
忘れない。

確かに お金を払いオーダーを頼むのは お客であるが
お客の好みの素材を どうアレンジするかの 今度の
主導権は厨房にいる限りは料理人の手にうつる。

メニューにもなく 店のショーウインドーにも
載っていない自分だけの料理。
それ故、料理人に厨房に入って仕事にかかられる前には
徹底的に お客は料理人と意見を戦わせる。
時には 料理とは関係ない話まで話は飛躍したりと・・・
でもこれも料理人にとっては大事な要素になり・・・

結局 料理人は、お客の味の好みだけでなく
どういう人なのか、出来る限り相手を知る事も大事になる。
お客が唸り 料理人が満足出来る料理が出来るには
料理人の技術とセンスだけでなく いかに
お客と料理人のヒト対ヒトの信頼関係が深いかにも
関係が出てくる。

どうせ大事な自分のお金を使って食べるなら
とことん自分専任の料理人を選びたいという方々も
最近は若干 増えてきてるらしいと聞くが・・・・
こういう話を聞くと 我が家も商売上 ちょっとは
嬉しいが・・・・・

はてさて 肝心の我が家では どんな料理が
出てくるのか・・・
裏窓から 鼻をクンクンと嗅いでいるこの頃である・・・

まだ二歳児丸出し

2004年12月02日 10時13分55秒 | 独り言
子供が二歳位の時が一番 一緒にいるのが嫌だった。
なんて薄情!なんて鬼母!!
でも事実。よそ様に言わせると一歳から二歳の時期が
一番可愛いとか あの頃に戻りたいなんて言うけれど
自分は絶対戻りたくない・・・・・

世の中 上を見てもキリがなく下を見てもキリがなく
本当は子供が欲しいのに訳あって出来にくい夫婦。
訳あって出来ないという夫婦もたくさんあり・・・・
そんな方々からしたら 何を甘えた事言ってるのか!
親になる資格もない!と絶対非難されるに違いない。
そうはわかっていても、あの頃の子供を扱う自分に
自信が全くない。

二歳頃の子供というのは 人間であって人間じゃない
ところが多々あり・・・・・
当たり前だが そんな状態は一生続く訳もなく
そういう本能的な部分を親が社会生活を送れる人間として
修正 補習していくのも立派な育児な訳だが
自分に余裕がないと一生こんな事をしているのかと
思い込む事がある。

口でうまくしゃべれない、行動も未熟。
こうなると子供は ひたすら泣いたり大人から見れば
大層困った難儀な事をするしかない。
それが大人達にとっては苛々する。

長男が「ギュウ~ ギュウ~」と牛乳を飲みたいと
出先で言われた事があり なにげなく紙パックの
牛乳を こちらとしては丁寧にストローまで差して
出してあげたら 物凄い泣き声で ひっくり返られた事が
あった。何をそんなに怒っているのか こちらとしては
納得も出来ず・・・・・飲みたいのなら飲めばいいものを・・・
我が子ながら泣き声に苛々しながらアホか!と思ったものだ。
二人目も生んで いろんな子供を見る機会に恵まれ
今 冷静に考えてみると牛乳は飲みたい そして
ストローも自分で差したいというのが幼き長男の
言いたい事だったらしい・・・・とちょっと想像がつく。
これだから二歳児は疲れる・・・こんな事がしょっちゅうだった。

でも こんな二歳児の行動。
今は大人も変わりはないじゃないか!と思う事も。
さすがに自分の考えが通らないからといって
道端でひっくり返ったり泣いたりしないが 自分本位で
自分中心の行動を貫いている大人は一杯いる。
それは自分の親世代の頭が固くなっている世代だったり
自分と同じ「おばさん!」丸出しの中年女性だったりと・・
そして究極 ハタと気がつくと正に自分であったりする。

永遠に二歳児丸出しのところがあるから
いまだに過去の育児をほほ笑ましく振り返られないのか
究極に子供が苦手なのか よくわからないが
これがわかった時 やっと自分は大人という
人間に近づけるのかもしれない。
いい おばさんが情けない事である。