Dr. Kazuhiko Kono, a 56-year-old Japanese medical doctor is not popular in the local medical fraternity nor academic
society, but he becomes increasingly popular in Japan as an experienced medical practitioner in the realm of the treatment of
dementia, such as Alzheimer's disease, Pick's disease (Frontotemporal lobar degeneration), etc.
His practical method of treatment, known as "Kono method" has been devised by him since 2007 on the basis of a numerous
number of his daily treatments for dementia patients nearly for the past 30 years in the local hospitals as well as his own
"Nagoya Forest Clinic" located in Nagoya, Japan.
He is very eager to familialize his "Kono method" all over Japan and has been opening it in "Dr. Kono's Dementia Blog"
(http://dr-kono.blogzine.jp) and many other publications (in Japanese).
In his blog and publications he shows many examples of treatment with patient pictures and his unique prescriptions as well.
Nowadays he occasionally gives lectures for doctors, by request, on "Kono method" among many parts of the country in spare
moments from his daily treatment work.
"Kono method" is evolving year by year and the latest version, "Kono method 2014 (PDF)" is released on the homepage of Dr. Kono's
"Nagoya Forest Clinic".
By the way he is a member of IPA(International Psychogeriatric Association).
今日の「お気に入り」は、名古屋フォレストクリニック院長、河野和彦氏(1958- )の著書「コウノメソッドでみる認知症処方セレクション」の「あとがき」です。わが国の認知症治療の第一人者として知られ、30年近い臨床経験を通じて確立した認知症の診断・治療ノウハウ「コウノメソッド」を広く一般に公開している河野和彦医師が、医家向けに執筆し、2013年11月に出版されたものです。医家ならぬ身の小生が読んでも大変参考になった本で、この「あとがき」には、河野医師が認知症診療にかける熱意が込められています。医家に向けた檄文です。
認知症患者を身内に持つ方には、河野和彦医師が、一般向けに書かれた「新しい認知症ケア‐医療編」(講談社刊)がお勧めです。家族(介護者)が賢くならねば、認知症患者の命を守ることは出来ません。
「筆者には医師としてのトラウマがたくさんあります。30年以上も前から診療報酬も得られない認知症へのリハビリテーションを実行してきた山本孝之先生(愛知県豊橋市)に師事し、10年間の間に数えきれない認知症患者を診察させて頂き、全員のCT画像をにらみつけてきました。
現場では山本先生のようなこれだけ熱意のある医師がいるというのに、医学会を構成する一部の人たちは何か別の人種なのかと思うことが、その後何度も起こりました。アルツハイマー型認知症の認知機能が作業療法、音楽療法で改善したことを発表すると、ある神経内科教授から『改善したのならアルツハイマーではない』とバッサリ告げられました。この学会を構成する人たちの冷めた目というのは、いったい何なのだろうと愕然としました。
