「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

丸の内界隈 Long Good-bye 2024・06・30

2024-06-30 05:09:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 腰弁の弁 」とした小文

 一節 。

  引用はじめ 。

 「 私は永年の間 、朝飯も午飯もたべなかつ
  た 。しかしそれはお膳に坐らないと云ふ
  のであつて 、一日ぢゆう晩まで何もたべ
  なかつたわけではない 。朝はビスケツト
  に林檎 、午は蕎麦のもりかけを食つて 、
  身体の調子がすつかりそれに馴れてゐた 。
   今度日本郵船会社の嘱託になつて出掛け
  るに就き一番閉口したのは食べ物の事であ
  る 。丸ノ内にだつて蕎麦はありますよと
  軽く云ふ人があるが 、蕎麦屋はあつても 、
  毎日私の待つてゐる時刻に持つて来させる
  のは中中骨が折れる 。出前持ちはこちら
  の気のすむ様にばかりしてくれるものでは
  ない 。仮りにきまつた時刻に持つて来る
  様に馴らしたとしても私は毎日行つてゐる
  わけではないから始末がわるい 。何曜日
  にはいらない 、外の日には時間を間違へ
  ては困ると云ふ様な面倒な事は 、大勢を
  相手に商売してゐる者に云つても無理で
  ある 。」

 「 そんなに六づかしいなら御自分から食ひ
  に行けばいいではないかと 、その説をな
  す人が云ふのであるが 、これは大変な誤
  解であつて私がいつも家で蕎麦ばかり食つ
  たのは 、蕎麦が好きな為ではなく 、蕎麦
  で一時のおなかを押さへて我慢をしたに過
  ぎない 。若し自分から足を立てて食べに
  出掛けると云ふことになれば 、蕎麦屋で
  盛りやかけを食ふよりは 、西洋料理とか
  鰻の蒲焼などの方が好きである 。ただ昼
  間の内からさう云ふ物を食べ散らす様なお
  行儀のわるい事をすると 、自分の身体に
  いけないから蕎麦で養生してゐたのである 。
  食意地が張つてゐて自制心の弱い私の様な
  者は 、成る可くうまさうなにほひのする
  場所へ近づかないに限る
   色色考へをめぐらして見たが 、いい分別
  がないので面倒になつて 、結局なんにも
  食べないのが一番簡単であると思ひ出した 。
   さうきめたので気も軽く 、おなかの中も
  軽いなりに日本郵船へ出かけてゐたが 、
  家を出る時から既に腹がへつてゐるので 、
  向うにゐる何時間かの内には 、二三度 目
  の前がぐらぐらとして 、机の端につかまる
  事がある 。廊下を歩くと 、時化に遭つた
  甲板の様に 、急に向うの方が高くなつたり 、
  足もとが落ちて行つたりして 、あぶなくて
  仕様がない 。郵船会社は見掛けは立派だけ
  れども 、廊下が安定してゐない 。」

 「 そんな事を暫らく続けたが 、あんまり腹が
  へるので 、或る日 節を屈して 、丸ビルで
  蕎麦を食つて見た 。あつらへたお膳は目の
  前に来たけれども 、辺り一面が大変な混雑
  で 、私のすぐ右にも左にも 、鼻をつく程
  近い前にも知らない人が一ぱいゐて 、みん
  な大騒ぎをして何か食つてゐる 。腹のへつ
  た鶏群に餌を投げてやつた有様で 、こつち
  迄いらいらして 、自分の蕎麦を食ふ気がし
  なくなつたから 、半分でやめて 、外へ出
  てほつとした
   そんな所へ行くのは一度で懲りたが 、郵
  船会社の中で足もとがふらふらする事に変
  はりはない 。若し廊下で倒れてしまつたら 、
  死因は空腹であると云ふ事になると 、郵船
  会社が見つともないであらう 。
   大分長い間 瘦せ我慢を続けてゐたけれど 、
  到底長持ちのする事でないと見極めがつい
  たので 、アルミニユームの弁当函に麦飯を
  詰めて携行する事にした 。机の抽斗に入れ
  ておいて 、そろそろ廊下の浮き上がつて来
  る二時半か三時頃に食べる 。おかずがうま
  いと御飯が足りなくなるから 、塩鮭の切れ
  つ端か紫蘇巻に福神漬がほんの少し許リ入れ
  てある計りである 。持つて来る時には中が
  詰まつてゐるから音がしないが 、夕方帰る
  時は 、エレヹーターに乗つた拍子に 、袱紗
  包みの中がからんからんと鳴る事もある 。」

  引用おわり 。

  日本郵船や丸ビルが出てくるので 、いつの頃の話かと

 思ったら 、昭和十年代 、太平洋戦争が始まる前の日本

 の首都 東京 、丸の内界隈にお勤めの頃の日常らしい 。

  随筆の中に 、以下の記述があり 、嘱託勤めの裏事情が

 わかって面白い 。

 「 私は嘱託として会社に顔を出してゐたが 、
  その内に戦争が始まり 、外洋航路は丸で
  駄目になつた 。郵船としての活動は麻痺
  してしまつて 、内部には人べらしも行は
  れるし 、私の様な我侭な地位は邪魔にな
  るばかりであつた 。
   その時分私は一時 、無給嘱託と云ふ事に
  なつた 。無給なら止めてしまへばいいで
  はないかと云ふに 、さうは行かないわけ
  がある 。当時頻りに報道班員と云ふ名前
  で軍から指名されて 、文士が支那や南方
  へ行かされた 。私にも直接 、軍からで
  はないが 、一寸そんな話があつた事もあ
  る 。それがいやなので 、郵船の屋根の下
  から出てしまふ時期ではないと思つた 。
  何も郵船の庇護を受けると云ふのではなく 、
  郵船にそんな力がある筈もなかつたが 、
  ただ自分は会社勤めの身分である 。文士
  としてのお役には立たないと云ふ顔がして
  ゐたかつたからである 。
   その内に又もとの有給嘱託に戻して貰つ
  て 、敗戦により郵船ビルを接収された後
  まで会社にゐたが 、・・・  」

 

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古き良き時代 Long Good-bye 2024・06・28

2024-06-28 06:03:00 | Weblog

 

 今日の「お気に入り」は 、また 内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 下宿屋の正月 」とした

