「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

FARGO ファーゴ Long Good-bye 2023・10・31

2023-10-31 05:35:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典

 「 ウィキペディア 」 掲載の記事「 ファーゴ ( テレビドラマ ) 」 。

   Am*z*n Prime Video で 最近視聴した 米国発の テレビドラマ 

 『 FARGO / ファーゴ 』。このシュールなサスペンスドラマの

  シリーズ1( シーズン1 )は 、今から9年前の2014年に

  公開されたという 。

  寒冷地である米国中西部の ミネソタ州 、ノースダコタ州 、サウス

 ダコタ州の州境付近 、およびカンザス州とミズーリ州にまたが

 るカンザスシティが このドラマのシリーズ1 の舞台である 。

  ごく普通の市民 、警察官 、マフィア が 主要なキャストとなり 、

 連続殺人事件に巻き込まれていく 。出てくる景色は雪模様 。

 シリーズ1( シーズン1 )は 、10話構成 。各話( エピソード

 1~10 )の冒頭に実話を基にしている旨のこんなテロップが映る 

 のが お約束 。

                      日本語字幕

   THIS IS A TRUE STORY .        これは実話である 。

       TRUE

   The events depicted took place    実際の事件は2006年

   in Minnesota in 2006 .         ミネソタ州で起こった 。

   At the request of the survivors ,    生存者の希望で

   the names have been changed .    名は変えてある 。

   Out of respect for the dead the rest  死者への敬意を込め

   has been told exactly as it occurred .   その他は忠実に描いた 。

  F A R G O                ファーゴ 

 

   これも演出の一つで、実際には完全なフィクションのよう 。

  ( ´_ゝ`)

   制作者のひとりよがりが多い この種 ブラックコメディ の中では

 出色の出来 と言ってもよいのではないかと思われる 。上品さは 、

 かけらもない 。元の映画は R15+指定 だが 、その映画に着想を得

 たテレビドラマの脚本も大人向け 。

  「 ウィキペディア 」 掲載の記事を 適宜 取捨 抜粋して以下に紹介する 。

 引用はじめ 。

 「 『 FARGO / ファーゴ 』( ファーゴ 、英 : Fargo )は 、

  2014年から FXチャンネル で放送されている アメリカ

  合衆国のサスペンスドラマ 、ブラックコメディである 。

   ノア・ホーリーが コーエン兄弟による1996年の映画   ( 映画では 、登場人物全員が 露骨なミネソタ訛りを話す )

  『 ファーゴ 』 に着想を得て 創作し 脚本を書いている 。 ( ノア・ホーリー(Noah Hawley 、1967 -  ) )

  概 要

   本シリーズは 、シーズンごとに 設定や時代や配役の異

  なる アンソロジー形式 である 。俳優によっては複数年

  に渡る出演契約をすることが難しいため 、出演は1シー

  ズンに限られている 。」

 「 1996年の映画 『 ファーゴ 』 に着想を得てはいるが 、

  登場人物や設定は異なっている 。ただし 、シーズン1には

  映画で埋められた現金を掘り起こすシーンがある 。シーズ

  ン1は 映画の19年後の物語であるが 、シーズン2は 映画

  の8年前の物語であり 、シーズン1とは数人の登場人物が

  共通している 。 」( 映画は 1987 年 、シーズン1は 2006 年 、シーズン2は 1979 年の物語 という設定 。)

 「 2006年を舞台とするシーズン1は 2014年4月15日から放送

  され 、シーズン2は 登場人物を一新して 1979年を舞台とし 、

  2015年10月12日から放送された 。 」

 「 日本では 、2014年にスター・チャンネルでシーズン1が 、2016

  年1月からシーズン2が 、シーズン3は 2017年10月24日から

  放送された 。シーズン4は 2021年1月29日からスター・チャン

  ネルEXで配信され 、同年4月からはスター・チャンネルで放送さ

  れた 。 」

  「 あらすじ  

   シーズン1のあらすじ
    2006年1月 、殺し屋の ローン・マルヴォ( ビリー・ボブ・
   ソーントン )は ミネソタ州ベミジーで殺人仕事をした後 、  ( この二人の俳優がいい )
   レスター・ナイガード( マーティン・フリーマン )と知り合い 、
   彼の憎む相手を殺す 。妻の尻に敷かれていたレスターは 
   衝動的に妻を殺してしまい 、マルヴォに死体の始末を頼
   むと 、不審に思った警察署長をも マルヴォが殺してしまう
   警察副署長のモリー・ソルヴァーソン( アリソン・トルマン )
   と ミネソタ州ダルース警察の警官ガス・グリムリー( コリン・
   ハンクス )は 協力して事件を捜査し マルヴォとレスターを
   疑うと 、レスターは弟に濡れ衣を着せて捜査を逃れる 。
   ギャングがマルヴォに殺し屋を送り込むが 、マルヴォは 
   逆に ノースダコタ州ファーゴ でギャングの本拠を襲い 壊滅
   させる 。 1年後に レスターは変装したマルヴォに再会して
   殺人を目撃する 。マルヴォは レスターを消そうと ベミジーに
   再来するが 、モリーと結婚していたガスに射殺される 。
   マルヴォの所持品から レスターの殺人が暴かれ 、レスター
   は逃走するも湖に落ちて死ぬ 。   ( 原題である " Fargo "  の町がほとんど出てこない )

   シーズン2のあらすじ
    1979年のノースダコタ州ファーゴ 、サウスダコタ州スーフォールズ 、
   ミネソタ州ルヴァーンを舞台とする 。ファーゴのギャング " ゲアハルト
   一家 " の息子ライが判事を殺害し 、その直後に 美容師のペギー
   ( キルスティン・ダンスト )の車に轢かれてしまう 。ペギーと夫で肉
   屋店員のエド( ジェシー・プレモンス )は 、轢いたライを殺し 、死
   体を処理する成り行きとなる 。ベトナム戦争帰還兵でモリーの父
   親の警察官ルー・ソルヴァーソン( パトリック・ウィルソン )が義父
   で保安官のハンク( テッド・ダンソン )と共に 判事殺害事件を
   捜査する 。カンザス・シティのギャングが ゲアハルト家の縄張りを
   傘下に収めようとして抗争に発展する 。エドとペギーは 弟を探し
   に来たライの兄ドッドに襲われるも逆に捕え 、サウスダコタ州に
   連れて逃げる 。ゲアハルト家の手下のハンジーは カンザス・シティ
   側に寝返り 、二人を追いドッドを殺す 。現地の警察はルーとハ
   ンクの助けで エドとペギーを逮捕し 、二人を使って カンザス・シティ
   のギャングを一網打尽にしようとする 。ハンジーに操られたゲアハ
   ルト家は ドッドを救出しようとして 、待ち伏せするサウスダコタ州
   警察を襲撃し 、壮絶な銃撃戦となり 双方のほとんどが死ぬ
   エドもハンジーに殺され 、ペギーは ルーに逮捕される 。

