「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・03・31

2005-03-31 07:00:00 | Weblog


 我が家の老犬が、丁度一年前、生れてから13年1ヵ月余で息を引き取りました。今日の「お気に入り」は、歌人で犬の研究家である平岩米吉さんの歌です。

 「犬は犬 われはわれにて 果つべきを いのち触りつつ むすぶ悲しさ


 山本夏彦さんにこんなコラムがあります。

 「犬は驚いたとき、腹がへったとき、甘ったれるとき、それぞれちがった鳴き声を発します。けれどもそれは五十種を出ません。人類はそれを犬が人より劣った証拠だとみなしてきましたが、我々の言論も、むろん五十以内に整理できます。犬ではすでに整理され、我々ではまだされていないからといって、それを高等だと思うのは身贔屓にすぎません。」

  (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)

 「ずーっと昔から私は犬と人を区別しなかった。犬は人の鑑だと思っていた。共に哺乳類だからよく似た存在である。人間のことを人間によって知ろうとすると、身贔屓があって知ることが出来ない。犬によって知ろうとするとかえって知ることが出来る。のちに私は人を嫌悪するあまり、犬の振り見てわが振り直せ、と言うにいたった。私は犬を哺乳類の上位に置くものではないが、それでも人よりはましだと思っている。」

  (山本夏彦著「笑わぬでもなし」所収) 
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中原中也 2005・03・30

2005-03-30 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、中原中也(1907-1937)の詩二篇。

  帰郷
           「柱も庭も乾いてゐる
           今日は好い天気だ
               縁の下では蜘蛛の巣が
                 心細さうに揺れてゐる

           山では枯木も息を吐く
           あゝ今日は好い天気だ
                路傍(みちばた)の草影が
                あどけない愁(かなし)みをする

           これが私の故里だ
           さやかに風も吹いてゐる
                 心置なく泣かれよと
                年増婦(としま)の低い声もする

           あゝ おまへはなにをして来たのだと……
          吹き来る風が私に云ふ」

 汚れつちまつた悲しみに……
               「汚れつちまつた悲しみに
                 今日も小雪の降りかかる
               汚れつちまつた悲しみに
               今日も風さへ吹きすぎる

               汚れつちまつた悲しみは
             たとへば狐の革裘
             汚れつちまつた悲しみは
               小雪のかかつてちぢこまる

               汚れつちまつた悲しみは
                なにのぞむなくねがふなく
                汚れつちまつた悲しみは
                倦怠のうちに死を夢む

              汚れつちまつた悲しみに
               いたいたしくも怖気づき
              汚れつちまつた悲しみに
              なすところもなく日は暮れる……」

  (角川春樹事務所刊「中原中也詩集」所収)


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いにしへのはあはれなること多かり 2005・03・29

2005-03-29 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「今人のうちに友人が得がたければ、古人にそれを求めるよりほかはない私は早く今人に望みを絶った二葉亭(四迷)に親炙すれば、勢いその友人とも昵懇になる作品、日記、随筆に作者の友人知己が登場するから、芋づる式にそれと知りあいになること、死せる人も生ある人に変りはないこうして私は、当時の言語、風俗、人情、物価に通じ、明治初年から末年までを、彼らと共に呼吸したのである。」

 「私が兆民・中江篤介を知ったのは、幸徳秋水の紹介による。秋水は斎藤緑雨の、緑雨は内田魯庵の、魯庵は二葉亭四迷の紹介で知ったいずれも故人である私が知ったとき、すでにこの世の人ではなかったすなわち、私は死んだ人の紹介で、死んだ人を知ったのである。」

  (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)


 因みに「徒然草」の第十三段は、「見ぬ世の人を友とする」喜びを次のように記しています。

 「ひとり燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる
  文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。」と。
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2005・03・28

2005-03-28 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「自分が無名だということは、有名になる気のない人には当り前なことだが、有名になる気のある人には残念なことである。有名になる気がない人といえば聞えはいいが、それは有名になる見込みがない人のことだと、見込みのある人は思う。」

 「芥川龍之介を認めたのが、夏目漱石であったのは何よりだった。二人は共に有名だから語り草になったのである。これが漱石でなく無名の別人だったら話にならない。無名の別人も認めただろうが、その名は残っていないから知らない。」

