都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
巫女、または神子(みこ、ふじょ)とは、主として日本(大和)の神に仕える女性のこと。
古来、神の言葉(神託)を得て他の者に伝えることが役割とされていたが、近代に入ってからは神社に於ける女性の奉仕区分として変容した。概ね朝廷の神和ぎ(かんなぎ)系巫女と民間の口寄(くちよせ)系巫女に分けられる。
古神道において神和ぎ(かんなぎ)という神を鎮める様々な行為がなされていた。そのなかで特に、祈祷師や神職(しんしょく:神道、神社において神に奉仕し祭儀や社務をおこなう者のことである。)などの人が御霊代(依り代)となって、神を自らの身体に神を宿す、いわゆる「神卸し」や「神懸り・神憑り(かみがかり・神霊の憑依)」の儀式を巫(かんなぎ)といった。これを掌る女性が巫女の発生と考えられ、卑弥呼などがその代表的な例とされる。古語では巫(ふ・かんなぎ)と呼称され、男性でその様な祭祀に仕える者は覡(ふげき)と称される。
『古事記』・『日本書紀』に記される日本神話では、天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命(あ まのうずめ)の故事にその原型が見られ、また、『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は鬼道(あやしい術。幻術。妖術。)で衆を惑わしていたという(卑彌呼事鬼道 能惑衆)記述があり、この鬼道や惑の正確な意味・内容については不明ではあるものの、古代に呪術的な儀式が女性の手によって行われた事が伺える。平安時代(794年-1185年/1192年ころ)には神祇官(じんぎかん)に「御巫(みかんなぎ)」や天鈿女命(あまのうずめ)の子孫とされた猨女君(さるめのきみ):『貞観儀式』)の官職が置かれ、神楽を舞っていたと推定されている。平安時代末期の藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。
中世以後各地の有力な神社では巫女による神楽の奉納が恒例となった。神楽も変容し、旧来の神降ろしに加えて、現世利益の祈願を併せて目的や、必ずしも巫女によらない舞神楽としての獅子舞や大黒舞または、太神楽(だいかぐら)の曲独楽や曲芸になっていったとされている。現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられる。歌舞伎の元である「かぶきおどり」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女 であったという説もあり、古代の呪術的な動作が神事芸能として洗練され、一般芸能として民間に広く伝播していった経過を伺い知る例として捉えられる。
渡り巫女は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊(みそぎ)や祓い(はら い)をおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。必ずしも流浪していたわけではなく、その源流は、平安時代にあった傀儡師(くぐつし)といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとさ れる。旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨(ねや)をともにしたといわれる。
梓巫女(あずさみこ)は梓弓(あずさゆみ)という鳴弦(めいげん)を行える祭神具であり、その梓弓によって呪術や祓いを行ったとされ、その梓弓を葛籠(つづら)にいれ持ち歩いたことから梓巫女と呼ばれた。
巫女は、穢れ(けがれ)を払い、神を鎮める様々な行為を補佐する為、未婚(つまり処女)であり心身ともに健康な女性が求められた。本職巫女の多くは神職の娘・近親者など、その神社に縁がある人が従事する事が殆どであり、既婚女性が努める事は一部の例外を除きない。
近代においては一般募集の巫女も未婚女性であるが、現代女性が処女であるか否かは男女雇用均等法により募集条件と出来ないため公には条件とはされていない。
*解説*
巫女に必要な4要素「占い・神遊・寄絃・口寄」
・ 占い:人の運勢、物事の吉凶、将来の成り行きを判断・予言すること。
・ 神遊(かみあそび):神前で、歌舞を奏すること。
・ 寄絃(よつら):古代日本の神道において、神事の際に魔除けのために梓弓の弦を打ち鳴らす行事のこと。巫女が祈祷を行うのに先んじてこれを行ったとされている。
・ 口寄(くちよせ):生者または死者の霊や神霊を呼び寄せ、その意思を言葉で語ること。
猿目:古代、神祇官に属し、大嘗祭(だいじょうさい)や鎮魂祭などのときに、神楽の舞などの奉仕をした女官。
梓巫女:梓弓(あずさゆみ)の弦を打ち鳴らして神霊・生き霊・死霊などを呼び寄せ、自分の身にのりうつらせて託宣をする女
傀儡師(くぐつし)
人形遣いの古称。和訓で「くぐつ」「くぐつまわし」といい、この語源には、人形などの道具を入れて歩く久具(くぐ)という植物を編んだ籠(かご)とか、唐代語のkulutsなど外来語説などがある。古くは、曲芸や人形を操る芸などを生業とした古代日本の漂泊民をいった。すでに奈良時 代にはこれらの人々がいたと推定されるが、10世紀中ごろの『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「久々豆(くぐつ)」の語がみえ、そのすこしあとの『散楽策問(さんがくさくもん)』には 9世紀ごろに藤醜人(とうしゅうじん)が中国の傀儡を習って宮中で演じたと記されている。しかし、彼らについての詳細が明らかになるのは平安中期以降で、『本朝無題詩(むだいし)』『枕草子(まくらのそうし)』『傀儡子記(平安時代の後 期、大江匡房(おおえの・まさふさ、1041年~1111年)』などの文献にみえ、男は弓馬を使って狩猟し、刀玉のような曲芸をし、幻術をし、人形を操り、女は唱歌淫楽(いんらく)の遊女を業とした「漂泊の民」であった。官社・官寺の諸神事に参勤する義務を負わされていたことから、渡り巫女であったのかも知れない。
旅回りを装う「間者」として敵方のようすをひそかに探る、「忍び」の役割を持っていたとも言われる。
したっけ。
忍者とは鎌倉時代(1185年-1333年頃)から江戸時代(1603―1867年)の日本で、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていたとされる、個人ないし集団のことです。
※昨日の「忍者」について追補しておきたいことがあります。