  引用おわり 。

   カンザスシティには 、50年ほど前に 、一度立ち寄ったことがある 。

   勤めていた会社の取引先を訪ねての旅 。

   この辺りは 、竜巻 ( tornado ) の多発地帯でもあるらしい 。

   宿泊したホテルの方々に警告表示が貼りだされていた 。

   ミズーリ州カンザスシティの 1950年 を舞台とする ファーゴ の シー

  ズン4 には 、拳銃を向け合うギャングが二人とも竜巻に巻き上げら

  れ 、命を失う場面が出てくる 。

   現代の人の世のありさまを描いた ドラマ 。

    絵空事のためにこそ 、この世はある 。  

  ( ついでながらの

    筆者註:「 ファーゴ( Fargo )は 、アメリカ合衆国ノースダコタ州
        南東部に位置する都市 。ミネソタ州との州境になってい
        る北のレッド川西岸 、ミネアポリス・セントポールの北西
        約350km 、カナダ・マニトバ州ウィニペグの南約360kmに
        位置する 。人口は 125,990人( 2020年国勢調査 )で州最大 、

        ( 中 略  )

         ファーゴ は 1871年に 、レッド川の氾濫原に創設された 。
         今日では 、ファーゴ は ノースダコタ州東部 、およびミネソタ
        州北西部における 文化 、商工業 、医療 、および教育
        の中心地となっている 。また 、ノースダコタ州においては
        グランドフォークスのノースダコタ大学と共に双璧を成す
        ノースダコタ州立大学 は 、ファーゴ に キャンパスを置いて
        いる 。

          もともとは スー族( ダコタ族 )のものであったこの地に 、
        今日の ファーゴ市 となる 、レッド川を遡る蒸気船の停泊
        地が設けられていたのは 、1870-80年代のことであった 。
         この停泊地は 当初セントラリア( Centralia )と呼
        ばれていたが 、その後 ノーザン・パシフィック鉄道の取締役
        で 、ウェルズ・ファーゴ および アメリカン・エキスプレス の創
        設者でもある ウィリアム・ファーゴ にちなんで 、現名のファー
        ゴ に改称された 。ノーザン・パシフィック鉄道の開通と共に 、
        ファーゴの町は発展し始め 、『 西部への玄関口 』 と呼ば
        れるようになった

         また 、1880年代 、ファーゴ では 離婚に関する法律が緩
        かったため 、『 中西部の離婚の都 』 とも呼ばれた 。」

        以上ウィキ情報 。

         シーズン2の美容師 ペギー・ブロムクイスト 、シーズン4

        の看護師 オラエッタ・メイフラワー 、日本の現代にも 居そ

        うな キャラ 。

         シーズン5は 、日本でいつ頃リリースされるんだろうか 。

         ” Fargo ” って聞くと 、「 思えば遠くへ来たもんだ 」って

        移民にでもなったような心地がする 。)

 

   

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風に吹かれるミノムシのごとく Long Good-bye 2023・10・29

2023-10-29 05:44:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、南木佳士さんのエッセイ

  「 からだのままに 」 ( (株)文藝春秋 刊 ) から 、

  「 からだ 」と題した文章 。

   備忘のため 、抜き書き 。

   引用はじめ 。

  「 第一線の現場で働く内科の臨床医となって初老と呼ばれる

   年代に深く入るまで生きてしまったのに 、そして 、たく

   さんの亡くなる人たちを見送ってきたのに 、いまだに死に

   関する定まった視点を持ち得ないでいる 。医者になりたて

   のころ 、死は完璧に他者のものであり 、こちらはたまたま

   臨終の場面に立ち会わねばならぬ職業についたまでで 、やが

   ては慣れるだろうと たかをくくっていた 。

    中年にさしかかると 、日々見慣れたはずの死が 、じつは

   自分の背後にそっと迫っているのを知り 、慄然とした 。他

   者に起こることはすべてわたしにも起こりえるのだと肌身に

   しみた 。本当の大人になるとはこういう大事を知ってしまう

   ことなのだろうから 、わたしは厄年のあたりでようやく成人

   したのだ 。

    それからは 、自分が存在することそのものが不安で 、夜も

   眠れなくなり 、結果として病棟の担当を降りねばならないほ

   ど心身を病んだ 。

   『 百歳まで生きたいのでしたら手術をしますが 、そうでない

   のならこのまま様子をみたほうがいいのではないでしょうか 』

    先日 、病棟で 、高齢のがん患者さんにこういう話し方をして

   いる医者がいたから 、あとで 、それはちょっと違うような気

   がするけどなあ 、と第一線を退いた身は遠慮しつつ告げた 。

    毎日 外来で 多くの高齢者を相手にしているが 、九十歳を超え

   た方には必ずおなじ質問をする 。お若いころ 、こんなに長生

   きをすると思っておられましたか 、と 。答えはすべておなじ

   で 、まったく思っていませんでした 、となる 。

    だれも 、百歳まで生きよう 、などとたくらまずに 、生活の

   細部を 手抜きなく こなしてきた結果 が 長寿 なのだ 。強いて長寿

   の理由を挙げてもらうと 、運 でしょうかね 、との回答が最も

   多い 。

    みんな 、きょう死ぬかもしれない朝にも 、自分が死ぬとは

   思っていない 。なぜなら 、死のそのときまでは生きている

   のだから

    ここで急に男と女の話になるが 、からだに不調を感じたとき 、

   無理をしないように話すと 、それを守るのが女 、守れない

   のが男という傾向はたしかにある 。男はからだを理屈でコン

   トロールできると無邪気に信じているのかもしれない 。総合

   感冒薬のテレビCMに出てくる 、薬を飲めばすぐに会議に出

   られる 、といった単純な物語を好む人も男が多い 。こういう

   無理の積み重ねが男女の寿命差につながっている気がしてなら

   ない 。

    死ぬまでは必ず生きている 「 からだ 」 。その圧倒的な存在

   感のまえで色あせない世俗の価値を探すのはきわめて難しい 。

    理屈を寄せ集めて世俗の価値を追い求めているとき 、その理屈

   を支えているのが ほかならぬ自分の自然なる からだ なのだと自覚

   できている人を見つけるのも 、おなじように困難だ 。

    かように書きながら悟りきれないわたしは風に吹かれるミノムシ

   のごとくからだのままに揺れている 。 」

   引用おわり 。

    ( ´_ゝ`)。

   ( ついでながらの

     筆者註: 「 南木 佳士( なぎ けいし 、本名:霜田 哲夫 、
          1951年(昭和26年)10月13日 - )は 、日本
          の小説家 、医師 。既婚 。

