今日の「お気に入り」。
「人一(ひと)たびにしてこれを能(よ)くすれば、
己(おのれ)これを百たびす。
人十(と)たびにしてこれを能(よ)くすれば、
己(おのれ)これを千たびす。
果してこの道を能(よ)くすれば、
愚と雖(いえど)も必ず明、柔と雖も必ず強なり。」
(中庸)
「人一(ひと)たびにしてこれを能(よ)くすれば、
己(おのれ)これを百たびす。
人十(と)たびにしてこれを能(よ)くすれば、
己(おのれ)これを千たびす。
果してこの道を能(よ)くすれば、
愚と雖(いえど)も必ず明、柔と雖も必ず強なり。」
(中庸)
今日の「お気に入り」。
「北寿仙老をいたむ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげののけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我(わが)庵(いほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごとたたずめる今宵(こよひ)は
ことにたう(ふ)とき
釈蕪村百拝書」
(与謝蕪村)
「北寿仙老をいたむ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげののけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我(わが)庵(いほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごとたたずめる今宵(こよひ)は
ことにたう(ふ)とき
釈蕪村百拝書」
(与謝蕪村)
今日の「お気に入り」。
「チェホフを読むやしぐるる河あかり」 (森澄雄)
「鶴岡は人口十万に満たない城下町で、市内を南から
東北にかけて川が流れる。その町に十一月がおとずれると、
町の上を覆う雲も町の中を流れる川もにわかに暗くなった。
ことに夕方、ひとしきりしぐれが降って去ったあとは、
町ははやばやと夕闇につつまれ、わずかに西空の端に
のこる赤黒い雲が投げかける微光が川の上にとどまる
だけになる。荒涼とした光景だった。
森の句が私の心の中に喚起するのは、そのような初冬の
郷里のイメージなのだが、奇怪なことにこの句の中には
若かったころの私がいる。私は燈がともる河畔の喫茶店
にいて、読みつかれたチェホフからふと上げた眼を、寒
寒と暮れて行く川に投げているのである。」
(藤沢周平)
「チェホフを読むやしぐるる河あかり」 (森澄雄)
「鶴岡は人口十万に満たない城下町で、市内を南から
東北にかけて川が流れる。その町に十一月がおとずれると、
町の上を覆う雲も町の中を流れる川もにわかに暗くなった。
ことに夕方、ひとしきりしぐれが降って去ったあとは、
町ははやばやと夕闇につつまれ、わずかに西空の端に
のこる赤黒い雲が投げかける微光が川の上にとどまる
だけになる。荒涼とした光景だった。
森の句が私の心の中に喚起するのは、そのような初冬の
郷里のイメージなのだが、奇怪なことにこの句の中には
若かったころの私がいる。私は燈がともる河畔の喫茶店
にいて、読みつかれたチェホフからふと上げた眼を、寒
寒と暮れて行く川に投げているのである。」
(藤沢周平)
今日の「お気に入り」。
「私は駅前という場所が好きである。どんな小さな駅でも、
駅前には商店街といった雰囲気を持つ一角があって、
そこには食堂とか美容室、小さな本屋とかゲームセンター
とかがある。私に必要なのはコーヒーを飲ませる店だが、
その喫茶店も一軒ぐらいはある。運がよければ二軒もあるし、
最悪の場合でも、丹念にさがせばコーヒーを飲ませる簡易
食堂ぐらいは見つかるのが、駅前という場所である。
そしてどんなに小さな駅でも、汽車なり電車なりが着く
たびに、多少の客の乗り降りはあって駅前の広場が
いっときにぎわう、その何ということもない
人のにぎわいのようなものも私は好きである。」
(藤沢周平)
「私は駅前という場所が好きである。どんな小さな駅でも、
駅前には商店街といった雰囲気を持つ一角があって、
そこには食堂とか美容室、小さな本屋とかゲームセンター
とかがある。私に必要なのはコーヒーを飲ませる店だが、
その喫茶店も一軒ぐらいはある。運がよければ二軒もあるし、
最悪の場合でも、丹念にさがせばコーヒーを飲ませる簡易
食堂ぐらいは見つかるのが、駅前という場所である。
そしてどんなに小さな駅でも、汽車なり電車なりが着く
たびに、多少の客の乗り降りはあって駅前の広場が
いっときにぎわう、その何ということもない
人のにぎわいのようなものも私は好きである。」
(藤沢周平)
今日の「お気に入り」は、山本周五郎(1903-1967)著「ながい坂」から。
「人はときによって、
いつも自分の好むようには生きられない。
ときには自分の望ましくないことにも
全力を尽さなければならないことがあるものだ。」
「人はときによって、
いつも自分の好むようには生きられない。
ときには自分の望ましくないことにも
全力を尽さなければならないことがあるものだ。」
今日の「お気に入り」は、山本周五郎(1903-1967)著「新潮記」から。
「人が晩年になってから、自分の生き方は間違っていた、
自分にはもっとほかの生き方があったのだ、
そう思うくらい悲惨なことはありませんからね、
だって是れだけはどうしたってやり直すことができないんですから。」
「人が晩年になってから、自分の生き方は間違っていた、
自分にはもっとほかの生き方があったのだ、
そう思うくらい悲惨なことはありませんからね、
だって是れだけはどうしたってやり直すことができないんですから。」