「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・05・31

2005-05-31 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「私は時々外国人の目で、わが国を見ることにしている。その目でみると、日本には新聞は一種類しかない。五大新聞があると、日本人なら言うだろうが、外国人の目には同一に見える。甲社と乙社の社説が、ついぞ対立したことがないからである。互に論争が行なわれたためしがないからである
 そこにあるのは、甲はプロ野球に力こぶいれ、乙は南極探検に身をいれるというほどのちがいだけである。それなら言論の相違ではない。
 これら新聞同士のちがいは、青春雑誌『平凡』と『明星』のちがいに似ている。あれなら、日本人の目にも同一に見えよう。歴然と相違があると言いはるのは、その二社の編集員ばかりである。
 新聞が一つしかなくなれば、言論も一つしかなくなる。その一種類から、読者は一歩も出られなくなる。たとえば安保改定には、反対だけあって、賛成の社説は一つもなかった。」

   (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)


 「平凡」や「明星」は無くなりましたが、「五大新聞」や「社説」は、活字が大きくなった位で、40年前と姿も形も中身も余り変らず続いています。「五大新聞」ってどことどこだったか、四つ目までは何とか思い出しましたが五つ目がどうしても思い出せません。新聞ネタを飯の種にしている芸人・タレント・時事解説者ならともかく、普通の人に、複数紙とって読み比べる必要などあるはずがありません。新聞など久しくとってない、必要ないからという友人がいましたが、最近は私もそんな気がしています。この世にニュースなどないのですから。
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2005・05・30

2005-05-30 05:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「ジャーナリストというのは、文章を売買する商売である。そして私は、文章は売買してはならぬものだと心得ていた。」

 「ジャーナリズムが売買するのは、いま支配的な、あるいは近く支配的になりそうな説だけである。」

 「よく売れる本、大勢に喜ばれる言論は、喜ばれることをあてこんで書いたものである。むろんお金をもらうのだから、その言論はスポンサー(ひも)つきである。
 個々にひもがついていると言うのではない。売買して、言論だけが金銭の束縛からまぬかれることはできないと言っているのである。
 一方、巨万の読者は、強く作者を束縛する。作者はむしろ嬉々として束縛され、迎合しているのに、ほとんどその自覚がない。ひもつきだといわれると、怪しむほどである。
 大新聞にたのまれて、その新聞の気にいらぬことを書く馬鹿があろうかそれを敢えて書いて、敢えてのせて、さすが良心的な文化人だ、新聞だと、思い思わせることがあるが、八百長である。」

   (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)
 
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虚無僧 2005・05・29

2005-05-29 06:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「このごろ全く見られなくなったが、以前は路傍でよく虚無僧を見た。黒の小袖に袈裟をかけ、丸ぐけの帯をしめ、深編笠をかぶって、尺八を吹く有髪の僧である。
 普化宗に属し、免許を得て、門付けして歩くもので、ただの乞食ではない。
 かりにも僧形の人である。敬してこれを遠ざけるのに、古人は御無用と言った。まにあってますより、味のある言葉だが、今は使う人がない。獅子舞いに使ってみても、ことわられたと知らず、舞いつづけてやめないだろう。
 拒絶は承諾よりむずかしいのに、学校でも家庭でもこれを教えぬものとみえ、わが細君ばかりでなく、皆さん『まにあってます』の一点ばりである。
 近ごろは堂々たる男子まで言う。また、本来恐縮すべきでないところで、むやみに『すみません』を連発する。かれもこれも語彙の貧困のあらわれである。」

   (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)
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長安に男児あり 2005・05・28

2005-05-28 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、中唐の詩人李賀(791-817)の「長安に男児有り」で始まる「贈陳商(陳商に贈る)」と題する全部で三十二行の五言長詩の初めの八行です。原詩、読み下し文、現代語訳ともに、中野孝次さん(1925-2004)の著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)からの引用です。

 贈陳商        陳商に贈る   李賀

  長安有男兒      長安に男児有り
  二十心已朽      二十にして心已に朽ちたり
  楞伽堆案前      楞伽(りょうが) 案前に堆(うずたか)く
  楚辭繫肘後      楚辞 肘後(ちゅうご)に繫(かか)る
  人生有窮拙      人生 窮拙(きゅうせつ)有り
  日暮聊飲酒      日暮(につぽ) 聊か酒を飲む
  祗今道已塞      祗今(しこん) 道 已に塞(ふさが)る
  何必須白首      何ぞ必ずしも 白首(はくしゅ)を須(ま)たん