 文の一節 。季節外れの話柄ながら 、明治と昭

 和にはさまれた 大正時代 の のんびりした社会

 の雰囲気 、代の雰囲気みたなものが 感じ

 られる 賄い付きの 下宿屋 の 正月風景  。

  引用はじめ 。

 「 学生時代に下宿屋でお正月を迎へた事は
  ない 。いつでも冬休みになる早早 郷里へ
  帰つて自分の家で年を越した 。
   それから十何年の後 、一旦 世間に地位
  を獲た後で失脚して 、私一人 場末の安下
  宿に引篭もり 、そこで 何度かのお正月を
  迎へる様な事になつた 。
   初めの内はそれ程でもなかったが 、次
  第に下宿料もたまり 、その侭 大晦日にな
  ると 、お神さんが 中中 八釜しく云つた 。
  向うも 余り成績のいい商売をしてゐる様で
  はないので 、困つてゐる事は解つてゐた
  が 、私の方でも当時は何の分別もなかつ
  た 。しかし 逃げ出す事も出来ないので 、
  障子を閉めた部屋の中に じつとしてゐると 、
  除夜の鐘が鳴つて お正月になつた 。
   元旦の朝は 目出度く おせつち物を盛つた
  お膳に お雑煮を添へて持つて来る 。また
  帳場からの心尽しで お燗が一本ついてゐる 。
  それで一ぱいやつてゐると 、廊下に著物
  のすれる音がして 、主人が 這入つて来る 。
  いつも洋服を著て どこか出歩いてゐるの
  だが 、今日は 紋付きを著用してゐる 。お
  まけに金縁眼鏡をかけてゐる 。平生 も眼
  鏡は掛けてゐる様だが 、銀かニツケルの
  曖昧な縁であつて 、気に掛けて見た事も
  ない 。しかし今日は 鼻の上に燦然と光つ
  てゐる 。更まつた時とか お目出度い時と
  かに佩用する金縁眼鏡は ふだんから蔵つ
  てあるらしい 。
   閾の所から坐った侭で這入つて来て 、お
  目出うを云つてくれる 。私の前身を知つ
  てゐる為か 、年輩の所為か知らないが 人
  の事を先生先生と呼び 、お金の事は兎に
  角として 少少尊敬してゐる様でもある 。
  一つお盃を頂戴致しませうと云ふから さ
  してお酌はしたけれど 、ここの主人は一
  滴も飲めない事を知つてゐるので 、どう
  するのかと思つてゐると 、一口に きゆつ
  と飲み干してしまふ 。何か取りとめもな
  い事を二言三言話し合つてゐる内に 、忽
  ち相手の顔が真赤になつた 。まだ外の部
  屋を廻らなければならないからと云つて出
  て行つたが 、二十何番迄ある内の 半分位
  しか人はゐないにしても 、一一 障子を開
  けて 、自分の家の中を 年賀をして廻るの
  は大変であらうと思つた 。私の所へは帳
  場からの通り路で 、最初に来てくれた様
  であつた 。
   午後になつて 、表へ出て見ようと思つて
  玄関に下りたら 、帳場の炬燵に 主人が金
  縁眼鏡をかけた侭 真赤な顔をして眠つてゐ
  るのが 障子の腰硝子 から見えた 。
   下宿屋にゐても お正月は矢つ張り静かで
  あつた 。下女と早稲田の学生とが 裏庭で
  羽をついてゐる音が 聞こえたりした 。」

   引用おわり 。

   昨今の物価の高騰 、巷に怨嗟の声が満ちている 。

  どこへ行っても 高齢者 。街中だけでなく 、ネッ

 トの交流サイトにさえ 高齢者が大勢たむろしている 。

  とくに 、収入は年金のみの高齢者の、シャキッと

 しない 長期ダラカン政権に対する 恨み は 深い 。

 物価高騰に定額の年金は目減りする一方 。先立つ

 ものに事欠いては 、買いたい物に伸ばす手が鈍る 。 

 年は取っても 、働けなくても 、情けなくても 、

 多数派有権者 。 

  ケチョンになると深海魚を決めこむ、茶の間の

 和服姿がとてもよくお似合いの 、増税メガネ に

 瓢箪から駒 が出かねない 解散総選挙なんぞ こわ

 くて こわくて 打てやしない 。

  来年まで 、がまん がまん 、深海魚路線で行くだ

 ろう 。

  人口に占める高齢者の割合は 30% に なんなん

 とす

  明治 、大正 言うまでもなく 、昭和 も 遠くなりに

 けり 。今日の天気は 、雨 ときどき 已む 。

 

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わたしの彼は左きき Long Good-bye 2024・06・26

2024-06-26 04:50:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 窮屈 」とした小文 の一節 。

  引用はじめ 。

  「 私がお菓子を食ふのを見て 、あなたは酒
  飲みの癖に甘い物をたべるのですかと怪し
  む客がある 。中にはけしからん事の様に
  考へる人もゐるらしい 。酒飲みは酒飲み 、
  甘党は甘党と片づけなければ気がすまぬの
  であらう 。
   酒飲みの中にも 、本当はたべたくないわ
  けではないが 、自分はいつぱしの酒飲み
  であると云ふ誇りがあつて 、菓子を近づ
  けないのもゐさうである 。」

 「 酒飲みを左利きと云ふのは 、右手が鎚手
  (つちて) で左手が鑿手 (のみて) と云ふ
  言葉の上の洒落に過ぎないのであるが 、
  私の友達には一緒に酒を飲む時 、必ず左
  手で酌を受ける 、何かで左がふさがつて
  ゐても 、無理に左手をあけてそれで杯を
  取る男がゐる 。こちらで笑ふと 、しかし
  昔から左利きと云ふではないか 、杯は左
  で持つものですよと云つて譲らない 。窮
  屈な話だと思ふけれども 、向うの信念で
  あるから 、仕方がない 。
   それでは私も左手で杯を持つ事にして 、
  右手があいてゐるから 、右手に菓子を摘
  まむ事にしようかと考へる 。しかし窮屈 
  派に内所でやらないと 、知れたら一斉に
  起つて私の無節操をなじるに違ひない 。」

  引用おわり 。

  早朝のラジオ番組で聞く KINCHO のラジオCMが

 オモシロい 、今年も キンチヤウの夏 。

 

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日本のいちばん長い夏 Long Good-bye 2024・06・24

2024-06-24 05:04:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、今拾い読みしている

 内田百閒さん ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走

 帖 」( 中公文庫 )の一節 。昭和20年 ( 19

 45年 ) 夏 の 百閒先生の日記 からの抜き書き 。

  正史のどこにも書いてない 、銃後の 、会社勤め

  の 、当時55歳の日本人男性 が書いた 日記  。

  一見のんきそうで 、そうではない 、団塊世代の親

 の世代が生きていた 首都東京の 当時の世相が 、ヴ

 ィヴィッドに伝わってきます 。

  筆者が生まれる ほんの二年半前 のこと 。

  引用はじめ 。

 「 七月十三日 金曜日 午後出社ス 。会社ニテ 古 ( 会社というのは日本郵船のことらしい )
  日 カラ麦酒一本貰ツタ 。夕 帰リテ 井戸水ニ冷ヤ
  シテ飲ム 。コノ頃ノ麦酒ハ マヅイナドト素人ガ
  申スナレド 然ラズ 。タツタ一本デモ 初メカラ ソ
  ノ覚悟デ飲ンダカラ ヤレタ 。家ノ焼ケ跡ノ玄関ノ
  戸棚ノアツタ所ト台所トノ 二ケ所ニ 麦酒罎ノ王冠
  栓ノ焦ゲタノガ小山ノ様ニ盛リ上ガツテヰタノヲ
  思ヒ出シタ 。」

 「 七月十五日 日曜日 イヨイヨ オ米ガ無クナリ
  カケテヰル 。モウドウスル事モ出来ナイ様ナ世
  間ノ形勢デアル 。夕 古日 来 。葡萄酒ヲ 麦酒罎
  ニ 一本ト 饂飩粉五百匁 持つて来テクレタ 。饂飩
  粉ハ難有イト云ツテ家内頗ル喜ベリ 。」

 「 八月一日 水曜日 御飯抜キノ 夕飯ヲ終リテ 間モ
  ナク 午後八時二十五分 警戒警報鳴ル 。同五十五分
  空襲警報トナリ ソレカラ 午前二時四十五分ノ空襲
  警報解除マデ 五時間五十分ニ亘ル空襲ニテ 頭ノ上
  ニコソ何事モナカツタガ 気疲レト連夜ノ寝不足ノ
  挙ゲ句 表ニ起ツテヰナガラ 居眠リガツク程 草臥レ
  タ 。」 