           代表作は 芥川賞受賞作 『 ダイヤモンドダスト 』 
          ( 1988年 ) 、『 阿弥陀堂だより 』 ( 1995年 ) 。
          自身のうつ病の経験から 、生と死をテーマにした作品
          が多い 。

          経 歴
           群馬県吾妻郡嬬恋村出身 。嬬恋村立東小学校 、
          嬬恋村立東中学校 、保谷市立保谷中学校 、
          東京都立国立高等学校を経て 、秋田大学医学部
          医学科を卒業後 、佐久総合病院に勤務 。

           1981年( 昭和56年 )、『 破水 』 で第53回文学
          界新人賞を受賞し小説家デビュー 。翌年 、『 重い陽
          光 』 で 第87回芥川賞候補 。1983年に 『 活火山 』 、
          1985年に 『 木の家 』 、1986年も 『 エチオピアからの
          手紙 』 で芥川賞候補となる 。

           1989年( 昭和64年/平成元年 )、『 ダイヤモンド
          ダスト 』 で 第100回芥川賞を受賞 。

           1990年( 平成2年 )から 1996年( 平成8年 )、
          パニック障害で病棟責任者を辞任 。その後 鬱病 を
          発症 。

           2008年( 平成20年 )、 『 草すべり その他の
          短編 』 で 泉鏡花文学賞 を受賞 。翌年には 『 草
          すべり 』 で 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞 。

          以上ウィキ情報 。  )   

 

 

 

 

    

 

 キリギリス ではなく 、クビキリギス ってやつかな ? それとも ショウリョウバッタ ?

 これほど大きいのを 、わが家の庭でみるのは初めてのような気がする 。

 右の写真は 、ドイツの鉄鋼大手ティッセン・クルップのグループ会社が製造した 、

 古いわが家の バリアフリーのために レンタルで利用している 、屋外用の階段昇降機 。

 家庭用電源を使用 、椅子の脚部にモーターが入っている造りらしい 。モノレール 。

クビキリギス ( Euconocephalus thunbergi ) は 、バッタ目キリギリス科の昆虫 。

 クビキリギリス ともいう 。」 、それとも

「 ショウリョウバッタ( 精霊蝗虫)Acrida cinerea は 、バッタ目 ・バッタ科 に分類

される昆虫の一種 。日本に分布するバッタの中では最大種で 、斜め上に尖った頭部が

特徴である 。別名 ショウジョウバッタ 。 」。

 多分後者 。

 

 

「 草木国土悉皆成仏 」  

      ( 弘法大師 空海 )

 

 

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少子化 Long Good-bye 2023・10・27

2023-10-27 05:24:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ

 「 夕暮れの時間に 」から「 七番目の子ども 」の一節 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 出生率が落ちている 。『 少子化対策 』ということがいわれている 。

   しかし 、地球規模で見れば 、エネルギーのためにも 食糧のために

  も 、人口減少は あきらかに のぞましい傾向で 、日本だけ なんとか

  もう一度 人口を増やして 国力をつけようなんて 、いかにも 目先の

  経済の御都合主義で 、子どもを産む人の 幸不幸 など とんと視野に

  ないという気がする 。

   第二次大戦中に 、兵力の減少を心配して『 生めよ 、増やせよ 』

  と提唱した政策を思い出す 。戦死者が多いので 、もっと産んで 早

  く育てて 次の戦力にしようというのだから 随分バカにした話であっ

  た 。

   それが敗戦となり 、どっと海外にいた日本人が戻ってくると 、

  今度はなんとか人口を減らそうとして 、南米の荒地を楽園のよう

  にいい 、数からいえば人口に大きな変動を生むわけでもないのに 、

  何千人かの人々を嘘までついて移民船に乗せ日本から追い出した

  りしたのである 。

    国の政策なんていつもそんなものだし 、いま時の女性が『 少子

  化対策 』のせいで どんどん子どもを産むとは到底思えないから 、

  対策の犠牲者の心配はないだろうし 、この先は『 少子化 』を現

  実として受けとめ 、それをプラスとして生きる他はないのだ 、と

  いうように思っていた 。いまだってそう思っているが 、実は一点 、

  ある事実に気が付いて 、幾分気持が複雑になっている 。

   私事 ( わたくしごと ) である 。それを一般論に持ち込むのは無

  理があるし 、根拠にして なにかを主張する気など さらさらない

  のだが 、妙に頭をはなれない 。

   それは 、私が両親の七番目の子どもだということである 。下に

  妹が一人いて 、母は八人の子どもを産んだ 。

   いまの日本なら七番目の子どもなんて 、まず生まれる機会がない

  だろう 。八番目の妹はもっとない 。しかし 、妹も 私も たっぷり

  いろいろな思いをして 七十年前後の人生を生きて来た 。妹には二

  人の子どもがいて孫が一人いる 。私は三人の子どもがいて三人の

  孫がいる 。

   しかし 、妹も私も 、いまの日本なら 、ほとんど存在しない子ど

  もなのである 。

   時代によっては自分は存在しない人間なのだという感覚など奇妙

  すぎて共感を求めようもないが 、街を歩いていると 、この雑踏の

  大半は一番目か二番目か三番目に生まれた人だろうと思い 、たま

  には五番目 、六番目もいるだろうが 七番目というのは少ないだろ

  うと 、自分が生きていることの不思議に立ち止まったりするので

  ある 。

   テレビで動物のドキュメンタリイを見ていると 、大きかろうと

  小さかろうと 、生物の生涯の最大のテーマは 次世代をつくること

  で 、ほとんどの生物は 一生の大半を生殖 、出産 、子育て 、子

  離れに費して 、あとは死ぬだけ 、他の目的はないかのようであ

  る 。母もそれに近いところで死んだ 。五十歳であった 。

  そのような女の一生から 、いまの日本は 半ば 脱したのである 。

  女性が自分の人生を楽しむことを当然とし 、子どもではなく 自

  分のために生きることを目指して 臆することのない社会 をかなり

  のところまで手にしたのである 。それが少子化という現象の大

  きな意味であり 、仮に それにマイナスがあったとしても それは

  また 子どもをもっと産むということで解決することではなく 、

  少子化の現実の中でなんとか工夫すべきことだろうと思う 。

   理性は 、そう思う 。

   だから 、それでいいのだが 、しかし 、もしこの理性が 私の生

  まれた昭和初期の日本の社会で機能していたら 私はまず存在して

  いない七番目の子どもであり 、そういう人間が 、自分はうまく

  多産の時代に生まれて存在できたのをいいことに 、いま七番目に

  生まれる順番の子どものことなどまったく知らん顔で 少子化を肯

  定ばかりしていいのか 、という無茶苦茶といえば無茶苦茶 、極

  私的といえば極私的な気持ちの始末をつけかねている 。

  ( 後 略 )