 「無名の人もその名をとどめたがる。」

 「新しい取巻きに取巻かれて得意にならない人はない。十年二十年取巻かれていれば別人になる。初めて推してくれた人の前でだけ、もとの無名にかえるのは困難である。」

 「天才だといった世間はすぐ忘れるが、言われた当人は忘れない。」

 「『告白』というものは多くまゆつばである自慢話の一種ではないかと私はみている。」

 「作者と作品は別もので、作品がすべてで作者はカスであることもあり、作品と作者は似ても似つかぬものであることもあって、作者を知ることは作品の理解をさまたげることが多いのである。」

  (山本夏彦著「ダメの人」所収)
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2005・03・27

2005-03-27 07:00:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「忘れるものは忘れるがいいいくら名所古跡だろうと、縁がなければ忘れる残ったものが自分の旅である古人はそうして旅をした。」

  (山本夏彦著「毒言独語」所収)


 「すぐ忘れる部分は、記憶するに値しない部分である。」

  (山本夏彦著「ダメの人」所収)


 もうひとつ「旅」で思い出した「お気に入り」。 松尾芭蕉(1644-1694)「おくのほそ道」から二句。 旅は春に始まり、秋に終わる。 旅の終わりはまた、新たな旅の始まり。

 「行く春や鳥啼き魚の目は涙」

  (過ぎゆく春を惜しんで、人間ならぬ鳥までも鳴き、魚の眼は涙でうるむ。今、旅に出る私どもを囲み、みんなで別れを惜しんでくれた。)

  考えて 、考えて 、言葉を選んで 、詠んだシュールな句 。理屈っぽい人だったんだろうなあ 。

 「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」

  (蛤のふたと身とが別れるように、私は見送る人々と別れて、二見が浦に出かけようとしている。ちょうど晩秋の季節がら、離別の寂しさがひとしお身にしみる。)

  (角川書店=編 「おくのほそ道(全)」から)

  考えて 、考えて 、言葉を選んで 、詠んだ理の勝った句 。

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良心的 2005・03・26

2005-03-26 07:00:00 | Weblog




 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。


 「この世は、当人と他人から成っている他人の目には、ありあり見えることが、当人には見えない。」

 「当人というものは、思い知ることがない存在である。」

 「日支事変はもとより、日清日露の戦役まで侵略戦争だと中国人が言うのは自然だが、日本人が言うのは不自然である

  それなら当人ではない、他人である当人というものは、自分の利益とみれば、他人の島まで自分の島だと

  いいはるものである
それが健康な個人であり、国家である故に健康というものはいやなもの

  である/strong>。けれども、おお、個人も法人も国家も、健康でなければならないのであるわが国の

  当人ぶりは、他国の当人ぶりにくらべると著しく遜色がある
白を黒だと言いはること少ないのは良心的なのでは

  ない
弱いのである中国が言うべきことを、さき回りしてわが国が言うのは、知らないで

  媚びるのである
かくの如く自分が言いはること少なく、他人の言いはることに迎合する国は、怪しいかな他国に

  尊敬されないのである
。」

 「理解をさまたげるものの一つに、正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいい

  と思いがちである。だから、手伝えないといわれるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。」


 「私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである女なら淫売しても許される

  ただ、正義と良心だけは売物にしてはいけないと思うものである。」


  (山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)


 「良心的という言葉は良心そのものではないが、良心に似たもの、近いものというほどの意味に使われている。良心と

  言いきるには勇気がいる、また恥ずかしい。だから良心的とだれが言いだしたか知らないが、うまいことを言ったもので、

  たちまち世間に歓迎され流行するにいたった。こんなことを言うのは、私がこの言葉を憎んでいるからである。

  もし私がこの語を字引にいれるとしたら、良心に似て非なるもの、良心に近いようで遠いもの、良心のにせもの、

  良心だと思いこんでいるもの――というほどのことを、字引だから一字一字たしかめて、彫るように万感をこめていれるだろう
。」

  (山本夏彦著「『戦前』という時代」文春文庫 所収)


 「異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。すなわち、一見世論にしたがっている

ように見せて、読み終ると何やら妙で、あとで『ははあ』と分る人には分るように、正体をかくしていなければならない


  いなければ、第一載せてくれない。」

  (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)







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2005・03・25

2005-03-25 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「名士というものは、ジャーナリズムに招集されて、そこに登場してはじめて名士である。招集されなければ、そもそも名士ではないから、名士は新聞雑誌が望むことを察して発言する。
  (中略)
  名声を得ようとするものは、目下流行している言論と同じことを言う。違うことを言うと『村八分』になりはしないかと恐れる。」

  (山本夏彦著「笑わぬでもなし」所収)