 「 八月四日 土曜日 夕 早目ニ会社カラ帰ル 。今
  日ハ 配給ノ麦酒三本アリ 。冷蔵庫ヤ氷ハ 叶ハヌ
  事ナレドモ 汲ミ立テノ井戸水ニ冷ヤシテ 三本続ケ
  様ニ飲ミ 大イニヤレタリ 。然ルトコロ 半月ニ及
  ブ穀断チノ後 漸ク今日ノ配給日マデ漕ギツケタト
  思ツタラ 午後家内ガ近所ノ人人ト請取リニ行ツテ
  見ルト 配給所ニ オ米ガ無イトカニテ 六日ニ 延ビタ
  由ナリ 。先日来 既ニオ米ヲ食ベル食ベナイノ問
  題デナク 代リノ粉モ 二度目ノ澱粉米モ 大豆サヘモ
  無クナツテヰルトコロダカラ 配給ノ日取リノ狂フ
  ハ 由由敷 大事也 。コノ 二日ヲ如何ニ過ゴスカ家内
  苦慮中ナリ 。」

   引用おわり 。

   風の便りに 、首都東京の有様を聞くにつけ 、・・・

   二十一世紀も四半分が過ぎようとしている 、嗚呼 。

 

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鱶 (フカ) 鮫 (サメ) 和邇 (ワニ) Long Good-bye 2024・06・22

2024-06-22 04:00:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 蒲鉾 」とした小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私の郷里の岡山に昔から名代の蒲鉾屋があつて 、
  今はなくなつたさうだが 、当時は近国にまでそ
  の名が知れ渡つてゐた 。
   子供の時に聞いた話に 、その蒲鉾屋の横山の
  御主人がみんなと一緒に船に乗つて 、金比羅
  詣りをした 。船は岡山の町を貫流してゐる旭
  川を下つて 、川口の児島湾から外海(そとうみ)
  に出る 。外海と云ふのは瀬戸内海の事であつて 、
  対岸の四国の讃岐へ渡るのであるが 、小さな船
  の事だから手間が掛かつた事であらう 。
   船が沖に出た頃 、不意に鱶(ふか)が船をつけ
  て来たので 、船中が大騒ぎになつた 。鱶は群
  をなして来るし又一匹でも人の乗つた船をくつ
  がへす事が出来る 。鱶につけられた以上は 、
  船の中のだれかが一人犠牲になつて海に入り 、
  鱶の餌食にならなければ 、結局は船をひつくり
  返されて 、みんなが残らず食はれてしまふと云
  ふ事になる 。それでさう云ふ災厄に遭つた時は 、
  船に乗つてゐる者が 、船べりから銘銘自分の手
  拭を水中に垂らし 、鱶がその手拭を引つ張つた
  者は 、自分から海に投じて他の者の危難を救は
  なければならぬと云ふ事に昔からきまつてゐる
  のださうであつて 、その時もみんなが手拭を垂
  らしたところが 、鱶は蒲鉾屋の横山の主人の手
  拭を引つ張つた 。
   それで当人は海に入つて鱶に食はれなければな
  らぬ事になつたが 、その時 、横山の主人が 、
  『 わしは岡山の横山だが 』と一言云ふと 、途
  端に船のまはりを取り巻いてゐた鱶が一散に逃
  げてしまつたと云ふのである 。
   備前岡山の横山はその通り有名であつて 、外
  海の鱶でも名前を知つてゐると云ふ事になるの
  であらうと思ふけれど 、それには横山の蒲鉾に
  は鱶をすりつぶして入れてあると云ふ事から 、
  鱶が横山の名前を聞いただけで 、恐れて逃げ出
  したと云ふのであらう 。子供の時に聞いたその
  話をこの頃になつて思ひ出して見ると 、岡山の
  人人の癖で 、その話も横山の悪口ではないのか
  と云ふ気がし出した 。横山横山と云ひはやすけ
  れど 、横山の蒲鉾にだつて鱶がつかつてある 、
  それだから鱶が逃げたのだと云ふ蔭口ではない
  かとも思はれる 。いい蒲鉾には鱶をつかはない
  かどうかさう云ふ点を私は丸で知らないので 、
  これから先は考へる事が出来ない 、また鱶と鮫
  とはどう違ふのかよく知らないが 、どちらも人
  を食ひ 、また蒲鉾の種につかはれるらしいので 、
  鮫の切り身の事からそんな事を気にしてゐたので
  ある 。

  引用おわり 。

  こういう小話 だいすき 。

  かまぼこは 、おととなの ?

 ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註:「 サメ( 鮫 )は 、軟骨魚綱板鰓亜綱に属する
       魚類のうち 、鰓裂が体の側面に開くものの総称 。
       鰓裂が下面に開くエイとは区別される 。2020年
       11月時点で 世界中に 9目36科106属553種が存在
       し 、日本近海には 9目34科64属130種 が認めら
       れている 。 」 

      「  一般的にはサメは『 鮫 』という漢字が使用され
       ますが『 鱶 』という漢字が使われることもあり
       ます 。 
        おもに関東以北では サメ と呼ばれていますが 、
       関西では フカ 、山陰地方では ワニ ( 和邇 ) と呼
       ばれることが多いのだそう 。

       以上ウィキ情報ほか 。

       「 因幡の白兎 」の話には 、ワニ が登場しますが 、

      幼い頃 読み聞かされたとき 、日本の昔話に 、なぜ

      西洋の「 フック船長 ワニ 」が出てくるのか 、

      理解に苦しみました 。確か 白兎が 、慈悲深い大国主命

      に命を救われるお話で 、元々は、白兎が嘘をついて

      ワニたちを渡海に利用したのが 、白兎受難の原因

      で 、嘘ついたり 騙しちゃいけないよ 、という教訓

      話だったような記憶があります 。

 

( 紫陽花(アジサイ)の花言葉は、「移り気」「浮気」「無常」など。
鍾馗空木(ショウキウツギ)の花言葉は 、「謙虚」「古風」「風情」「秘密」など 。)

  ( 和名は ショウキウツギ( 鍾馗空木 )です 。)

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おさけははたちになつてから Long Good-bye 2024・06・20

2024-06-20 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 シュークリーム 」とした

 小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私が初めてシュークリームをたべたのは 、
  明治四十年頃の事であらうと思ふ 。その
  当時は岡山にゐたので 、東京や大阪では 、
  或はもう少し早くから有つたかも知れない 。
   第六高等学校が私の生家の裏の田圃に建
  つたので 、古びた私の町内にもいろいろ
  新らしい商売をする家が出来た 。夜にな
  ると 、暗い往来のところどころにぎらぎ
  らする様な明るい電気をともしてゐる店が
  あつて 、淋しい町外れの町に似合はぬハ
  イカラな物を売つてゐた 。
   私は明治四十年に六高に入学したのであ
  るが 、その当時は私の家はもうすつかり
  貧乏してしまつて父もなくなり 、もと造
  り酒屋であつたがらんどうの様な広い家
  の中に 、母と祖母と三人で暮らしてゐた 。
   夜机に向かつて予習してゐると 、何が
  食ひたいかと考へて見ると 、シユークリ
  ームがほしくなつて来る 。その時分は 、
  一つ四銭か五銭であつたが 、さう云ふ高
  い菓子をたべると云ふ事は普通ではない 。
  しかし欲しいので祖母にその事を話すので
  ある 。祖母が一番私を可愛がつてゐたの
  で 、高等学校の生徒になつても矢張り子
  供の様に思はれたのであらう 。それなら
  自分が買つて来てあげると云って暗い町
  に下駄の音をさせて出かけて行く 。
   六高道に曲がる角に広江と云ふ文房具屋
  があつて 、その店でシユークリームを売
  つてゐる 。祖母はそこまで行つて 、シユ
  ークリームを一つ買つて来るのであるが 、
  たつた一つ買つて来ると云ふ事を私も別に
  不思議には思はなかつた 。祖母の手から
  そのシユークリームを貰つて 、そつとそ
  の中の汁を啜つた味は今でも忘れられな
  い 。子供の玩具に本当の牛を飼つて見た
  り 、いい若い者の使に年寄りがシユーク
  リームを買ひに行つたりするのが 、いい
  か悪いかと云ふ様な事ではないのであつて 、
  こつてい牛は今では殆んど見られなくなつ
  たが 、シユークリームをたべると 、いつ
  でも祖母の顔がどことなく目先に浮かぶ様
  に思はれるのである 。  」