  ( 『 婦人公論 』 2006年2月22日 ) 」

  引用おわり 。

  ( ´_ゝ`)

 

  毎年10月の最終金曜日は 世界キツネザルの日 ( World Lemur Day ) 。

  今年は今日 。

 

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テレッテレレレー(^^♪ Long Good-bye 2023・10・25

2023-10-25 04:55:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典

  「 ウィキペディア 」掲載の記事「 地下室のメロディー 」。

   一週間前に NHK BSP で視聴した アンリ・ヴェルヌイユ

  監督のフランス映画 。久しぶりにみた ジャン・ギャバンと

  アラン・ドロン 。お馴染みのテーマ曲 、テレッテレレレー (^^♪ 。

  フランス語版 、日本語吹き替え版 、何回も見た映画だけれど

  劇中の会話が古くさくない 。鑑賞に耐えるモノクロ作品のひとつ 。

 

  「 『 地下室のメロディー 』( 原題:Mélodie en sous-sol )は 、

   1963年製作のフランス映画 。アラン・ドロン と ジャン・ギャ

   バンという フランス映画界の2大スター が共演した 犯罪映画 。

    1963年の ゴールデングローブ賞外国語映画賞 を受賞している 。

   公 開

    1963年3月19日 、フランスで公開された 。

    同年4月1日から10日にかけて 第3回フランス映画祭が 東京都

   千代田区の東商ホールで開催された 。ジャン=ガブリエル・ア

   ルビコッコの 『 金色の眼の女 』 と 『 アメリカのねずみ 』 、

   『 突然炎のごとく 』『 ミス・アメリカ パリを駆ける 』『 シ

   ベールの日曜日 』『 女はコワイです 』『 不滅の女 』『 地下

   室のメロディー 』『 地獄の決死隊 』 の 計9本の長編 と 、

   短編映画 『 ふくろうの河 』 が上映された 。本作品は 4月8日

   に上映された 。アラン・ドロン 、フランソワ・トリュフォー 、

   マリー・ラフォレ 、セルジュ・ブールギニョン 、アレクサン

   ドラ・スチュワルト 、アルベール・ラモリス 、フランソワーズ・

   ブリオン らが 映画祭に参加するため来日した 。ドロン は 初来日

   だった 。

    同年8月17日 、日本で一般公開された 。

   ストーリー

    老獪なギャングのシャルル( ジャン・ギャバン )は 、生涯最後

   の仕事として 、カンヌのカジノの地下金庫から10億フランを強奪

   する綿密な計画を立て 、チンピラの青年 フランシス( アラン・

   ドロン )と 、その義兄のルイを仲間に引き入れた 。

    金持ちの青年を装い 、カンヌのホテルに滞在するフランシス 。

   カジノの踊り子と親しくなることで 、フランシスは 一般客が立

   ち入れないカジノの舞台裏に出入りする口実を設けた 。

    カジノのオーナーが 売上金を運び出す日を狙って 、地下金庫を

   襲撃するシャルルたち 。10億フランの札束をバッグに詰め 、何

   食わぬ顔でホテルに戻るが 、予想外の事態から フランシスの正体

   が露見する危険性が高まった 。

    計画の急な変更を余儀なくされ 、隠し場所からバッグを持ち出す

   フランシス 。そこへ 更なる不運 が重なり 、盗んだ金が 人々の目

   に触れる事態となった 。騒ぎだす人々の中で フランシスとシャル

   ルは 、もはや為す術もなく 10億の札を見つめていた 。

   ( ´_ゝ`)

  ( ついでながらの

    筆者註: 「 アンリ・ヴェルヌイユ( Henri Verneuil 、1920年10月15日

        - 2002年1月11日 )は 、フランスの映画監督 、脚本家 。

        略 歴

         本名は Ashot Malakian 。トルコのテキルダーで 、アルメニア系

        の家庭に生まれる 。 

         彼が子供の時に トルコ政府の弾圧を避けて 家族で、マルセイユ

        に移住 。   エクサン・プロヴァンスの工芸学校を 1943年 に卒業 。

        1944年より 『 Horizon 』 誌のジャーナリストとして活動 。( 後 略 ) 」       

         「 ジャン・ギャバン( 仏 : Jean Gabin 、1904年5月17日 - 

          1976年11月15日 )は 、フランスの映画俳優 、歌手 。戦前

         から戦後にかけてのフランス映画を代表するスターであり 、

        深みのある演技と渋い容貌で人気を博した 。

         ( 中 略 )

        日本に与えた影響

         食事をする芝居が上手く 、高倉健は 『 食事の芝居はギャバンを

        見て勉強した 』 と語っている他 、淀川長治も 『 ジャン・ギャ

        バンは食べるのが上手な俳優 』 と評していた 。また 高倉は 、

        京都のいきつけのカフェに『 いつも迷惑を掛けているので 』 と

        ギャバンの特大ポスターをプレゼントしており 、そのポスターは

        今も店のカウンターに貼られている 。三船敏郎もギャバンを尊敬

        している日本の俳優の一人であり 、共演予定があったという 。

         映画通・食通として知られる 池波正太郎の代表作の 『 剣客商売 』

        や 『 鬼平犯科帳 』 は ギャバン作品 、とりわけギャバンの食事

        シーンの芝居の影響が強く見られ 、ギャバンなくしては無かった

        と言える作品であると評されている 。

         宮崎駿 は 『 現金に手を出すな 』 を再鑑賞した際に 、作品と共

        にギャバンの芝居を絶賛した 。

         日本語吹き替えは 森山周一郎 がほぼ専属で担当 。森山の吹き替

        えは 同業者や視聴者から評価が高く 、森山本人によると 『 それ

        までに( 別の声優で )録ってあったジャン・ギャバンの声を全部

        私で録り直して以後 、NHK始め民放全局が私になってしまった 』

        とのこと 。前述の宮崎が監督した 紅の豚 で森山は主演を務めて

        いるが 、演技指導の際に 宮崎から 『 ジャン・ギャバンの吹き替

        えのような芝居をしてほしい 』と言われたことから 、同作の主人

        公の豚のモデルの一つはギャバンと思われる 。

         千葉真一も準レギュラーで出演していた特撮番組 『 宇宙刑事

        ギャバン 』 の主人公・作タイトル名の由来は 、ギャバンである 。

         ( 後 略 ) 

         以上ウィキ情報 。) 

 

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流行物は廃り物 Long Good-bye 2023・10・23