忍者集団には、伊賀忍者、甲賀忍者、服部衆と呼ばれる三大組織があります。服部氏は関が原以降徳川家の専属となりました。甲賀は一人の主君に雇われますが、伊賀は、人材派遣のように貸し出され、敵味方に分かれて戦うこともありました。
伊賀忍者の総帥は「百地三太夫」、甲賀忍者の総帥は「藤林長門守」と言われていますが、両者は同一人物であったとする説もあります。「藤林長門守」は不詳の存在で、これは、甲賀に上忍がいなかったことからも推察される。
※ 以上
「くのいち」は忍者の下で働きをする女性のことを指す。実際の「くのいち」は忍者とは異なる が、現在では女性の忍者と認識されていることが多い。
仕事のしかけに女性を使うことをくのいちの術と呼んだ。ちなみに男性を使うことはたじからの術と言い、これは男の田と力から由来していると推測される。
女忍は、主に力一辺倒では太刀打ちできない相手に対して下女などと偽って送り込まれ、機密情報の収集や暗殺などを請け負った。そのため、全身黒ず くめの忍者装束を着て男忍と同じような任務に就くことは、実際にはほとんどなかったらしい。
しかし、籠絡(ろうらく:巧みに手なずける)する相手に真剣に惚れ込んだり、裏切ったりするなどの危険が付きまとっていたため、それを防ぐために連絡役兼監視役の忍者が常に行動を監視し、裏切りの気配を見せたときには容赦無く殺害していたとも言われる。
「くのいち」は女性のことで、正しくは「九ノ一」と書くという説
これは、人体には目、鼻、口、耳、臍、肛門の九つの穴があるが、女性は女性器があり、もう一つ多いことから、九ノ一と呼ばれたという説である。ただし、例えば臍ではなく尿口を数えるなど、穴の数え方が資料によってまちまちのため、信憑性は今ひとつである。とはいうものの「九」は必ずしも数字的な「9」をあらわすものではなく、数が多いことを表す場合もある。「くノ一」は文字を合体すれば「女」という文字になることからという説。これは山田風太郎氏の創作であるらしい。
「くのいち:くノ一」は、現在では女忍者のまたは女の俗称として定着してしまった観がある。
史実に登場する「くのいち」で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団であり、その頭領である望月千代女であろう。
歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、時には男性に身を任せることもあった、いわば流浪の遊女である。戦国時代には孤児や捨て子、迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた美少女のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのが「くのいち」である。
信玄が「くのいち」の養成を命じたのは信州(現長野県)北佐久郡の豪族望月氏当主・望月盛時の若き未亡人・望月千代女である。実は千代は甲賀流忍術の流れを汲む名家・望月家の血族であり、豪族望月氏には信玄の甥が入り婿になっていた。信玄は彼女を「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じ、信州小県郡禰津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を 開き、200~300人を超える少女達に呪術、祈祷から忍術、護身術、更に相手が男性だった時の為に性技まで教え込んだ。歩き巫女は「ののう」と呼ばれ、禰津村には巫女の家が並んだ「ののう」小路や墓が残る。歩き巫女に国境は無く、全国何処でも自由に行けたため、関東から畿内すなわち京(きょう)に近い国々(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)を回って口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に逐一報告した。反面、信玄は家臣の謀反(むほん)を恐れて、彼らの自宅に僧、巫女を泊めるのを禁じた。
実在した人物かどうか不明ではあるが、安土桃山時代の武将、徳川家康が政敵の石田三成に側室として送り込まれた初芽局(はつめのつぼね)という人物がいる。
初芽局(はつめのつぼね)は、徳川家康が政敵である石田三成に送り込んだ「くのいち」と言われている。実在した人物かどうかは不明。
三成の側近くに仕えることに成功するが、敵として憎んでいた三成の実際の人柄などに惚れこんでしまい、本当の側室(正室に対するいわば妾)のような存在になってしまったという。そのためついには家康を裏切り、徳川側に殺されたといわれている。また、関ヶ原の戦いの後も生き延び、三成の菩提を弔ったという説もある。
関ヶ原の戦いとは安土桃山時代の慶長5年9月15日(グレゴリオ暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。
したっけ。
領主に仕える隠密行動を主体とする集団。戦国時代まで、忍者は地域的に集団化した特 殊な階級であり、武士や足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。
忍者、忍術は日本国内各地で集団を形成していたが、中でも伊賀と甲賀は良く知られている。忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれており、上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配していた。中忍は下忍達を率いる小頭(こがしら)である。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされていた。実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったと言われている。
中世にはどの村落も軍事力を備えていたが、その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった。外から連れてきた子供を訓練することもあり、伊賀では抜け忍(いわゆる脱走者)は探し出して処罰したと言う。
忍者は様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具※1」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と呼ぶ。忍術は密教、陰陽道や、修験道の行者が用いた術(九字護身法※2、山嶽兵法など)とも関係があるとされ、現代に伝わる古武術には忍術の名残(なごり)が見られるものもある。
