「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

三輪山 Long Good-bye 2023・09・30

2023-09-30 04:40:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの

  「 街道をゆく 」から海柘榴市 ( つばいち ) 」の一節 。

   備忘の為 、 抜き書き 。昨日の「 日本書紀 」のなか

   の噺 ( はなし ) の つづき 。

   引用はじめ 。

   「 噺 ( はなし ) を要約すると  、あるとき疫病が流行した 。

   何神のタタリのせいであろうということで 、帝の皇女を

   巫女にしてまつらせたところ 、すこしも降神せぬばかり

   か 、彼女は髪がぬけ落ちてやせ衰えるばかりであった 。

   代って 、どうやら偉大な巫女であったらしい帝の伯母の

   倭迹迹日百襲姫  ( やまとととびももそひめ ) を巫女にして

   憑神状態 ( かみがかり ) にさせたところ 、たちまち神の声

   あり 、彼女の口を籍 ( か ) りて 、『 若し能く我を敬い祭

   らば 、必ず当 ( まさ ) に自平 ( たひら ) ぎなむ 』( 『 日本

   書紀 』 ) と 、いった 。帝はおどろき 、誰 ( た ) が神ぞや 、

   と問うと 、神はいう 、『 大物主神と為 ( い ) ふ 』と 。

   ここで天孫系とは別系列の国つ神が 、崇神の王家にはじめ

   て入るわけであり 、このいきさつは 、崇神帝とその武装

   グループが大和以外の地 ―― 九州か 、あるいは満鮮の地

   であろう ―― からやってきたことをよくあらわしている 。

    さらによくあらわしているのは 、この噺の以下のような

   つづきである 。

   『 たれか 、大物主命 ( 三輪山 ) をまつる者はいないか 』

    と 、崇神帝はさがした 。古代信仰にあっては 、その神の

   子孫とされている血統の者 ―― 名負 ( なおい ) の氏 ( う

   じ ) ―― によってのみその神をまつることができる 。と

   ころが 、三輪山をまつっていたミワの族長の子孫は崇

   帝にほろぼされたかなにかで三輪の故地にはおらず 、崇

   神帝はそれをさがさせ 、やっと茅渟 ( ちぬ ) ( 大阪湾沿岸

   地方の古称 ) の地に大田田根子命 ( おおたたねこのみこと )

   という人物がいると知り 、それをよんで土地をあたえ 、三

   輪山にのぼらせ 、祭主にした 。 崇神帝も 、苦労した

    ついでながら 、崇神帝の名はミマキイリビコと言う 。この

   ミマは南鮮の任那( みまな )国のことでこの帝はここから

   きたという説を騎馬民族説の江上波夫氏はとっておられるが 、

   任那国号の成立はだいぶあとだから 、ちょっと無理なように

   思われる 。

    が 、崇神帝が 、軽快屈強の武装集団をひきいて大和へやっ

   てきたであろうことは 、大和の土着勢力から興ったとみる

   よりも征服形式としてはるかに自然である 。古代 、戦闘的

   性格のうすい農耕地帯に駆けこんできてこれを征服するとい

   う作業は 、大和一国の規模でなら 、五百騎もあれば十分で 、

   後世の軍事規模で想像するようなぼう大な軍団など必要がない

    はなしのついでながら 、ごく近世 、数億の民をもつ大明帝国

   をたおして清帝国をたてたのは 、満州にいた騎馬民族である

   ツングースの一派 女真族だが 、かれらは六十万から八十万程

   度の人口であった 。あるいはまた日本の戦国のころの備前国

   ( 岡山県 ) の大名 宇喜田能家 ( うきたよしいえ ) の家系伝説に

   も 、『 能家の先祖は元百済国の王子 。兄弟三人船にのり 、

   当国児島郡藤森に着船す 』とあり 、中世周防国 ( 山口県 ) で

   栄えた 大内氏も 、わざわざ誇って『 百済王子 琳聖 ( りんしょ

   う ) 太子の後裔 』と称していたが 、百済王子であることはあ

   やしいとはいえ 、遠いむかしは 二 、三百騎の武装隊が海岸

   から侵入すれば 、元来自衛力にとぼしい農耕地帯はかれらの

   侵略に対しお手あげであったであろう 。

    その古代的な形式が崇神王朝の成立であるという説は 、ごく

   自然なことといわねばならない崇神帝の和風の謚 ( おくり

   な ) を 、『 ハツクニシラススメラミコト 』 という 。『 日本

   書紀 』はこれに 御肇国天皇 という文字をあてる 。

     その帝の帝都が 、土着民ミワ族の故地である 三輪山 のふもと

   におかれ 、葛城の カモ族 を圧倒して 大和盆地を平定した 。

   さらに国中の平和を保つため 、大和の土着勢力から武器をとり

   あげ 、それを石上 ( いそのかみ ) の地に収納した 。という平定

   方式をとったのは 、秀吉の刀狩りを連想させる

    石上から三輪へ南下する途中 、道の左手に崇神帝の御陵がある

   私は兵隊にゆくとき 、葛城に住む外祖母がこの三輪にまでお詣り

   につれてきてくれたが 、そのとき 、この御陵をみて 、その樹叢

   のうつくしさにうたれた記憶がある 。いま車窓からのぞいても 、

   なおその美しさは衰えていない 。 」   

   引用おわり 。

 

 

   ( ついでながらの

      筆者註 :司馬遼太郎さん( 1923年 〈大正12年〉 8月7日

         - 1996年〈平成8年〉 2月12日 )の軍歴 。実戦

         は体験されていないよう 。

         「 1943年( 昭和18年 )11月に 、学徒出陣

         より大阪外国語学校を仮卒業( 翌年9月に正式

         卒業となる )。兵庫県加東郡河合村( 現:小野

         市 )青野が原の 戦車第十九連隊に入隊した 。

           ・・・

          翌44年4月に 、満州四平の四平陸軍戦車学校

         入校し 、12月に卒業 。

          ・・・

          司馬は 、軍隊生活になかなか馴染めず 、訓練

         の動作にも遅れが目立ち 、同期生のなかでも戦

         車の操縦はとびきり下手であったが 、『 俺は将

         来 、戦車1個小隊をもらって 蒙古の馬賊の大将

         になるつもりだ 』などと冗談を言うなど 、笑み

         を絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しに

         なっていた 。

          戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転

         属したが 、成績の悪かった者はそのまま中国に

         配属になり 、これが生死を分けた 。卒業後 、

         満州国牡丹江に展開していた 久留米戦車第一連

         隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される 。

          翌1945年に本土決戦のため 、新潟県を経て栃木

         県佐野市に移り 、ここで 陸軍少尉 として 終戦を

         迎えた 。

          以上ウィキ情報 。

         「 街道をゆく 」の一節に 、次のような記述があり

         ます 。

          引用はじめ 。

         「 私は満州へ行った 。

           最後は東満州の国境あたりにいて 、にわかに

          連隊とともに朝鮮半島を南下し 、釜山から輸

          送船に乗った 。私のいた部隊は 、当時の世界

          のレベルからみれば使いものにならない戦車を

          八十輌ばかりもつ戦車連隊であったが 、それ

          でも日本陸軍にとっては虎ノ子であったことは

          たしかで 、アメリカ軍の東京付近に上陸するの

          にそなえるため 、終戦の三カ月前にもどらされ

          たのである

           私どもの輸送船は新潟港に入り 、戦車をつみお

          ろしたが 、そのとき 、埠頭のむこうから一人の

          初老の将校がやってくるのがみえた 。私は最下

          級の将校だったから 、相手の年齢をみて大佐か

          少将だろうとおもって敬礼すると 、なんと少尉で

          あった 。それが叔父であった 。叔父との奇遇に

          おどろより 、こんな世界にもめずらしいほどに

          古ぼけた少尉が 、いまからどの戦場に出かけてゆ

          くのだろうということに興味をもち 、日本の戦力

          が底をついていることをこのときほど痛感したこ

          とはない 。

           『 朝鮮や 』

           と 、叔父は憮然としていった 。

           いまから思えば 、私どもの属した関東軍の主力が

          逐次南方へ間引かれ 、ついに私などの連隊を最後

          に満州がカラになってしまったあと 、日本陸軍は

          ソ連との国境を朝鮮でまもろうと思いつき 、そう

          いうことで叔父のようなひとたちを召集したのに

          ちがいない 。

          『 まあ朝鮮へゆくのもええやろ 。武内宿禰は百歳

          か二百 歳で朝鮮へ行ったというからな 』

           と 、叔父はむろん葛城の竹内のひととして武内宿

          禰が竹内で暮らしていたことを信じていたし 、そ

          れと自分の運命とが重なり 、一種落魄のおもいで 、

          そうつぶやいたのにちがいない 。

           ( いまから朝鮮へ行って帰れるのかしら )

