今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「日本人のすべてが同じ狂言を見て、その主人公を知っていてはじめて文化である。西洋ではいまだにそうである。シェイクスピアやモリエールの劇中の人物は、生きている人より生きているとは以前書いた。わが国でそれに当るのは『忠臣蔵』だが、昭和六年の浅草ですでにこれを知らない役者が多かったというから、このころから私たちはもう共通の人物を持たなくなったのである。『可愛や妹、わりゃなんにも知らねえな』というのはお軽の実の兄寺岡平右衛門のせりふである(七段目)。
そのお軽の夫勘平は、舅与市兵衛を鉄砲で誤って殺したと早合点して切腹している。(六段目)。すでに勘平が死んでいるのにお軽は『私には勘平さんという夫ある身云々』と兄に言う。兄はこらえきれず『可愛や妹、わりゃなんにも知らねえな』と口走ったのである。見物は勘平が自殺しているのを前の幕で知っているから、平右衛門の嘆きを共に嘆くことができるのである。
『金は女房を売ったる金』というのはお軽を売った勘平のせりふである。『勘平さんは三十になるやならずに死ぬるとは』というのはお軽の嘆きである。
歌舞伎から出た名文句ならまだいくらでもある。新派から出たものもある。『金色夜叉』の間(はざま)貫一は来年の今月今夜の月をぼくの涙でくもらしてみせると言った。『不如帰(ほととぎす)』の浪子は千年も万年も生きたいわと言った。
新派の全盛時代は短かったが、それでも代表的なせりふはいくつか残っている。ところが新劇にはそれが一つもない。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「日本人のすべてが同じ狂言を見て、その主人公を知っていてはじめて文化である。西洋ではいまだにそうである。シェイクスピアやモリエールの劇中の人物は、生きている人より生きているとは以前書いた。わが国でそれに当るのは『忠臣蔵』だが、昭和六年の浅草ですでにこれを知らない役者が多かったというから、このころから私たちはもう共通の人物を持たなくなったのである。『可愛や妹、わりゃなんにも知らねえな』というのはお軽の実の兄寺岡平右衛門のせりふである(七段目)。
そのお軽の夫勘平は、舅与市兵衛を鉄砲で誤って殺したと早合点して切腹している。(六段目)。すでに勘平が死んでいるのにお軽は『私には勘平さんという夫ある身云々』と兄に言う。兄はこらえきれず『可愛や妹、わりゃなんにも知らねえな』と口走ったのである。見物は勘平が自殺しているのを前の幕で知っているから、平右衛門の嘆きを共に嘆くことができるのである。
『金は女房を売ったる金』というのはお軽を売った勘平のせりふである。『勘平さんは三十になるやならずに死ぬるとは』というのはお軽の嘆きである。
歌舞伎から出た名文句ならまだいくらでもある。新派から出たものもある。『金色夜叉』の間(はざま)貫一は来年の今月今夜の月をぼくの涙でくもらしてみせると言った。『不如帰(ほととぎす)』の浪子は千年も万年も生きたいわと言った。
新派の全盛時代は短かったが、それでも代表的なせりふはいくつか残っている。ところが新劇にはそれが一つもない。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「『島鵆』(明治十四年)は今も演じられるが、『風船乗評判高楼』(明治二十四年)は二度と演じられないから、ちと乱暴だがここでは島鵆までとしておく。
その時代を直ちに演じられなくなったのが歌舞伎が滅びた一因で、それにとってかわったのが新派である。新派は明治の人情風俗を歌舞伎より写したから、しばらくその時代は続いたがそれもつかのまで、昭和になってからはあれは明治の歌舞伎だといわれた。いかにもその通りである。
新派は洋装の女が出てきて滅びたと私はみている。新派は女優をつかわないで女形をつかうことを歌舞伎に学んだから、和服の女は演じられたが洋装の女には困った。花柳章太郎は最後の女形で花柳は洋装ができないから窮して女優を採用した。戦後その花柳が死んで、あとをつぐ女形がないのでやむなく水谷八重子を座頭にして、これで新派は終ったのである。