『萬川集海(まんせいしゅうかい):1676年藤林左武次保武著忍術兵法書』によ ると、忍術には「穏忍」と「陽忍」があるとされる。「穏忍」とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をしたりする実行部隊であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して「陽忍」とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる謀略、離間工作などがこれに当たる。近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。
「歩き巫女」とか「傀儡師」と呼ばれるものたちの中には、「陽忍」もいたといわれる。これは 、芸能集団や巫女は街道を自由に往来できたからである。また、「草」と呼ばれる、その土地に居ついて何代も諜報活動を行うものも「陽忍」である。
江戸時代までは忍者という統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿(のきざる)」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」などがある。
忍者の別称である「すっぱ」は“スッパ抜き”という報道における俗語の語源である。
秀吉が藤吉郎の時代に使用した、川並衆と言われる「蜂須賀小六」の一党は乱破集団であったといわれる。
また、忍者衣装は黒装束ではなく、紫色、柿色のものであった。黒は夜目に写りやすく、実際は着られなかった。女忍の赤装束などもってのほかである。もともと女忍は戦闘集団ではなく、女を武器にした諜報部隊であった。
※1「忍具」:忍者が用いる武器・道具である。
くない - 「苦無」あるいは「苦内」とも表記される。もともとは工具であり、シャベル、手裏剣などの代用にも使用された。
手裏剣(しゅりけん):手投げの刃物。形は棒状のものから十字型、円形のものまである。重くかさ張る為、通常、携帯していた数は一枚から、多くても三、四枚のみだったという。
忍刀(しのびがたな): 鍔(つば)は大き目で角張っており、下緒(さげお:紐)は普通の刀のものより長く、鞘は光を反射して目立たないように艶消しに
撒菱(まきびし):植物の種を使用したものは食用が可能だった。もともとは菱の実。
五色米:赤・青・黄・黒・紫5色に染めた米。仲間との連絡の暗号に用いた。
忍の六具:携帯用具である。編笠、三尺手拭、鉤縄、石筆(粘土、 蝋石の筆)、薬、付竹(つけだけ発火用具)。
※2「九字護身法(くじごしんぼう)」:九字(臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前・(行))の呪文を唱えながら手印を結ぶことによって、悪鬼怨霊を遠ざけ災いから身を守ると信じられてきた密教や修験道の術。「九字を切る」ともいう。
したっけ。
11月15日を中心としたその前後の日曜日になると、5歳の男児と3歳と7歳の女児が晴れ着を着飾って神社詣でをする風景が見られます。
年々派手さを競うようになったこの七五三、何の由来があって行われるようになったのでしょう。
この習慣は、日本人の生活や決まりの中にあった、いろいろな要素が組み合わさっています。
昔の村落には、生まれた子供はすぐに村の構成員とは認められず、ある年齢になって初めて、村落共同体の一員として認められるという、掟やとりきめがありました。
その年齢が、女児は3歳、男児は5歳でした。また、7歳は幼児から少年少女への折り目だと考えられていました。
ですから、3歳、5歳、7歳のうちで、最も古くから折り目の行事を行ったのは7歳のときで、そのときは、今のような参拝ではなく、何かのお祭をやったものと思われます。
また、人別長や氏子の登録も、3歳を過ぎて7歳くらいの間に行われました。
これでやっと、村の子供組みに参加できるようになり、村の中での権利と義務が生じてくるようになったのです。
武家社会になると、5歳になった男児は“はかまぎ”、7歳になった女児は“おびとき”の祝いをする風習も生まれました。
また、鎌倉時代以後になると、公家では2歳、武家では3歳に“かみおき”の祝いを行いました。これは赤ちゃん時代からやっていた、髪を剃ることをやめる行事です。
そして、武家ではこれを11月15日におこなって、それは室町から江戸時代まで行われていますが、この習慣が広く民間にも伝わったようです。
江戸時代に武家では、3歳の男女が「髪置(かみおき)」、5歳の男の子が「袴着(はかまぎ)」、7歳の女の子が「帯解(おびとき)」の祝いを正月や誕生日にするようになりました。
子の“かみおき”の儀式の後は、土地の産神様に参拝し、紙の成長を願って、お祝いの食事が作られました。これを、七五三の膳といい、三献(さんこん)の膳で、本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を出す盛宴。七五三。
七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝う。千歳飴は、親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。
ところで、七五三の年齢には、中国から来た名数を大事にする考え方が強くはたらいています。
それは、奇数は陽数、偶数は陰数とするもので、陽数(奇数)は縁起のよい数字だという考え方です。
こうして、しだいに現在の七五三のお祝いが成立してきたのです。
このお祝いが、ほぼ全国的に11月15日に行われるようになったのは明治以降、それまでは、その年齢の誕生日などが当てられている地域も多かったようです。
なお、11月15日と七五三が結びついたのは、民族的な祭りである霜月祭りに、その日が当たっていることが由来だと考えられます。
霜月祭り
陰暦11月に行う民間の祭り。収穫祭や氏神(うじがみ)祭りが多く、祭日は地方によって異なる。宮廷では新嘗祭(にいなめさい)があり、また各地の神社では霜月神楽(かぐら)が行われる。農家ではイネの収穫祭にあたる。《季冬》
髪置(かみおき):3歳 <男女>
初めて髪を整える儀式。昔は男女ともに3歳までは髪を剃り、3歳になったら髪を伸ばし始めたことに由来し、長寿を祈って白髪に見立てた帽子を頭に置きます。
袴着(はかまぎ):5歳 <男の子>
男児が初めて袴をはく儀式。冠をつけ、勝負の場を象徴する碁盤の上に立ち、どんな場面でも勝つようにとの思いを込めて四方に向かって祈願します。
帯解(おびとき):7歳 <女の子>
女児が初めて帯を結ぶ儀式。それまで帯の代わりにつけていた紐を解いて、大人と同じ帯を締めます。
ちなみに、北海道では10月15日に「七五三」が行われます。これは、11月だと寒いからだと思われます。
したっけ。
またこれだ!質問の仕方がおかしいだろ!!「良くなる」だったら「悪くなる」、「変わる」だったら「変わらない」って聞くのが当たり前だろう。日本語勉強しろよ!
