(2020年1月25日)
>ジンジャン、左官、モーツアルト、崋山を比べてみたい次回に<を前回(1月23日)予告した。
前回のまとめ;
ヒトの製作活動の特質は「思想」を持つに尽きる。
では今回;
思想のあり方で工芸と創造に分けてみると;
反論もあるだろうが、同一の作品を変わることのない思想のもとで繰り返し作る工芸、その担い手を職人とする。思想を新たに創造して作品の製作をもっぱらとする人が芸術家となる。
両の製作の環境にはどのような差異があるだろうか。
猿も道具を用いる、この現象をして文化と評価する学派も活発と聞く。小筆の立場はエテ公(apeを含め)は「思想」を持たないから、道具の習熟、再生産をモノにできない。文化の体系を作れない。人様が上である。
工芸は道具を作製する。使われるからすり減る。減ったら買い足しする。以前に使用していたそれと新規道具の使い勝手が異なると、買い手から文句が出る。故に同じモノ、同じ思想の作品を作り続ける。出来上がり品はステレオタイプ、規範品となる。
職人の腕の見せ処とは技術をかける部分の水準の高さとなる。水準とは寸法、なめらかさ華麗さなど表層の仕上がり、立て付け仕組みの狂い無さ堅牢さ、組み合わせる適合の度合いなどで、規格とも伝わる。
仕上がり品に対しての正か不良かの判断を職人は持つし、規範品であるから制作に関わらない者、例えば購入者、使用者も出来上がりの善し悪しを即座に判断できる。
故に職人とは俗世間にすでに存在する製品の思想をいずこから、親方や発注主から引き出し(奉公し学ぶ盗む)、完成度のみを追い求める者と言える。
ジンジャン(350年前オルドヴァイ渓谷に住んでいた猿人)は典型的職人であり、石斧をステレオタイプ化して作って来ていた。石斧の使われ方は獲物の腹皮を切り裂き四肢を分断し(両刃)、骨から肉片を剥離する(片刃)、この制作過程、制作品に対して規範の設定、使い方の標準などの集合体はすでに文化を形成している。
ジンジャンと作品石器との関係とは;
1作品思想の確定 2作製技術の確立と伝承 3品質の固定、評価の基準 4使用法の一般化と民族としての伝承(文化)。
かくしてジンジャンと石器の体系が確立していたので、200万年を継続していた。前回、手練れ左官を述べたが、彼と泥壁との思考体系はその原型を350万年前のジンジャンに求められる。
では芸術家とは;
ポンティ先生には幾度かお出ましを願った。今回は知覚と芸術を統合していただいた。
先学がどのように芸術が創造されるかの説明を紹介したい。
メルロポンティ(1908~1961年フランス)。知覚の現象論の創始。
彼は人の周囲環境に焦点をあてる。
周囲をmonde(宇宙)、champ(野)、milieu(環境)などと呼びそこではchose(物、信号)が交雑するカオス地である(カオスは小筆の解釈、耶蘇教徒なる彼は、神の被創造物をして混乱などと規定せずchamp…で通した)。これら信号は(凡人は)見逃し聞き逃するので単なる雑景雑音にすぎないが、実はそれに成分が含まれる。
この成分、神の信号を得る手段とは;
>Les choses ne sont pas devant nous de simples objets neutres que nous contemplons ; chacune d’elles symbolise pour nous une certaine conduite, provoque de notre part des réactions favorables ou défavorables, et c’est pourquoi les gouts d’un homme se lisent dans les objets de s’entourer...(Causeries 閑話SS4 1948年)
訳:私たちが眺めすごす対象物とは単なる単純な物ではなく、一つ一つがある成分を象徴化している物なのだ。その信号成分は受け入れられ、時には受け入れられない。それ故、人の性状は周囲環境のなかに統合されるものだ。
>Ma perception n’est pas une somme de données visuelles tactiles , je percois d’une manière indivisée avec mon être total(La nouvelle psychologie, 新しい心理学1945. SNS88)
訳;私の知覚とは見ている、さわっている、聞いているなどの総合ではない。私は、己の存在全体と一体化しているやり方で知覚しているのだ。
2の引用を通して周囲の事象には信号が備わり、人はそれを、知覚を超えた全身で受け止め、時には排除している。全身とはヨーロッパ哲学の流れから判断すれば「智」、思考となる。知覚のみならず智で事象の信号を評価し、選択する。これが創造である。
選択する信号とは何か;
レヴィストロースの「3分節」を引用する。
