「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

羨望嫉妬こそ民主主義の基礎である 2014・04・30

2014-04-30 07:40:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、再録。

「大卒はふえるばかりだから、短大卒さえ肩身がせまくなった。短大は四年分を二年で学ぶのだから、四年制よりむずかしいのだと言う女の新入社員がいるので、その心中が察しられるのである。こうして短大出は大学出を許さなくなった。また婚礼の披露を一流ホテルでするなんて、昔は並の勤人は考えもしなかった。今は考える。無理をすれば出来るから出来ない家は出来る家を憎むようになる。
 以上羨望嫉妬こそ民主主義の基礎である。まなじりを決して、以前は思いもよらなかったことまでねたんで呪って、心の安まる日がないのが我ら中流である。二十万円の月給取は〇十万の医師の収入を許すことが出来なくて、正義を持ちだして、その正義が嫉妬の変身したものだと思わなくなったそれを指摘すると怒るようになった
                                            〔Ⅰ『やっと中流になったのに』昭55・5・15〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

 
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2014・04・29

2014-04-29 08:05:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、再録。

私はこの世にタダのものなどありはしないと思っている。それなのに民放はタダだとだまされて、ついでにNHKまでタダにせよなんて気勢をあげるのは見当ちがいだと思っている
 私は民放もNHKも、もっともっと金をとればいいと思っている。一ケ月五万円十万円とるがいい。それがいやなら番組ごとにコインを投じさせるがいいと、何度も書いて恐縮だが書かせてもらう。
『なっちゃんの写真館』一回百円と聞けば、たいていの人はコインを投じようとしてやめるだろう。こうして番組は厳選され女子供がテレビを見る時間は激減し、視聴率などという不確かなものでなく、番組ごとに〇千〇百万円という確かな収入があるだろう。
芸』は客が劇場へ出むいて入場料を払ってひまをつぶしてくれて始めて芸であるタダで先方からおしかけてくる芸にろくなものがあるはずがない
                                〔Ⅰ『タダほど高いものはない』昭55・8・21〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・04・28

2014-04-28 07:25:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、再録。

有史以来この地上に人類みたいに栄えた動物はない図体の大きい太古の怪獣は、一時は全地球を覆うほど栄えたが、その大きいことによって滅びた。新たに登場したちっぽけな哺乳類がすばしこく立回って、その卵をみな食べてしまったからだという。
 私たちは昔あんなに栄えたスペインが滅びるのを見た。近ごろイギリスが衰えるのを見る。アメリカの様子も昨今へんである。俗に年貢の納めどきという。区々たる栄枯でなく、人類はその年貢の納めどきに達したのである。
 人は知恵によって栄えたのだから、知恵によって滅びるのである
                                      〔Ⅰ『これを天の配剤という』昭55・12・18〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・04・27

2014-04-27 06:30:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、再録。

親は子に教えるか、または命じるかのどちらかで相談してはならない。子供も中学生くらいになると理屈を言う。挨拶をしないのをとがめると『なぜしなければならないか、尊敬もしてない人に』くらいのことを言う。
 文明国では客には必ず挨拶するボンジュールあるいはグッドモーニングと言って内心に敬意の有無を問わない問えば挨拶は失われるから、ボンジュールと言えと幼いときから命じて言うくせをつける。(略)
 未熟な子供のなぜはなぜではない。作文を書くのは自分と格闘することだからいやなのである、ほとんど苦痛なのである。だからこんな屁理屈を考えだす。それにつきあってはいられないと言うよりつきあってはいけないのである。
 いまの政治いまの世の中のしくみを疑うのはいいことだ、何事もなぜと疑えと教えるから、こんななぜを持ちだされて教師は窮地におちいるのである。凡百のなぜを承知した上でのなぜが真のなぜなのである承知しないもののなぜはなぜではないから、したがって問答は無用なのである
                                     〔Ⅳ『本もののなぜ偽のなぜ』昭60・10・17〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・04・26

2014-04-26 06:40:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

新聞と執筆者の仲は、殿様と家来の仲に似ているたとい殿様が名君で腹蔵なく申せと命じても家来は言わない生殺与奪の権をにぎっている主人に、忌憚なく言えるはずがないそれでも言えと迫るのは野暮で、小利口な家来なら殿は申しぶんない名君で、ただこの一点だけと言ってとるにたらぬ欠点をあげる他の家来たちはへへーっと平伏してそれに賛意を表する。この迎合に立腹しないのが殿様というものなのである。
 こんなことを言うのは去る六月の第一日曜『NHKへの提言と期待』というテレビ番組を見たからである。名士の二、三が苦言を呈して、NHK会長がそれを拝聴するという番組である。はたして名士が忌憚なく言うふりをして、会長が耳を傾けるふりをした。それも五分や十分でなく日曜の夜九時三十五分から、えんえん十時二十分までやりとりが続いた。あまり長いのでしまいに会長は拝聴するふりするのを忘れてNHKの自慢話をはじめ、ついには値上げしたい口吻までもらした。
 新聞もNHKも共に現代の殿様だから、手下を集めて意見を徴するのであるそれが茶番であることは第三者にはすぐ分るのに、当人にはよしんばいくら利口でも分らないのである。
                                       〔Ⅰ「現代のばか殿様『NHK』」昭56・7・2〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)