「変わる」「変わらない」として答えるよ。
歴史的な政権交代となりました。というからには、変わるのは当然だろう。「良くなる」か「悪くなる」か、といえば、分からねえ。オレは神様じゃねえからな。でも、今までやってきて良くならねえんだから、良くなるように期待はしているよ。無駄を省く、一般家庭と同じことをしようとしている。オレには分かりやすいよ。公共事業の見直しはいいことだと思うよ。公共事業って、言い換えれば自然破壊じゃねえのか。例えば、砂防ダムと称して、多くのダムが建設された。結果、砂が海に運ばれねえから、砂浜がなくなり、干潟がなくなった。干潟がなくなると、野鳥の餌がなくなる。川を上って産卵する魚は砂防ダムに阻まれて遡上できない。シシャモだって食えなくなるぜ。
公共事業を途中でやめたら、今までの金が無駄になるって言うけど、過去の無駄はどうしようもねえが、これからの無駄はなくなる。だったら無駄な公共事業はやめたほうがいい。困るのはそこに関わっている土建業者だが、そこは我慢してもらうより仕方がない。パート、派遣社員、契約社員という雇用は止めるべきだといっている大臣がいるが、大賛成だ。こんな制度は若者の労働意欲を失墜させる。明日が見えねえ。
オレたちに明日が見える政治をしてくれよ。団塊の世代を邪魔者にしないでくれよ。期待しているぜ。
したっけ。
いやいや間違って三回も投稿する羽目になっちまったよ
日本人は土地に対する執着が強い国民であり、日本経済は長らく土地本位制などとも呼ばれてきました。
日本人が古来、土地の所有権を重視してきたのは確かで、それは言葉にも表れています。そのひとつが、この「こけんのかかわる」という言葉なのです。
面目に関わることを「こけんのかかわる」といいますが、この「こけん」は「沽券」と書き、その昔、土地や家屋を売買つるときに、売主から買主に渡した売渡証文のことなのです。
さすが土地本位制の国といわれただけに、土地や家屋についての証文が、 いつしか人間の面目や品位まで表すようになったというわけです。
日本の管理通貨制度は独特な制度をとってきて、それは言うなれば「土地本位制」ともいえるものです。
他国では銀行から融資を受ける際、重要視されるのが事業収益性です。その事業でどれだけ利益が出せるかがポイントとなります。しかし、日本の場合は、融資を受ける際、担保となる土地をどれだけ持っているかがポイントになります。
それは「地価は値上がりし続ける」という土地神話に根ざしたものでした。高度経済成長期には地価が値上がりし続けたので、「借金をして土地を買っても、将来、土地は値上がりしているので、売れば借金を返済してもまだお釣りがくる」と、皆がそう思い込んだのでしょう。
高度経済成長期から今日まで、まだ、沽券に関わっているのです。土地本位制から脱却し、 土地に依存した金融・経済システムを改革しないかぎり、更なる信用収縮をきたす可能性は大きく、デフレ経済からの脱却は難しいのだろうと思います。土地とお金との均衡が保てない時代になったのです。「土地本位制」はすでに崩壊しているのかもしれません。
したっけ。
こじ-つける
[動カ下一][文]こじつ・く[カ下二]関係のない物事に無理に理由をつけ関係づける。また、無理に理屈づける。「あとから―・けた理由」
辞書:大辞泉
語源を調べていると、「こじつけ」としか思えないような説に出会うこともあります。例えば、 「ごまかす」という言葉の語源であす。一説には、江戸時代文化文政期(1804~1830)に「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という流行した菓子があり、見かけは大きく立派な菓子だったが、中身は空洞ですかすかだった。そこで、「胡麻菓子」が「ごまかす」となったという。
しかし、「ごまかす」という言葉には、このほかにも数種の語源説があって、由来ははっきりしない。少なくともこの「胡麻菓子」説は、「こじつけ」のようなのです。
それに比べれば、この「こじつける」という言葉の語源は「こじつけ」ではなく、かなりハッキリしています。「故事つける」あるいは「古事つける」から生まれたと考えられます。
昔も、知識や学問を悪用して、適当な故事にこじつけては、黒を白と言いくるめる人がいたようです。
豊臣家は終焉(しゅうえん)を迎える、大阪冬の陣※の口実として使われたのは、方広寺(京都市東山区)の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安泰」「君臣豊楽」という銘文だったのです。「『家』と『康』に名前を分断した表現を使って徳川家をのろい、豊臣家の繁栄を願ったものだ」と解釈され、家康が怒って挙兵に至ったというのです。
家康が豊臣家を滅亡させるための、「こじつけ」でといえるでしょう。
大阪冬の陣※
慶長19年(1614年)冬、京都、方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議を結んだ。