  引用おわり 。

  文学的才能の萌芽らしきものを見せ始めた一人息子に

 期待を寄せる母と祖母 、父親不在家庭にあって 、十五 、

 六歳になった ひとり息子 が 、幼い頃そのままに 、母 、

 祖母に 、傍若無人で 、大人をなめきった態度 、行動を

 り続ける 。

  とてもやばそう 。だけど 、現代でもありそうな家庭情況 。

 ( ´_ゝ`)

  1889年(明治22年)生まれの「 榮造 」少年が 十五歳か

 十六歳のときの 1905年(明治38年)に父親が亡くなり 、

 実家の造り酒屋 志保屋が倒産 、経済的に困窮したらしい 。

 それでも 、地方の旧家の常で 、恒産があったのか 、日々

 の暮らしはなんとかなったらしく 、ひとり息子だった榮造

 少年は 、翌 1906年(明治39年)に 、博文館発行の文芸雑

 誌「 文章世界 」に小品を投稿し、「 乞食 」が 優等入選 し

 たりしている 。

  そして 、1907年(明治40年)には 、岡山中学校を卒業し 、

 第六高等学校( 現在の岡山大学 )に入学 。三年後の1910年

 (明治43年)、第六高等学校卒業 。上京し 、東京帝国大学

 文科大学に入学( 文学科独逸文学専攻 )。1911年(明治44年)、

 療養中の夏目漱石を見舞い 、門弟となったようである 。

 ( ´_ゝ`)  

 ( ついでながらの

   筆者註:この随筆の巻末に 、百閒先生の旅のお供

    をされた ヒマラヤ山系君 こと 平山三郎さんが

    書かれた「 解説 」があり 、その解説文の中に

    百閒先生について こんな記述があります 。

    「 ひとりッ子で我侭の仕放題 、おんば
     日傘で育てられた 、お祖母さん子で
     ある 。」

     こんな場合 、大抵 ろくな大人には育たない 。

     百閒先生が ろくな大人 だったのかどうかは 、

    寡聞にして 筆者は存じ上げません 。それでも

     お酒も 、煙草も 、若い頃から切らしたことが

    ない というほど嗜まれた 百閒先生は 存外 長命

    で 、81歳で 、老衰で 、亡くなったそうです 。

     随筆を読みますと 、ご長命の理由が仄見えて来

    ます 。そう感じられる普段の生活習慣をいくつか

    挙げてみます 。

     引用はじめ 。

    「 朝の支度は 、起きると先づ果物を一二種食ふ 。
     梨や林檎は大概半顆宛 、桃は大きくても小さく
     ても一つ食べる 。桃の身は濡れてゐて辷(すべ)
     り込むから食つてしまふのである 。それと同時
     に葡萄酒を一杯飲む 。大変貴族的な習慣で聞き
     なりはいいが 、常用の葡萄酒は日本薬局方の所
     謂赤酒である 。問屋からまとめて買ふので一本
     五十二銭である 。」

    「 郵便や新聞を見終る前に 、ビスケットを噛つて
     牛乳を飲む 。これで朝食を終るのである 。」

    「 何の邪魔も這入らない時は 、十時頃から仕事に
     かかる 。さうしてお午になると蕎麦を食べる 。
      大体秋の彼岸から春の彼岸までは 、盛りかけ一
     つ宛を半分宛食ふ 。春の彼岸から秋までは盛り
     二つを一つ半位食ふ 。夏の方が朝が早いのでそ
     れ丈腹がへるらしい 。学校を止めて以来ずつと
     その習慣を変へない 。」

    「 午後ずっと仕事をしてゐても 、私は間食は決
     してしない 。ただひたすらに 、夕食を楽しみ
     にしてゐる 。」

    「 私は親譲りの酒好きなのであらうと自分でも
     さう思ふのは 、酒の味がうまくて堪らないの
     である 。酔つた気持も悪くないが 、しかし
     あまり度を過ごすのは好きではない 。それは
     私が気を遣つて自制するのではなく 、いい加
     減のところまで行くと 、酒の味が悪くなるの
     で 、さうなると 、もうあまり飲む気がしな
     い 。」  ( 専ら日本の麦酒と清酒で 、火酒は滅多に飲まれなかったらしい 。)

    「 夕食の膳では酒を飲む 。酒も決して外の時間
     には口にしない 。間でお行儀のわるい事をする 
     と 、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからで
     ある 。酒は月桂冠の罎詰 、麦酒は恵比須麦酒
     である 。」

    「 夜は大概仕事をしない 。おなかのふくれたと
     ころで寝てしまふ 。」

    「  毎月八日と十七日と二十一日の三日をお精進と
     定めて 、魚も肉も食べない 。野菜を煮る汁に
     も鰹節をつかはない様に云ひつけてある 。味の
     素は精進料理につかつて差支へない物と思ふけ
     れども 、味の素を入れた料理は上つすべりがし
     て 、塩梅の妙味と云ふものがなくなるから 、
     ふだんから使はせない 。口先だけうまくて 、
     ペンキ塗の御馳走だからいかんと申し渡してあ
     る手前 、お精進の三日だけは味の素をつかつ
     てもいいと云ふのも沽券にかかはるので 、昆
     布のだしなどで我慢する 。それで煮物も平生
     よりはうまくない様だが 、それだけ味が変は
     つて 、如何にも今日はお精進であると云ふ様
     な気がする 。  」

    「 いつでもその翌日は精進落ちを布令する 。
     牛肉の網焼をさせたり 、蒲焼を取つたり 、
     四谷見附の三河屋から牛の舌を持つて来させ
     たりする 。それで一月に三日は大つぴらに
     御馳走を食ひ散らす口実が出来てゐるが 、
     更にその機会をふやすために 、謝肉祭の故
     智に祖(なら)つて 、お精進の前晩にも 、
     平生あまり食はない様な御馳走を要求する事
     にしようかと考へついた 。この次の十七日
     のその前の晩は 、うつかり過ごさないやう
     にしようと心掛けてゐる 。  」

     引用おわり 。

     バランスよく 、規則正しく食べていらっしゃる 。

      理にかなった 食生活 。

     へべれけ になるまでは 、のまない 。

     筆者の想像するところ 、百閒先生 何よりの健康法は 、

    ストレスを内に溜め込まず 、爆発させて発散するか 、

    ひとにストレスを転嫁することにあった と思います。

     随筆の中に 、次のような記述があり 、老衰 という

    より 、年来の痼疾から来る 心不全 で亡くなったよう

    にも思えます 。ご寿命だったのでしょう 。

    「 私の動悸と云ふのは 、普通の人の動悸とは
     大分違ふのであつて 、もう二十年来の持病
     である 。発作が起こると脈搏は二百位にな
     るが 、しかし呼吸は普通であつて 、煙草を
     吸ひながら 、話しをする事が出来る 。すぐ
     治まれば何でもないが 、長く続くと変な気持
     になつて 、死にさうに思はれる 。それで夜
     なかでも夜明けでも小林博士の許へ行く様な
     事になるのだが 、診察室で苦しい胸を押さへ
     て 、待つてゐるところへ 、外の廊下に小林
     博士の足音が聞こえると 、その拍子になほ
     つてしまつたと云ふ様な事が何度もある 。
     発作だから 、なほつたら後は何ともない 。
     よる夜中お騒がせしてすみませんでしたと
     お詫びして帰つて来る 。小林博士の玄関ま
     で来てなほつた事もあり 、自動車がその近
     所へ曲がつた時になほつた事もあり 、苦し
     くなつて 、小林博士の許へ行かうと思つて 、
     自動車に乗つた途端になほつた事もある 。
     普通の心臓病ではないのださうであつて 、
     病名は Paroxysmale Tachykardie 発作性
     心臓収縮異常疾速症と云ふのである 。
      しかしさう云ふ風にうまい工合になほら
     ぬ時もあつて 、二百前後の脈搏が何時間
     も続き 、十何時間も続き 、二十何時間も
     続き 、一番長かつた時は 、三十六時間半
     続いた事がある 。 」