高名な精神科名誉教授から認知症患者を紹介されたときは胸躍りました。ピック病のその女性は劇的に改善して、その後5年間独居生活を続けることができました。改善前後の写真を名誉教授に送ったところ、『本気でピック病だと報告するつもりか』と咎められました。神経細胞が進行性に減じてゆく変性疾患が『治る』という発言や、『奇跡』などという言葉を使うような医師は科学者として認められないという、確たるスタンスがあることを感じました。
筆者自身も、これだけ著明に改善すると、もしかしてこの患者はピック病ではないのではないか、と不安にかられることもあります。筆者は臆病で卑怯な人間です。正直に告白しますが、本書で紹介した改善症例を学会や論文で発表する気はありません。
コウノメソッドも、プラセボ(偽薬)群を平等に設けて統計処理し、科学的に効果があると証明して論文を投稿すれば急速に普及するのかもしれません。しかし、筆者は大事な患者を1人ですらプラセボ群に選ぶつもりにはなれません。自分が繰り出す処方は必ず効果があると信じているのに、なぜプラセボ群(改善の可能性を奪われた患者群)を設けなければならないのでしょうか。
プラセボ群を設定できない医師など学会への出入りは禁止です。筆者は学会との決別を決め、1人で戦う意志を固めました。幸い、医師への出版流通を得意とする日本医事新報社から執筆の依頼を受けることができ、渾身の書『コウノメソッドでみる認知症診療』が2012年10月についに世に出たのです。発売からわずか40日で第2刷が決まり、ロングセラーの兆候をみせはじめています。日本医事新報社からはすぐに第2弾の話があり、著効例を紹介する体裁に決めたのが本書ということになります。
日本医事新報社刊の第1弾は、筆者の久々の認知症総説でしたし、アルツハイマー型認知症の新薬に関する情報掲載がわが国で最も早かったために、ほかの医学書には追随できない内容であったと確信しています。この本をきっかけに医師の間で急速にコウノメソッドの認知度は高まり、大型書店では『コウノメソッドの本がほしい』と指名されるようになり、インターネット書店 amazon.co.jp の老年医学ベストセラーにおいては21位以内に過去の小著も含めて7冊がランクイン(2013年3月1日現在)する現象を起こしました。
第2弾の話があったとき、筆者はすぐに著効症例を100例くらい提示するものがいいだろうと考えました。『認知症ブログ』で年間1,000枚のスライドを提供している筆者にとっては容易なことです。
筆者が医学書を書くときに大事だと思っていることは『具体性』『きれいごとを書かない』の2点です。患者の姿を見て頂くことこそが具体性そのものだと思います。薬も詳細な用量を示さないと患者さんを安全に確実に治すことはできません。
CTなどの画像診断機器をもたない実地医家は、患者のしぐさ、雰囲気、話し方、歩き方から診断を導き、経験的に安全な処方ができる素晴らしい医師です。脳血流シンチグラフィやMRIなどの画像ばかり見ている先生方は、患者を置き去りにしていったい何をしているのだろうと思います。典型例を1週間入院させて精査を行い、結局そのほとんどをアルツハイマー型認知症と診断してドネべジル(アリセプト®)だけを処方するのです。
東京の研究会で故・田邉敬貴教授が、演者に『いろいろと画像を見せてくれるのはいいが、患者の顔とか姿勢の写真を見せてほしい』と注文したことが忘れられません。臨床の鬼が初めて口を開いた強烈な批判だったと筆者は感じました。こういう尊敬できる教授が1人いただけで、筆者のトラウマは癒された気がします。
『認知症ブログ』が100万アクセスに到達した朝、筆者は読者へのメッセージとして”臨床的完治”という概念を紹介しました。筆者は29年間の認知症診療の中で、確かに数%の患者が『完治』したと認識しています。病理学的に重度の障害を示している患者でも、要介護3から要支援1になって独居のまま天寿をまっとうしたケースは、臨床的には認知症とは定義できない状態で亡くなられたといえるのです。
臨床医は病理学の奴隷ではありません。臨床的に要介護でなくなれば『治った』と堂々と言えばいいのです。処方も個々の患者にマッチした用量であれば、レセプトに迎合すべきではありません。週に1回休薬したほうが調子がいいということはいくらでもあります。薬物の脳内濃度などだれにも測定できないのですから、薬理学者の血中濃度理論だけで薬を飲ませてはならないのです。患者を守れるのは臨床医だけなのです。