 (現代語訳)
  長安に一個の男児がいる。風貌、学問、良識、個性、どれをとってもまさに男の中の男と言っていいが、あわれ、この男、二十ですでに心朽ちていた。
  若いくせに彼は楞伽経(りょうがきょう)などという難解な仏典に親しみ、詩では怪奇な幻想とはげしい悲嘆で知られる楚辞を愛した。人生はしかし才能があるからといってうまく行くとは限らない。天才でも挫折することがあり、そんなときは日の暮れ方には酒でも飲むしかない。今、その若さで彼の道はすでに塞れてしまった、滅びるにはなにも白髪頭になるまで待たなくともいいのだ。

 26歳で夭逝した天才詩人の、「長安に男児あり 二十にして心已に朽ちたり」という最初の2行がとくに印象的な詩の一節です。
 
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2005・05・27

2005-05-27 05:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「転売の精神は闇から生まれた。戦前は、たとえば呉服屋が砂糖で儲けるのは恥とされた。儲けるのは自分の商売にかぎるとされた。他人の商売で利得する――隣家が空家になって、それを知人に世話して、周旋料をとるが如きはなかった。
 物資の貧困は、精神の貧困を招く。我々は余儀なく呉服屋から砂糖を買った。彼は当然利得した。しかも本来扱わない商品を、好意で譲ってやると称し、砂糖と共に恩も売って、二重の快をむさぼった。
 たぶんそれを忘れかねたのであろう。爾来、人は他日それを売ることを考えなければ、買わなくなった。闇はこの呉服屋ばかりでなく、のちに万人がするところとなったから、この風は全国に瀰漫した。
 当人は、その家が気にいったから買うのだと思っているが、実は他日それを買うであろう客の好みの指図を受けている。たとい巨万の富をもって、自在に散財しても、この当人を裕福とみなすわけにはいかない。彼は潜伏する何者かに操られる傀儡にすぎない。
 戦中戦後の闇は、われわれの心をいたく腐蝕した。もう戦後ではないというが、闇の精神は、われわれのもとの精神といれかわってしまった。」

 「何用あってか知らぬが、昨今の旦那は高級車でかけずり回り、株を買い、土地を買い、女を買い、リビング・キチンと茶室を一しょくたに建て、たちまち売りはらってまた建てるが如くである。
 建築の意匠化を非難する人がある。建主はそこで余生を送ろうというのに、建築家が自己を主張しすぎて、デザインばかり珍奇にして、迷惑だというのである。果してそうか。
 ながくて十年、とある若い建築家は断言した。十年後に建主はそこには居ないのだから、五年間をただで住むつもりなのだから、これでいいのだというのである。
 ひとり片っぽばかりでなく、双方一しょに堕落して、はじめて本式の堕落である。それは戦後顕著だといったが、病根は古く、深い。『大黒柱』というものが無くなって久しい。」

   (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)


 この短い文章の中に、こんにち使われることが少なくなった日本語が沢山あります。「周旋料」、「爾来」、「瀰漫」、「傀儡」、「大黒柱」、・・・・・・。
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ベルモード 2005・05・26

2005-05-26 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「私は流行に敏感で、『みゆき族』の服装に明るいし、『ベルモード』が一流の婦人帽子店であることも承知している。雑誌の経営者兼編集者という職掌がら、何でも知っていなければならないから、広告によって知るとは前に書いたが、実物は街頭で観察する。
 衣裳や言語はもとより、人間そのものも、はやりものはすたりものだと、私は思っている。目下流行しているものなら、うさん臭いにきまっていると、腹では思っている。うろんなところがあって、はじめて人も物も言葉も流行するのである。まっとうなものは、流行なんぞしやしない。」

   (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)


 コリドー街の近く、銀座5丁目の中央区立泰明小学校の向かい側に「ベルモード」の店があったのを覚えています。小学生の頃、40年以上前のことです。店の雰囲気や通りの様子はよく覚えていますが、いつ頃までその場所にお店があったのか記憶は定かではありません。
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2005・05・25

