「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・03・21

2005-03-21 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 私は人生に対して『当人』であるより『他人』である。見物人である。
  だから当人には見えないものが、時々見えることがある。」

 「 人は四十になったら自分の顔に責任があるというが、それは一人が多く
  を兼ねた時代の話で、現代のように分業の極に達した時代のことではない。
  今は三十年会社員を勤めて定年になってもそれらしい風格は生じない
  今後とも生じないだろう。」

  (山本夏彦著「良心的」所収)


 「 今も昔も私は私のコラムを「猫またぎ」と称している。活字というものには
  強い力があって、読まないでそこに何が書いてあるか、きっと気にいらない
  ことが書いてあるにちがいないと分るのである。分るからまたいで行くので
  ある。」

  (山本夏彦著「『豆朝日新聞』始末」所収)


 「 私は戯れに人か鬼かと言われる。言う人はふざけたふりをして本当のことを
  言っているのである。私は我ながら自分を浅ましいと思うことがある。私は
  私の言っていることが間違っているとは思わない。古いとは思わない。コラ
  ムはニュースを扱って古くなるのがふつうだが、私は(ニュースを扱わない
  から)古くならない。ただ言いかたがあんまりである。せきこんでいる。
  畳みかけている。あらゆる逃げ道をふさごうとしている。一方の逃げ道をあ
  けておかなければいけないと知りながら、そこへ逃げこもうとすると、それ
  までふさぐ。ぐうの音も出ないようにしたがる。浅ましいといったのはこの
  ことである。」

  (山本夏彦著「恋に似たもの」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もらい乞食はよしとくれ 2005・03・20

2005-03-20 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「職人と芸術家は区別しがたい職人の上手が芸術家だと思って、たいした間違いはない。」

  (山本夏彦著「変痴気論」所収)


 「個性というものは、生きてあるかぎりあり続けるから、二十年でも三十年でも続いてよさそうだが、その全盛時代はまず三年かと

  私は見ている。」

 「(才能というものは)のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けばいいほうである。」

 「自分が自分をまねするのは、まねの中で情けないものの一つであるが、ながく生きた芸術家のまぬかれぬところである。」

  (山本夏彦著「二流の愉しみ」所収)


 「著作権は以前は三十余年で自然消滅したが、それを五十年に延長せよと、作詞作曲家たちは当局に迫って、のばしてしまった

 歌は自らうたわれることを欲するのに、うたえば二重三重に金をとって、なお不足で五十年にのばすとは図々しい

 この協会はいまに我々が鼻歌をうたっても、かけつけていくらかくれと手を出すようになるに違いない

 『もらい乞食はよしとくれ』と、子供なら言うところだ。」

  (山本夏彦著「毒言独語」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

述ベテ作ラズ 2005・03・19

2005-03-19 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「現代人がメカニズムを信じ、これを崇拝するにいたったのは、それが財産として残せるためである。ひとたび電燈を発明すれば、子孫は行燈の昔にもどることがないからである。

  一方、精神上の遺産は、子孫に残せない。老荘儒仏ヤソにいたるまで、聖賢は人類を精神の内奥から救おうとした。なん千年来試みて、成功しなかったのは、五十にして天命を知った賢人が死んでしまえば、もとの木阿弥、その子は初めからやり直さなければならない。やり直して五十になっても、はたして親父の域に達するかどうかはおぼつかない。

  すなわち、精神上の財産は残せないのである。」

  (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)


 「教育というものは過去の財産を現代に伝えることだから本来伝統的なものであり保守的なものである洋の東西を問わず教育は古典を教えることに尽きる西洋ではギリシャラテンわが国では四書五経、老荘儒仏に人間の知恵は出つくしている。」

 「私たちが何を考え何を言っても、古人を出ることはできないそれらの悉くを学んだ上でさらに考えたことが考えであり、さらに発見したことが発見である尋常の人にそんなことはできないから『学ブニ如カザルナリ』また『述ベテ作ラズ』と古人は言ったのである。」

  (山本夏彦著「『戦前』という時代」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・03・18

2005-03-18 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 老若を問わず、病人は住みなれた家で死にたかろう。病人はそう思うが
  家族はそう思わない。一人が病人につきっきりになるためには、もうひ
  とり人手がいる。子供たち孫たちと共に住まないなら、その人手はない。
  近く確実に死ぬだろう病人を、入院させるのは一つは医師のすすめによる
  が、一つは死んだ人を見たくないからである。こわいのである。以前は死
  は日常のことだったが、今は異常のことになった。」

 「 別居をのぞむのは若夫婦だけではない。老若を問わず好んで別居して、
  こうして私たちは一生に一度しか死を見なくなったのである。三十四十
  になって初めて見るからこわいのである。」