臨床医は幸福な職業です。改善したら患者からお礼を言ってもらえます。新薬を懸命に創出した研究者はだれからも直接感謝されません。それを思うと、本書に掲載した改善された方々の姿をぜひ基礎研究者の皆さんに贈りたい気持ちです。基礎研究はこれほど社会の役に立っているのだと教えてさしあげたいです。
ですから、臨床医は楽をしてはならないのです。与えられた薬を錠剤のまま無造作に患者に飲ませてはならないこともあります。1/2、1/3の量で細心の注意を払ってテーラーメイド処方をして頂きたいのです。『やっぱり認知症だから治らない』『この新薬は効かない』と簡単に投げ出さないで下さい。何か工夫したら効くのではないかと大いに粘ってほしい、祈るような気持ちで調合してほしいのです。
コウノメソッドは常識破り――クロルプロマジン(ウィンタミン®)やシチコリン(ニコリン®H)注射など、筆者が用いる薬剤には、一般にはあまり用いられなくなった古い薬剤も含まれています。ですが、患者を治す手段は患者が教えてくれます。それがたまたま古い薬であっただけです。新薬がより効くものだとだれが決めたのでしょうか。むしろ新薬の副作用のほうが重い傾向があると思いませんか。コウノメソッドは、数万という筆者の犯した失敗を礎につくられたピラミッドです。この患者の教えてくれた方法に背くような処方は、必ず症状の悪化という形で返ってくるでしょう。
最後に、認知症が治ることに懐疑的な方々にメッセージを送ります。認知症は治らないのではなく、あなたに治す力がないのです。治らないことを病気や薬のせいにしてはなりません。外科医はミスをしたら患者は死んでしまいます。内科系の医師も、治せないことをもっと真剣に反省してほしい、必死で治す方法を毎日考えてほしいと思います。
コウノメソッドが学会や大学で取り上げられることは未来永劫ないでしょう。ですから細々と文章で皆さんに伝えるしか手段がありません。江戸時代の緒方洪庵と同じようにです。しかし、小著や『認知症ブログ』で筆者の考えに陰ながら同調して頂ける医師が1人でもおられるなら、認知症患者を1人助けられる、と筆者は少し晴れやかな気持ちになれるのです。
2013年10月 著 者 」
(河野和彦著「コウノメソッドでみる認知症処方セレクション」日本医事新報社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「正宗白鳥の漱石評」の続き。
「たぶんつまらないだろう予感がする長い小説を、義務みたいに読むのは苦痛だと白鳥は書いたが、それでも
読んでいるうち漱石の評価は少しずつあがった。
白鳥の漱石論があんまりなので、少年の私はそれでは読みますまいと思ったのは、すでに『虞美人草』を読んで
いて同感だったからである。
『門』はすぐれた作だと白鳥はほめている。『虞美人草』のような退屈な小説ではない。はじめから
腰弁(こしべん)夫婦の平凡な人生を平凡な筆致で諄々と除して行くところに、私は親しみをもってついていかれた。この
創作態度や人間を見る目に白鳥は漱石の進境を認めた。
『こころ』には今までの作品のうちにも微見(ほのみ)えていた憎人厭世の気持が最も強烈に出ている。
憎人厭世が自己嫌悪に達している、漱石の人間研究の最頂点に達したものと云っていい。ここには
例の美文脈は全くあとを絶っている。
学識も文才も同時代の作家に比べて傑(すぐ)れていることは、氏の筆に成ったどの作品を読んでも察せられる。私は氏の
『文学評論』を読んで十八世紀の英国文学の面目を鮮明に窺(うかが)うことができた。これだけの見解は英人の文学史にも、
多く見ることは出来ないだろう。
しかし今まで私が通読した氏の長篇小説によっては、私は左程に感動させられなかった。読みながら退屈した。一生懸命に
面白そうに作っている感じで、心が作中に引きいれられることは滅多になかった。文章のうまい通俗作家という感じがした。
漱石は多くの小説のほかに『文学論』と『文学評論』の二巻を残した。その文学論には世の常でない
長い序文を書いて、本書が成るに至る経緯を述べた。
漱石が二年間の英国留学を命じられたのは明治三十三年である。研究のテーマは英語であって英文学ではなかった。政府から
給せられる学費は年に千八百円にすぎない。これでは名門ケンブリッジに入学しても月謝を払ったらあと一巻の書籍も買えない。
故に入学をあきらめ俸給はあげて書籍の購入にあて、疑義は個人教授の師に請うてはらすという計画をたてて履行した。
かくてロンドンに住み暮した二年間はわずかに露命をつなぐのみの最も不愉快の二年だった。終日蟄居(ちつきょ)して狂気の