           とおもったが 、叔父は私どもをおろした船で朝鮮

          へゆき 、その後ぶじ帰ってきて 、畳の上で死んだ 。

          五十代だったから 、年齢だけは武内宿禰にあやかれ

          なかった 。

           引用おわり 。)

 

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ミワもカモもイヅモ Long Good-bye 2023・09・29

2023-09-29 05:44:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 海柘榴市 ( つばいち ) 」の一節 。

  備忘の為 、 抜き書き 。

  引用はじめ 。

  「 記録のない古代を詮索するのは 、実証性という レフェリーやリングを

   もたないボクシングのようなもので 、殴り得 、しゃべり得 、書き得と

   いう灰神楽の立つような華やかさがあるものの 、見物席にはなんのこと

   やらわかりにくい 。

    ただ 、論者の人 ( にん ) をみて 、

   『 あの人だから 、言うことに間違いがよりすくないだろう 。ときに奇

   矯の説を唱えるにしても 、真実があるにちがいない 』

    という判定法は見物席に権利としてある 。」

 

   ( ´_ゝ`)

  ミワ 、というのはなんでしょう 」

  

  「 私には 、むろんわからない 。

    言葉の意味はわからないが 、ミワという地理的な物 ( ぶつ ) について

   は 、多少いえる 。

    三輪山は面積ざっと百万坪 、倭青垣山 ( やまとあおがきやま ) という

   その別名でもわかるように 、大和盆地におけるもっとも美しい独立丘陵

   である 。神岳 ( かみやま ) という別称もある 。秀麗で霊気を感ずる独立

   丘陵を古代人は 神南備山 ( かんなびやま ) ととなえて山そのものを神体と

   してまつったが 、神南備山である三輪山は 、日本におけるその古代信仰世

   界の首座を占める 。伊勢神宮の形式など 、はるかにあたらしい

   『 日本最古の神社

    とよくいわれるが 、その程度の言い方でもなおこの三輪信仰の霊威の古格

   さを言いあらわしがたいであろう 。

    なにしろ 、むかしむかしのその昔で 、いつごろからこの丘陵への信仰が

   はじまったのかは 、測るすべもないが 、しかしどういう民族が祭祀してい

   たかについては 、ほぼ想像がつく 。いわゆる出雲族である 。

    すると 、出雲族 とはどういうグループかとなれば 、もう霧のむこうの人

   影を見るようで 、わかりにくい 。大和土着の種族であることはたしかで

   ある 。イヅモとは 、『 倭名類聚鈔 ( わみょうるいじゅしょう ) 』で以豆毛

   と発音し 、古代発音では おそらく ingdmo と発音していたかとおもわれる

   『 出雲国

    というのは 、明治以前の分国で 、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称

   だが 、しかし古代にあっては イヅモ とは単に地理的名称のみであったかどう

   かは疑わしい 。種族名でもあったにちがいない 。さらに古代出雲族の活躍

   の中心が 、いまの島根県でなくむしろ 大和 であったということも大方の賛同

   を得るであろう 。その大和盆地の政教上の中心が 、三輪山 である 。出雲族

   の首都といっていい三輪山は 、神の名としては 、

   『 大物主命 ( おおものぬしのみこと ) 』

    という 。人格神ではない 。大物主とは 、国土のもちぬしという意味だろう

   が 、この神とこの系統の神々については『 記紀 』などの神話には人格に

   記述されているが 、それは記述法であるにすぎまい 。要するに 、

   『 ミワ 』

    という種族は 、大物主神を種族における最大の神として仰ぎ 、三輪山のま

   わりに住み 、ふもとの 海柘榴市 で市 ( いち ) をいとなんでいた イヅモ で

   あることは 、異論がすくないであろう

    大和の イヅモ にはもう一派いる 。

   『 カモ 』

    という 。のちに鴨 、加茂 、加毛 、蒲生などと書き 、地名になってしまう

   が 、もともと種族名であったということは 、あらためていうまでもない 。

    カモ族 というこの古代の大族は 大和の西部にあたる葛城山麓に住んでいて 、

   こんにちでもかれらが祭っていた神々 ―― 高鴨阿治須岐高彦根命 ( たかかも

   あじすきたかひこねのみこと ) 神社や鴨都味波八重事代主命 ( かもつみわやえ

   ことしろぬしのみこと ) 神社といった長ったらしい名の神社 ―― が 、山麓の

   森や林のなかに遺っている 。ほとんど『 鴨 』ということばがつく 。

    カモ族の主たる神は 、事代主命である

    古代のある時期の大和盆地には 、カモ・グループとミワ・グループが併存して

   いたことは 、たしかである 。この二つの イヅモ の言語が 、こんにちの日本語

   にいたるこの国のことばの主調をなすものであろう 。そこへ出現するのが 、

   神王朝であったであろう 。後世 、天皇家系の 第十代目 に組み入れられたこの人

   が 、征服者として三輪山の地に出現したことは 、まぎれもない 。ミワ族とは

   まったく別系統の人物であることは 、『 日本書紀 』のなかの噺 ( はなし ) を

   みても想像できる 。」

   引用おわり 。

   つづく 。

 

 

  ( ついでながらの

    筆者註 :「 海柘榴市( つばいち )とは 、かつて大和国にあった古代の市 。

         平安時代以降は宿場となった 。海石榴市・椿市・都波岐市の

         表記もあり 、読みも 『 つばきいち 』 から 『 つばいいち 』

         を経て『 つばいち 』 に転訛した 。現在の 桜井市金屋あたり

         に比定されるが 、所在地が移動した とする説もある 。 」

        以上ウィキ情報 。)

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山辺道 ( やまのべのみち ) Long Good-bye 2023・09・27

2023-09-27 05:09:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 布留 ( ふる )  」の一節 。

  備忘の為 、 抜き書き 。

   引用はじめ 。

  「 車は 、天理で高速道路を降りた 。そのあと道を南へとり 、そろそろ

   と十八丁 。やがて東へ折れる枝道があるはずで 、これはうかうかする

   と行きすぎてしまう 。そう思いながら懸命に注意していたが 、やはり

   行きすぎてしまった 。土地の人に教えてもらいながら 、野道を東へ入

   った 。正面に山辺 ( やまのべ ) の丘陵地帯が起伏し 、右手のやや高

   い台上に森がある

   『 布留

   というのが 、このあたりの古い地名である 。古代人にとって神霊の宿

   るかのような景色だったのであろう 。神にかかる枕ことばである『 ちは

   やふる 』の ふる がそうであり 、神霊が山野にいきいきと息づいておそ

   ろしくもあるという感じが 振る という言葉にあるようにおもわれる 。

   この森の杉は 、

   『 布留の神杉 ( かみすぎ )