大阪夏の陣《参考》
元和元年(1615年)夏、徳川方が冬の陣の和議の条件に反 して大坂城内堀を埋めたため豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦い。淀君(よどぎみ)と秀頼の母子は自害し、豊臣氏は滅亡。
したっけ。
カエデは秋の野山を彩る樹木として、古来より日本人に親しまれてきました。
「紅葉」と書いて「もみじ」とも読み、カエデのことをモミジと呼ぶこともあるように、カエデは紅葉・黄葉する樹木の代名詞であるといわれています。
モミジとカエデの違いは何でしょう。
モミジとは、カエデの別称、または紅葉することや紅葉した葉そのものを指すことがあります。さらには、紅葉している樹木全般をモミジと総称している場合があります。
万葉の時代、山々を美しく彩る紅葉を「毛美知波(もみぢは)」と呼び、その中で葉が切れ込んでカエルの手を連想させるものを「賀閉流手、蝦手(かへるで)」といったのです。それが転じてカエデとなったとされています。
カエデは紅葉の美しさを愛でるのみならず、庭や公園等の水辺を演出する役割も担い、多くの園芸品種がつくられてきました。紅葉だけでなく、早春に芽や若枝が徐々に赤く染まっていく様子は、春の到来を予感させ、生きる喜びを感じさせるのです。
槭と楓とは何でしょう
カエデはカエデ科カエデ属(Acer)に属する樹木の総称です。カエデ属は世界に約150種あり、北半球の温帯、亜寒帯から熱帯の、平地から山地まで分布しています。日本には20種以上が、谷沿いから斜面の適潤地を中心に自生しているのです。いずれも高木または小高木で、ほとんどが落葉性ですが、まれに常緑性のものがあります。葉は対生し、切れ込むものが多いようです。
カエデを漢字で書くと一般的には「楓」となるが、正しくは「槭(せき)」と書きます。
本来、楓(フウ)は中国原産でマンサク科フウ属のフウを指します。フウ属は中国・台湾・小アジ ジバフウを見かけることが多いが、フウ属の植物はいずれも日本には自生していません。楓(フウ)、あるいはモミジバフウの葉は槭(カエデ)の葉に似て3.裂あるいは 5~7.裂し、美しく紅葉するため、槭(カエデ)の仲間に間違えられることが多いのです。
しかし、槭(カエデ)の葉は必ず対生するが、楓(フウ)の葉は互生するので簡単に区別することができます。両者は花や果実の形態もまったく異なっている。槭(カエデ)といえば、 秋にプロペラのような果実(翼果)がクルクルと回りながら 落ちていきます。一方、楓(フウ)の果実はクリの‘いが’のように見え、落葉後にもぶら下がっていることが多いのです。
ちなみに、槭(カエデ)の翼果(よくか)はクルクルと旋回することによって滞空時間が長くなり、より遠くへ運ばれるようになっています。この翼果は花の段階で既に翼の部分が用意されている。槭(カエデ)の花は小さくて目立たないが、両性花の中を観察してみると、「雌蕊」を中心に小さな翼が対になっているのが見えます。
そもそも、なぜ楓(フウ)と槭(カエデ)を混同するにいたったのでしょうか。北村四郎 (キタムラ シロウ:1906年滋賀県生まれ。植物分類学者)は1990年に「中国ではマンサク科のフウ(楓)の紅葉が美しいので詩文にあらわれる。日本ではフウを槭(カエデ)と勘違いして、楓をカエデと読む」とあります。
万葉の時代には既に槭(カエデ)として意識され、その紅葉の美しさが愛でられていたのです。当時の貴族階級の知識人にとって、大陸(隋さらには唐)は憧れの対象でありました。野山を彩る槭(カエデ)を、大陸の詩文にみられる楓(フウ)として自らの歌に詠み込むことは、教養を楽しみ、誇る上で格好の題材であったのでしょう。
平安貴族と槭(カエデ)にはどのような関わりがあったのでしょう
平安時代以降、槭(カエデ)は庭園内で欠くことのできない樹木となっていきます。
西暦894年、菅原道真により遣唐使が廃止され、以後、国風文化が花開く世の中となります。貴族の庭園も唐風の梅(ウメ)や竹(タケ)、菊(キク)に代わり、春は桜(サクラ)の花、秋は槭(カエデ)をはじめとする紅葉する樹木が彩る和風の空間へと変容していきます。
平安時代に書かれた日本最古の作庭書である『作庭記』には、「但古人云東には花の木をうへ西には‘もみち’の木をうふへし 若いけあらは嶋には松柳釣殿のほとりには‘かへて’やうの夏こたちすゝしけならん木をうふへし(但し、古人は東には花の木を植え、西にはモミジの木を植えよと言っている。 もし池があれば、島には松、柳、釣殿のほとりには槭(カエデ)のような夏木立の涼しそうな木を植えるがよい)」とあります。
日本の造園史家 ・森蘊(もりおさむ:1986)もモミジと槭(カエデ)を言い分けていることから、作庭記の作者(藤原頼通の子、橘俊綱説が有力)はそれぞれを区別していたものと推測されます。また、池辺には槭(カエデ)としていることから、作者は槭(カエデ)の自生地の環境に基づく植栽計画を推奨しているのでしょう。