ごとく勉強に次ぐに勉強した。事実漱石発狂説まで流された。謹んで紳士の模範といわれる英国人に告ぐ。余は生涯二度と
この国に足を踏入るることなかるべし、二度と来たくないとまであろうことか文学論の序文に書いた。
漱石は英国紳士の間にあると狼群のなかのむく犬の如くであった。いかにも雲つくような英国人にまじるとようやく五尺一寸
(一五四・五センチ)の土気色した漱石は乞食のごとくであったろう。しかもよく見ると薄いがあばたのあとがある(大意)。
以下略すが私は漱石のような正直な告白を読んだことがない。勉強の成果はこの両書に遺憾なくあらわ
れている。彼の学殖と批判力は十分に示されている。白鳥も学ぶところが多かった。
漱石は小説を書くよりこの調子で英国各時代の文学史を書いておいてくれたら裨益(ひえき)すること甚大(じんだい)
だったろうと言っている。
漱石は日本人の目で西洋と西洋人を見ている。漱石以後洋行した知識人はいくらでもあるが、彼らは
みなニセ者の西洋人の目で見ている。学校で習った外国語が全く役に立たなかったのに、さながら魚が水を得た
ように西洋人と語りあったり、甚だしきは恋し恋されたようなウソをついて、戦前までながく留守宅の日本人をあざむいた。
漱石はあざむかなかったもののたぶん最後の一人である。
『文学評論』のうちでは、『ガリバー旅行記』の作者スヰフト論が最も光彩を放っていると白鳥は激賞している。
過去現在未来を通じて古今東西を尽して、いやしくも人間たる以上はことごとく嫌悪すべき動物である。
したがって希望がない。救われようがない。免れようがない。
スヰフトの諷刺は噴火口から迸(ほとばし)る氷のようなものである。非常に猛烈であるけれども、
非常に冷たい。人を動かすための不平でもなければ、自ら免れるための不平でもない。
どうしたって世界のあらん限りつづく不平のための不平だから、スヰフト自身激していない。
冷然平然としている。
以上漱石の見たスヰフトは通俗の文学史家が見たような浅薄皮相な諷刺家ではない。
漱石はスヰフトの見解にかなり同感し共鳴しているのではないかと疑われる。
むかし弱年の私が古本で読んでいたく共感をおぼえたのはこのスヰフト論であった。
私は少年のころ生きて甲斐ない世の中だと天啓のように知ったものである。
後年『ダメの人』と称し『死ぬの大好き』と言って憚らない者である。
漱石は『こころ』のなかで憎人厭世の情を吐露(とろ)した人である。
それでいてモオパッサンの短編『頸飾(くびかざ)り』をモラルでないと非難した人である。
白鳥はその矛盾をついているが、どうして人にして矛盾しないものがあろう。
荷風散人はわれは明治の児ならずやと言った。漱石は左国史漢で育った人である。
漱石は少時(しょうじ)好んで漢籍を学んだ。学ぶこと短かったにもかかわらず文学はかくの如きものなりと
暗黙のうちに心得た。ひそかに英文学もまたかくのごときものなるべしと思ったのが運のつきだった。漱石は晩年
漢詩文をつくることを楽しみにした。私は『ガリバー旅行記』のなかの『馬の国』のくだりを読んで、最も強く影響を
うけたものの一人である。
〔『文藝春秋』平成十二年八月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「正宗白鳥は夏目漱石を認めなかった。
『坊ちゃん』『吾輩は猫である』は発表当時(明治三十九年)面白く読んだが、あとはろくに読まなかった。
白鳥が『虞美人草』をはじめて読んだのは昭和三年四月だという。その半年ほど前『三四郎』を、次いで『門』を
ようやく読んだ。
たぶん大正から昭和にかけて改造社から『現代日本文学全集』、春陽堂から『明治大正文学全集』が出て、これがいわゆる
『円本』のはしりで、共に人気随一の漱石集を出したから、当時文芸評論の第一人者としての名があった白鳥は漱石論を
請われて、やむなく読んだものと思われる。白鳥は退屈が予想される小説を何冊も読むのは苦痛だ、それでも職掌がら
渋々読んだというほどの口吻をもらしている。
前に私は田山花袋の『蒲団』の読後感を述べた。白鳥はこの花袋の仲間である。藤村、花袋、秋声は自然主義の代表的な作者
である。白鳥もこの派の一員だから私は白鳥の花袋評を思いだして読んで、白鳥が花袋を全幅の支持はしないまでも認めている
ことは仲間として当然としたが、漱石をほとんど認めていないのには改めてショックを受けた。
同感だったからである。漱石が死んだのは大正五年十二月である。円本時代は昭和二、三年が絶頂で、五年ごろまで続いた。