    とよばれていたらしい 。柿本人麻呂の『 石上布留の神杉神びにし吾や

   さらさら恋に遭ひにける 』という歌が 、この森の気分をよくあらわし

   ている 。

   『 新撰姓氏録 』の地名のあらわしかたによると 、

   『 石上 ( いそのかみ ) 御布瑠 ( みふる ) 村 高庭 ( たかば ) 之地

    という 。森へ入ってゆく道がわずかにのぼりになっている気味があり 、

   なるほど森は高庭というようにやや高台になっているらしいが 、さらに

   厳密にいえば 、『 高庭 』は森のもっとも奥にある特定の一角をさす

   その場所についてはあとで述べる 。 」

  「 大和はすでにいまの奈良県にないか 、もしくは残りすくなくなって

   いるものの 、この布留の石上の森には測りしれぬ古代からつづいてい

   る大和の息吹がなお息づいているといった感じなのである 。つまり大

   和の土霊の鎮魂 ( たまふり ) の『 振る 』なる作用がなおもこの石上

   の森には生きつづけてるように思える 。 」

  「 ところで 、この森は 、崇神 ( すじん ) 王朝という大和勢力の隆盛期

   に 、王家が直接にまつる社 ( やしろ ) にされたというが 、むろんそれ

   以前の 、はるかな昔から神霊の ふる 森として畏れられていたのであろ

   う

    そのころには 、沖縄の古信仰がそうであるように社殿も拝殿もなく 、

   森そのものが神の庭であった 。いまこの石上神宮には国宝の拝殿や重

   要文化財の楼門などがそなわっていて 、どの建物もそれぞれ優麗であ

   るにせよ 、しかし神さびた森にはそれさえ唐めいていて さわがしい

   ような思いがする 。 」

  「 『 拝殿 』

    という建物がある 。例の『 鴨の水と双六の賽と山法師 』というまま

   ならぬ三つをならべた言葉で有名な白河天皇 ( 1053 – 1129 ) の寄進

   による 。樹林を背にして南面して建ち 、入母屋造り檜皮ぶきといった

   荘重な建物である 。宮中の神嘉殿をこの森に移したというから 、想像

   するところ 、

   『 石上には拝殿がないのか 。神に対してそれは礼を欠く 』

   というようなことで 、京都で発達したこの種の建物を移築したらしく

   おもえるが 、もしそうとすれば白河帝というこの漢字と仏教の大権威

   にとって 、古神道のたたずまいはもはや念中になかったのかもしれな

   い 。

    この拝殿の後方に 、

    『 高庭 』

   が存在しているらしい 。いわゆる『 いそのかみのふるのたかにわ 』

   である 。この高庭こそ古代人が神のやどる場所として畏敬していた

   場所であり 、白河帝がつくった拝殿は余計なものながら 、しかし

   高庭をおがむための施設としてのつつましやかな役割をわすれては

   いない 。その証拠に白河帝から八百数十年のあいだ 、この森にあ

   っては拝殿のみが存在し 、本殿がなかった 。本殿はあくまでも

   『 地面 』である高庭でありつづけたのだが 、明治後 、国家神道

   という 、神道が変形して英雄的自己肥大したものが出現し 、そう

   いう官僚神道が 、大正二年 、拝殿とかさねて流 ( ながれ ) 造りの

   本殿をつくりあげてしまった 。多分建売り屋に似たような料簡

   あったのであろう 。なにしろ 、この石上の神の憑代 ( よりしろ )

   はあくまでも森の中の高庭だけであるものの 、しかし半面 、持た

   されている社格が非常に高く 、伊勢神宮にせまるほどの存在であ

   ったために 、役人が国家予算を組んでとくに造営したものである

   らしい 。

    さて 、

   『 高庭 』

    である 。ひろさは二百四十三坪で 、地面の下ふかくに磐座 ( いわ

   くら ) がうずめられ 、本来 、これが本殿とされてきた 。代々の神

   職はこの高庭を『 禁足地 ( きんそくち ) 』と称し 、古来 、神職と

   いえども足をふみいれたことがなかった 。

    が 、明治という時代は 、国家神道が成立したりする一方 、古い

   権威の没落時代だったから 、―― この禁足地を掘ってみたい 。

    という探求心がおこったらしい 。古来 、ここに磐座だけでなく

   神剣宝珠がうずまっているという伝承があったのである 。

    明治七年 、ときの宮司が 、教部省に申請してゆるしをうけ 、奈

   良県知事の立会いのもとに掘ってみた 。

    古記録では 、崇神帝の七年 、帝は物部氏祖である伊香色雄命 ( い

   かしこおのみこと ) という武将に命じて石上の地に剣をまつらしめ

   た 。色雄 ( しこお ) というのは醜男 ( しこお ) だから 、大変強い

   男という意味である 。その剣というのは 、伝説の神武 ( じんむ )

   帝が日向から大和を東征するときに使った剣とされているもので 、

   『 布都御魂大神 ( ふつのみたまのおおかみ ) 』

   という名がついていた 。伊香色雄命はそれをこの石上の高庭にう

   ずめたという 。

   鍬を入れると 、はたしてその剣が出てきた 。神職たちは大いに畏

   れ 、『 これこそ布都御魂大神に相違ない 』として 、神体として

   奉斎 ( ほうさい ) してしまったから 、いまはその剣が鉄なのか銅

   なのか 、どのような形をしていたかなどということは 、障りが

   あるとして秘せられている 。

    ほかに 、銅鏡が二面 、銅製の鏃 ( やじり ) が二本 、硬玉の勾玉

   ( まがたま ) 十一個 、さらに碧玉の管玉 ( くだたま ) がざくざく

   出てきて 、かぞえると二百九十三個あった 。いずれもいまは文

   化財に指定され 、この神宮の宝物になっている

    これらの神剣や神宝をこの石上の高庭にうずめさせたという

   神天というのは 、どういう人物なのであろう 。

    ( ̄- ̄)  ^^^  ( ´_ゝ`)

    どうもよくわからない 。

    二世紀から三世紀にかけて存在したこの大和の王であるらしい 。

   その勢力範囲が 、大和以外にまでおよんだ最初の王であるかも

   しれない 。

   その王朝の首都が三輪山 ( 三輪山 ) のふもとの三輪の地にあった

   ことも 、ほぼたしかであるとすべきであろう

   『 三輪山へゆくんでしたね 』

   と 、編集部のHさんが楼門をくだりながらいった 。私はつい習

   慣で地図をひろげてみたが 、わざわざ地図を見るまでもなく 、

   これほど単純なコースはない 。石上から 、真南へまっすぐ七キ

   ロゆけば三輪なのである 。

    崇神帝の伯母の倭迹迹日百襲姫 ( やまとととびももそひめ ) と

   いうひとが三輪山にこもる大巫女であったことも 、ほぼたしか

   であろう 。

    彼女がもつ宗教的勢力が 、崇神帝の地上における勢力拡張に大

   いに役立ったことも 、想像できる 。

    この崇神帝が 、石上に兵器庫をたて 、各豪族から兵器をさし

   出させて収納した 。その後 、庫に兵器がふえ 、いつのころか

   らか遠く百済王からも七枝刀 ( 現存・国宝 ) という剣の左右に

   三本ずつ枝が出ている剣まで送られてきた 。はるかな後世 、

   桓武帝のときこれらを京へ運んでしまったが 、そのとき十四

   万七千の人夫を要したという 。その人数の多寡や真否はさて

   おき 、ともかくも崇神という古代三輪王朝のときにこの森が

   宗教的権威であったほかに兵器庫であったということもおもし

   ろい 。ここに大和じゅうの戦争道具を集めて物部氏という軍

   隊に守らせてさえおけば 、諸豪族の反乱をふせぐことができ

   たのであろう 。その石上と三輪をつないでいる道が 、まぎれ

   もなく日本最古の官道である山辺道 ( やまのべのみち ) である 。

   むろん 、その道は現存している 。

   この石上の森の中から発して村々や古墳群を縫いつつ三輪の古

   都にいたる 。ただし道幅はせまい

   『 三輪まで歩きますか 』

   と 、Hさんが決然たる口調でいったが 、途中で日が暮れるかも

   しれませんよ 、と私はうまく口実を使って 、車にもどった 。

   車の場合 、西のほうに並行して走っている舗装路をとるのであ

   る 。が 、石上から三輪へゆくというこの神さびた気分のなか

   では 、当然山辺道を日が暮れても歩くべきであったろう 。 」

   引用おわり 。

   ( ´_ゝ`)

