「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・05・23

2005-05-23 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「犬好きの人は犬と話し、犬と戯れ、犬と共に買物や散歩に出る。ときにはながながと何やら相談までする。
 彼は、犬のなかに犬を見る。自分より一段劣った畜生を見て、あわれと思うらしいが、私は犬のなかに人を見て、畜生を見ない。」

 「犬はよく横丁を疾走する。出あいがしらに私は、それとぶつかってあっけにとられる。彼に急用があろうとは思われぬのに、何用あって急行するか。いやいや我らの同類にも、何か知らぬが疾走する者がある、と考え直すのである。」

 「犬は刻々に大きくなるわが仔を、その成長に応じて世話する、あるいは世話しない。生まれたては、飼主がだきあげてさえ奪われるかと心配する。十日たてば十日目の心配、半月たてば半月目の心配だけする。そして次第に乳をのませまいと、じゃけんにする。半年もたてばあかの他人である。
 その成長に応じて、世話をやかなくなる過程を、人類の親どもは見習わなければいけない。中学、高校の入学試験に、親犬ならついて行かない。
 こうして私は、犬と人を区別しなくなった。ばかりか、犬は人の鑑かと思うにいたった。
 けれどもそれは、一視同仁の愛から発したものではない。
 むしろ反対である。両者は共に哺乳類に属するから、さしたる相違はあるはずがないと、はじめ思い、次第に人類に対する嫌悪から、犬は人の鑑かと発見するにいたったのである。
 私は人類を愛してない見限っている。見限ったのは、大勢の人類に接して、一々話しあった上でのことではない。自分の内心を見て、愛想をつかしたのである
 私は事大主義を憎むが、わが内心にそれが絶無なら、憎むことはないはずである。それがあるから、大げさに感じて、自他のそれを指弾してやまないのである。
 私は他人を見るよりも、自分を見て、また禽獣を見て、人類の内心を知った
 たとえば、人は隣人の悲運を喜ぶ。愁傷のふりをして、いそいそとかけつけ、家中を見回して、昨日に変る零落ぶりをひそかに喜ぶ。こんな喜びを犬は喜ばない。
 いや自分は喜ばないと言いはる人がある。ひそかに喜んだ喜びは、他人には見えないから、目に見えぬものは存在しないと、結束して言いはるのである。
 だからむしろ、隣人の幸運を、心から祝い得るものの方が、真の善人なのだという説がある。降ってわいた他人の幸運は、いまいましい。それを心から祝えたらモラルだというのである。
 私は嫉妬心は強い方ではない。それでも隣人のにわかな富貴は私を傷つける。虚栄心も強い方ではない。二十年来あばら屋に住んで改造しようとしない。門戸をはる気はさらにない。まして残忍の心はないはずである。鳩の血を見ても顔をそむける。
 けれども、つくづく見れば、わが内心に残忍も虚栄も嫉妬も、言うまでもなく十分あるのである私はそれらを一々つまみだして、小なりといえ、私が人類の縮図であることを知ったのであるそしてこれらが修養によって征伐できないものと分って、我と我が身に愛想をつかしたのである。」

  (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)

 
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