漱石の人気がながく今日まで続いたのは、岩波書店が漱石全集を独占して再三再四出したからと、漱石の弟子たち小宮豊隆、
安倍能成、森田草平その他無数のいわゆる漱石山脈がそのつど絶讃して漱石を神格化したからである。その時、こうした白鳥
の発言は勇気がいることであった。
昭和三年四月白鳥は初めて『虞美人草』を読んだ。プロットが整然として文章も絢爛(けんらん)と
精緻(せいち)を極めている。漱石が名文家であることはこの一篇だけを見ても分る。それでは『読んで面白かったか』
ときかれると、私(白鳥)は言下に答える『私にはちっとも面白くなかった。退屈の連続を感じた』。
漱石は文才が豊かで警句や洒落が口をついて出るといった風であるが、私にはそれがさして面白くないのだ。
『猫である』は作者に匠気(しょうき)がなく自然の飄逸(ひょういつ)滑稽の味わいが漂っていて面白かったが、
『虞美人草』は才に任せてつまらないお喋りがすぎるように思われた。近代化した馬琴のような物知りぶりと、どのページ
にも頑張っている理屈にはうんざりした。漱石が今日の知識人に喜ばれるのは、こういう理屈が挿入されているのによろう。
『気燄(きえん)を吐(は)くより反吐(へど)でも吐くほうが哲学者らしいね』『哲学者がそんなものを吐くものか』『本当の
哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、丸で達磨(だるま)だね』
哲学者を評した警句として、読者が感心するのかもしれないが、私にはちっとも面白くない。
『そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息(ためいき)の恋じゃありません。嵐の恋、暦にものっていない大嵐の恋、九寸五分
(くすんごぶ)の恋です』『九寸五分の恋が紫なんですか』『九寸五分の恋が紫なんじゃない。紫の恋が九寸五分なんです』
『恋を斬ると紫色の血が出るというのですか』『恋が怒ると九寸五分が紫色に閃(ひか)るというんです』
長篇『虞美人草』の前半はこういう捉えどころのない美文で続くのだからたまらない。
私はさきに漱石を名文家といったが美文家といった方が一層適切である。
藤尾は虚栄に富んだ近代ぶりの女性にすぎぬ。宗近の如きも作者の道徳心から造りあげられた人物で、知識階級の通俗
読者が、漱石の作品を愛読する一半の理由は、この通俗道徳が作品の基調となっているためではあるまいか。
――以上白鳥の漱石評の一端である。
読者は目から鱗が落ちた思いをしやしまいか。漱石はやや年長ではあるが林次郎高山樗牛(ちょぎゅう)と同時代人である。
樗牛は『月の夕べ雨のあした、われハイネを抱(だ)きて共に泣きしこと幾たびか』という類(たぐい)の美文を書いて
満都の子女(しじょ)を泣かした人である。漱石はそれを笑って、あの高山の林公が林公がとばかにしたというが、何ぞ
しらん漱石は美文の影響を受けている。
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば
流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい云々という『草枕』の
冒頭は漱石の笑った美文である。白鳥は『三四郎』も読んだが『虞美人草』ほど随筆的美文的でなかったにも
かかわらず一篇の筋立さえ心に残っていない。読者を感激させる魅力のない長篇小説を読過(どつか)
することのいかに困難なるかを、そのとき感じたとも言っている。
同時代人は同時代人につらく当る。石原慎太郎の同時代人は石原が出世することを喜ばない。
まして首相になるなんて許せない。漱石が樗牛をばかにしたのは同時代人だったからだろう。白鳥は漱石より
十二も年下だが、デビューしたのは明治三十七年、漱石とほぼ同じころである。漱石は『坊ちゃん』と『猫』で一躍花形に
なったが、白鳥はまだ無名といっていい存在だった。
だからつらくあたるのかもしれぬという点を割引いても、白鳥の漱石評に私はわが意を得た。こういうときひろい世間は
黙殺して人が忘れるのを待つが、なん十年かたって『風』という評論家が漱石を卒業せよ、研究なんかするに値いしないと
コラムに書いたが、これまた黙殺された。白鳥は(泉)鏡花を全く認めていない。これも紹介したいがどこかの文庫にはい
っているはず、有志はさがして見るがよい。なければどこかの文庫で出すがよい、共に出色の文学である。
以上は漱石の小説評、評論評は打って変って違う、いずれ述べたい。
〔『文藝春秋』平成十二年七月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)