 この一週間、フジテレピ、ニッポン放送による、ニュース番組、傘下メディア、出入り芸人・タレント・従業員を総動員しての「ライブドア叩き」の露骨なキャンペーンを見せつけられてきました。右寄り、左寄りならぬ「下寄り」で、個人々々の放言を我田引水で編集して、普段お題目のように唱えている「報道の公平性・中立性」もクソもへったくれもない有り様です。誰しも「自分のこととなると目がみえなくなる」ものだということを感じさせられる今日この頃です。
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2005・03・24

2005-03-24 07:00:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は良寛禅師の歌三首です。

 「山住みの あはれを誰に 語らまし
       あかざ籠(こ)に入れ かへるゆふぐれ」

 「霞立つ 永き春日に 鶯の
      鳴く声きけば 心は和ぎぬ」

 「飯乞ふと わが来しかども 春の野に
      菫摘みつつ 時を経にけり」
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2005・03・23

2005-03-23 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
 私の手帳には、山本夏彦さんのコラムの言葉を書き留めたページが沢山あります。
 これもその一つ。

 「 ようやく健康に二種あることが分った。一つは昔ながらの健康、自分の非を認め
  まいとがんばる健康である。一つは勇んで認めて、他をとがめる健康である。
  とがめて日本中を全部自分と共にとがめさせようとする魂胆なのである。彼らは
  日本人でいながら、外国人に似ている。以前はソ連人に似ていたが、今は中国人
  に似ている。たいてい中国人と同意見で、その精神的支配下にあって、さらに支
  配下になりたいと願っているから、いずれはなるはずである。なれば健康は再び
  一種類に返る。教科書はきびしく体制的で、反体制の言辞を弄するものは一人も
  なく、ないことに主人が満足するだけでなく、家来もまた満足するのである。私
  が健康というものに注目して、ほとんど憎むゆえんである。」

  (山本夏彦著「二流の愉しみ」所収)


 「食いものの恨みは忘れ、旗や歌の恨みだけおぼえているのは不自然だというより、
  うそである
。」

  (山本夏彦著「二流の愉しみ」所収)


 「いきり立つものと争うのは無益である。」

  (山本夏彦著「変痴気論」所収)


 「私は『言論の自由』と聞くとカッとなるくせがある。
  それは危険なときは黙っていて、安全とみてとると我がちに言う
  自由のことかと思う
からである。」

  (山本夏彦著「不意のことば」所収)
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2005・03・22

2005-03-22 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 大衆社会は大衆に迎合する社会で、新聞雑誌はひたすら売れることを欲し
  テレビは見られることを欲するから、大ぜいが機嫌を損じることは言わない。
  また言えない。人民は悪をなし得ずなんぞと言って媚びる。」

 「 言論の自由は大ぜいと同じことを言う自由であり、大ぜいと共に罵る自由であり、
  罵らないものを『村八分』にする自由である
これが言論の自由なら、これまでも
  あったしこれからもあるだろう
。」

  (山本夏彦著「恋に似たもの」所収)

  某テレビ局と某IT企業の某ラジオ放送局買収を巡る騒動で利害関係者やそれが
 飯の種の政治家や付和雷同の俄かコメンテーターの間で繰り広げられている口パク
 パク芝居を見て思い出したコラムです。


 以下はおまけ。


 「『ロバは旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない』と西諺はいう。
  何の学問も知識もないものが、海外に遊んでも得るところはないというほどのことで、
  むろん私のことだよ、と(私は)言う。」

 「子犬は親犬に孝行しない。それが自然で、ひとり人間だけが孝行したのは二千年来教え
  たからで、それが僅々三十年教えなくなったらこのていたらくである。」

 「 『愛する』という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。」

 「 愛するが日本語になるには、まだ百年や二百年はかかる。」

 「 隠居とはむかしの人はうまいことを考えたものです。親は未練を断ち切って、家督を
  子に譲って以後いっさい口出しをしません。こうして十年たてば子は三十代になって、
  親が口出ししたくても今度は出せなくなって、自分は全き過去の人になったと知って
  安心して死ねるのです。」

  (山本夏彦著「つかぬことを言う」所収)


 「 いま生きている人、必ずしも生きてるわけじゃない。すでに死んだ人のほうがまざまざと
  生きていることがありますからね。生きてるつもりで、実は死んでる人でこの世
  はみちみちています
。」

  (山本夏彦著「夏彦・七平の十八番づくし」所収)
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