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新聞は一国の言語を売った 2014・04・25

2014-04-25 07:10:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

戦前の新聞はルビつきだった漢字に一々ルビを振るのは、時間的に経済的に負担だったから、新聞社はなが年これを廃止したがっていた子供が近眼になるのはこのせいだと廃止したが、戦後子供の近眼はふえるばかりで、ルビのせいでないことがわかった
 けれどもこのルビのおかげで新聞は難しい漢字が使えたのである。読者もこれをたよりに読めたのである。ルビは小なりとはいえ文化的に重大な意味があったのである。これを廃したから読めなくなったのである。新聞は読めるようにするより、漢字を少くする方に味方した。国のすることなら何でも反対する新聞が、当用漢字には一議に及ばず賛成したのはこのためである。
 何度も言って恐縮だが、これだけは言わしてもらう。新聞は区々たる己が利益のために、一国の言語を売ったのである一国の言語を売ったのである
 
                                  〔Ⅱ『読まない情報が減るんだとさ』昭56・8・6〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・04・24

2014-04-24 06:20:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

人間は基本的に、たとえ健康な時であっても一人では何もできないものである。社会の仕組みを借りて、眼に見えない人たちの働きによって、私の生活は成り立っている。私たちはお世話になりながら、しかしいささかの闘志を持って暮らせばいいのである
                                  〔出典:曽野綾子著『晩年の美学を求めて』(朝日新聞出版)〕」



「しかし私が今、一番希求するのは、静かに人生を退場する方法であるそれは死ぬことだけではないどこかこの地球の片隅で、孤独にも耐え、静かに自分自身と向き合って観想の日々を送ることだそれができるかどうかは、個人の才能にかかっている。時間は充分にある。選択も自由だ。定年以後のすべての月日がそのために用意されているのだから。
                                  〔出典:曽野綾子著『貧困の僻地』(新潮社)〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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2014・04・23

2014-04-23 08:05:00 | Weblog


「健康志向も中年以降は段々激しくなって来る。私の高齢の知人の何人かは、歩くことが体にいいとなると、一日に五時間も六時間も歩いている。そうなると、生きるということはただ歩くということで、他には何の生産的なこともしなくなる。まあ老齢になって、床に着いて寝た切りになっているよりは歩いている方が傍(はた)にも面倒をかけなくていいかもしれないが、健康は生きるための一つの条件に過ぎないのだから、健康維持そのものが目的になったら終わりなのである。
                                      〔出典:曽野綾子著『中年以後』(光文社文庫)〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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2014・04・22

2014-04-22 06:50:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

人間の壮年期の特徴は、休むということを知らないことである
 それは明らかに思い上がりなのだが、まだ体に不調がでないうちにいくら言っても、当人がそれを納得して、生活を改めるということは、まずしないものである。だから、人間は身をもって、厳しい体験をして、自分の限度を知る他はない
 それは手厳しいお灸(きゅう)である。或る人は糖尿病を発見し、或る人は高血圧になり、或る人は胆石に苦しむ。そうなって初めてその人は、自分の健康と体力が無限ではない、ということを知る。
                                  〔出典:曽野綾子著『バァバちゃんの土地』(新潮文庫)〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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2014・04・21

2014-04-21 06:55:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

「さまざまな危機的状況が人間の生涯には必ず訪れる。若い時には、それを隠したくなるものだ。自分だけが、そのような屈辱的な、悲惨な状況を過ごしているのだから、人にはとうてい恥ずかしくて言えない、と思うのである。しかし次第に『人生には何でもありだ』ということが分かって来る。
 隠す、とか、見栄を張らねばならない、という感情はまず第一に未熟なものだ。或る年になれば、隠しても必ず真実は表れるものだ、という現実を知るのが普通である。もし人が本当に自分の真実を隠したいのだったら、人のいない森に一人で引きこもる以外にない。通常の生活をしていれば、その人がどんな暮らしをしているか、何を考えているかは大体のところ筒抜けになる。だから隠しても仕方がないのだ。
 第二に、見栄を張る人は、人生というところは、何があっても不思議はない場所だ、という事実を自覚していない。用心すれば、自動車事故は起こさなくて済む、というのも一面の真実だが、どんなに用心していても、相手の自動車がこちらに向かって飛び込んで来たり、自分の車がスリップしたりすることを止めようがない場合もある。だから私たちは年を取るに従って心のどこかで覚悟をしているのだ。何ごとも自分の身の上に起こり得る、ということを承認しよう、と。だから自分は常にいい状態にいる、とか、自分はいい人だ、とかいうことを改めて言わなくてもいい、という気分になるのである。
                                  〔出典:曽野綾子著『晩年の美学を求めて』(朝日新聞出版)〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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