  (山本夏彦著「おじゃま虫」所収)


 「 六十を半ばすぎたのに細君に死なれるとすぐ後妻を迎える人がふえた。
  昔とちがって一人暮しができなくなった。知らないで電話すると中年の
  婦人が出て、私を自分の知らぬ男だと怪しむので『ははぁ貰ったのだな』
  と分るのである。私はその男と三十年来の知人である。彼女は一年足ら
  ずの後妻である。怪しいのはあっちでこっちではないのに、すでに古女房
  のような落ちつきはらった重々しい足どりである。」

  (山本夏彦著「不意のことば」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一夫一婦 2005・03・17

2005-03-17 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「私は一夫一婦は根本に無理をふくむと見るものである。けれども、細君は一人でたくさんだと思うものである。とりかえたって同じだから、面倒くさいと、別れないでいるものである。きっと、相手も同じであろう。

  (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)



 「世間には何度も妻をとりかえる人があるが、あれはくせであるとりかえたって同じことだと知るから私はとりかえないとりかえようと思ったこともない。」

  (山本夏彦著「生きている人と死んだ人」所収)



 「人気ある芸人は百人千人の女と通じるというそんなに通じたら、女を知るものの随一になりそうだが、ならない今も昔も人気者と寝室を共にしたがる女がいて、その同一の女をたくさん知っただけである。」

  (山本夏彦著「笑わぬでもなし」所収)


 「すなわち一人の婦人で全婦人を察することができない男が、百人千人の女に接したって何もわかるわけがない。」

  (山本夏彦著「意地悪は死なず」所収)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・03・16

2005-03-16 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「『ねずみ講』は日本中の善男善女をだました、許せないと新聞がいうと、
  テレビも同じくいう。だまされたのは欲ばったからで、馬鹿だったから
  だというなら分るが、善人だったからだという。」

 「 ふつうだまされた者は首うなだれ、二度とだまされまいと心に誓うのに、
  だました方が悪い、それを取締らなかった政府はもっと悪いといわれては、
  首うなだれてばかりはいられない。『被害者友の会』でも結成して、損し
  た金を取戻そうと、出来もしないことを出来ると思って奔走する。だまさ
  れるほどの者だから、出来ると思うのである。」

  (山本夏彦著「笑わぬでもなし」所収)


 「 新聞はいつでも、だましたほうを悪玉にして、だまされたほうを善玉にする
  傾向があります。だから、だまされたほうは、はげまされたような気分になる
  のでしょうが、なにだまされたほうは欲ばりかバカだと私は思っています。」

  (山本夏彦著「つかぬことを言う」所収)


 「 私は、正直者は馬鹿をみるという言葉がきらいである。ほとんど憎んでいる。
  まるで自分は正直そのものだと言わぬばかりである。この言葉には、自分は
  被害者で潔白だという響きがある。悪は自己の外部にあって、内部にないと
  いう自信がある。」

  (山本夏彦著「毒言独語」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報道があるから事実がある 2005・03・15

2005-03-15 07:00:00 | Weblog
 今日の私の大の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「あの仲よしだった中国とベトナムが不仲になって、中国はベトナムの国境を越えた。中国が支援していた民主カンボジアを、ベトナムが攻めたからである。いわゆる『中越戦争』である。ベトナムと中国は一枚岩だとなが年新聞で読まされていたから、読者は寝耳に水で驚いた。本当はベトナムと中国は千年来不仲で、ベトナムの歴史は中国に侵略された歴史だったのである。ただ当面の大敵アメリカに勝つために、しばらく仲よくしただけのことで、めでたく勝ったからもとのカタキ同士にもどったのである。そしてベトナムはソ連と結んだのである。書いて十五行読んで二十秒――たったこれだけのことを新聞は言わないから、読んで読者は分らなかったのである。

  (山本夏彦著「美しければすべてよし」所収)


 「そこにあるものは目にはいるが、ないものは目にはいらない。したがって、そこにないものに私は注目する。」

 「そこにないものを見ないと、世の中のことは分らない。それというのも、ものはそこにあるものより、ないものから成ることが多いからである。」

 「けれども、あるものさえ見えないのに、ないものを見るのは困難である。」

  (山本夏彦著「二流の愉しみ」所収)



 「事実があるから報道があるのではない。報道があるから事実があるのである。」

  (山本夏彦著「かいつまんで言う」所収)



 「私は断言する新聞はこの次の一大事の時にも国をあやまるだろう。」

  (山本夏彦著「『豆朝日新聞』始末」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生教師になるなかれ 2005・03・14

2005-03-14 07:00:00 | Weblog

  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 むく鳥のように、雀のように親子は同じものだから、
      子が一人前になったら、親はいらないのである。」

  ( 山本夏彦著「かいつまんで言う」所収 )


