徒然写真帳

郡上でX人で始めたブログです。管理人の転居により、下呂、美濃、岐阜、恵那、下呂を経て一宮発のブログに!

ヒノキの流送

2021-12-07 21:08:54 | Weblog
 継鹿尾山から鳩吹山へ向かっている途中のこと。
 チャートが露頭している急な斜面を見ているとヒノキが点在しています。
 どうみても人が植えたものでは無いので自生しているのだなと思います。
 その様子を見ながらあることが頭に浮かびます。
 継鹿尾山や鳩吹山の北側には木曽川が流れています。
 ここには、江戸時代、尾張藩直轄地であった木曽や幕府直轄地であった飛騨からヒノキが流送されていたところです。
 木曽にいたって桧一本、首一本と言われるほど伐採規制がされていたことは有名な話。
 それほど貴重な木であったのです。
 幕府の記録によると御嶽で伐採されたヒノキが江戸に運ぶのに2年もかかったということです。
 それだけの時間をかけ運んでも割に合うほど貴重であったんですね。
 ですがもっと近いところにあったらそこから運ぶであろうと思います。
 恐らく先日登った継鹿尾山や鳩吹山にあったヒノキは尾張藩が伐りつくしてしまい奥へ奥へと伐り進み木曽まで到達したのではないだろうか?と思えてきました。
 江戸時代は今ほど森林が発達していなかったことは記録から分かっているので権力者は遠くに木材資源を求めた結果が木曽ヒノキなんだなと岩盤に細々と生きるヒノキを見て考えてしまいました。
 今でこそ人工造林によりヒノキは沢山ありますが、ヒノキの人工造林の歴史はスギに比べると遅く江戸末期にわずかであったのことです。
 その僅かな人工造林の一つが下呂市小坂町の赤沼田の天保林と考えられています。
 ですが今のように苗を生産して植栽されたものでは無く山の中で稚樹を引き抜き植えたものです。
 今のヒノキの人工造林技術が確立されたのは大正時代ぐらいからですので江戸時代は天然資源に頼るしかなかったということが調べてみると分かります。
 そういった状況でしたので木曽ヒノキが有名になったのは天然資源に頼った利用がされたからでは無いかと最近考えるようになりました。
 話が飛躍してしまいましたが、どうみたって御嶽山麓から運ぶより犬山で伐って運んだほうが楽ですよね?その例えとして書いたつもりが壮大な話になってしまいました・・・といっても私の妄想的な推論ですが(管理人)



 

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