2005-05-25 05:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集「茶の間の正義」の中の「言論すべてが空しくきこえる」と題したコラムから。

 「二十年来、私は他人の文章を読んで暮してきたものである。雑誌の経営者として、読んで品さだめして、雑誌にのせてきた。すなわちジャーナリストで、ジャーナリストとは言論を売買するものの謂(いい)である。そして私は、言論は売買してはならぬものだと心得ていた。
 いくら心得ても、ながくそれで糊口すれば、ついには売買して何が悪いと、思うようになるものである。ところが私は、いつまでたってもそう思うようにならない。内心にその矛盾を蔵したまま、自他の言動をながめてきた。
 そして次第に、私は言論の自由というものを疑うようになった。言論は人を動かさない、だから自由なのだな、と思うようになったのである。」

 「この世は道理ある説に満ちている、辻褄のあった説が多すぎる」

 「もっともな言論は、執筆者の生活から独立して、ひとりで勝手にもっともなのだ。
 新聞の社説は年中無休で、もっとも千万な説を印刷している。人は読んでいちいち反駁する煩に耐えない。その暇と能力がない。」

 「おびただしい言論のすべてが、私にむなしく聞えるのは、それらが実際から遊離して、ひとりで辻褄があっているせいである。
 ジャーナリストという職掌がら、私は無数の文章に接した。その結果、言論はむなしく、読書は悪習慣にすぎないのではないかと、疑うようになった。
 私はよきジャーナリストではなかったが、それにしても、二十年この道で衣食して、この結論に達したのである。心中落莫たる思いがある。」


 40何年来、新聞というものを読んできて、もっとも目を通すことの少なかった欄のひとつが「社説」です。社説に続くのが「投書」欄と「新聞小説」。

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決心ひとつ 2005・05・24

2005-05-24 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集「茶の間の正義」の中の「男 女―人間本来男女なし」と題したコラムから。

 「同一の人物のなかに、男女はいつも同居して、せめぎあっているのである。男のなかに存在する男の部分が、わずかに勝てば、それは男らしい男になり、女の部分が勝てば、女々しい男になる。」

 「せめぎあっている勢力が、ほぼ伯仲している男女が多い。雄々しい男が近ごろいないと、女たちはこぼすけれど、女らしい女もいないから、これはお互様である。
 男女の区別は、決心ひとつできまる。子供のころから、男は男らしく、女は女らしくと教えられ、長じてその決心をすれば男らしい男、または女らしい女になるのである。
 今は絶えて見ないけれど、昔それらしい男女があったのは、肝心かなめのときに、男は女々しい部分を切りすて、進んで男になったからである。女は男の部分を去って、女になりすましたのである。
 武士も町人も、それをした。本来、人に武士も町人もあるものか。けれども、武士にあるまじき振舞いというものをきめておいて、それに従って、からくも人は武士になったのである。
 盗みはすれど非道はせずと、以前は泥棒も決心した。素人を相手に喧嘩するのは、やくざ者の恥だときまっていた。
 きまっていたのは、きめたからである。泥棒ややくざ者さえ、以前はすこしは決心した。今日ほど人が決心しなくなった時代は稀だろう
 武士だの町人だのというから、大時代に聞える。役人、社長などにおきかえてみれば分る。
 近ごろは、会社という法人が倒産しても、社長という個人はまぬかれる。依然として金持だという。それは社長にあるまじき振舞いだとは、もう誰も言いはしない。言う者があっても、わが身が社長になれば、同じことをするのだから、その言葉には力がない。
 武士らしい、社長らしい、渡世人らしい――このらしいということは、ウソだといわれ、見栄だといわれ、浪花節だといわれ、排斥されて久しくなる。
 たぶん、ウソだろう。けれども、もともと男女はないのだから、互に模範をこしらえて、男は男らしく、女は女らしくしなければ俗世間は困るのである。
 自分の内心をあばくと、他人の内心と同じだと分る。自然主義以来、それはしきりにあばかれた。民主主義以来、婦人は参政権を得た。同一労働、同一賃金を望んで、いよいよ男子に密接した。」