 「 スープのさめない近所に住んで、若夫婦は老夫婦を見舞うのが理想とされている
  が、老夫婦から何か得る見込みがあるうちは訪ねるが、何ものもなくなれば訪ね
  なくなる。そしてその時、初めて老人というものは醜いものだと、若夫婦は発見
  する。貰うものがあるうちは発見しないで、なくなると発見するとは勝手だが、
  それが我々の常である。以前は世間がそれを許さなかったが、今は許す。」

  ( 山本夏彦著「変痴気論」所収 )


 「 あれ、老衰の兆なんですよ。年とってから一番避けなくちゃならないのは、人生
  の師匠になりたがることと説教すること。年とったからって自動的にひとの師匠
  になれるなんて、とんでもない誤解ですよ。」

  ( 山本夏彦著「意地悪は死なず」所収 )


 「 人生教師になるなかれと私は思っているが、口に出しては言わない。人は年を
  とると教えたがる、教える資格が自動的に生じると思うらしいが、むろん誤り
  である。」

  ( 山本夏彦著「世間知らずの高枕」所収 )


 「『 年寄りのバカほどバカなものはない 』ということわざ、大好きです。」

  ( 山本夏彦著「『豆朝日新聞』始末」所収 )

  米国ワシントンのとある中華料理店でフォーチュン・クッキーという焼菓子が
 いくつかお皿に盛られ出てきまして、たまたま取り上げたクッキーの中に入っ
 ていた御神籤にこう書かれていました。40歳の頃のことです。

  ” A Fool at forty is a fool, indeed ."







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬鹿は百人集まると百倍馬鹿になる 2005・03・13

2005-03-13 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「私はすべて巨大なもの、えらそうなものなら疑う疑わしいところがなければ巨大になれる道理がないからである。大デパート、大会社、大新聞社は図体が大きい。よいことばかりして、あんなに大きくなれるはずがない。総評や日教組は組織が大きい。もっとも大きいのは世論で、これを疑うのは現代のタブーである。だから私は疑う。世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。」

  (山本夏彦著「変痴気論」所収)


 「大新聞はいま正義の権化になって、やましいところはひとつもなくなってしまいました。ついこの間まで『羽織ゴロ』だったことを忘れてしまいました。むかしの新聞記者は心中ひそかに恥じていました。自分はやましくなくても、自分の仲間、同業者がやましいことをしているなら恥じないわけにはいかないと、みな内心忸怩としていました。いまはしません。忸怩としなくなると、人はみな増長すること新聞記者に限りません。」

  (山本夏彦著「つかぬことを言う」所収)


 「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。」

  (山本夏彦著「やぶから棒」所収)


 「どんな組織も十年たてば腐敗する。百年続いた国鉄を見よ、全逓を見よ。」

  (山本夏彦著「良心的」所収)


 組織の名前のところを取り替えてみると、官であれ民であれ、多くのところに当てはまってしまいそうです。


 「大ぜいが異口同音にいうことなら信じなくていいことだ。」

  (山本夏彦著「かいつまんで言う」所収)


 「同類は何百人集まっても一人である。」

  (山本夏彦著「不意のことば」所収)


 「馬鹿は百人集まると、百倍馬鹿になる。」

  (山本夏彦著「かいつまんで言う」所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005・03・12

2005-03-12 07:00:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 末端には電気パン焼器があり、頂上には宇宙船がある。原水爆はこの思想、
  この系列のピーク(てっぺん)に位する一つである。自動車や飛行機を肯定
  し、礼讃して、その絶頂にある原水爆だけを否定し、禁じようとしても、
  そうは問屋が卸すかしらん。」

  (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)


 「 出来てしまったものは出来ない昔には戻れない。」

  (山本夏彦著「『戦前』という時代」所収)


 「 日本人は恩怨ともに忘れる。千年前の怨みを忘れないのはよいことではないが、
  すぐ忘れるのもまたよくないのではないか。そして忘れる国民は忘れない国民に
  犇々とかこまれているのである。」

  (山本夏彦著「世はいかさま」所収)


 「 原爆を落された日本人が、原爆のことを知らないのは、実は原爆を持たないから
  です。原爆を持つ国は、持っていることによって恐ろしくてたまりません。」

  (山本夏彦著「つかぬことを言う」所収)


  この地球を何十回破壊しつくしてもまだ余りある程の原水爆が、米国に、ロシアに、
  中国に、フランスに、英国に、インドに、パキスタンに、イスラエルに、北朝鮮に、
  ひょっとするとどころかその他の国々にもあるとすると、使われないで済む確率は
  宝くじにあたる確率ほど低いような気がします。
  それが現実のものとなる日まで、全人類枕を高くして眠れること、大地震や大津波と
  同じです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする