ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

木葉神社

2013-05-08 05:00:00 | 田舎

田原のねんねこ祭というのは観光パンフレットやポスターではよく見かけるので知っていました。その祭りが木葉神社で催されることも知ってはいましたが、その神社が何処にあるのかは何も知らなかったのですが、紀伊田原駅の真横にあろうとは・・・神社が駅の真横にあるのも珍しいのですが、探すのに何の苦労も無かったのはラッキーでした。でも木葉神社を探していたわけではなかったのです。

             

たまたま木葉神社を見つけたので、取材してみようと思っただけだったのですが、ねんねこ祭というのは毎年12月の第一日曜日に行われるとのこと、全く季節が違っていました。木葉神社のホームページを見るとお祭りは1月に集中しています。

碑には村社となっていますが、市町村制が施行されて田原村が誕生したのは明治22年だとか、そう考えると古くからある神社ではなさそうです。おそらくそれ以前からこの地区には人が住んでいて、村があったのでしょうが、いくら調べてもそれ以前の資料は見つかりません。

             

それでも県指定の無形民族文化財に指定されているようです。

             

駅が何処にあるのかも知らなかったのですから、古座周辺は詳しいつもりでも荒船海岸以外は田原については殆ど何も知らないのですが、子供の頃よく遊んだとはいえ、一駅向こうの田原の地は遠いものだったのです。ましてや大阪側では無く、新宮側なのですから通り過ぎることもほぼ無かったのでした。

       

子供の成長を願う神社のようですが、それに相反するかのような一つの物騒なものがありました。日露戦役記念だとかですが、金属と見るや何でも没収した太平洋戦争の鉄不足の折にも軍に提出しなくて済んだのでしょうか。

手前が本殿、社はありません。真ん中の赤いのが若宮社、左側が金毘羅神社です。

       

本殿の扉に掛かっているよだれかけは絵馬の代わりなのでしょうか、奉納されているものなのでしょうか。右は少し離れた所にあった八幡神社。

             

この『ご由緒』を読むとこの神社は“祢んねこの宮”と呼ばれていたことが解ります。文明三年に罹災し、それ以前の資料は殆ど焼けてしまったとあります。文明三年は1471年ですから、応仁の乱の真っ最中、神社の歴史はとても田原村が出来た明治22年どころではありません。焼け残った古文書があったのでしょうか?『不寝児為寝宮』の字が残っているようで、「ねざるこねさすのみや」と読むんだとか、寝る子は育つという意味からもこのお宮が子供の成長を願う場となったようです。

             

串本町指定の天然記念物のワシントンヤシとオガタマノキですが、昭和49年に指定されたと言うのが納得出来ません。昭和49年当時この田原地区は串本町では無かったのですから、串本町が昭和49年に天然記念物に指定する訳がありません。きっと串本町になる前の古座町が指定していたのでしょう、串本町が指定したというなら合併した平成17年以降でなければ辻褄が合いません。

                       

それにしてもワシントンヤシの背は高い、20m以上あります。オガタマノキというのは背後の大きな新緑が眩い樹のことでしょうか。傍に忠魂碑も建っていました。

               

四角いコンクリートで囲まれ玉石を敷かれているのは、ねんねこ祭で朝日を観る遥拝所、本殿からここまで200mほど、それをゆっくり1時間ほどもかけて歩くとか、12月の第1日曜と言えども朝は寒いでしょう。

神社の敷地内の左側にあったイチョウの木が目を惹くので、どんな木なのかと外周をぐるっと回ってみると、千手観音の手のような枝ぶりでした。

             

木葉神社という名の通り多くの木が植わっており、鬱蒼としています。ねんねこ祭というのを一度見学したいものです。

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