2023-10-23 05:10:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ

 「 夕暮れの時間に 」から「 適応不全の大人から 」の一節 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。 

 「 私にはこのごろのテクノロジーの変化が病的に早く思えてならない 。

  静かにその時々の変化や成果を味わう暇もなく 、どしどし神経症の

  ように 新発明 新ツールが次々現われては現在を否定する 。その結

  果の新製品 、新ツールも病的に細かい変化で 、なくてもやってい

  けるものばかりどころか 、ない方がよかったのではないかと 、少

  し長い目で見ると人間をこわしてしまうような細部の発明を目先だ

  けのことで流通させてしまう 。

   あ 、やってしまった 。

   適応不全の老人が『 昔はよかった 』風なことは決して いうまい 

  と思っていたのに 、いってしまった 。もう仕様がない 。そうな

  のである 。私は 便利さは感受性をのっぺりさせるし 、豊かさは活

  力を奪うとか 、そんなことを思っている時代おくれの人間です 。

  そして 、いま大人というものがいたら 、こんなことをいう大人が

  いたらいいな 、と思っているのです 。

                  ( 『 學鐙 』2014 年夏号 )」

   引用おわり 。

  はやりものはすたりもの 。

  

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頭の中は分らない Long Good-bye 2023・10・21

2023-10-21 04:55:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ

 「 夕暮れの時間に 」から 、「 一老人の頭の中は分らない 」

  と題した達文 。

  一つ一つの文は比較的長く 、リズムがいいわけでもないが 、読みおわる

 と 、すとんと腑に落ちる 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 六十歳を越えるころには 、よくも悪くも それぞれの生き方の流儀は

  仕上りかけているだろう 。事情が変ったから 新情報 、新知識をとり

  入れて 、一から人生を生き直そうというわけにはなかなかいかない

  のではないかと思う 。もう 存在の大半は 過去のかたまり なのだから 、

  リセットしたら なにもなくなってしまうというか 、リセットなんか

  出来ないし 、それぞれの長い人生が培った 積極性 、消極性 、感受

  性 、情の濃さ薄さ 、好き嫌いをなるべく大切に生きればいいと思う 。

   といって反省がないわけではない 。

   NHKのドキュメンタリイに『 老人漂流社会 』という作があり 、

  その中に 、一人暮しの男性の話があった 。寝たきりになり 、収入

  もなく 知人も縁戚もないので 福祉の制度で病院に運ばれる 。しかし 、

  いつまでもいられるわけではない 。別の施設に移される 。そのうち

  食べる機能も衰え 、胃瘻 ( いろう ) という管による栄養の注入だけ

  で生きることになり 、それも期限が来て 、別の施設に移される 。

   耳も遠く 、ほとんど口もきかない 。狭い部屋の隅のベッドに運ば

  れて 、施設の人が ここでも 胃瘻を続けるか と聞くのである 。やめれ

  ば死ぬのだから ひどい質問のようだが 、少しも そんな気持ちになら

  なかった 。むしろ 器械でこの先も生かされたら 、その方が心ない

  仕打ちだ という気がした 。

   ところが 、『 生きたい 』と老人はこたえるのである 。録画して

  いたわけではないので正確ではないが 、胃瘻を続けてくれという

  のである 。情けないが 、私は 意表をつかれた 。

  ( ´_ゝ`)。

   考えればNHKの制作で 、この質問をして『 死なせてくれ 』と

  いう答えを得て 、その結果 お亡くなりになりました 、というので

  は 、このようなケースの老人は死ねというのか 、という抗議があ

  るだろうから 、はじめから『 生きたい 』という答えを得たから

  こそ 放送できたのかもしれない 。それにしても『 生きたい 』と

  NHKがいわせたわけではない 。その老人が胃瘻を続けてくれ 、

  といったのである 。

   え ? この人にこの先 生きていて何があるのだろう 、寝たきりで

  食べる喜びもなく 、人との交流もなく 、多くの人に厄介になり

  続けなければならない 。これは もう 実は 本人も死にたいのでは

  ないか 、器械で生かし続けるのは むしろ残酷なのではないか 、

  という思いが『 胃瘻を続けますか 』という質問には 切実にこめ

  られていたからこそ 、私も ひどい質問と思わなかったのだと思う 。

   でも 、『 生きたい 』といったのである 。人間には生きる権利

  があり 、生きられるのに殺されてたまるか 、という原理主義が

  あったのかもしれない 。意識の混濁があって 質問の意味が分ら

  なかったのかもしれない 。ただもう本能の叫びだったのかもし

  れない 。

   ともあれ 、その答えに意表をつかれた私は 、人の厄介になる

  ばかりで 、なんの役にも立たない存在になったら 死んだ方がい

  いという価値観が 深く巣くってしまっている自分 に気づいたの

  だった 。それ以外の生きる意味を見失っていたのだった 。

  。( ´_ゝ`)

   それから卒然と 、かつて読んだ永井荷風の言葉が甦り 、いま

  書棚へ立ち 、いくつかの文章に再会した

  『 生きている中 ( うち ) 、わたくしの身に懐 ( なつか ) しか

   ったものはさびしさであった 。さびしさの在ったばかりにわた

   くしの生涯には薄いながらにも色彩があった 』( 『 雪の日 』 )

  『 衰残 、憔悴 、零落 、失敗 。これほど味い深く 、自分の心

   を打つものはない 』( 『 曇天 』 )

  『 そもそもわたくしは索居独棲 ( さくきょどくせい ) の言いがた

   き詩味を那辺より学び来 ( きた ) ったのであろう 』( 『 西瓜 』 )

  『 わたくしは すでに中年のころから 子供のない事を一生涯の幸福

   と信じていたが 、老後に及んでますますこの感を深くしつつある 』

   ( 『 西瓜 』 )

  『 社交を厭 ( いと ) うものは妻帯をしないに越したことはない 』

   ( 『 西瓜 』 )

   こういう人もいるのである 。一老人の頭の中は分らない 。

  目には孤絶無残に見えても 心は分らない 。死んだ方が幸せなど

  と軽々に他人も自分も断じてはいけないと思う 。老いは実にさ

  まざまに深い

  ( 『 中央公論 』2013年10月号 ) 」

  引用おわり 。

  生きるためには 、なんでもあり 、と思う 。

  山田太一さんのエッセイには 、こんな文章もある 。

 「 生きるためには 、どうしてもいくらかの幸福感が必要で 、そ

  れは個別の境遇 、年齢 、体力 、性格やらなにやらに添ってあ

  る程度自然に湧いてくるものだと思う 。死のうとしていてもい

  きなりナイフをつき出されればよけるようなもので 、人間は

  おおむね生きようとするように出来ているのだから 、それに必要

  な幸福感は 、はた目にはいかに情けないものであっても湧いてく

  るのだと思う 。少なくとも私は 、そのくらいに思って 、幸福を

  大げさに考えず 、論じすぎないで 、その都度湧いてくる幸福感

  を頼りに 、なんとか生きて行きたいものだと願っている 。

  

