「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

決心ひとつ 2005・05・24

2005-05-24 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集「茶の間の正義」の中の「男 女―人間本来男女なし」と題したコラムから。

 「同一の人物のなかに、男女はいつも同居して、せめぎあっているのである。男のなかに存在する男の部分が、わずかに勝てば、それは男らしい男になり、女の部分が勝てば、女々しい男になる。」

 「せめぎあっている勢力が、ほぼ伯仲している男女が多い。雄々しい男が近ごろいないと、女たちはこぼすけれど、女らしい女もいないから、これはお互様である。
 男女の区別は、決心ひとつできまる。子供のころから、男は男らしく、女は女らしくと教えられ、長じてその決心をすれば男らしい男、または女らしい女になるのである。
 今は絶えて見ないけれど、昔それらしい男女があったのは、肝心かなめのときに、男は女々しい部分を切りすて、進んで男になったからである。女は男の部分を去って、女になりすましたのである。
 武士も町人も、それをした。本来、人に武士も町人もあるものか。けれども、武士にあるまじき振舞いというものをきめておいて、それに従って、からくも人は武士になったのである。
 盗みはすれど非道はせずと、以前は泥棒も決心した。素人を相手に喧嘩するのは、やくざ者の恥だときまっていた。
 きまっていたのは、きめたからである。泥棒ややくざ者さえ、以前はすこしは決心した。今日ほど人が決心しなくなった時代は稀だろう
 武士だの町人だのというから、大時代に聞える。役人、社長などにおきかえてみれば分る。
 近ごろは、会社という法人が倒産しても、社長という個人はまぬかれる。依然として金持だという。それは社長にあるまじき振舞いだとは、もう誰も言いはしない。言う者があっても、わが身が社長になれば、同じことをするのだから、その言葉には力がない。
 武士らしい、社長らしい、渡世人らしい――このらしいということは、ウソだといわれ、見栄だといわれ、浪花節だといわれ、排斥されて久しくなる。
 たぶん、ウソだろう。けれども、もともと男女はないのだから、互に模範をこしらえて、男は男らしく、女は女らしくしなければ俗世間は困るのである。
 自分の内心をあばくと、他人の内心と同じだと分る。自然主義以来、それはしきりにあばかれた。民主主義以来、婦人は参政権を得た。同一労働、同一賃金を望んで、いよいよ男子に密接した。」

 「すでにお察しの通り、私は『男女』といって、ついでに老若のことも指しているのである。だから、正しくは『老若男女』と題すべきかもしれない。
 私は本来男女はない。ついでに老若もない、いずれも決心ひとつだと言っているのである。」

   (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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