市居嗣治の「今日のお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2014・01・31

2014-01-31 08:00:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「むかし四ページだった新聞が三十なんページになったのはもっぱら大企業の大広告のためである。新聞は広告が命である。ただし広告が半分以上を占めると、それは広告であって、新聞ではないと見なされる。故に広告収入で半ば以上を経営している新聞は、記事を半分以上にしなければならない。増ページに次ぐ増ページをした。
 本来雑誌にまかせていい記事を載せた。政治経済の記事は分らない。ある日突然新聞は要らないものだと分った。新聞もとってないのは恥ずかしいと思うのは誤りだと分るに至った。あれは隣家がとっているからとっていたのだ、隣家がとらなくなれば皆々とらなくなる。こうして新聞は総くずれになる。キオスクはがらがらになる。
                                〔ⅩⅠ『三千円でもやっぱり金』平13・8・30〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・30

2014-01-30 07:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「デヴィ夫人はくやしかろうが過去は消えないものである。人の口に戸は立てられないものである。夫人はそんなことはあるまいが、銀座のホステスは金次第で誰とでも寝室を共にすると信じられている。
(略)
 デヴィ夫人は社交界の腐敗を知っている。美貌の貴婦人は何人も情人を持っている。とっかえひっかえ持っている。美しくない夫人もそのまねしてすこし持っている。醜い夫人は持ってないから貞女であるにすぎない。
 デヴィ夫人は女はみな同じだと思っている。いかにもそうである。それなら一夫一婦は根本に無理をふくんでいる。けれども男女の仲にほかに便法があるか。
 社交界ばかりか所詮この世はウソでかためたところである。醜女の貞淑が世間を覆うモラルなのである。デヴィ夫人は一つだけ誤っている。社交界の男女は同衾(どうきん)するつど金を払いはしない。払ったか払わなかったか、ここが大事なのである。湯水のように贈物したではないかと言ってもそれは通らない。これで一線を画(かく)さなければ、男女の仲は限りなく売淫に近づくのである。
〔Ⅶ『デヴィ夫人ヌードになる』平5・12・2〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・29

2014-01-29 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、再録。

「どんな席に出ても自分がいちばん若かったのに、いつのまにかいちばん年かさになってしまったとは皆が皆嘆く嘆きである。これは人には本来年齢がない、女は永遠に十七である証拠だと言うと、電光のように理解する人と、理不尽で分らぬという人に分れるから念のために書く。
(略)
 まことに歳月は勝手に来て勝手に去る。私たちの内部は永遠に年をとらないのに、外部だけとるのは納得できないことである。それに年とったからといって少しも利口にならなければバカにもならない。いつかしわがよるのである。何よりおお男たちの見る目が違うのである。自分が男たちを見る目は違わないのに。
 女のことばかりいったが、男も同じだと思ってくれ。白髪(しらが)は知恵のしるしではない人間本来男女なし老幼なし。だからその目で五十六十の女を見てごらん、もうろう彷彿として老いた顔のなかに十七の顔があらわれ、次第にそれが全貌を覆うから。
                                    〔Ⅵ『女は永遠に十七である』平2・6・7〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・28

2014-01-28 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

  坂の上にしぼり出されて降りてくる
             逆光の中の人間ひとり

  身のまはりよく見ておかむ一人逝き
             おほかた生きてこの春仲間

  短歌とふ微量の毒の匂ひ持ち
           こまごまと咲く野の女郎花 

                   (齋藤史)

 
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2014・01・27

2014-01-27 08:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「もし課長がごまかしたら部長が、部長がごまかしたら役員が罰するからいいのである。株式会社は利益団体だから、もし社長がごまかしても、会社を危うくするほどごまかす心配はないのである。
 ところが税金で運営されている組織は、ごまかし放題である。そもそも税金は何千何百万人の零細な金の集まりだから、だれの金か分らない。正体不明の金だからごまかしても罪の意識がない。
 かくて社長と部長が、ついには経理までが打って一丸となってごまかすという珍事が生じるのである。組合費で運営されている組織もまたそうである。全員こぞってごまかす例が、これまでも生じたが、これからも公社公団地方自治体に生じるだろう。
                                   〔Ⅰ『なぜごまかし放題か』昭55・6・26〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・26

2014-01-26 08:20:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

今最もスキンシップを必要としているのは老人である。昔は五十六十でたいてい死んだが、今は七十八十でも死なない。そんなになが生きして無事な人は希で、次第に恍惚に近くなる。わが子の間をたらい回しにされ、結局多く病院で死ぬ。
 なぜ一緒に寝てやらないのかと、昔の人は怪しむ。同じ座敷で寝てやれば老人は安堵する。深夜家のなかをさまよい歩くことはなくなる。老人は幼な子に返って、ひとり寝るのがこわいのである。本当は同じ布団に寝て、背をなでさすってやるのが何よりなのである。
 血を分けた親子だものついこの間までたいていの子はそれをしたのに、今しないのは核家族になったせいである。核家族にはそもそも老人がいない。したがって死はもとより身近に老人を見ることがない。見ないからただ恐ろしい。
 老人はすでに半ば死んだ人である。眠っているのを死んだのではないかと、寝息をうかがうことがあるくらいである。生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのに、こんなに死ににくくなった時代はない。
                                    〔Ⅱ『老人の日がまた来る』昭56・9・17〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・25