 

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 山田 太一( やまだ たいち 、1934年6月6日 - )は 、
       日本の脚本家 、小説家 。本名:石坂 太一( いしざか 
       たいち )。 東京市浅草区( 現:東京都台東区 )浅草
       出身 。

        松竹で木下惠介の助監督をした後 、フリーとなり 、テレビ
       ドラマの脚本に進出 。以後 『 早春スケッチブック 』『 ふぞろ
       いの林檎たち 』 など話題作を次々と生み出し 、多くの賞を
       受けた 。その後 小説家としても地位を確立 。映画や舞台
       も手掛ける 。

       来 歴
       生い立ち
        父親は 愛知県 、母親は 栃木県真岡市出身 。両親は
       浅草六区で大衆食堂を経営していた 。小学校3年のとき 、
       強制疎開で神奈川県足柄下郡湯河原町に家族で転居
       する 。

        神奈川県立小田原高等学校を経て 、1958年に早稲田
       大学教育学部国語国文学科を卒業 。早稲田大学の同
       窓に劇作家の寺山修司がいた 。在学中 、寺山とは深い
       親交を結び 、寺山がネフローゼで休学・入院すると山田は
       頻繁に見舞って話し合った 。寺山の母から見舞いを控える
       よう叱責された後は手紙をやり取りした 。後に寺山脚本の
       映画 『 夕陽に赤い俺の顔 』 『 わが恋の旅路 』 で山田は
       助監督を務めている 。寺山の死去から32年が経過した20
       15年に 、両者が学生時代に交わした書簡や寺山の日記
       を収めた 『 寺山修司からの手紙 』 が 、山田の編著により
       岩波書店より刊行されている 。

        教師になって休みの間に小説を書きたいと思っていたが 、
       就職難で教師の口がなかった 。大学の就職課で 松竹大
       船が助監督を募集していると聞かされ 、松竹を受験する 。
        ( 後 略 ) 」

       以上ウィキ情報 。)

 

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休止期間の幻想 Long Good-bye 2023・10・19

2023-10-19 05:33:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ

 「 夕暮れの時間に 」から 、「 休止期間の幻想 」の一節 。

   人みな「 それぞれのやり方で『 究極の現実 』にそっぽを向いて

  幻想をつくり出している 。そして 、なんとか元気に生きていこ

  うとしている 。むき出しの現実が 力を露わにしたら ひとたまり

  もない 。しかし 休止期間 がある 、その間だけ 、きびしくなれ

  ば たちまち吹きとばされてしまうような幻想を ささえ に生きて

  いる 。それを誰が笑えるだろう 。・・・ 」

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 ・・・ ある老人ホームに入った女性を訪ねた 。八十六歳だが 、

  少し歩くのに杖が必要なだけで 、頭はクリアな人である 。

   午後一時の約束だった 。五分前に 、その人の部屋のある四階へ

  エレベーターで向かった 。着いてドアがあくと 、丁度その人が

  ドアの前にやって来たところだった 。

  『 ほら 、そうなの 。来るような気がしたの 。予感通り 。私

  ってこういう勘がほんとによく当たるの 。あ 、いま玄関かな 、

  あ 、いまエレベーターの前へ来た 。それがまるで見ているよう

  に感じるの 。さあ 、出迎えようって部屋を出た 。エレベーター

  の前に立った 。ドアがあいた 。ぴたり 』と大喜びしてくれた 。

  一時の約束で五分前に合うのは 、予感によらなくてもあり得る

  ことだが 、予感が湧きそれが当たった と思ってくれる方がずっと

  情が深いし 、味わいもある 。小さな出来事を喜ぶ すべ を知って

  いる人で 、だからこそ 自分の神秘性も信じられるのだろうと思っ

  た 。」

 「 E . M . フォースター が 、この地上のむき出しの現実は 、

  身も蓋もない力の世界だが 、それはいつもむき出しでいるわけで

  はない 、その休止期間には『 究極の現実 』に『 そっぽを向いて 』

  なにかを試みる 。それが『 勇気なのか臆病なのか 、その点は分か

  らない 。だが 、過去において人間がそっぽを向いていなかったら 、

  価値あるものは何一つ残らなかったろう 』( 『 私の信条 』小野寺

  健訳 ) といっている 。 」

 「 個々の人生にとって『 究極の現実 』は死である 。その死にそっぽを

  向いているからこそ 、日々をなんとか生きていることを思えば 、ひと

  の幻想のはかなさを軽々には裁けない 。

                 ( 『 一冊の本 』 2011年4月号  )」

 引用おわり 。

 この文章には以下のような続きがある 。

 「 四国のお遍路に『 同行二人 ( どうぎょうににん ) 』という言葉がある 。

  笠や衣に書かれている 。一人はお遍路をする人であり 、一人は弘法大

  師である 。

  簡潔で力強いいい言葉だなあ 、と僭越ながら感じていた 。ただあち

  こちで見掛ける大師像は 、すっくと立っていらして乱れがない 。一緒

  に歩いていただくには畏れ多いような 、私など置いて行かれそうな立派

  さである 。

   若いころ 、京都の六波羅蜜寺で 、空也上人の立像に出会った 。鎌倉時

  代の木彫である 。これがよかった 。なにより疲れている 。汚れた衣 、

  すり切れた草鞋 ( わらじ ) 、少し顎も上って 、それでも歩き続けようと

  しているお姿に感動した 。この人と『 同行二人 』という幻想を含む現代

  の小説を書いてみたかった 。やっと書くことが出来たのが『 空也上人が

  いた 』( 朝日新聞出版 、2011年 )である 。信仰の話でも宗教の話でも

  ない 。むき出しの現実が襲って来たら 、ひとたまりもない物語だが 、七

  十半ばをすぎてやっと書けたという思いでいる 。 」

 

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究極の真理 Long Good-bye 2023・10・17

2023-10-17 04:30:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ「 夕暮れの

 時間に 」から 、「 いきいき生きたい 」の一節 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「  ・・・ たしかに人の一生なんて 、天から見下ろせば 小さくて