  「 崇神帝 」って、好意のかけらもない ネーミング からして怖ろ

   しげ 、「 たたりがみ 」。

    

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京都・賀茂・深泥池 Long Good-bye 2023・09・25

2023-09-25 05:41:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 大和石上 ( いそのかみ ) へ の一節 。

  備忘の為 、ついでのことに 抜き書き 。

  脇道ながら 、京都の「 深泥池 ( みどろがいけ ) 」の話題

  いずれ 古代 出雲族 や 鴨族 の話が出てくる予感 。

   引用はじめ 。

 「 ・・・ 深泥池のことである 。京都から鞍馬へゆく街道が上賀茂

   に入ったあたりにある古い池で 、池の面に蓴菜 ( じゅんさい ) が

   繁茂している 。蓴菜とは汁の み につかうあのトロリとした粘液質

   の物質をかぶった食用水草のことで 、上方では如才のない 、いい

   加減な口上手のことを『 あの人はジュンサイなお人や 』という 。

   『 ジュンサイなこと言いなはんな 』など『 増補俚言集覧 』とい

   う本に 、『 じゅんさいとは大阪詞 ( ことば ) 。じゃらじゃら言う

   こと 。蓴菜より出たる詞なり 』とあるから 、ひょっとするとジュ

   ンサイを口中に入れたときの感触から 、ある種の人間典型を連想

   してできたことばかもしれない 。上方語には 、そういう感覚的な

   ことばが多い

   『 深泥池とは 、カモの ? 』

   『 ええ 、カモの深泥池です 』 」

    ( ´_ゝ`) ^^^ ( ̄- ̄)

  「 京都の北郊の土着のひとびとは 、下鴨 、上賀茂という 、古代鴨族

   が住んでいたと思わしいこの地域を総称して単にカモという 。モに

   アクセントがあって 、カモゥと聞える 。近江の鴨地帯は古くから

   生の字をあてた 。あの発音である 。ついでながらカモとは 、出雲族

   のことであろう 。

    ところで 、

  『 カモの空を飛んでいるスズメもツグミもみなわしの所有 ( もん )

   やどう 』

   と 、明治のころカモの在所在所に触れまわった商業上の傑物がいて 、

   そのあたり一帯の捕鳥権 ( ? ) を獲得したという 。ついでにその

   傑物は深泥池の土手に立ち 、青みどろの淀む池の面を指さし 、

   『 この池に生えとる蓴菜もわしのものやど 』

   と 、宣言した 。当時 、カモのひとびとは不覚にもツグミや蓴菜が

   金になるとは考えていなかったらしく 、カモの村々は彼の独占的採

   取権を黙認した 。

   『 それがわしの祖父や 』

   と 、カモにうまれた私の古い友人が 、カモを駆けずりまわった祖

   父君のことを英雄伝を語るかのように語ってくれたことがあって 、

   そのとき私は大いに感心した記憶があるが 、要するに深泥池につい

   ての私の知識はその程度のものである 。 」

   引用おわり 。

   寡聞にして 、この本を読むまで 、古代イヅモ族のことも古代カモ族

   のことも 何一つ 存じませんでした 。

 

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渤海・契丹 Long Good-bye 2023・09・22

2023-09-22 04:51:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 朽木の興聖寺 」の一節 。

   備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  われわれの車は 、南北二〇キロの朽木谷の南北をつらぬく唯一

   の街道をゆるゆると南下している 。

    この渓谷の底をゆく道は 、若狭湾から京や奈良へゆくための古

   街道で 、外来人や外来文化の流入路でもあったであろう 。若

   狭湾は上代 、大陸からの航海者を吸い入れる吸入口のひとつで

   あったことを思うと 、この山間の古街道はその吸入路だったか

   と思われる 。平安初期 、いわゆる満州あたりにあった渤海国

   ( ぼっかいこく ) からしきりに日本に国使がきている 。日本を

   兄の国といったかたちの礼をとり 、いわば朝貢してきている 。

   渤海は多分に中国化したツングースの国で 、その宮廷の女性は

   乙姫のような服装をしていたであろう 。いまでも若狭湾の沿岸

   に浦島伝説が多いのは 、日本海をへだてて渤海国に対していた

   からにちがいない 。その国使が 、しきりに来る 。日本は兄上

   です 、なんといっても兄上ですから 、などといってやってくる

   が 、地理的関係上 、国際感覚にとぼしい日本人としては 、なぜ

   こんなに慕われるのか 、当時も理由がわからなかったらしく 、

   ましていまとなればその理由はつかみどころもない 。渤海国は

   遊牧民族がたてた軍事国家だから 、安全保障条約をもとめてき

   たのかもしれないが 、この大海のなかの蓬莱島ともいうべき日

   本列島に住んでいると 、低血圧がこの島の風土病( ? )である

   ように 、まったく安全保障の感覚がなくなってしまうこと 、こ

   ればかりはむかしもいまも変らない 。この列島何万年の歴史のな

   かでまれに沖のむこうに幻想をいだき 、一大狂気を発して海外に

   領土を求めようとすることもあった 。秀吉の英雄的自己肥大によ

   る外征と 、明治後の民族的自己肥大によるそれとの二度っきりで

   あり 、不幸にも二度とも打上げ花火のように虚空に火の花をひら

   かせただけで 、失敗した 。まして平安初期の日本貴族には民族的

   自己肥大の感覚などはなく 、ただ渤海国の使者をめずらしく思う

   ばかりであった 。それに 、平安貴族には中国的教養があるために 、

   入貢してきた蕃国には彼らがもってきた手みやげの何倍かの物品を

   持たせて帰らさねばならぬという唐の国家習慣 ―― 中華思想によ

   るそれ ―― をそのまま踏襲してずいぶんいいカッコをしようとし

   た 。経済的にはずいぶんつらかったろうが 、そのうち日本の弟と

   称する渤海国が日本にとって知らぬまに亡んだ 。寿命は二百余年

   であった 。渤海をほろぼしたのは 、熱河の草原であらあらしい野

   性を養っていた契丹 ( モンゴル系 ) である 。が 、東海の日本は

   そういうことも知らず 、いつのまにかあの連中来なくなったなあと 、

   駘蕩たるムードの中で公卿さんたちはつぶやいていたに相違ない 。

    その朝貢使たちは 、敦賀に上陸して湖北の木ノ本あたりから湖東

   平野を通ったとおもわれるが 、ときにはこの湖西の朽木谷の隠れ道

   を ―― このほうが距離的には京に近いために ―― 通ったことが

   あるにちがいない 。渤海人は唐冠をかぶり 、唐服を着ていたとお

   もわれるが 、その言語は中国語ではなく 、日本語と同じ語族で 、

   ワタシハ二ホンへユキマス 、という語順である 。 」

   引用おわり 。

   二百年余りもの間、渤海国の外交使節が敦賀に来航していたとすれば 、

   それ以前も 、それ以後も 、大陸との間に絶えざる交易路が存在し 、

   人事往来もあったにちがいない 。

   

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安曇 Long Good-bye 2023・09・21

2023-09-21 04:41:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 湖西の安曇人 ( あずみびと ) 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  「 左手を圧していた山が 、後方に飛びさった 。この湖西最大の野は近江の秘

