私も、これからその病院に行く
昨日、ふるさと歴史講座というのに参加させていただいていた。都合七回くらいある講座である。居住地の歴史を教えていただく講座で、楽しみにしていた。昨日が最終回であった。全部出席させていただいた。皆勤である。皆勤。皆勤賞をもらいたいくらいである。誰もくれないだろうけれども。
そもそも講座の存在は昔から知っていたのだが、平日にあるので、現役で仕事をしていたときはなかなか参加出来なかった。退職したら参加しようと思っていたので、最終回まで参加できたことに満足している。講師は、松井安俊先生である。郷土史家で、大家である。尊敬している方である。80歳を過ぎられても、まだまだかくしゃくたるものである。頭脳の冴えがあるから、非常に印象として若い。エネルギッシュである。見習いたい先生である。
明日、千葉市でまた先生の講演を拝聴する。千葉県郷土史研究連絡協議会の会である。文化講座というのである。千葉パルコの道を挟んだ前にある千葉市文化センターというところである。その後に、さらに古文書講座がある。上級編であるから、かなり難しい。しかし、チャレンジしよう。爺になっても、楽しいものは楽しいからだ。それに、居住地で初級の古文書講座にも参加させていただいている。土佐日記である。こっちも楽しい、楽しい。完全に趣味だから楽しいのである。まったくこんな老後が待っているとは、予想もしなかった。
で、松井先生である。先生は居住地にある巨大病院の確か審議委員とか言った役職もされている。この病院は、何度も拙ブログで取り上げてきたが、日本一を通り越して東洋一である。なにしろ大きい。東大系の優秀な医師がそろっていて、設備・施設も実にすばらしい。公的病院だから、安心でもある。
いや、話はそんなことではない。昨日、松井先生が講座の中でふともらした言葉が実に印象的であったからだ。「病院には、2000名の職員が働いている」と言われたのだ。大きいとは思っていたが、これほどとは思わなかった。「看護師だけでも800名」とつぶやいておられた。「正確には798名・・・」と言われたような気がする。ここんとこだけ、ボールペンを落っことしてしまったからだ。えっ!となったからだ。
私もお世話になっている病院である。実は、これから再検査で行くのだけれども。11月に入院してお世話になってから35日に一回呼ばれるのである。
おそらく、生涯お世話になるだろう。死ぬときは、この病院である。私のデータが、それこそこの巨大病院のビッグデータとして記録されているから、おろそかにはできない。人間ドックもお世話になっていた時があるから、そのデータも入っているらしい。らしいというのは、ドクターがその時のデータを知っているからである。恐ろしい程の、正確さである。なんでも知っている。ドクターではない。ビッグデータがである。
マイッタね。まったく、マイッタ。こんな案配だと、私の死ぬときももしかしたら知っているのかもしれないですなぁ~。そんときは、死ぬしか無い。(^-^)/
老人問題とか、高齢者問題とかマスコミでよく言われる。
東京の巨大団地で、高齢者しかいなくなったとか天下のNHKでも放送される。これ、修士をとったときの大学の「老年学」というのでもやったことがある。教授が書かれたテキストをベースに、高齢者問題を扱っておられた。それはそれでなかなか勉強になった。
5通くらいレポートを書いて提出した。高齢者問題ということについてである。
今、まさに私は高齢者になった。予備軍から、高齢該当者である。
で、思うことがある。
それは「そもそも年をとるとはどういうことか」ということである。
身体の部品が壊れてしまうということなのか?
ちょっと違うような気がする。
自動車と同じか?
これもまた違うような気がする。医師ではないので、正確な知識はないが、経験上違うような気がする。心臓が部品であったとしたら修理して取り替えれば、いいのか。そもそも生物学的には、どうなのだろうか?
よくわからない分野であるから、黙っていることにする。しかしである。乏しい知識で考えても、細胞レベル、あるいは遺伝子レベルで部品が壊れるというのはあり得るのであろうか。
なんてことを考えていたら、「遺伝子は永続するが個体は壊れる」と書いてあった書籍を思い出した。なんの本だったか忘れてしまった。読書カードを見ていたら、そんなことがメモしてあったからだが、杜撰な性悪爺だから忘れてしまった。
なるほど、そうなんだ。
個体は壊れるが、遺伝子は永続するってかぁ~。
ならば私でもわかる。
個体が壊れるから、生殖細胞をつくり、子どもを残していくのだという。妙に納得した。
個体とは遺伝子の運搬手段にすぎない。だから、死んじゃうのである。もう賞味期限がすぎたということなのだ。お役御免である。さよならである。去らねばならないのだ。そうなったら。
いくらジタバタしたって、50年後に私が生きているということはない。
還暦を過ぎたのである。それが、50年後にかくしゃくとして生きていたら妖怪である。今の高齢者は全員いなくなる。
昔から、日本社会は高齢化社会であったのだ。田舎に行けば行くほどそれがよくわかる。昔から、田舎には爺も婆もたくさんいたのである。深沢七郎はそのあたりを、あの冴え渡る文章で描いたのだ。だから私は、深沢七郎が大好きなのであるが。
つまり、高齢者問題というのは、都会に住んでいる人々が初めて知ったことで「高齢化が都市に及んだ」というだけなのだ。そういう視点が都会人には無かったということである。まさか、利益追求だけをしてきたオノレが、爺や婆になるとは想定していなかったからである。
多摩のほうにある巨大団地なぞ、若い夫婦と子どもたちという設定しかなかったのではないのかと、ふと思う時があるからである。
都市に高齢化が押し寄せてきたから、初めてジャーナリズムが騒いだだけである。
ジャーナリズムもまた都市に住んでいる方々のつくり上げた分野であるからだ。
高齢化問題というのは、結局「待つ」しかない。50年後に、みんないなくなってしまう。みんなである。みんな。
さ、私も、これから病院に行く。血圧と、血液検査をしてくる。あまりにも巨大過ぎて、患者がたくさんおられる。途中帰ってきて、お昼を家でいただいて、それからまた行く。会計があるからだ。薬ももらってくる。その代金も払う。
巨大病院も、待っているしかない。「待つ」という姿勢は、この病院から教えてもらったような気がする。
じゃぁ~。そろそろ出かけます。
(^_^)ノ””””