      ( 文中に出てくる小林博士は 、百閒先生の掛りつけのお医者さんで 、医学博士の小林安宅先生 のこと )

     晩年の 1967年 (昭和42年)、芸術院会員に推薦され

    も固辞

     辞退の弁は「 イヤだから 、イヤだそうです 。

 

 

  和名はショウキウツギ( 鍾馗空木 )です 。

           毛に覆われた実を 、悪魔を追い払う髭の生えた神様「 鍾馗 」の
           顎ひげになぞらえたことから、ショウキウツギという和名がついたそうです

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越天楽今様 Long Good-bye 2024・06・18

2024-06-18 05:05:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、「 春のやよいの 

 あけぼのに 」が 歌い出しの「 越天楽今様 」

 (えてんらく いまよう)の 歌詞 。メロディ

 が思い浮かばないのは 、耳に馴染みがない

 せいでしょうか 。日本の四季 、今は昔 。

  作詞者は 僧 慈円 。「 小倉百人一首 」で

 前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)

 と紹介されている 、平安時代末期から鎌倉時代

 初期の天台宗の僧で、歌人 。歴史書「 愚管抄 」

 を記した人物 。

 「 歌 詞

   春のやよいの あけぼのに
  四方(よも)の山べを 見わたせば
  花盛りかも しら雲の
  かからぬ峰こそ なかりけれ

   花たちばなも 匂うなり
  軒のあやめも 薫るなり
  夕暮さまの さみだれに
  山ほととぎす 名乗るなり

   秋の初めに なりぬれば
  ことしも半ばは 過ぎにけり
  わがよ更けゆく 月影の
  かたぶく見るこそ あわれなれ

   冬の夜寒の 朝ぼらけ
  ちぎりし山路は 雪ふかし   朝帰りの歌
  心のあとは つかねども
  思いやるこそ あわれなれ  」

 「 歌詞の意味:

   春 、三月の明け方に 、周りの山々を見渡すと 、
  桜が満開なのだろうか 、雲のかかっていない
  峰はない 。

   夏には橘の白い花が匂い 、軒に咲く菖蒲も香る 。
  夕暮れに五月雨(さみだれ)が降り 、山では
  ホトトギスが鳴いている 。

   秋に入り 、今年も半分過ぎた 。月が沈むように
  我が人生も過ぎゆき 、もの寂しく思う 。

   冬の寒い夜が明ける頃 、細い山道の雪は深い 。  書いてないけど朝帰りなんです 。
  心の足跡はつかないが 、思いを馳せるのは趣深い 
  ことだ 。 」

   

  ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註:ネット検索した 小学唱歌集 ( 明治14年11月 )

    の 第十五に 「 春のやよひ 」と題してこの歌が

    載っています 。

    「 一 春のやよひの。あけぼのに。
       四方のやまべを。見わたせば。
       はなざかりかも。しらくもの。
       かゝらぬみねこそ。なかりけれ。
     二 はなたちばなも。にほふなり。
       軒のあやめも。かをるなり。
       ゆふぐれさまの。さみだれに。
       やまほとゝぎす。なのるなり。
     三 秋のはじめに。なりぬれば。
       ことしもなかばは。すぎにけり。
       わがよふけゆく。月かげの。
       かたぶく見るこそ。あはれなれ。
     四 冬の夜さむの。あさぼらけ。
       ちぎりし山路は。ゆきふかし。
       こゝろのあとは。つかねども。
       おもひやるこそ。あはれなれ。 」

      福岡県民謡「 黒田節 」の三番に「 春のやよひ 」の

     一番の歌詞が使われているようです 。

     《 黒田節の歌詞:

       酒は飲め飲め 飲むならば
       日の本一の この槍を
       飲みとるほどに 飲むならば
       これぞまことの 黒田武士

       峰の嵐か 松風か
       訪ぬる人の 琴の音か
       駒ひきとめて 立ち寄れば
       爪音高き 想夫恋

       春の弥生の あけぼのに
       四方の山辺を 見渡せば
       花盛りかも 白雲の
       かからぬ峰こそ なかりけれ 

      ついでのついでのことながら 、小学唱歌集の第十七に

     「 蝶々 」が載っており 、筆者にとっては 、この

     一番を 現代風にア レンジした歌詞に馴染み

     あります 。さすがに 、二番は知らないなあ 。

     「 一 てふ/\てふ/\。菜の葉にとまれ。 「 ちょうちょ ちょうちょ 」
        なのはにあいたら。桜にとまれ。
        さくらの花の。さかゆる御代に。 「 はなからはなへ ] でしたっけ。
        とまれよあそべ。あそべよとまれ。

      二 おきよ/\。ねぐらのすゞめ。
        朝日のひかりの。さしこぬさきに。
        ねぐらをいでゝ。こずゑにとまり。
        あそべよすゞめ。うたへよすゞめ。」

      以上ウィキ情報 ほか 。

 

 

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たばこははたちになつてから Long Good-bye 2024・06・16

2024-06-16 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 菊世界 」とした小文 の一節 。

 「 菊世界 」は 、幼時から喫煙に親しんだという

 内田百閒 さんの 七十年の 煙歴 を 縷々書き連ね

 た 、今の感覚では 不適切にも程がある「 煙草

 み 」話し 。

  以下に引用するのは 、の文章の合間に 挟みこま

 れた 百閒さんの 「 蕎麦食い 」の話し

  ギャンブル依存症じゃありませんが 、何かに「 は

 まる 」と なかなか抜け出せない のは 、人間の 哀し

 い 性 ( さが )  。

  でも 、ひとの嗜好というものは 、もともと そういう

 ものですよね 、他人の理解のそと 。

 「 菊世界 」というのは 、戦前の日本にあった 紙

 巻きたばこ の銘柄名らしいです 。知らんけど 。 

  引用はじめ 。

  「 今年の正月に 、法政大学の騒動で 、学校の
  先生を止めて以来 、家に篭居して 、身体を
  動かす事が少いので 、午飯を廃して 、蕎麦   廃してないじゃあーりませんか 。
  の盛りを一つ半食ふ事にきめた 。蕎麦屋は
  近所の中村屋で 、別にうまいも 、まづいも
  ない 、ただ普通の盛りである 。続けて食つ
  てゐる内に 、段段味がきまり 、盛りを盛る
  釜前の手もきまつてゐる為に 、箸に縺れる
  事もなく 、日がたつに従つて 、益うまくな
  る様であつた 。うまいから 、うまいのでは
  なく 、うまい 、まづいは別として 、うま
  いのである 。爾来二百余日 、私は毎日きま
  つた時刻に 、きまつた蕎麦を食ふのが楽し
  みで 、おひる前になると 、いらいらする 。
  朝の内に外出した時など 、午に迫つて用事
  がすむと 、家で蕎麦がのびるのが心配だか
  ら 、大急ぎで自動車に乗つて帰る 。たかが
  盛りの一杯やニ杯の為に 、何もそんな事を
  しなくても 、ここいらには 、名代の砂場
  があるとか 、つい向うの通に麻布の更科の
  支店があるではないかなどと云はれても 、
  そんなうまい蕎麦は 、ふだんの盛りと味の
  違ふ点で 、まづい 。八銭の蕎麦の為に五
  十銭の車代を払つて 、あわてて帰る事を私
  は悔いない 。
   私は鶯や 、柄長や 、目白などを飼つてゐ
  るので 、時時 、小鳥達は 、毎日ちつとも
  変らない味の摺餌をあてがはれて 、さぞつ
  まらない事だらうと同情してゐたが 、お午
  の蕎麦以来 、味の決まつた摺餌は 、つま
  らないどころでなく 、大変うまいに違ひな
  いと想像した 。小鳥達が 、さもさもうま
  さうに食ふ有様を思ひ浮かべながら 、自分
  の蕎麦を啜る事もある 。  」