   めやかな蔵屋敷といった感じで 、郡の名は高島という 。

   『 安曇 ( あど ) 』

    という呼称で 、このあたりの湖岸は古代ではよばれていたらしい 。この野を 、

   湖西第一の川が浸 ( ひた ) して湖に流れこんでいるが 、川の名は安曇川という 。

    安曇は 、ふつうアヅミとよむ 。古代の種族名であることはよく知られている

    かつて滋賀県の地図をみていてこの湖岸に『 安曇 』という集落の名を発見し

   たとき 、

    ( 琵琶湖にもこの連中が住んでいたのか )

     と 、ひとには嗤われるかもしれないが 、心が躍るおもいをしたことがある 。

   安曇人はつねに海岸にいたし 、信州の安曇野をのぞいて内陸には縁がないもの

   だとおもっていた 。

    この海で魚介を獲る種族は 、どうも容貌がひねこびて背がひくく 、一方 、

   長身で半島経由してきた連中にくらべて一目みてもなり姿がちがったように

   おもえる 。

    アヅミとは海積 ( アマヅミ ) の変化だという 。ツミとは古代語で長 ( おさ )

   ともいうが 、種族という感じにも用いられる 。

    古代中国では 、

   『 倭 ( 日本とおもっていい ) には 、奴 ( 那・娜 ) の国というのがある 』

    といわれているが 、この奴の種族が 、安曇であることはほぼまちがいある

   まい 。

    かれらは太古 、北九州にいた 。

    そのもっとも古い根拠地については 、

   『 筑前 ( 福岡県 ) 糟屋郡阿曇郷が 、阿曇 ( 安曇とおなじ ) の故郷であろう 』

    と 、本居宣長がその著『 古事記伝 』でのべたのがおそらく最初の指摘であろう 。

   『 古事記 』にある安曇系 ( 海人系 ) の神話をみてもごく普通になっとくできる

    ところで 、かれらが種族神としてまつっていた神が 、宇佐 ( うさ )  、高良

   ( こうら )  、磯賀 ( しか ) という九州の大社に発展してゆくことは周知のとお

   りである 。ひょっとすると ―― と 、便利な言葉をつかえば ―― 蛋民はアジ

   ア全体にひろがっていたのかもしれない 。

    という空想 ( そういう説もある ) はべつとして 、アヅミは日本の地名では 、

   厚海 、渥美 、安積 、熱海などとさまざまに書くが 、いずれも海人族らしく潮騒

   のさかんな磯に住みついているのに 、この琵琶湖の西岸にやってきた安曇族は 、

   なんとも侘びしげで 、ひょっとするとほうぼうの海岸の同族と大げんかして 、つい

   に内陸へのぼり 、やっとこの湖をみつけてしぶしぶながら住みついたひねくれ者ぞ

   ろいだったかもしれず 、

   『 きっとそうに違いありませんよ 』

    と 、湖西安曇野を歩きながらそういうと 、H氏がふりかえって私の顔を不安そ

   うに見つめたのには閉口した 。気がたしかかと 、まじめなH氏は心配してくれ

   たのであろう 。

   『 安曇川町 』

    という 、町とは名ばかりの村がある 。その路次のあたり、ふと軒下をくぐって

   古代安曇人が出てきそうな気がするほど 、しずかな集落であった 。

    路上で地図をみていると 、ふと気づいたのは 、この湖西最大の田園の地名である 。

    青柳という 、近江聖人といわれた中江藤樹 ( 1608 - 48 ) のうまれたあたりの在所

   の名が 、遠く安曇族の故地とされている福岡県粕屋郡にもある 。福岡県のその郡の

   せまい範囲内に古賀という地名もあるが 、この湖西の安曇川町の西北 、安曇川ぞい

   にもそれがある 。いずれも古い地名だが 、まあ偶然であろう 。偶然をもう一つい

   うとすれば 、福岡の安曇の地にも 、つまり博多湾を東から抱いている腕のような

   半島に 、志賀というふるい土地がある 。『 倭名類聚鈔 』では志珂郷と書いたりし

   ているが 、要するに近江の志賀と地名が符合している 。ついでながら 、河海に面

   した砂地のことを 、

   『 スカ

    と 、古くはよばれた 。後世 、須賀の字をあてたりする 。蜂須賀や横須賀などの

   須賀がその好例だが 、それとシカ ( 志賀 ) は関係があるのか 。あるいはさらに飛

   躍してそれら一群の地名が安曇族のことばを暗示するものだとすればおもしろいの

   だが 、しかしこうした地名詮索のたぐいにはキメ手がない 。ひまつぶしにとどめて

   おくほうが無難でいい 。

   『 ところで 』

    と 、H氏が助手台からふりかえった 。

   『 朽木谷へゆくのでしょう ? 』

    それが近江での最終目的地のはずだった 。ところが湖岸の安曇族ですこし浮

   かれすぎたかもしれない 。

   『 陽が 、落ちますよ 』

    と 、H氏は比良連峰のほうをながめた 。ところが須田剋太画伯は 、その落

   陽とは逆方角の 、つまり湖の北東の天に光っている白銀の山を見つめていた 。

   伊吹山であろう 。その白銀がみるみるうちに薄れて 、紗の幕が降りたような 、

   奇妙な光景に変った 。

   『 伊吹は 、きっと吹雪いているのですね 』

    と 、私に教えてくれた 。

    われわれは西へ折れ 、安曇川ぞいの道を川上にむかってさかのぼりはじめた 。

   この道の奥に 、南北二〇キロという長大な谷間があり 、朽木谷といわれる 。そ

   の谷に着くころにはおそらく夜になっているであろう 。 」

    引用おわり 。

 

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縄文人と渡来人 Long Good-bye 2023・09・20

2023-09-20 06:11:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」 は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 湖西の安曇人 ( あずみびと ) 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  「 日本民族はどこからきたのであろう

    という想像は 、わが身のことだからいかにも楽しいが 、しかし空しくもある 。

   考古学と文化人類学がいかに進もうとも 、それが数学的解答のように明快にな

   るということはまずない 。が 、まだ学問としては若いといえる日本語中心の

   比較言語学の世界になると 、今後英才が出てきて 、大きなかぎをさぐりあてる

   かもしれない 。

    ただしいまは 、まだ茫漠たる段階である 。なにしろどの大学にも国語学者が

   いるが 、たとえば隣接地の言葉である朝鮮語を同時にやっているという当然

   の方法さえ 、いまはほとんどおこなわれていない段階なのである 。この稿の

   読者のなかで 、一念発起してそれを生涯のテーマとしてやってみようという青

   年がいればありがたいのだが 。

    ふと湖にはさまれた湖西の寂しい道を走りながら 、

   『 日本人はどこからきたのでしょうね 』

    と 、編集部のH氏がつぶやいたのも 、どうせちゃんと答えがあるはずがな

   いという物憂げな語調だった 。

    しかしこの列島の谷間でボウフラのように湧いて出たのではあるまい

    はるかな原始時代には触れぬほうが利口であろう 。しかしわれわれには可視

   的な過去がある 。それを遺跡によって 、見ることができる 。となれば日本

   人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたこと

   はまぎれもないことである 。その証拠は 、この湖西を走る車のそとをみよ 。

   無数に存在しているではないか

    私の友人 ―― といえば先輩にあたる作家に対して失礼だが ―― 金達寿

   ( キム・ダルス ) 氏と話していたとき 、

   『 日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないか 』

    というと 、

   『 九割 、いやそれ以上かもしれない 』

    と 、金達寿氏は 、『 三国志 』のころの将軍のような風貌をほころばせな

   がら笑った 。私はそうかもしれないと思いつつも 、

   『 それではみもふたもない 』

    と 、閉口してみせた 。それでは日本語のなかに語彙として痕跡をとどめて

   いる南方島嶼語をもちこんだ連中 ―― 黒潮に乗って ―― はどうなるのか

   とか 、あるいは東シナ海を横切ってきた華南大陸からの連中や 、またさら

   にこまかくいえばその連中の血液に微量ながら混入していたはずのユダヤや

   アラブ人の血はどうなるのか 、といったこと 、そして数量的にはいまの学説

   ではあまり過大に考えられないというにせよ 、アイヌ人の血などはどうなる

   のか 、とおもったりするが 、ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で 、

   われわれ日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れこんできたことは 、否定す

   べくもない

    まず言語的に語法・音韻とも 、日本語は北方系に属する 。朝鮮語はその地理

   的環境から 、中国語という異質言語との接触がふかくて 、一見 、日本語とは

   遠くなっているようだが 、語法の骨格はおなじである 。現代朝鮮語のあの舌の

   運動のむずかしさをのぞいては 、日本人は朝鮮語の生活会話 ( 五百ほどの単語 )

