ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

南宋寺

2014-06-26 05:00:00 | 大阪にて

先週の水曜日、18日に都議会で起こった「早く結婚しろよ」等のセクハラヤジ事件、5日間経った今週の月曜になって鈴木某議員が自分が発言したと詫びを入れたようですが、事件直後の記者会見では「自分が言ったのではない」「(議員を)辞職すべきだ」と言っていたのに、自民会派を離脱しただけで済まそうとしています。他人事のようにウソを言い、他人なら辞職を当然視しながら、自分のこととなると言ったこととは正反対の行動を取るような人物が、よくもまぁ都議会の議員になれたものだという思いです。この人物、右翼団体『日本会議地方議員連盟』の正会員、2年前の8月に上陸禁止の魚釣島に立ち入ったとする軽犯罪法違反容疑で警察に事情聴取されてもいます。他にも「子どもが産めないのか」とヤジった議員もいるとか、サッサと名乗り出るべきだと思いますが、右翼って“お国の為に死ね”という感覚でいると思っているのですが、違うのですかね?国の為に犠牲になる覚悟を持つ人が(別にそれがエライと思ってるわけではありませんが)、自分の事となると庇ってしまうなんておかしいですよね。次の都議会選挙では大田区民の動向を注目したいものです。

             

デジカメのバッテリー残量が気になりながら、頓宮の東の道を南へ走り出しました。途中左手に少林寺というお寺があったので寄ってみようかと思ったのですが、あまり大きなお寺では無さそうなので、気を取り直して南へ進みます。少林寺は中国のカンフー映画でお馴染みですが、堺市では町名にもなっているお寺です。そのまま南下していくと突き当りになりそうだったので、左へとハンドルを取ると大きなお寺があるので、そこで停まると『南宋寺(なんしゅうじ)』と何処かで聞いたようなお寺の名前、気になったので入ってみることにしました。

       

総門を潜ると前は真っ直ぐな道、左右は墓地です。その先に見えてきたのが『甘露門』国指定の重要文化財ですが、道脇にあるので門の役目は果たしていません。そして徳泉庵というお寺がありましたが、中には入れません。

             

これが甘露門、角度を変えて撮りました。1652年の建立とか。

                       

南宋寺は臨済宗大徳寺派の禅寺で、三好長慶が父・元永の菩提を弔うために1557年に建立、大坂夏の陣(1615年)で焼失、1617年沢庵和尚によって再建された三好氏の菩提寺です。これから三好長慶の坐像を建てるなんて、遅いですね。

       

石畳を歩いていくと橋がありますが、水は流れていません。その先に紅葉したモミジ、季節感がずれてしまいます。鐘楼の前では写生している女性がいました。そして海会寺というお寺、ここも入ることが出来ないのです。大坂の陣の元となった方広寺の鐘銘を書いた文英清韓もこのお寺の住職でした。

             

やっと南宋寺の字が見えてきました。ここまで来るのに写真を撮ったりしていますが、10分かかっています。手前の『第一義』と刻まれた碑は、どういう意味を持つのでしょうか。

       

南宋寺に入る前に鳥居があったので、神社かと思ったのですが、違っていました。鳥居の手前に天慶院というお寺、鳥居の奥は本源院というお寺でした。どちらも入ることが出来ません。

                       

本源院の山門の前には『織田信長・信忠公供養塔』と書かれた板が立てられていました。

             

幾つかあったお寺の中で中に入れるのは南宋寺だけ、でも入るとお墓ばかりで、写真を撮っても仕方ありません。この時は全く知らなかったのですが、拝観料400円を払うと国の名勝に指定された古田織部作と言われる枯山水風の庭園や、徳川家康のものと言われる墓、千利休一門や武部紹鴎の供養塔、三好一族の墓などが有る本坊に入れたと言います。これはもう一度訪れなければなりますまい。

             
                              山門を潜ったところに有った禅堂

徳川家康の墓というのは、大坂夏の陣で真田幸村勢の奮闘に恐慌状態に陥った家康は自害すると言い出したのですが、部下に誡められ、駕籠に乗せられて逃亡中、後藤基次(又兵衛)が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺まで運ばれてきた時には死んでいて、南宋寺の開山堂の下に隠し、後に改葬したと伝えられている説が有るのです。

             
                              国指定重要文化財の仏殿

秀忠・家光の両将軍が立て続けに南宋寺を訪れているのも、ここが家康最後の地だった証しなのかも知れません。

             

それが事実なら、家康が死んだと言われる夏の陣の翌年まで、誰かが家康の影武者を演じていたことになります。家康の影武者と言えば昔こんな本を読んだことがありました。でもこの南宋寺の話とは別設定でした。

             

元来た道を戻っていますが、南宋寺の壁に向かった石畳が有り、その道を辿ってみると唐門が有りました。これも国指定の重要文化財です。この写真ではよく分かりませんが、屋根瓦と屋根の下の丸い紋には徳川家の紋所である『丸に三つ葉葵』が描かれています。

             

案内板によるとこのお堂が方丈なのかも知れません。でもやけに新しいのが気がかりで、歴史が感じられません。

南宋寺どころか、この辺り一帯は大坂夏の陣の際に焼失してしまいましたから、家康の遺骸を隠したというのは少し無理な話だと思うのですが・・・デジカメのバッテリーの残量を示す電池のマークは赤く点滅を続けているのですが、未だ写真は撮れるようです。