   引用おわり 。

  午飯を食べなくなって 久しい 。人間は習慣の動物

 だと しみじみ思う 。腹はすくけど 左程 痛痒は感じ

 ないし 、残念とも思わない 。瘦せても来ないし 、

 身体には いいような気もしている 。

  ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註 :随筆「 菊世界 」の中には 、こんな文章も

    あります 。

    「  煙草が専売になる前に 、一番長く 、沢山
     吸ったのは菊世界である 。私は菊世界の煙
     の尾に 、憂悶と憧憬の少年時代を託した 。 何言ってんだか 、煙草飲みの戯言 。
     その懐しさは今でも忘れられない 。専売局
     になつてからも 、暫らくは 、煙草屋の店
     頭に菊世界があつた 。いよいよもう手に入
     らなくなつた時 、新らしく売り出した専売
     局の口附の中で 、どれが一番菊世界に似て
     ゐるかと思つて 、吸ひ比べた結果 、私は
     大和にきめた 。敷島八銭 、大和七銭 、  
     六銭 、山桜五銭であつた 。それから現在
     の敷島十八銭になるまでに 、幾段階の値上
     げを経てゐる 。品目の中では 、山桜が最
     初に姿を消し 、大和は近年まであつたけれ
     ど 、到頭なくなつた 。大和の次ぎに 、敷
     島を吸つた 。尤もそれは大和がなくなつて
     からの事ではなく 、敷島が非常にうまかつ
     たからである 。」

    この随筆の巻末に 、百閒先生の旅のお供をさ

    れた ヒマラヤ山系君 こと 平山三郎さん が書

    かれた「 解説 」があり 、その解説文の中に

    百閒先生について こんな記述があります 。

    「 百閒先生はけっして食通とか美食家と
     いうのではなく 、おいしい酒肴をとと
     のえてお膳を賑やかにするのが好きで 、
     お膳の上のお行儀もやかましいことを
     云ったが 、それもお酒をおいしく飲む
     順序であるらしく 、盃を重ねるにした
     がって普段の気むずかしさはなくなった 。
     ひとを呼んで御馳走することに篤く心を
     使うひとだった 。 
      ―― 戦後すぐの掘立小屋の時分は 、
     シャアシャアというのが何よりの御馳
     走だった 。平山君 、今日はシャアシ
     ャアを持って供するからね 、と嬉しそ
     うな顔で予告された 。フライパンにバ
     ターを引いて鶏肉をいれるとシャアシ
     ャアと芳しい音がする 。それがその時
     分の御馳走だった 。」

    「 気に入った酒肴があるとそれに凝って
     しまう 。サヨリのそぎ身が旨いとなる
     と 、毎日食膳にならんでいないと気に
     入らない 。お刺身も白身だけではなく
     紅白そろったのをよろこぶ 。ワカメは
     富山の灰ツキがいいとなると 、時季に
     なるとその入手に苦労する 。阿房列車
     では 、米原の鱒ずしが気に入って 、
     東海道の帰り途には十箇も二十箇もお
     土産に買いこんだ 。荷物になって 、
     重いので 、閉口した 。自分ではけっ  立派なパワハラ 。
     して荷物を持ちたがらないのである 。
      晩年 、鰻にコッて 、一ヶ月のうち
     二十八日とか毎日註文した時期がある 。
     その時期に 、先生のうちのお膳に坐
     って 、つづけざまに三回ほど御馳走
     になったことがある 。
      その日その日のお膳の御馳走品目は
     克明にメモに誌してあった 。卓上に
     ならんだその一つ一つを点呼するよう
     に確認し 、私にも読んで聞かせ 、納
     得してから盃をとり上げる 。色とり
     どりのその御馳走を目の前にして 、
     不図 、焼け出されて掘立小屋に居た
     ころの 、フライパンで煙りをあげて
     芳しい匂いのしたシャアシャアを思
     い出したりした 。
         ( 昭和五十三年十一月 ) 」

     随筆の本文「 煙歴七十年 」の中にも 、百閒先生

    ご自身のこんな記述があります 。

    「 私は幼稚園に上がる前から煙草を吸つてゐる 。
     明治の法律で未成年禁煙令が出たのは何年で
     あつたか 、よく知らないが 、私はまだ小学
     校に通つてゐた時で 、すでに私は相当の煙歴
     を積んでゐた 。  」

    「 爾後今日に及んで 、私の煙歴はすでに七十年
     に垂 (なんなん) とする 。随分長い年月 、口
     から煙を吐き続けたが 、その間に病気で煙草
     が吸へなかつた時を除いて 、自分から煙草を
     やめようと思つた事は一度もない 。つまり禁
     煙を思ひ立つた記憶はない 。  」

     《 内田百閒著 「 御馳走帖 」中央公論新社 刊 所収 》

   ( ´_ゝ`)

   ( ついでのついでながらの

     筆者註:百閒先生は 、明治22年 ( 1889年 ) の

      お生まれ 。 

      「 未成年者喫煙禁止法 」 が定められたのは 、

      1900年 ( 明治33年 ) のことだそう 。

      この「 二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル

      法律 ( 明治三十三年三月七日法律第三十三号 )  」

      の全文を以下に引用します 。「 朕 ( ちん ) 」

      とは 、明治天皇 のご自称 ですが 、話し言葉で

      あるだけでなく 、公文上にも そう書くのだと

      初めて知りました 。

      大日本帝国だった時代の法律 ではありますが 、

      微修正されて 、今も適用されているようです 。

      「 朕󠄁帝國議會ノ協贊ヲ經タル未成年者喫󠄁煙禁止法ヲ
       裁可シ玆ニ之ヲ公󠄁布セシム    立憲君主国の法律なのだ 。

       御名御璽 ( ぎょめいぎょじ )

       明治三十三年三月六日

       內閣總理大臣 侯爵󠄂 山縣有朋󠄁

       內務大臣 侯爵󠄂 西鄕從道󠄁  

       法律第三十三號

       二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律 

       第一條
       二十歳未満ノ者ハ煙󠄁草ヲ喫󠄁スルコトヲ得ス

       第二條
       前󠄁條ニ違󠄂反シタル者アルトキハ行政ノ處分󠄁
       ヲ以テ喫󠄁煙󠄁ノ爲ニ所󠄁持スル煙󠄁草及器具󠄁ヲ沒
       收ス

       第三條
       未成年者ニ對シテ親權ヲ行フ者情󠄁ヲ知リテ
       其ノ喫󠄁煙󠄁ヲ制止セサルトキハ科料ニ處ス
       親權ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル
       者亦前󠄁項ニ依リテ處斷ス