   をおぼえるのは 、ふるい津軽弁や薩摩弁を習得する三倍程度の根気があればよい 。

   すくなくとも語法のまるでちがう中国語や英語をおぼえるという 、言語中枢が

   ひきさかれるような思いをせねばならぬのにくらべると 、日本人にとって雲泥

   のちがいである 。

    というようなことだが 、べつにここで朝鮮語の宣伝をしているわけではない 。

   『 朝鮮人などばかばかしい 』

    という 、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて 、私は

   この紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江 ( おうみ ) をえらび 、

   いま湖西みちを北へすすんでいるのである

   『 日本語と朝鮮語の分岐は 、六千年前である 』

    という計算の仕方が 、アメリカにある 。それが正しいと仮定しても 、六千年

   以後もさかんに語彙が日本に流入している

    朝鮮語との相関性をはじめて指摘したのは 、新井白石であった 。

   『 百済の方言に母をオモと言へり 。今も朝鮮の俗に母をオモと言ふは 、古

   ( いにしえ ) の遺言なり 』( 『 東雅 』 )

    とし 、日本の古語と同じだが 、どちらが影響したのだろう 、と述べている 。

    実際は 、オモニという 。ついでながら『 広辞苑 』であもの項をひくと 、

   『 阿母 ( あも ) ―― はは 』

    とあり 、『 万葉集 』の巻二十・四三八三の防人 ( さきもり ) の歌『 ・・・

   阿母が目もがも 』が引用されている 。防人の歌にしばしば出てくるアモ ( 母 )

   が 、その祖語であるオモニの系統をひくことは異論のすくないところである 。

   奥里将建氏の意見 ( 『 日本語系討論 』 ) になると 、これがさらに上流まで

   さかのぼって 、モンゴル語の女 ( ウム- ) から来ているとまで発展する 。

    どうも話が 、

    ―― これでも紀行文でしょうか 。

    と 、同行のH氏に苦情をいわれそうなぐあいに発展してしまったが 、この

   連載は 、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるな

   らばというかぼそい期待をもちながら歩いている 。

    そういうわけで ( われわれはまだ車のなかだが ) 朝鮮渡来文化が地下にねむ

   る上を走っている 。

   『 弥生式文化は朝鮮渡来人がもちこんできたことはわかりますけど 、それよ

   り古い縄文式をもちこんだ民族はまるでちがうでしょう

    と 、H氏はいった 。H氏の脳裏には 、あの呪術性に富み 、怨念をもって

   天地をうごかそうという意思のあらわれのような火焔土器がうかんでいるので

   あろう 。

    私もそう思いたい 。弥生式土器をみると和魂 ( にぎみたま ) そのもののよ

   うに和やかで縄文にみる拒絶の精神などはまるでなく 、哀れなほどに受容性

   に富み 、縄文のごとく天地をうごかそうとする怪奇な気魄はない 。むしろ

   逆に天地のなかに融けて同化しようとする姿勢があって 、その後それもはる

   かな後の日本的思想 ( たとえば浄土教 ) 、あるいは日本的美意識 ( たとえば

   茶道 ) につながってゆくようにおもえる

   『 すると 、縄文のほうは何につながるのでしょう

    と 、H氏はいったが 、しかし前方の風景が変ったため 、氏は話題をひっこ

   めた 。というよりこの湖西の楽浪 ( さざなみ ) の志賀の優しさのなかをゆく

   ときは縄文というあらあらしい世界の話題はふさわしくないとおもったので

   あろう 。

    急に野がひらけたのである 。 」

    引用おわり 。

    ・・・ つづく 。

    アジア大陸から北回りで北米大陸へ渡った古代人がいるのだから 、

   北回りで 沿海州や樺太から 、日本海 を渡って 日本列島の東半分に

   たどり着いたモンゴロイド系の種族 、支族 ( 縄文人の遠祖 ) がいても 、

   何の不思議もないような ・・・ 。もとをただせば 、みなみな 渡来人 。

   

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穴太の黒鍬 Long Good-bye 2023・09・19

2023-09-19 05:22:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 楽浪 ( さざなみ ) の志賀 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  「 中世では近江の湖賊 ( 水軍 ) という大勢力がこの琵琶湖をおさえていて 、

   堅田がその一大根拠地であった 。この小松は堅田に属し 、伊藤姓の家が

   その水軍大将をしていた 。織田信長は早くからこの琵琶湖水軍をその傘下に

   入れ 、秀吉は 朝鮮ノ陣 に船舶兵として徴用し 、かれらに玄界灘をわたらせた 。

    その小松の水軍大将の末孫は菅沼氏の話では土地の氏神の神主をしていて 、

   友人だという 。

   『 戦前は盛んなものだったといいます 。舟に苫をつけて家族が寝泊まりで

   きるようにし 、それで小松を漕ぎ出てゆきますと 、一月も帰らなかったそ

   うです 』

    琵琶湖はそれほどひろい 。小松舟はモロコやエビを獲りながら浦々で米や

   野菜と交換してゆくのである 。まるで古代安曇族の生活ではないかとひそ

   かにおもったが 、安曇については 、のちに触れる 。

    北小松の家々の軒は低く 、紅殻 ( べんがら ) 格子が古び 、厠 ( かわや )

   のとびらまで紅殻が塗られて 、その赤は須田国太郎の色調のようであった 。

   それが粉雪によく映えて 、こういう漁村が故郷であったらならばどんなに懐

   かしいだろうと思った 。須田克太 ( こくた ) 画伯は 、私が家々の戸外の厠

   をのぞきつつ村のにおいを嗅ぎまわっている後姿を 、厳密な風貌でスケッチ

   していた 。私の足もとに 、溝がある 。水がわずかに流れている 。

    村なかのこの溝は堅牢に石囲いされていて 、おそらく何百年経つに相違ない

   ほどに石の面が磨耗していた 。石垣や石積みのうまさは 、湖西の特徴のひと

   つである 。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる 。その水走りの傾斜面

   に田畑がひろがっているのだが 、ところがこの付近の川は目にみえない 。こ

   の村なかの溝をのぞいてはみな暗渠になっているのである 。この地方のことば

   ではこの田園の暗渠をショウズヌキという 。よほど上代からの暗渠らしいが 、

   その石組みの技術はどこからきたのであろう 。そのかぎは 、新羅神社や韓崎 、

   和邇 ( わに ) 、楽浪といった地名のなかにかくされていることは 、ごく自然な

   想像といえる 。

    石組みについてはさきに過ぎた坂本のあたりに穴太 ( あのう ) という土地があ

   る ( もっとも全国にこの地名が多く 、穴生とか穴穂という字を当てたりするが 、

   古代語で格別な意をあらわす言葉にちがいない ) 。で 、ここの穴太は 、

   『 穴太の黒鍬 ( くろくわ )