歌舞伎も新派も現代が演じられなくなったとき滅びたのである。洋服の男女を演じられなくなって滅びたと大ざっぱに言っていい。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「『島鵆』(明治十四年)は今も演じられるが、『風船乗評判高楼』(明治二十四年)は二度と演じられないから、ちと乱暴だがここでは島鵆までとしておく。
その時代を直ちに演じられなくなったのが歌舞伎が滅びた一因で、それにとってかわったのが新派である。新派は明治の人情風俗を歌舞伎より写したから、しばらくその時代は続いたがそれもつかのまで、昭和になってからはあれは明治の歌舞伎だといわれた。いかにもその通りである。
新派は洋装の女が出てきて滅びたと私はみている。新派は女優をつかわないで女形をつかうことを歌舞伎に学んだから、和服の女は演じられたが洋装の女には困った。花柳章太郎は最後の女形で花柳は洋装ができないから窮して女優を採用した。戦後その花柳が死んで、あとをつぐ女形がないのでやむなく水谷八重子を座頭にして、これで新派は終ったのである。
歌舞伎も新派も現代が演じられなくなったとき滅びたのである。洋服の男女を演じられなくなって滅びたと大ざっぱに言っていい。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「その目で見ると歌舞伎の立回りは多く踊りで、そこが新国劇の立回りとちがうところで、新国劇のそれは写実で、写実なら映画に及ばないから新国劇の全盛時代はながく続かなかった。
それはさておき招魂社は靖国神社のことだし大鳥居は今もあるから、これは誰の目にも明治を写したものと分る。
すなわちそのころまでの歌舞伎は、当時の事件と風俗を直ちに芝居にすること近松の時代と同じだったのである。近松は曽根崎に心中があると聞くと、かけつけてお初徳兵衛を書いた。網島に心中があると聞くと、同じくかけつけて小春治兵衛を書いた。みんな実際にあった事件を芝居に仕組んで、多くは忘れられたがすぐれたものは残ったのである。これがいつから芝居に仕組めなくなったか。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「その目で見ると歌舞伎の立回りは多く踊りで、そこが新国劇の立回りとちがうところで、新国劇のそれは写実で、写実なら映画に及ばないから新国劇の全盛時代はながく続かなかった。
それはさておき招魂社は靖国神社のことだし大鳥居は今もあるから、これは誰の目にも明治を写したものと分る。
すなわちそのころまでの歌舞伎は、当時の事件と風俗を直ちに芝居にすること近松の時代と同じだったのである。近松は曽根崎に心中があると聞くと、かけつけてお初徳兵衛を書いた。網島に心中があると聞くと、同じくかけつけて小春治兵衛を書いた。みんな実際にあった事件を芝居に仕組んで、多くは忘れられたがすぐれたものは残ったのである。これがいつから芝居に仕組めなくなったか。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「河竹黙阿弥は明治改元のときすでに五十になっていたが、明治二十六年七十八で死ぬまで現役の狂言作者であることをやめなかった。その黙阿弥が『島鵆(しまちどり)』という散切物(ざんぎりもの)を書いている。丁髷(ちょんまげ)を切った時代の脚本だから散切物という。登場人物のすべてが泥坊だという狂言で、私は十五代目羽左衛門の明石の島蔵、六代目菊五郎の松島千太で招魂社(しょうこんしゃ)の鳥居前の場を見ている。島蔵は改心して堅気になっていて、千太にも悔い改めよとすすめるが、千太はせせら笑ってきかない。二人は言い争ってとどのつまり鳥居前でながい立回りを演じる。いつはつべしとも思われない無言の立回りで、『島鵆』が残ったのはこの場面のためかと思われるほど美事な格闘、というよりあれは舞踊である。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「河竹黙阿弥は明治改元のときすでに五十になっていたが、明治二十六年七十八で死ぬまで現役の狂言作者であることをやめなかった。その黙阿弥が『島鵆(しまちどり)』という散切物(ざんぎりもの)を書いている。丁髷(ちょんまげ)を切った時代の脚本だから散切物という。登場人物のすべてが泥坊だという狂言で、私は十五代目羽左衛門の明石の島蔵、六代目菊五郎の松島千太で招魂社(しょうこんしゃ)の鳥居前の場を見ている。