       第四条
       煙草又ハ器具ヲ販売スル者ハ二十歳未満ノ
       者ノ喫煙ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ
       他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス

       第五条
       二十歳未満ノ者ニ其ノ自用ニ供スルモノナ
       ルコトヲ知リテ煙󠄁草又ハ器具󠄁ヲ販賣シタル
       者ハ五十万円以下ノ罰金ニ處ス

       第六条
       法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使
       用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業
       務ニ関シ前条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ
       行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ
       同条ノ刑ヲ科ス

       附則
       本法ハ明治三十三年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

       とても おもしろいですね 。

       以上ウィキ情報ほか 。

 

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薬喰 ( くすりぐい ) Long Good-bye 2024・06・14

2024-06-14 05:27:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 薬喰 」とした小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私の家は造り酒屋だつたので 、酒倉が穢れる
  と云つて 、子供の時は牛肉を食はして貰えな
  かつた 。四脚の食べ物は 、一切家に入れなか
  つたのである 。だから本当の味は知らないけ
  れども 、大変うまいものだと云ふ話は 、学校
  の友達などからも度度聞いて居り 、又たまに
  夕方など 、人の家の前を通り過ぎる拍子に 、
  何とも云はれないうまさうな 、温かい匂が風
  に乗つて流れて来ると 、ひとりでに鼻の穴の
  内側が一ぱいに拡がる様な気持がした 。
   田舎の町外れに 、叔母さんの家があつて 、
  古風な藁屋根で 、入口には障子戸が嵌まつて
  ゐた 。私があんまり丈夫でないから 、薬喰
  に牛肉を食べさせようと云ふ内緒話が 、そこ
  の叔母さんと私の母との間にあつたらしく 、
  ある日の夕方 、私は母と一緒に 、俥に乗つ
  て叔母さんの家に出かけた 。
   家に帰つたら 、決してだれにも云つてはな
  らぬと云ふ事を 、よくよく云ひ含められた上
  で 、茶の間の畳の上にうすべりを敷いたとこ
  ろに坐ると 、叔母さんが 、竹の皮包みの中
  から 、白い脂の切れを取り出して 、焼けた
  鍋の上を 、しやあ 、しやあと引いた 。薄青
  く立ち騰る煙の匂を嗅いだだけでも 、もう堪
  らない程うまさうに思はれた 。
   牛肉をどのくらゐ食つたのか覚えてゐないけ
  れど 、後で口の臭味を消すためだと云つて 、
  蜜柑を幾つも食べさせられ 、なほその上に 、
  お酒を口に含んで 、がらがらと嗽ひをした後
  で 、叔母さんの鼻先に口の息を吹きかけて見
  て 、大丈夫もうにほはないと云ふことになつ
  て 、それから寒い夜道を俥に乗って 、家に
  帰つて来た 。みんなが顔を見る様な気がして 、
  落ちつかなかつたけれど 、その時初めて覚え
  た不思議な味は 、寝床に這入つた後までも 、
  秘かに思ひ出して見て 、何とも云はれない 、
  いい気持がした 。」

 「 何年かたつ内に 、私の家は貧乏して 、三代
  つづいた酒屋を止めたから 、その後は 、大つ
  ぴらで牛肉が食へる様になつた 。それからこ
  の方三十年 、機会ある毎に貪り食つても 、ま
  だ食ひ足りないのである 。 」

 引用おわり 。

  上記が 、団塊世代の親の世代の人 、即ち 明治 、大正 、

 昭和を生きて来た人が 、書かれた文章であると考えますと 、

  日本人一般の 肉食の歴史は 、随分と浅いような 気がしますね 。

   ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註:「 1889年(明治22年)5月29日 、岡山市(現在の
       中区)古京町一丁目百四十五番地に 、父:久吉 、
       母:峯の一人息子として誕生 。実家は裕福な造
       り酒屋『 志保屋 』で 、先代の祖父の名から
       『 榮造󠄁 』と命名される 。岡山市立環翠小学校
       (現在の岡山市立旭東小学校)、岡山高等小学校
       (現:岡山市立岡山中央小学校)を経て 、岡山
       県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等
       学校)入学 。

        1905年(明治38年)、父・久吉死去 。実家の
       志保屋が倒産し 経済的に困窮する 。『 吾輩は
       猫である』を読み 、夏目漱石に傾倒する 。
       1906年(明治39年)、博文館発行の文芸雑誌
       『 文章世界 』に小品を投稿し 、『 乞食 』が
       優等入選する 。

        1907年(明治40年)、岡山中学校を卒業し 、第
       六高等学校(現在の岡山大学)に入学 。1908年
       (明治41年) - 担任の国語教師・志田素琴の影
       響で俳句を始め 、句会を開く 。俳号は地元の
       百間川にちなんで『 百間 』とする 。

       東京帝国大学時代
        1910年(明治43年)、第六高等学校卒業 。上京
       し 、東京帝国大学文科大学入学(文学科独逸文学
       専攻)。1911年(明治44年)、療養中の夏目漱石
       を見舞い 、門弟となる 。小宮豊隆 、鈴木三重吉 、
       森田草平 、野上豊一郎らと知り合う 。

        1912年(大正元年)、中学時代の親友であった
       堀野寛の妹 、堀野清子と結婚 。1913年(大正2年)、
       夏目漱石著作本の校正に従事 。長男久吉生まれる 。

       作家として
        1914年(大正3年)、東京帝国大学独文科を卒業 。
       漱石山房では 芥川龍之介や久米正雄を識る 。長女
       多美野生まれる 。1916年(大正5年) - 陸軍士官
       学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。

       ( 後 略 )」

        以上ウィキ情報 。

        随筆の中で 、実家について百閒さんは こんな風に書いて

       いらっしゃいます 。

         「 父の代に家が貧乏したのは 、父が酒飲みで
         あったから 、お酒の為にしくじつたのである
        と 、母や祖母から聞かされてゐたけれども 、
        当時の父よりも年を取つた今の自分の判断で
        考へて見ると 、父の酒のために家が傾いたと
        は思はれない 。寧ろさう云ふ風になつた家運
        の挽回成らずして 、そのために父が酒を過ご
        すことも多かつたのではないかと思はれる 。
         しかし私がまた酒飲みになつて 、父の轍を
        踏む様な事があつてはならぬと云ふ心遣ひか
        ら 、祖母は私に 、一人前になるまでは決し
        て酒を飲むなと戒めた 。それだから私は学
        校を出るまで 、麦酒の味は知つてゐたけれ
        ども酒は余り飲まなかつた 。
         卒業してから暫らくすると 、陸軍教授を拝
        命したので 、私は曲りなりにも 、一人前に
        なつた様である 。」  ) 

 

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愛のさざ波 Long Good-bye 2024・06・12

2024-06-12 04:30:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、テレビ番組「  六角精児の呑み鉄

 本線・日本旅  」の中で聴いた 島倉千代子 さんの曲 「 愛のさ

 ざ波 」の一節 。ただし 、番組の中でこの曲を歌うのは 、番

 組の進行役である 六角精児 さん 。こんな歌詞で始まる 。

 「 この世に神様が 本当にいるなら
  あなたに抱かれて 私は死にたい
  ああ 湖に 小舟がただひとつ

  やさしく やさしく くちづけしてね
  くり返す くり返す さざ波のように 
  ・・・ ♪♪♪ 

  ( 作詞:なかにし礼 作曲:浜口庫之助 )

  ( ´_ゝ`)

   さざ波 と聞くと 、条件反射のように 、大杉漣 さんや 別の物を

 思い出すのは 私だけ ?