    といわれ 、戦国期には諸国の大名にやとわれて大いに土木工事に活躍し

   た 。『 広辞苑 』( 第一版 )によると 、

   『 戦国時代 、築城・道普請などの作事に従う人夫 。黒鍬者 』とある 。

   ついでながら作事は建築の意味だから 、正確な日本語としては『 普請

   ( 土木 ) に従う人夫 』とすべきであろう 。とくに戦国末期 、諸国の城

   が土塁でなく石垣を土台にするようになってから 、この穴太の技術者の

   需要が大いにあがった 。湖東の安土に信長が築いた安土城の石垣づくりに

   は 、この『 穴太の黒鍬 』が村中一人のこらずかり出されて行ったにちが

   いない 。

    穴太の里の歴史は 、おそろしく古い 。千年以上前に成立した『 延喜式 』

   にも重要な駅として指定され 、駅馬五頭がおかれていたというが 、これで

   もまだ記録はあたらしい

    それより古く 、成務 ( せいむ ) 帝というその存在さえさだかならぬ帝の

   ころ 、ここに都があり 、

   『 志賀高穴穂 ( しがのたかあなほ ) の宮 』

    と称せられていたという 。中国の『 後漢書 』によれば 、この時期 ( 中

   国で桓という王と霊という王のあいだの時期 ) 、日本は大いにみだれ 、互

   いに攻伐しあい 、ともに卑弥呼を立てて王としたというが 、上代の土地感

   覚では日本も広大だから 、これはあるいは九州のほうの事件かもしれず 、

   近江にいたという『 成務 』という古代王とは関係のない事件かもしれない 。

   いずれにせよ『 志賀高穴穂の宮 』をつくる土木技術は穴太人が担当したで

   あろうし   、のちの天智 ( てんぢ ) 帝の『 滋賀大津宮 』がつくられるとき

   も活躍したにちがいなく 、その技術は地元の農業灌漑にも生かされ 、戦国

   期にはふたたび活躍時代に入って諸国の城造りにやとわれ 、その技術はなお

   この古色を帯びた北小松の漁港設備や溝に生かされている

   『 いい石組みですな 』

    と 、須田剋太氏は溝をのぞきこんでしばらくうごかなかった 。

   『 穴太の黒鍬の技術は大したものです 』

    と 、菅沼氏はこの一事でも近江は古代技術の一大淵叢であったというふうな

   感慨をもらした 。

    この漁港から湖岸をわずかに北へ行くと 、山がいよいよ湖にせまり 、その

   山肌を石垣でやっと食いとめているといったふうの近江最古の神社がある 。

   白髭 ( しらひげ ) 神社という 。

   『 正体は猿田彦 ( さるだひこ ) 也 』

   といわれるが 、最近 、白髭は新羅のことだという説もあって 、それが

   たとえ奇説であるにせよ 、近江という上代民族の一大文明世界の風景が

   虹のようなきらびやかさをもって幻想されるのである 。

    つぎは 、この湖西の安曇 ( あど ) へゆかねばならない 。 」

    引用おわり 。

   穴太の黒鍬って 、ゼネコンの元祖 !?

   ・・・ つづく 。

 

 

  ( ついでながらの

    筆者註:「  須田國太郎( すだ くにたろう 、1891年6月6日 -

         1961年12月16日 )は洋画家 。京都市立美術大学

         名誉教授 。重厚な作風と東西技法の融合に特色 。 」

        「  須田 剋太( すだ こくた 、1906年5月1日 - 1990年

         7月14日 )は 、日本の洋画家 。埼玉県生 。浦和画家 。

         人 物

           当初 具象画の世界で官展の特選を重ねたが 、1949年

         以降 抽象画へと進む 。力強い奔放なタッチが特徴と評

         される 。司馬遼太郎の紀行文集『 街道をゆく 』の挿絵

         を担当し 、また取材旅行にも同行した 。道元の禅の世

         界を愛した 。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内

         萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し 、光

         風会に入ることを勧められ入会した 。また 、寺内萬治

         郎の門下生が集まる 武蔵野会に参加した 。浦和画家の

         ひとり 、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で 、別

         所沼のアトリエも隣り合っていた 。また 、四方田草炎

         や林倭衛とも交流していた 。

         略 歴

         埼玉県北足立郡吹上町( 現:鴻巣市 )で、須田代五郎

         の三男として生まれる 。本名 勝三郎 。1927年 - 埼玉県

         立熊谷中学校( 旧制 、現・埼玉県立熊谷高等学校 )卒

         業 。その後浦和市( 現:さいたま市 )に住み 、ゴッホ

         と写楽に傾倒する 。東京美術学校( 現東京芸大 )を4度

         受験するもいずれも失敗 。独学で絵を学ぶ 。 」

        「  司馬 遼󠄁太郎( しば りょうたろう 、1923年〈大正12年〉

         8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日 )は 、日本の小説

         家 、ノンフィクション作家 、評論家 。位階は従三位 。

         本名:福田 定一( ふくだ ていいち )。筆名の由来は

         『 司馬遷に遼󠄁( はるか )に及ばざる 日本の者( 故に

         太郎 )』 から来ている 。

         大阪府大阪市生まれ 。産経新聞社記者として在職中に 、

         『 梟の城 』で直木賞を受賞 。歴史小説に新風を送る 。

         代表作に『 竜馬がゆく 』『 燃えよ剣 』『 国盗り物語 』

         『 坂の上の雲 』などがある 。『 街道をゆく 』をはじめ

         とする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行

         った 。 」

         以上ウィキ情報 。)

  

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楽浪の志賀 Long Good-bye 2023・09・18

2023-09-18 05:31:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 楽浪 ( さざなみ ) の志賀 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  「 われわれは叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走

   っていた 。叡山という一大宗教都市の首都ともいうべき坂本のそば

   を通り 、湖西の道を北上する 。湖の水映えが山すその緑にきらきら

   と藍色の釉薬をかけたようで 、いかにも豊かであり 、古代人が大集

   落をつくる典型的な適地という感じがする古くはこの湖南の地域を

   『 楽浪の志賀 』といった 。いまでは滋賀郡という 。で 、サザナミ

   に楽浪という当て字をつけたのは なにか特別ないわれがあるのだろう

   か 。朝鮮半島にも楽浪という地があり 、それとなにか関係があるの

   だろうか 。彼の地の楽浪古墳群は平壌の西南 、大同江の水を見おろ

   す丘陵地帯にある 。この『 楽浪の志賀 』も古墳の宝庫で 、その

   すべてが朝鮮式であることがおもしろい 。上代このあたりを開拓

   して一大勢力をなしていたのが 半島からの渡来人 であったことをおも

   えば 、古墳が朝鮮式であることも当然であるかもしれない 。

    叡山をひらいて天台宗の始祖になった 最澄 もこのあたりの渡来人の

   村の出身である 。最澄のうまれは 称徳 ( しょうとく ) 女帝の神護

   景雲元 ( 767 ) 年だから 、半島からの渡来人がこの湖岸をひらいて

   村をつくってから二世紀ほど経ってからの出生であろうか 。

   『 もう 、古墳だらけで 、あの丘陵のあたり土地を買って宅地造成

   しようとしたひとは 、かならず古墳にぶつかって 、教育委員会との

   いざこざをおこしたりします 』

   という旨のことを菅沼氏はいった 。

    このあたりを故郷とする 最澄 の村は 、百済人の村なのか新羅人の村

   なのか知らないが 、大津市の北に新羅神社というふるい神社がある 。

   それが 、このあたりの渡来人の族神だったのかどうか 。

    伝によると空海のメイの子で 、三井寺を中興した円珍が唐から帰って

   きたとき 、夢枕に老翁が立ち 、

   『 我是新羅国神也 』

   と 、名乗り 、汝を加護するから自分をまつれ 、といったから円珍は

   この土地神をまつったというが 、むろんこれは古代的表現で 、むかし

   渡来人たちがまつっていた新羅の神が 、円珍のころには社殿荒廃しきっ

   ていたのを円珍が復興したということであるにちがいない 。

    古代朝鮮の年譜をみると 、新羅の王の第二十四代真興王が 、西紀五

   六四年 ( 日本の欽明 ( きんめい ) 帝のとき ) 中国 ( 北斉 ) の属国になり 、

   北斉からその王は 、

   『 楽浪郡公新羅王 』

    という称をもらった 。つまり新羅と楽浪は同義であり 、この湖岸

   の古称『 志賀 』に 、『 楽浪の 』というまくらことばをつけてよば

   れるようになったのは 、そういう消息によるものにちがいない

    車は 、湖岸に沿って走っている 。右手に湖水をみながら堅田をすぎ 、

   真野をすぎ 、さらに北へ駆ると左手ににわかに比良山系が押しかぶさ

   ってきて 、車が湖に押しやられそうなあやうさをおぼえる 。大津を

   北に去ってわずか二〇キロというのに 、すでに粉雪が舞い 、気象の

   上では北国の圏内に入る 。山がいよいよのしかかるあたりに 、

    『 小松 ( 北小松 )