島蔵は改心して堅気になっていて、千太にも悔い改めよとすすめるが、千太はせせら笑ってきかない。二人は言い争ってとどのつまり鳥居前でながい立回りを演じる。いつはつべしとも思われない無言の立回りで、『島鵆』が残ったのはこの場面のためかと思われるほど美事な格闘、というよりあれは舞踊である。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私は私の語彙が母親ゆずりだと今にして思うのである。私の父は旧式な父親のひとりで、子供と話はしなかったし、それに私が小学生のとき死んだ。母は八十九まで、つまりついこの間まで生きていたから自然私は父の言葉より母の言葉で育った。彼女の教養は多く芝居に負っていたから、いくら私が歌舞伎が理不尽だと思っても自然その影響を受けないわけにはいかない。
私は二十三のとき『年を歴(へ)た鰐の話』を翻訳したが、そのなかに『今は老いた鰐は悲しや足をあげようとしても自由にあがらなかった』と書いた。
今でも私は可愛や怪しやなどと書く。これは紙屋治兵衛(じへえ)のせりふが口をついて出たものらしい。『かわいや小春がともしびに、そむけた顔のあのやせたことわい』と、治兵衛はなげいている。その浄瑠璃の文句をいつかおぼえて、それが自然に出たのだろう。”今さら言うも過ぎし秋、四谷で初めて逢うたとき好いたらしいと思うたが、因果な縁の糸車という新内の文句はどこでおぼえたか知らないが、むかしサンパティックという言葉を、好いたらしいと訳して失笑を買ったのは、これが意識下からとつぜん出て来たのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「私は私の語彙が母親ゆずりだと今にして思うのである。私の父は旧式な父親のひとりで、子供と話はしなかったし、それに私が小学生のとき死んだ。母は八十九まで、つまりついこの間まで生きていたから自然私は父の言葉より母の言葉で育った。彼女の教養は多く芝居に負っていたから、いくら私が歌舞伎が理不尽だと思っても自然その影響を受けないわけにはいかない。
私は二十三のとき『年を歴(へ)た鰐の話』を翻訳したが、そのなかに『今は老いた鰐は悲しや足をあげようとしても自由にあがらなかった』と書いた。
今でも私は可愛や怪しやなどと書く。これは紙屋治兵衛(じへえ)のせりふが口をついて出たものらしい。『かわいや小春がともしびに、そむけた顔のあのやせたことわい』と、治兵衛はなげいている。その浄瑠璃の文句をいつかおぼえて、それが自然に出たのだろう。”今さら言うも過ぎし秋、四谷で初めて逢うたとき好いたらしいと思うたが、因果な縁の糸車という新内の文句はどこでおぼえたか知らないが、むかしサンパティックという言葉を、好いたらしいと訳して失笑を買ったのは、これが意識下からとつぜん出て来たのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私の母は戸籍では明治十九年正月生れになっているが、実は十八年の十二月生れだと当人が言っていた。今も昔も暮もおしつまって生れると正月生れにして届ける。だから酉どしで戌どしではないというのは酉と戌では運勢がちがうからで、これは昨今の娘が、自分の星が何座かによって運命が違うから気にするのと軌を一にしている。
明治十九年生れの母は菊池寛とほぼ同時代人で、明治三十七年に嫁に行くまで芝居を見ている。幼いときから子守に背負われていわゆる団菊左を見ている。団菊は明治三十六年、左団次はあくる三十七年に死んでいるから、三人の晩年の舞台は全部見ている。ほかに七代目団蔵も見ている。これは西国巡礼をしたあと瀬戸内海に身を投じて死んだ八代目の実父で、団菊と同じくらい名人だといわれた役者である。八代目は父親崇拝だったからその名を継ぐことをいやがったが、なぜか松竹は襲名させたがって、やむなく継ぐことは継いだが、それを恥じて死んだふしがある。すくなくともそれは入水の一因かと思われる。
ほかに母は円朝の人情噺を聞いている。俗に下駄屋の小さんといわれた小さんも聞いている。日本橋本石町(ほんこくちょう)の生れだから当時は芝居を変り目ごとに家中で見にいく習慣があって、同じ狂言を何度も見てせりふはたいていおぼえた。狂言の主人公は生きている人より生きていたのである。