  束の間だし 、いつ なにがあって すべてを失うかもしれず 、死ぬ

  かもしれず 、見栄をはって豊かさを競うのも 権力に身を寄せる

  のも 、はじかれて苦しむのも 、むなしいといえば むなしい 。

  人が生きて行くために必要なものは 、結局『 方丈 』 ―― つ

  まり畳五枚ぐらいの住いで 、おさまってしまうのではないか 、

  といわれると 、ああムダなものを抱えているなあ 、捨てなきゃ

  と思いながら 、いろいろ処分できないでいる私などは 、反省ば

  かりという気持になる 。 」

 「 たしかに死んでしまえば万事が終りなのだから 、むなしいと

  いえば すべてがむなしい 。なにかに執着するのは愚か といわれ

  れば その通り愚かである 。しかし 、どこに住んでも文句をい

  われない 土地 のある平安時代に 、お坊さんで 、家族もなく 、

  人ともつき合わず 、稼がなくても自給自足できる 、老境の近

  い人のいうことは 割り引いて聞いた方がいいと思う 。お坊さん

  への教訓としてはよく分るが 、俗人には無理があると思う 。死

  ぬことを考えたら 、たしかにむなしいことばかりだが 、すぐ死

  ぬわけではない人間は 、そんな啓示で身をつつしんでいたら 、

  生きているうちから 死んだようになってしまう 。

  大災害は 、ぎりぎり一番大切なものを教えてくれる 。生きて

  いるだけでありがたいとか 、絆が大事だとか 、たしかにそれ

  は真実だが 、究極の真理だけで 、私たちは 日々を いきいき生き

  ていけないのだと思う 。哀しいといえば哀しいが 、それが生き

  ているということなのだと思う 。

  ( 多摩川新聞 2012年1月1日 )  」

  引用おわり 。

  東北の大震災の翌年の元旦日付の新聞に掲載された文章 。

  文中に出てくる お坊さん は 、方丈記 の 鴨長明 のこと 。

 ( ´_ゝ`)

  歌手の谷村新司さんが亡くなった 。一度だけお会いしたことがある 。

  20年ほど前 、朝の銀行のATMの前で 出会いがしら 、軽く頭を

 下げて目礼して 怪訝な顔をされた 。一面識もない相手から 、いきなり

 挨拶されたのだから当然である 。ホテル泊まりの 、寝起きの 、不機嫌

 そうなお顔だった 。一方 、筆者は 、その日一日 小さな喜びで 、いきいき

 幸せだった 。

  谷村さんは 、筆者と同じ 昭和23年 ( 1948 年 )  のお生まれで 、関西人 。

  合掌 。

 

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明治は遠くなりにけり Long Good-bye 2023・10・15

2023-10-15 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」 。

  降る雪や 明治は遠く なりにけり

          ( 中村草田男 )

 ( ´_ゝ`)

  俳人 中村草田男さんは 、筆者の父と同じ 明治34年 ( 1901 年 ) のお生まれ 。

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 中村 草田男( なかむら くさたお 、1901年 〈明治34年〉

       7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日 )は 、日本の

       俳人・国文学者 。成蹊大学名誉教授 。本名は中村 清

       一郎( なかむら せいいちろう )。

       中国アモイ出身 。東京帝国大学国文科卒 。高浜虚子に

       師事、『 ホトトギス 』で客観写生を学びつつ 、ニーチ

       ェなどの西洋思想から影響を受け 、生活や人間性に根

       ざした句を模索 。石田波郷 、加藤楸邨らとともに人間

       探求派と呼ばれた 。『 萬緑 』を創刊・主宰 。戦後は

       第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的

       な役割をもった 。

        次世代の 金子兜太 などに多大な影響を与えた 。忌日は

       『 草田男忌 』 として 、季語になっている 。

       経 歴

        清国( 現中国 )福建省廈門にて清国領事 中村修 の

       長男として生まれる 。母方の祖父は 松山藩久松家の重臣 。

       1904年 、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前

       町に帰国 。2年後 松山市に転居 。1908年 、一家で東京に

       移り赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)

       に通学する 。1912年 、再び松山に戻り 松山第四小学校に

       転入 。1914年 、松山中学に入学 。先輩に 伊丹万作 がお

       り兄事する存在となる 。1916年 、伊丹らとともに回覧同人

       誌 『 楽天 』 を制作 。1918年 、極度の神経衰弱にかかり

       中学を 1年休学 。復学した頃に ニーチェの 『 ツァラトゥストラ

       かく語りき 』 に出会い 生涯の愛読書となる 。

        1922年 、松山高等学校入学 。直後に可愛がられていた

       祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ 、その解決の鍵

       として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く 。1925年 、一

       家で東京に移転 、4月に 東京帝国大学文学部独文科に

       入学 。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが 、1927年にふた

       たび神経衰弱に罹り翌年休学 。このころに 斎藤茂吉 の歌

       集 『 朝の蛍 』( 自選歌集 、改造社 、1925年 )を読んで

       詩歌に目を開き 、『 ホトトギス 』 を参考にしながら 『 平安な

       時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱 』 となる句作を始め 、

       俳号 『 草田男 』 を使い始める 。1929年 、母及び叔母の紹

       介で 高浜虚子 に会い 、復学したのち 東大俳句会 に入会 。

       水原秋桜子 の指導を受け 、 『 ホトトギス 』 9月号にて 4句

       入選する 。

        1931年 、国文科に転じ 、1933年卒業 。卒論は 『 子規

       の俳句観 』 。卒業後 成蹊学園に教師として奉職 。1934年 、

       『 ホトトギス 』 同人 。1936年 、縁談を経て 福田直子 と結

       婚 。1938年より下北沢に住む 。1939年 、学生俳句連盟

       機関誌 『 成層圏 』 を指導 。また 『 俳句研究 』 座談会に

       出席したことをきっかけに 、石田波郷 、加藤楸邨 らとともに

       『 人間探求派 』 と呼ばれるようになる 。1945年 、学徒動

       員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい 、

       同地にて終戦を迎える 。

        1946年 、『 成層圏 』 を母体として 『 萬緑( ばんりょく )』

       を創刊 、終生まで主宰 。1949年 、成蹊大学政経学部

       教授に就任 、国文学を担当する 。1954年 下高井戸に転居 。

       1959年 、朝日俳壇選者 。1960年 、現代俳句協会幹事長

       となるが 、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立

       が起こったため 、1961年に協会を辞し 新たに俳人協会を設立 、

       初代会長に就任する 。1965年 、成蹊大学文学部教授 。

       1967年に定年退職後 、非常勤講師となったのち 、1969年

       に同名誉教授 。1972年 、紫綬褒章 。1974年 、勲三等

       瑞宝章 。1978年 、メルヘン集 『 風船の使者 』 により芸術

       選奨文部大臣賞受賞 。

        1983年8月5日 、急性肺炎のため 東京都世田谷区北烏

       山の病院で死去 。82歳没 。死の前日洗礼を受けた 。洗礼

       名 『 ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎 』 。墓は 東京都

       あきる野市の五日市霊園にある 。没後の1984年 、日本芸術

       院恩賜賞が贈られた 。

        妻直子との間に四人の娘をもうけている 。お茶の水女子大学

       教授( フランス哲学 )の 中村弓子 は三女 。

       作 品

        代表的な句としては、

        蟾蜍(ひきがえる)長子家去る 由もなし( 『 長子 』 所収 )