2014-01-25 07:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「話しあいという言葉を、私はきらいだというよりむしろ憎んでいる。なぜかというと話しあいなんて、出来ない相談だからである。
 あの五・一五事件のときの首相犬養毅は『話せば分る』と言ったが、青年将校たちは言下に『問答無用撃て』と命じた。犬養の話を聞いて万一理が認められたら、犬養は殺せなくなる。ひいては革命はできなくなる。故に左右を問わず革命家は、いくら話しあおうと言われても応じてはならないのである。かろうじて聞くふりすることだけが許される。
                                  〔Ⅱ『問答無用なことがある』昭57・2・4〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・24

2014-01-24 08:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「戦争中は申分のない大義名分をふりかざす隣組長のたぐいがいて、それに賛成しない人を非国民だと『村八分』にした。以前の原爆絶対禁止運動にも申分はなかった。申分がなければないほど、私が狐疑するのはそのころの名残である。
 けれども文学者のなかには、十分な理由があって署名しない人があるはずである。新聞はもっぱら署名した人に聞かないで、しない人にも均等に聞くべきである。聞いても言わないとすれば、それはすでに言えない空気ができているのである。署名しない自由はなければならない自由である
                                   〔Ⅱ『署名する人しない人』昭57・3・4〕」

「ここにおいて一躍して私は植物になる。人は植物をあなどって一段低いものと見るが私は見ない。植物は人よりはるかに敏感である。鋸でひけば白い血を流す。四キロも離れた孤独な銀杏(いちょう)同士はある日ある時風に乗って飛んで花を咲かせ実を結ぶ。植物がいかに高貴か分ったろう。何よりいいのは常にすっくと立って移動しないことだ。人類の諸悪の根源は移動するにある何用あって月世界へ――。
 ごく手短に言うとこれが日本植物党の主旨である。来(きた)るものは拒(こば)まない。
                                   〔Ⅹ「『日本植物党』宣言」平10・9・17〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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2014・01・23

2014-01-23 08:25:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「『ああ玉杯に花うけて』という歌は一高(いちこう)の寮歌だそうで、校歌ではないという。金田一春彦によると一高にも東大にも校歌はない。そのかわり一高には寮歌がある。明治三十五年寮生矢野勘治が正岡子規系の歌よみで詩才ありと認められて作ったのがこの寮歌で、ほかに寮生の名は忘れたが『友の憂いに吾(われ)は泣き、吾が喜びに友は舞う』というのをおぼえている。
 寮歌は毎年詩才ありと聞こえた寮生がつくった。七五調の新体詩の全盛時代だから手本があれば詩人でなくても作れた。そのうち残ったのがこの二つだというわけで、あとの何十何百の寮歌は忘れられた。続いて、
 栄華の巷(ちまた)低く見て 向ヶ岡にそそりたつ 五寮の健児意気高し
 とあるから、ああ玉杯当時の寮は五つだけだったことが分る。一中一高東大はその栄華の巷の一員になるために昼夜をおかず勉強したのではないか、寮生は齢は十七、八である。それを言う友のないのは時代だろう。
 友の憂いに吾は泣き云々は似たところがある。友の悲運にかけつける足は我にもあらず勇むのである、わが喜びに友は一度は喜ぶが、再三再四かさなると面白くなくなる
 友の不運はひそかに嬉しいものだというと、滅相もないと怒る友に似たものがある。だから誰も言わない、栄華の巷低く見て、ウソをつけと言うものもない。
 故に友の幸運が何度重なっても喜んでくれる友こそ友である。俗に金銭の貸借は友情を失うからしないという友があるが、それは貸さないということを飾って言ったのである。
 真の友なら貸す機会が与えられたことを喜び、貸したことを忘れる。形勢逆転してこんどは、貸し手が借り手に回ると、以前の借り手は喜んで貸して貸したことを忘れる。
 かくの如き友は求めて得がたいから、にせの友を本ものの友だと思って、それも出来るだけ大勢にかこまれて死にたいのである。花環ぐらいはくれるだろう。この世にそれ以外の友があろうか。
 誰の心のなかにも他人がいる。私はそれを自分のなかなる他人と呼んでいる。どんな人にもいる。老若を問わず。第三者を見るときは、その他人の目で見て辛辣なことをいう。それなのに自分のことになると皆目(かいもく)見えなくなる。それが健康というもので、健康というものはイヤなものである
                                (『諸君!』平成十四年十、十一月号)」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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2014・01・22

2014-01-22 07:35:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

  
  くしけずるわが染髪は燈に透きて
            わかきぬばたまの夜ぞ恋しけれ

                       (齋藤史)

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