 「すでにお察しの通り、私は『男女』といって、ついでに老若のことも指しているのである。だから、正しくは『老若男女』と題すべきかもしれない。
 私は本来男女はない。ついでに老若もない、いずれも決心ひとつだと言っているのである。」

   (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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2005・05・23

2005-05-23 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「犬好きの人は犬と話し、犬と戯れ、犬と共に買物や散歩に出る。ときにはながながと何やら相談までする。
 彼は、犬のなかに犬を見る。自分より一段劣った畜生を見て、あわれと思うらしいが、私は犬のなかに人を見て、畜生を見ない。」

 「犬はよく横丁を疾走する。出あいがしらに私は、それとぶつかってあっけにとられる。彼に急用があろうとは思われぬのに、何用あって急行するか。いやいや我らの同類にも、何か知らぬが疾走する者がある、と考え直すのである。」

 「犬は刻々に大きくなるわが仔を、その成長に応じて世話する、あるいは世話しない。生まれたては、飼主がだきあげてさえ奪われるかと心配する。十日たてば十日目の心配、半月たてば半月目の心配だけする。そして次第に乳をのませまいと、じゃけんにする。半年もたてばあかの他人である。
 その成長に応じて、世話をやかなくなる過程を、人類の親どもは見習わなければいけない。中学、高校の入学試験に、親犬ならついて行かない。
 こうして私は、犬と人を区別しなくなった。ばかりか、犬は人の鑑かと思うにいたった。
 けれどもそれは、一視同仁の愛から発したものではない。
 むしろ反対である。両者は共に哺乳類に属するから、さしたる相違はあるはずがないと、はじめ思い、次第に人類に対する嫌悪から、犬は人の鑑かと発見するにいたったのである。
 私は人類を愛してない見限っている。見限ったのは、大勢の人類に接して、一々話しあった上でのことではない。自分の内心を見て、愛想をつかしたのである
 私は事大主義を憎むが、わが内心にそれが絶無なら、憎むことはないはずである。それがあるから、大げさに感じて、自他のそれを指弾してやまないのである。
 私は他人を見るよりも、自分を見て、また禽獣を見て、人類の内心を知った
 たとえば、人は隣人の悲運を喜ぶ。愁傷のふりをして、いそいそとかけつけ、家中を見回して、昨日に変る零落ぶりをひそかに喜ぶ。こんな喜びを犬は喜ばない。
 いや自分は喜ばないと言いはる人がある。ひそかに喜んだ喜びは、他人には見えないから、目に見えぬものは存在しないと、結束して言いはるのである。
 だからむしろ、隣人の幸運を、心から祝い得るものの方が、真の善人なのだという説がある。降ってわいた他人の幸運は、いまいましい。それを心から祝えたらモラルだというのである。
 私は嫉妬心は強い方ではない。それでも隣人のにわかな富貴は私を傷つける。虚栄心も強い方ではない。二十年来あばら屋に住んで改造しようとしない。門戸をはる気はさらにない。まして残忍の心はないはずである。鳩の血を見ても顔をそむける。
 けれども、つくづく見れば、わが内心に残忍も虚栄も嫉妬も、言うまでもなく十分あるのである私はそれらを一々つまみだして、小なりといえ、私が人類の縮図であることを知ったのであるそしてこれらが修養によって征伐できないものと分って、我と我が身に愛想をつかしたのである。」

  (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)

 
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2005・05・22

2005-05-22 06:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集「茶の間の正義」の中から「昔話や童話を改竄するな」と題したコラムから。

 「近ごろの名作童話は改竄がはなはだしい、エロ雑誌以上の悪書だから追放したいと論じたコラムを読んだことがある。
 たとえば、桃太郎は鬼ヶ島に、鬼退治には行くけれど、鬼は殺さない。カチカチ山の兎は、狸のドロ舟を沈めない。仲直りしてしまう。
 夏じゅう遊びくらしていた蝉は、同じく夏じゅう働いて、冬に備えていた蟻の家へ、食べ物をもらいに行くが、蟻は拒絶しない。にこにこして分けてやる。
 拒絶しなければ、話にならない。冬、飢えないですむのは、夏の勤勉のたまものである。勤勉は美徳である。そして、利己的で残忍なものであると、表裏を同時に語るから、子供心にも強烈な印象を受ける。ながく記憶して、長じて思い当ることがあるのである。」

   (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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