 ( ついでながらの

   筆者註:ちょっと長いけど 、面白いから ほぼ全文 引用します 。

      「 六角 精児( ろっかく せいじ 、1962年6月24日 -   )
       は 、日本の俳優・タレント 。 主な出演作品として
       は 、テレビドラマの『相棒』シリーズ 、『民王』
       『不機嫌な果実』『ごめん、愛してる』、NHK連続
       テレビ小説の『純情きらり』『カーネーション』
       『まれ』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』『おんな城
       主 直虎』『真夜中のパン屋さん』など 、映画作品
       では『鑑識・米沢守の事件簿』『超高速!参勤交代』
       シリーズなど 。劇団扉座所属で 、マネジメントは
       舞プロモーションに依頼している 。本名は 山地 
       克明( やまじ かつあき ) 。

       来 歴
        兵庫県姫路市出生 、兵庫県高砂市を経て神奈川県
       相模原市育ち 。 厳密には『 姫路市で生まれ 、
       幼少期を高砂市で育っている 』という 。小学生
       の時に高砂市から相模原市へ引越していたため 、
       関西弁も話せるが 、日常生活では関東弁を話す

        最初 、芝居は好きではなかったと発言し 、『 中
       学生の時に演劇部を見たが 、あれをやる人の気持
       ちがわからない 』とも語っている 。進学した神奈
       川県立厚木高等学校では 、当時 、生徒全員部活に
       入部しなければならない決まりになっており 、たま
       たま誘われた演劇部に入部 。この時はすぐに退部
       できそうだと思っていた 。しかし 、当時の演劇部
       部長だった横内謙介( 後の劇団扉座座長 )にキャ
       スティングされて出演した舞台が 、演劇コンクー
       ルの全国大会まで進出し 、結局 その後も演劇部に
       在籍していた 。だが 、『 早く終わらないかな 』
       などとは思っていた 。その一方で『 観客の前に立
       ってドキドキするのは嫌いじゃなかった 』とも語
       っている 。その後 、横内を中心としたこの時の演
       劇部のメンバーで 善人会議 を創立し 、六角も誘
       われて入団 。後に 劇団扉座 と改名して活動 。

        大学は最初 、日本大学芸術学部を受験 。この時
       の実技テストには 、丸太を赤ちゃんに見立てて抱
       く演技 、鐘で寒さを表現する演技があったが( こ
       の時に丸太を落として普通に拾ったり 、ただ鐘を
       鳴らして『 寒い 』と言っただけだった 、と語っ
       ている )、日本大学は不合格となった 。浪人生
       活の後 、学習院大学に合格して入学 。学習院に
       は 、在学していた皇族に興味を持って入った 。
       実際に皇太子( 六角への取材当時 )をトイレで
       見かけ 、秋篠宮( 同 )とは法学の授業で一緒に
       なったことがあった 。しかし 、大学在学中に横
       内謙介の舞台に出演するようになったことで 、
       劇団の活動に時間をとられ 2年から進級できず 、
       6年間在籍した後に大学を中退する 。20歳頃に 、
       横内に『 六角精児 』という芸名を付けられる 。
       『 とにかくインパクトある名前を 』ということ
       で 、『 精児 』は精子に由来している 。同じく
       俳優であり 、名前が似ている 六角慎司 とは関
       連性はない 。

        大学入学後からギャンブルにハマる 。大学生時
       代に家庭教師のアルバイトはしていたが 、これ
       だけでは遊ぶ金には足りず 学生ローンで借り続
       けていた 。ギャンブル依存は借金を完済出来た
       40代まで続き 、消費者金融に500万円 、人から
       借りた金などを合わせて1000万円とも言われたと
       いう借金を抱え込む 。ギャンブルに関しては20
       19年2月1日放送分の金曜プレミアム『 実録 !金
       の事件簿 』(フジテレビ系)で改めて明かして
       おり 、テレビドラマ『 相棒 』(テレビ朝日)
       出演中にも多額の借金をしていたことが本人の
       口によって語られた 。同番組司会の坂上忍は
       『 俳優としては素晴らしい方ですが 、人とし
       てはただのクズだと思います! 』と呆れていた 。

        2006年には1クール内で3本のドラマにレギュラ
       ー出演 。『 電車男 』(フジテレビ)に出演し
       たころからテレビのレギュラー出演が入るよう
       になり 、借金の全額返済に成功する 。

        2009年春 、映画『 相棒シリーズ 鑑識・米沢
       守の事件簿 』で主演を務める 。

        2015年より 、NHKBSプレミアムにて自身の初の
       冠番組でもある『 六角精児の呑み鉄本線・日本
       旅 』がスタート 。年に4本の特番として放送さ
       れており 2022年11月までに本編28本 、総集編
       3本が放送される人気シリーズとなっている 。

        代表出演作の1つである『 相棒 』シリーズは 、
       スケジュールの拘束期間が長く 他の予定が取れ
       ないという理由で シーズン14 を最後に自ら降
       板している 。

       人 物
 
        母親はいわゆる教育ママで 、子供の頃から『い
       い大学 、いい会社に入って 、世の中の敗者にな
       るな』といつも厳しく言われ続けてきたという 。
       テストは80点以上取らないと怒られ 、悪い点数
       のテストは捨てられたり土に埋めたりされたとい
       う 。高校入学後 、最初のテストの成績が下位だ
       ったため 、六角は同級生の優秀さに挫折してやる
       気を喪失したという 。息子の成績不振に母親は怒
       り狂ったが 、六角は 高校3年時の国語偏差値が17
       であったと自白している 。
        2000年頃から鉄道ファン 、乗り鉄となる 。タモ
       リ電車クラブ会員番号No.20 。鉄道関係の番組へ
       の出演も多くなり 、メ〜テレ開局50周年記念ドラ
       マ『名古屋行き最終列車』では鉄道員役を演じた 。
        相模原市立上鶴間中学校時代の同級生にプロ野球
       選手の菅野智之の母( 原辰徳の妹 )がいたこと
       を語っている 。
        パチンコ 、競輪 、そして本人いわく“人に言え
       ないようなこと”まで 、あらゆるギャンブルにの
       めり込んでいた時期もあり 、このままでは生活に
       支障が出てしまうのではないかとの懸念から 、興
       味の対象を移すために 元々好きだった鉄道ファン
       で生きていこうとしたという 。趣味のギターと歌
       声もかなりの実力がありコンサートも開催している 。
        全国の競輪場を旅打ちして周ったほどの競輪ファン
       である 。
        ボクシングファンである 。その造詣は芸能界きっ
       てといわれるほどで 2023年時点で 50年のボクシン
       グ観戦歴があるといわれてもいる 。
        パチンコ台に設置されている『玉貸機』を作るア
       ルバイトで生計を立てパチンコ通いを続けた 。
       自分が作った玉貸機にアルバイト代が全額吸い込
       まれていく姿を見て哀愁を感じた 。
       『 相棒 』では鑑識課員米沢としてパソコン等を
       使いこなす演技を見せているが 、六角本人はパソ
       コンは全く分からないという 。成人向けサイトに
       接続するため設定を妻に頼んだものの 、最後には
       妻も怒り呆れ作業を投げ出してしまった 。今も六
       角のパソコンはネットに接続できないままだという
       ( 本人談 )。
        松田優作が好きで 、小学生の頃は 自転車で松田
       の自宅を探しに行ったり 、中学生以降は『暴力教
       室 』『 ヨコハマBJブルース 』『 探偵物語 』などの
       松田主演作品を好み 、松田になりきって格好もま
       ねたこともあったという 。

       以上ウィキ情報 。  ) 

 

 

 

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