槭(カエデ)やモミジを西側に植えるという考え方は、源氏物語少女巻、六条院の四季の庭にもみることができる。また、平安から鎌倉時代に貴族の間に流行していた蹴鞠の鞠庭では、懸かり木(または式木、四季木ともいう。鞠を蹴り上げる高さの基準となる樹木)として槭(カエデ)が植えられた。鞠庭の 4隅には懸かり木として、北東に桜(サクラ)、南東に柳(ヤナギ)、南西に槭(カエデ)、北西に松(マツ)を植えるものとされています。沈みゆく夕日と、散りゆく紅葉との共通するイメージが、槭(カエデ)は西側に植えるものとさせていたのでしょうか。あるいは、槭(カエデ)の葉が強い西日を受けることにより、晩秋の紅葉をよりいっそう鮮やかにすることを狙っていたのかもしれません。
しかし何故、槭(カエデ)という文字があるのも関わらず、楓と書いて「かえで」と読ますのでしょう。植物分類上全く異なる植物を無理に読ます必要がどこにあるのでしょう。だから楓(かえで)と紅葉は違うなどとトンチンカンな話になるのです。カエデは楓ではなく槭なのですから。
ついでに「観楓会」と言いますが、これは中国では良いかも知れませんが、日本では「紅葉狩り」と言ったほうがよいでしょう。
したっけ。
我が国最古の物語文学であり小説と言われている『竹取物語』。
今はもう昔のことになるが、竹取の翁と言う者がいた。野や山に分け入って竹を取り、竹を取りしては、いろいろな物を作るのに使っていた。名をさぬきの造といった。(いつも取る)竹の中に、根元が光る竹が一本あった。
不思議に思って近寄ってみると、筒の中が光っている。それを見ると、三寸ばかりの人が、とてもかわいらしい姿で座っている。翁が言うには、「私が毎朝毎晩に見る竹の中にいらっしゃることによってわかった。私の子におなりなさる運命の人のようだ。」といって、手に入れて家へ持ってきた。妻のおば あさんに預けて育てさせる。かわいらしいことはこの上ない。
とても幼いので、籠に入れて育てる。竹取の翁が竹を取っていると、この子を見つけてから後に竹を取ると、節と節との間の筒一つ一つに、黄金がはいっている竹を見つけることが度重なった。こうして翁は、だんだん裕福になっていく。
この子は、育てているうちに、ぐんぐん大きく成長していく。三ヶ月ほどになるころに、一人前の大きさの人になってしまったので、髪上げの儀式(成人した女子が髪を初めて結うこと)などあれこれ手配して、髪を結い上げさせ、裳(しょう)を着せる。帳台(ちょうだい:寝所)の中からも出さないで大切 に養う。
この子の容貌の清らかで美しいことは世間に類が無く、家の中は暗いところもないほど光満ちていた。翁は気分が悪く、苦しいときも、この子を見ると苦しいこともやんでしまった。腹立たしいことも気が紛れてしまうのだった。翁は(黄金 の入った)竹を取ることが長い間続いた。富豪の勢力家になった。
この子がとても大きくなったので、名を三室戸の斎部の秋田(あきた)を呼んでつけさせる。秋田は、なよ竹(しなやかな竹)の「かぐや姫」とつけた。このとき、三日間盛大に歌舞の宴を開いた。いろいろの歌舞音楽の演奏をしたのであった。男は分け隔てせずに誰でも呼び集めて、とても盛大に管弦の宴を開いた。
世界の男は、身分の高いのも身分の低いのも、なんとかしてこのかぐや姫を、妻にしたいものだ、結婚したいものだとうわさに聞いてどうしようもないほど称賛する。
帝は、急に日を定めて、御狩りにお出かけになって、かぐや姫の家にお入りになって御覧になると、光が満ちあふれるように輝いて、美しい姿で座っている人がいた。「これだろう。」とお思いになって、近くお寄りあそばすと、逃げて入ろうとした袖をおとらえになったので、顔を覆ってそこに控えていたが、初めによく御覧になっていたので、比類なくすばらしくお感じになって、「放しはしないよ。」と言って、連れていらっしゃろうとすると、かぐや姫が答えて奏上(そうじょう:天子に申し上げる)する、「私の身は、もしこの国に生まれておりましたならお召し使いになってよろしいのですが、連れていらっしゃるのはとても難しいのではございませんでしょうか。」と奏上する。
帝は、「どうしてそんなことがあろうか。やはり連れて行こう。」と言って、御輿をお寄せになると、このかぐや姫は、急に見えなくなってしまった。あっけなく、残念だとお思いになって、本当に、普通の人ではないのだなあとお思いになって、
「それほどいやなのなら、お供としては連れて行かないよ。もとのお姿におなりください。せめてそのお姿だけでも見て帰ろう。」と仰せになると、かぐや姫は、もとの姿になった。
帝は、やはりすばらしいとお思いになるお気持ちを抑えきれない。こうして見せてくれた造麻呂(竹取の翁)にお礼をおっしゃる。そうしてお仕えしているもろもろの役人たちに、饗宴を盛大に催してさしあげる。