嫁に行ってからも見ている。日本橋の商家の娘が根岸の士族に嫁にいったから、その士族の家では変り目ごとに見る習慣がなかったから見ること少くなった。したがって母がよく知る芸人は嫁入前に見たものである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「私の母は戸籍では明治十九年正月生れになっているが、実は十八年の十二月生れだと当人が言っていた。今も昔も暮もおしつまって生れると正月生れにして届ける。だから酉どしで戌どしではないというのは酉と戌では運勢がちがうからで、これは昨今の娘が、自分の星が何座かによって運命が違うから気にするのと軌を一にしている。
明治十九年生れの母は菊池寛とほぼ同時代人で、明治三十七年に嫁に行くまで芝居を見ている。幼いときから子守に背負われていわゆる団菊左を見ている。団菊は明治三十六年、左団次はあくる三十七年に死んでいるから、三人の晩年の舞台は全部見ている。ほかに七代目団蔵も見ている。これは西国巡礼をしたあと瀬戸内海に身を投じて死んだ八代目の実父で、団菊と同じくらい名人だといわれた役者である。八代目は父親崇拝だったからその名を継ぐことをいやがったが、なぜか松竹は襲名させたがって、やむなく継ぐことは継いだが、それを恥じて死んだふしがある。すくなくともそれは入水の一因かと思われる。
ほかに母は円朝の人情噺を聞いている。俗に下駄屋の小さんといわれた小さんも聞いている。日本橋本石町(ほんこくちょう)の生れだから当時は芝居を変り目ごとに家中で見にいく習慣があって、同じ狂言を何度も見てせりふはたいていおぼえた。狂言の主人公は生きている人より生きていたのである。
嫁に行ってからも見ている。日本橋の商家の娘が根岸の士族に嫁にいったから、その士族の家では変り目ごとに見る習慣がなかったから見ること少くなった。したがって母がよく知る芸人は嫁入前に見たものである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、中原中也(1907-1937)の詩一篇。
また来ん春……
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた
最後にみせた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
(角川春樹事務所刊 「中原中也詩集」 所収 )
また来ん春……
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた
最後にみせた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
(角川春樹事務所刊 「中原中也詩集」 所収 )
今日の「お気に入り」は、萩原朔太郎(1886-1942)の詩集「月に吠える」から「地面の底の病気の顔」と題した詩一篇。
地面の底の病気の顔
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萠えそめ、
鼠の巣が萠えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。
(河上徹太郎編 「萩原朔太郎詩集」 新潮文庫 所収)
地面の底の病気の顔
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萠えそめ、
鼠の巣が萠えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。
(河上徹太郎編 「萩原朔太郎詩集」 新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、萩原朔太郎(1886-1942)の詩集「氷島」より「虚無の鴉」と題した詩一篇。
虚無の鴉
我れはもと虚無の鴉
かの高き冬至の屋根に口を開けて
風見の如くに咆号(はうがう)せむ。
季節に認識ありやなしや
我れの持たざるものは一切なり。
(河上徹太郎編 「萩原朔太郎詩集」 新潮文庫 所収)
虚無の鴉
我れはもと虚無の鴉
かの高き冬至の屋根に口を開けて
風見の如くに咆号(はうがう)せむ。
季節に認識ありやなしや
我れの持たざるものは一切なり。
(河上徹太郎編 「萩原朔太郎詩集」 新潮文庫 所収)