 

        降る雪や 明治は遠く なりにけり(1931年作。『長子』所収)

 

        冬の水 一枝の影も 欺かず( 『 長子 』 所収 )

 

        玫瑰(はまなす)や 今も沖には 未来あり ( 同 )

 

        萬緑(ばんりょく)の 中や吾子の歯 生え初むる

                   ( 1940年作 。『 火の島 』 所収 )

        勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

           ( 1944年作 。『 来し方行方 』所収 )

        葡萄食ふ 一語一語の 如くにて

           ( 1947年作 。『 銀河依然 』 所収 )

       などがある。( 後 略 ) 」

       以上ウィキ情報 。)

 

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老いの寒さは唇に乗するな Long Good-bye 2023・10・14

2023-10-14 06:39:00 | Weblog

 

  今日の「  お気に入り 」。

  冬茜 褪せて澄みゆく 水浅黄

   老いの寒さは 唇 ( くち ) に乗するな

              ( 斎藤史 )

  ( ´_ゝ`)

 歌人 斎藤 史 さんは 筆者の母と同じ 、明治42年 ( 1909 年 ) のお生まれ 。

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 斎藤 史( 齋藤史 、さいとう ふみ 、1909年(明治42年)
       2月14日 - 2002年(平成14年)4月26日 )は 、日本
       の歌人 。東京市四谷区生まれ 。福岡県立小倉高等女学
       校( 現・福岡県立小倉西高等学校 )卒業 。

        歌人の父の影響で早くから作歌を始め 、佐佐木信綱に師事 。
       モダニズム短歌から出発し 、内省を深めることで独自の歌風を
       構築した 。歌集に 『 魚歌 』 ( 1940年 ) 、『 ひたくれなゐ 』
       ( 1976年 ) などがある 。

       経 歴
        父 齋藤瀏は陸軍少将で 、佐佐木信綱主宰の歌誌 『 心の
       花 』 所属の歌人でもあった 。父は 『 史子 』 と出生届を提出
       したが 、戸籍係が間違えて 『 史 』 と登録してしまった 。
       17歳の時 、若山牧水に勧められて作歌をはじめ 、18歳から
       『 心の花 』 に作品を発表するようになる 。1931年 、前川佐
       美雄らと 『 短歌作品 』 創刊 。1936年の 二・二六事件 では 、
       父を通じて親交があった青年将校の多くが刑死し 、父も事件に
       連座して 禁固5年 となる 。この経験がきっかけで 、それまでの
       想像の世界を飛び回るような独創的な短歌から 、時代を鋭く
       見つめる歌を詠むようになる 。

        1939年 、父・瀏 が主宰する歌誌 『 短歌人 』 創刊に参加
       する 。1940年 、合同歌集 『 新風十人 』( 八雲書林 )に
       参加 。同年 、第一歌集 『 魚歌 』 を発表 。モダニズム文学
       の影響が濃い作風で 、萩原朔太郎に激賞される 。

        1945年 、父の故郷である 長野県安曇野 に疎開 、同年
       復刊した 『 文藝春秋 』誌( 10月号 )の歌覧に掲載された 。
       以後 、同地を拠点に活動する 。1948年 、小説 『 過ぎて行
       く歌 』 により 信濃毎日新聞社一席入選 。1953年 、『 短歌
       人 』 編集委員制度導入に伴い 初代編集委員 となる 。同年 、
       『 うたのゆくへ 』 により 日本歌人クラブ第1回推薦集( 現在の
       日本歌人クラブ賞 )に推挙 。1960年 、長野県文化功労賞
       を受賞 。

        1962年 、『 短歌人 』 を退会し 、歌誌 『 原型 』 を創刊 。
       同誌には 赤座憲久 、轟太市 、百々登美子など 史の選歌を
       受けた歌人が移籍した 。1977年 、 『 ひたくれなゐ 』 により第
       11回迢空賞を受賞 。1981年、勲五等宝冠章受章。1986年、
       『 渉りかゆかむ 』 により 第37回 読売文学賞( 詩歌俳句賞 )
       を受賞 。1993年 、女性歌人としては初めて 日本芸術院会員
       となる 。1994年 、『 秋天瑠璃 』 により 第5回斎藤茂吉短歌
       文学賞 、第9回詩歌文学館賞 を受賞 。1995年 、第2回信
       毎賞 を受賞 。1997年 、宮中歌会始の召人を務め 、 明仁
       天皇に 『 お父上は瀏さん 、でしたね 』 とお言葉をかけられる 。
       同年10月 『 斎藤史全歌集 』 により 、第20回現代短歌大賞
       を受賞 。同年11月 勲三等瑞宝章 を受章 。1998年 、『 斎藤
       史全歌集 』 にて 紫式部文学賞 を受賞 。

        2002年 、4月26日死去 。墓所は 長野県松本市の正鱗寺 。
       晩年の弟子には目黒哲朗などがいる 。また 晩年の江藤淳と
       交流があった 。

       逸 話
        青年将校 栗原安秀・坂井直両中尉とは 、旭川時代からの
       幼馴染であり 、栗原の事は 『 クリコ 』 と呼んでいた 。また 栗
       原は彼女を 『 フミ公 』 と呼び 、改まった席では 『 史子さん 』 
       と呼んでいた 。
        明治生まれの女性としては珍しく和服をほとんど着なかった 。

       ( 中 略 )

       代表歌

       遠い春 湖 ( うみ )に沈みし みづからに 
           祭りの笛を吹いて逢ひにゆく ( 『 魚歌 』 )


       白きうさぎ 雪の山より 出でて来て 
           殺されたれば 眼を開き居り ( 『 うたのゆくへ 』 )


       おいとまを いただきますと 戸をしめて 
           出てゆくやうに ゆかぬなり生は ( 『 ひたくれなゐ 』)

       疲労つもりて 引出しし ヘルペスなりといふ 
           八十年生きれば そりやぁあなた ( 『 秋天瑠璃 』 )

       思ひやる 汨羅の 淵は遠けれど 
           それを歌ひし 人々ありき ( 『 風翩翻以後 』 )

       野の中に すがたゆたけき 一樹あり 
           風も月日も 枝に抱きて ( 平成九年 歌会始 )

       暴力の かくうつくしき 世に住みて 
           ひねもすうたふ わが子守うた ( 『 魚歌 』 、昭和11年 )

        以上ウィキ情報 。)

 

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