帝は、かぐや姫を残してお帰りになることを、満足ゆかず残念にお思いになったが、魂を残しとどめた気持ちがしてお帰りあそばした。御輿にお乗りになってから、かぐや姫に対して、帰るさの・・・帰途の行幸がもの憂く思われて、つい振り返ってしまって心が残る。私の言葉にそむいてあとに残るかぐや姫ゆえに。
お返事を、葎(むぐら:広い範囲に生い茂る雑草)はふ・・・葎がはい広がっている住居でも長年暮らしてきた私が、どうして玉の御殿を見る気になりましょうか。
これを、帝は御覧になって、ますますお帰りになる方向もわからないようにお思いになる。ご心中は、とても帰ることができそうにもお思いにならなかったけれども、だからといって、夜をお明かしになるわけにもいかないので、お帰りあそばした。
八月十五夜近くの月の夜に(縁側に)出で座っては、かぐや姫はとてもひどくお泣きになる。人の目も今はお隠しなさらずにお泣きになる。これを見て、親たちも「どうしたのですか。」と騒いで尋ねる。
かぐや姫は泣きながら話すには「前々から申し上げようと思っておりましたが、きっと心をお惑わしになるであろうと思って、今まで過ごして参りました。 そんなに黙ってばかりいられようかと思ってうちあけてしまうのでございます。
私の身はこの人間世界の人ではありません。月の都の人です。それなのに前世からの宿命がありましたためにこの人間世界へ参上したのでございます。今はもう帰らねばならぬ時になりましたので、今月の十五日に、あの月の国から迎えに人々が参上することになっています。どうしても帰って行かなければなりませんので、お嘆きなさるのが悲しいのを、この春以来思い嘆いておりました。」と言ってひどく泣くのを翁は「これは、なんということをおっしゃるのですか。竹の中から見つけてさしあげましたけれど、けし粒の大きさでい らっしゃったのを私の背丈と同じ高さになるまでお育て申し上げた我が子を、誰がお迎え申せましょうか。絶対に許すものですか。」と言って「私の方こそ死んでしまいたい。」と泣き騒ぐ様は、とても堪えがたい様子である。
かぐや姫が言うには、「父母は月の都の人です。わずかの 間というので、月の都からやって参りましたが、このようにこの国では長い年月を経てしまったのでございます。月の都の父母のことも覚えておりません。ここでは、こんなに長く楽しく過ごさせていただいて、お親しみ申し上げました。(月の都へ帰るのは)うれしい気持ちもいたしません。悲しいだけでございます。しかし、自分の意志からでなく、行ってしまおうとしているのです。」と言って、共々にはげしく泣く。使用人たちも、長年慣れ親しんで、別れてしまうのを、気だてなどが上品でかわいらしかったことを見慣れているので、(別れてしまったらどんなに)恋しかろうかと思うと耐え難く、湯水ものどを通らぬ状態で、翁・嫗と同じ気持ちで嘆き合うのであった。
立っている人たちは、衣装の美しいことは、他に似るものもない。飛ぶ車を一台伴っている。薄い衣を張った傘をさしている。その中に王と思われる人がいて、家に向かって、「造麻呂、出て来い。」と言うと、勇ましく思っていた造麻呂も、何かに酔ってしまったような気分がして、うつぶせに倒れていた。言うには、
「おまえ、心おろかなる者よ、わずかばかりの善行を翁が成したことによって、おまえの助けにしようと、ほんのしばらくの間ということで下したのだが、長い年月の間に、多くの黄金を賜って、生まれ変わったようになってしまっている。かぐや姫は、罪をお作りになったので、こんなに賤しいおまえのところに、しばらくいらっしゃったのだ。罪の償いのために下界に下った期間が終わったからこうして迎えるのに、翁は泣いたり嘆いたりするが、できない相談だ。早くお出し申せ。」と言う。
翁が答えて申すには、「かぐや姫をご養育申し上げることは二十余年になりました。『ほんのしばらくの間』とおっしゃるので、疑問に思うようになりました。また別の所に、かぐや姫と申す方がいらっしゃるのでしょう。」と言う。
「ここにいらっしゃるかぐや姫は、重い病気にかかっておいでなので、とても出ていらっしゃることはできないでしょう。」と申すと、その返事はなくて、屋根の上に飛ぶ車を寄せて、「さあ、かぐや姫よ。けがれた所に、どうして長くいらっしゃってよいものか。」と言う。
閉じ込めてあった所〔塗籠〕の戸は、あっという間に、すっかり開いてしまった。格子もみな、人は開けないのに開いた。
嫗が抱いていたかぐや姫は、外に出て来た。とても留めることができそうにないので、ただ見上げて泣いている。
竹取の翁が心を乱して泣き伏している所に近寄って、かぐや姫が言うことに、「私のほうでも、心ならずもこうして帰って行くのですから、せめて昇るのだけでもお見送りなさってください。」と言うのだが、「どうして、悲しいのに、お見送りなんかいたしましょう。私をどうしろと言って、見捨ててお昇りになるのですか。いっしょに連れていらしてください。」と言って、泣き伏しているので、心が乱れてしまった。