    という古い漁港がある 。

    日本に小松という地名が無数にあるが 、周防 ( すおう ) 大島の漁港

   小松が高麗津 ( こまつ ) であったように 、ここもあるいは高麗津だ

   ったのかもしれない 。この漁村を通りすごそうとして ふと自然石を組

   んだ波ふせぎが古い民芸品をみるように鄙寂びているのに気づき 、降

   りて浜へ出てみた 。波うちぎわで老婦人が菜を浸け 、左右に振りなが

   らあらっているのをみて 、

   『 なんの菜ですか 』

    と 、やや期待をかけてのぞくと 、これどすか 、大根葉どす 、とごく

   平凡な回答がもどってきた 。

    そこから舟底板の橋をわたると 、水の淀んだ舟溜まりになっている 。

    沖から戻ってきたアノラック姿の漁師に『 いまの季節はモロコですか 』

    ときいた 。漁師はだまってうなずいた 。肌が白い 。海辺の人とのちがい

   であろう 。

   『 いまこの漁村 ( むら ) に舟は何艘です 』

    と 、稼働舟の数をきいてみた 。戦前は三十八ハイも動いていたがなあ 、

   という 。それが去年は七ハイや 、とさびしげである 。

   『 ことしは ? 』

   『 それがあんた 』

     憎むような目差しで私をみて 、

   『 五ハイになってしもうた 』といった 。」

   引用おわり 。

   もう一つ「 お気に入り 」。

  「 楽浪の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ 」

                       ( 柿本人麻呂 )

   ・・・ つづく 。

 

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淡海の海 Long Good-bye 2023・09・17

2023-09-17 05:47:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 楽浪 ( さざなみ ) の志賀 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。いつ読んでもほっこり落ち着く語り口 。

   引用はじめ 。

  「 『 近江 』

   というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう 、私には

   詩がはじまっているほど 、この国が好きである 。京や大和が

   モダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつ

   あるいま 、近江の国はなお 、雨の日は雨のふるさとであり 、粉雪

   の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう 、においを

   のこしている 。

   『 近江からはじめましょう 』

   というと 、編集部のH氏は微笑した 。お好きなように 、という

   合図らしい 。 」

 

  「 はるかな上代 、大和盆地に権力が成立したころ 、その大和権力の

   視力は関東の霞ケ浦までは見えなかったのか 、東国といえば岐阜県

   からせいぜい静岡県ぐらいまでの範囲であった 。岐阜県は 、美濃と

   いう 。ひろびろとした野が大和からみた印象だったのであろう 。

    さらには静岡県の半分は駿河で 、西半分は遠江 ( とおとうみ ) と

   いう 。浜名湖のしろじろとした水が大和人にとって印象を代表する

   ものだったにちがいない 。遠江は 、遠 ( とお ) つ淡海 ( あわうみ )

   のチヂメ言葉である

    それに対して 、近くにも淡海がある 。近つ淡海という言葉をちぢ

   めて 、この滋賀県は近江の国といわれるようになった 。国のまん

   なかは満々たる琵琶湖の水である 。もっとも遠江はいまの静岡県で

   はなく 、もっとも大和にちかい 、つまり琵琶湖の北の余呉湖 ( よ

   ごのうみ ) やら賤ケ岳 ( しずがたけ ) のあたりを指した時代もある

   らしい 。大和人の活動範囲がそれほど狭かったころのことで 、私は

   不幸にして自動車の走る時代にうまれた 。が 、気分だけはことさら

   にそのころの大和人の距離感覚を心象のなかに押しこんで 、湖西の

   道を歩いてみたい

    ちなみに湖東は平野で 、日本のほうぼうからの人車が走っている 。

   新幹線も名神高速道路も走っていて 、通過地帯とはいえ 、その輻輳

   ( ふくそう ) ぶりは日本列島の朱雀 ( すざく ) 大路のような体 ( て

   い ) を呈しているが 、しかし湖西はこれがおなじ近江かとおもうほ

   どに人煙が稀れである

   『 湖西はさびしおすえ

    と 、去年 、京都の寺で拝観料をとっている婦人がいった 。その

   あたりに彼女の故郷の村があるらしく 、あれはもう北国どす 、と

   言い 、何か悲しい情景を思い出したらしく 、せわしくまぶたを

   上下させた 。『 そこへゆくと 、京はにぎやかで 』 といって 、

   私から百円の料金をとりあげた 。 

 

  「 たれか道連れがほしいと思い 、この県の民俗調査をやっている菅沼

   晃次郎氏と大津で落ち合った 。私より四つほど若く 、車内で同席す

   るなり 、

   『 速記から民俗学に入りましてん 』

   と 、そんなぐあいに自己紹介された 。大阪うまれで 、いかにも大

   阪人らしい率直な物の言い方であった 。怪態 ( けったい ) なはなし

   で 、と菅沼氏はいう 。昭和二十四年ごろでしたやろか 、ええ暑い

   ころです 。大阪城のそばの馬場町の営林局の宿舎で柳田國男先生と

   折口信夫先生の民俗学の講演会がありまして 、といわれる 。

   なるほど豪華な講演会である 。日本の民俗学の二人の創始者が二人

   とも顔をならべての講演会だというのだが 、当時の大阪はまだ戦災

   から復興しきっておらず 、その講演会場が営林局宿舎の二階だった

   というのがおもしろい 。聴衆は三 、四十人だったという 。そのとき

   速記をたのまれたのがこの世界に入るきっかけでした 、と菅沼氏はい

   うのである 。 」

  「 上方の話し言葉は語尾が『 て 』でつづいてゆく 。私はラジオ屋の

   子でして 、工業学校を出まして 、それがもう一つ何ちゅうか 、面

   白う無うて 、なにか面白いことがないかと思いまして 、それで速記

   をならいまして 、習った早々に柳田・折口先生の速記をするという

   ハメになりまして 、こっちのほうがおもしろいやないかと思いまし

   て 、それでその講演会の幹事をしておられた鳥越憲三郎先生がほな

   らおまえ民俗学やれといわれまして 、それでいろいろやりまして 。

   ・・・・・・

   『 それでは 、近江はあんまり 』

   『 へい 、あまり縁が 。八年前でした 、来ましたのは 。これだけの

   風土をもちながら県に民俗学会というのがない 、ということでお前

   行ってやってみいとひとに言われてやってきまして 、それで滋賀県

   民俗学会というのをつくりましたけれど 、県が経済的な面倒をみて

   くれませんので 、火の車ですわ 』

   と 、愉快そうに笑った 。 」

   引用おわり 。

   上方の話し言葉がなつかしく 、おもしろい 。

   後段はテープ起こしして 、書かれているにちがいない  。

 

   もう一つ「 お気に入り 」。

  「 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ 」

                       ( 柿本人麻呂 ) 

  ( ついでながらの

    筆者註 :万葉集にある和歌の代表みたいな歌 。

       原文は 、「 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念 」とか 。

       淡海(あふみ)の海 ( うみ )  夕波千鳥(ゆふなみちどり )

       汝 ( な )が鳴 ( な ) けば 情(こころ)もしのに 古(いにしへ)

       思 ( おも ) ほゆ

 

 

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