「手紙を書き残して帰りましょう。恋しい時々には、取り出して御覧ください。」と言って、泣きながら書く、その言葉は、
「この国に生まれたのでしたら、お嘆かせ申し上げないときまでおそばにお仕えいたしましょう。過ぎて別れてしまうことを、返す返すも、不本意に存じます。脱いで残して置く着物を形見として御覧ください。月が出ている夜には、見おこしてください。お見捨て申し上げて帰って行く空からも、落ちてしまいそうな気持ちがします。」と書き置く。
天人の中に持たせている箱がある。天の羽衣が入っている。もう一つの箱には不死の薬が入っている。ひとりの天人が言うには、「壺にあるお薬をお召し上がりなさい。汚れたところのもの召し上がっていたので、御気分が悪いことでしょう。」といって、持って近寄ってきたので、少しおなめになって、少しを形見として脱いでおく着物につつもうとすると、側にいた天人がつつませなかった。
着物を、取り出して着せようとした。その時に、かぐや姫は、「ちょっと待ちなさい。」と言う。「天の羽衣を着た人は、心が違ってしまう、といいます。一言、言っておくべきことがあります。」といって、手紙を書く。
天人は「遅くなる」と言って、じれったがりなさるがかぐや姫は「情け知らずなことをおっしゃいまするな。」といってたいそう静かに、帝にお手紙を差し上げなさる。落ち着いた様子である。
「このように大勢の人をおつかわしくださりて、お引き留めなさいますけれど許さない迎えがやって参りまして、引き連れて行ってしまいますので残念で悲しいことでございます。宮仕えをいたさずじまいになってしましましたのを、このように複雑な身でございますので、納得できないときっとお思いなさっていらっしゃることでしょうが強情にもお受けせずじまいになりましたことを無礼なものと御心にとどめられてしまいましたことが心残りでございます。」と書いて、今はこれまでと天の羽衣を着るときになって、あなたさまのことをしみじみ懐かしく思い出すことよと書いて、壺の薬を添えて、頭中将を呼び寄せて献上させる。
中将には天人が受け取って渡す。中将が受け取ったのでさっと天の羽衣をお着せ申し上げたところ、翁を不憫だいとおしいと思っていたことも消え失せてしまった。この羽衣を着た人は悩みがなくなってしまったので空を飛ぶ車に乗り、百人ばかりの天人を引き連れて昇天してしまった。
その後、翁と媼は血の涙を流して悲嘆にくれたが、何の甲斐もない。かぐや姫の書き残した手紙を読んで聞かせたけれど、「どうして命が惜しかろうか。誰のために長生きしようか。何事も無駄になってしまった。」といって、薬も飲まず、そのまま起きあがることもなく病気になって寝込んでしまった。中将は、武士たちを引き連れて内裏へ帰参し、かぐや姫を戦って止めることができなかったことを、こまごまと奏上する。
薬の壺にお手紙を添えて、帝に差し上げる。広げてご覧になり、たいへんしみじみとあわれにお感じなされて、お食事も召し上がらず、管弦のお遊びなどもなさらなくなった。
大臣・上達部をお召しになり、「どの山が一番天に近いか」とお尋ねあそばすとある人が奏上して「駿河の国にある山が、この都からも近く、天にも近こうございます。」と申し上げる。
これをお聞きあそばして もう二度と会うこともできないと思うと、悲しみのあまり流す涙に身も浮くほどであり不老不死の薬も何の役に立とうか。
お好み焼き
水と卵で溶いた小麦粉にイカ・牛肉・豚肉や刻みキャベツなどの野菜を好みによってまぜ、熱した鉄板の上で焼き、ソース・青海苔(あおのり)などで味つけをして食べるもの。
もんじゃ焼き
お好み焼きに似た食べ物。ゆるく溶いた小麦粉で鉄板に文字を書いて楽しんだりしたところから、「文字焼(もんじや)き」の音変化という。
辞書:大辞泉
オレの住んでる北海道に「もんじゃ焼き」なんて食い物はねえよ。当然食ったこともねえ。それでくらべれったって、比べようがない。だから、調べてみた。「もんじゃ焼き」てえのは、お好み焼きに水増しして小麦粉をゆるく溶いたもののようだ。それに、語源が「文字焼き」じゃあ、子供の遊び見てえだと思って更に調べてみた。
すると、東京・下町の駄菓子屋には、昭和初期から昭和40年代ころまでは大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代は物資が欠乏していたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代も中頃をすぎると、キャベツはもちろん、切りイカなど具の種類も増えていった。
とあった。早い話が「味付け糊」を焼きながら遊んでたってえ代物だ。
北海道にも20年ほど前から「お好み焼き屋」ができ始めて結構人気で増えてるぜ。食ったことないのにケチつけるようで悪いが「お好み焼き」に軍配を上げさせてもらうよ。
「舌切り雀」じゃあねえんだから、糊なんか食ってられねえよ。
したっけ。