神話学第一巻「生と料理」の序曲(序文)で神話の構成を音楽と同じく3の階層とした。それは音素、旋律、楽曲となる。音素とは高さを決める周波数がふらつかず一定し、調の7の音に適合する音である。メロディはそれら音素を響きの長短、強弱の拍を組み合わせたつながりである。作曲家は雑音にあふれる外部環境、音のカオスから音素を取りだし、メロディを口ずさむ。調を選び和音とその進行を考えて楽曲(思想)に昇華させる。これが楽曲創造の3分節で、神話(言語)にしても同様であると指摘する。
メルロポンティは画家がいかにして環境から作品を引き抜くか、セザンヌを例にして解説している。同じ仕組みは文芸にも適用できる。
ここまでを芸術家が創造する過程とする。
工芸との差は思想のあらたな創造に集約される。
芸術家は思想を創る。
有神論では神が作製している誰もそれまで探れなかった思想、これを見つけ出す工程と言う。メルロポンティは耶蘇信徒であるから、前の引用を噛みしめて読めば「神が造りたまわる環境は調和にあふれ、その調和を探しえる知覚の持ち主が作品を物に出来る」となる。
芸術家の「思想」はステレオタイプではない、判定基準がまだないから作品としての善し悪しは、鑑賞者や批評家には即座に判定できない。工芸品と異なる処である。
さらには芸術家が着想し作品に昇華せむとする物の、あるべき姿は神がすでに図面を書いているのである。
芸術作品は道具でないから消耗しない。思想が形成され作品に昇華したら石器とか土壁と異なり「減らないから」そのまま残る。別の芸術品を発表するにはあたらな思想を探し出さなければ、作品とはならない。
焼き直し思想を発表する作者は芸術を語れない。
(以上が2回目)
>ジンジャン、左官、モーツアルト、崋山を比べてみたい次回に<を前回(1月23日)予告した。
前回のまとめ;
ヒトの製作活動の特質は「思想」を持つに尽きる。
では今回;
思想のあり方で工芸と創造に分けてみると;
反論もあるだろうが、同一の作品を変わることのない思想のもとで繰り返し作る工芸、その担い手を職人とする。思想を新たに創造して作品の製作をもっぱらとする人が芸術家となる。
両の製作の環境にはどのような差異があるだろうか。
猿も道具を用いる、この現象をして文化と評価する学派も活発と聞く。小筆の立場はエテ公(apeを含め)は「思想」を持たないから、道具の習熟、再生産をモノにできない。文化の体系を作れない。人様が上である。
工芸は道具を作製する。使われるからすり減る。減ったら買い足しする。以前に使用していたそれと新規道具の使い勝手が異なると、買い手から文句が出る。故に同じモノ、同じ思想の作品を作り続ける。出来上がり品はステレオタイプ、規範品となる。
職人の腕の見せ処とは技術をかける部分の水準の高さとなる。水準とは寸法、なめらかさ華麗さなど表層の仕上がり、立て付け仕組みの狂い無さ堅牢さ、組み合わせる適合の度合いなどで、規格とも伝わる。
仕上がり品に対しての正か不良かの判断を職人は持つし、規範品であるから制作に関わらない者、例えば購入者、使用者も出来上がりの善し悪しを即座に判断できる。
故に職人とは俗世間にすでに存在する製品の思想をいずこから、親方や発注主から引き出し(奉公し学ぶ盗む)、完成度のみを追い求める者と言える。
ジンジャン(350年前オルドヴァイ渓谷に住んでいた猿人)は典型的職人であり、石斧をステレオタイプ化して作って来ていた。石斧の使われ方は獲物の腹皮を切り裂き四肢を分断し(両刃)、骨から肉片を剥離する(片刃)、この制作過程、制作品に対して規範の設定、使い方の標準などの集合体はすでに文化を形成している。
ジンジャンと作品石器との関係とは;
1作品思想の確定 2作製技術の確立と伝承 3品質の固定、評価の基準 4使用法の一般化と民族としての伝承(文化)。
かくしてジンジャンと石器の体系が確立していたので、200万年を継続していた。前回、手練れ左官を述べたが、彼と泥壁との思考体系はその原型を350万年前のジンジャンに求められる。
では芸術家とは;
ポンティ先生には幾度かお出ましを願った。今回は知覚と芸術を統合していただいた。
先学がどのように芸術が創造されるかの説明を紹介したい。
メルロポンティ(1908~1961年フランス)。知覚の現象論の創始。
彼は人の周囲環境に焦点をあてる。
周囲をmonde(宇宙)、champ(野)、milieu(環境)などと呼びそこではchose(物、信号)が交雑するカオス地である(カオスは小筆の解釈、耶蘇教徒なる彼は、神の被創造物をして混乱などと規定せずchamp…で通した)。これら信号は(凡人は)見逃し聞き逃するので単なる雑景雑音にすぎないが、実はそれに成分が含まれる。
この成分、神の信号を得る手段とは;
>Les choses ne sont pas devant nous de simples objets neutres que nous contemplons ; chacune d’elles symbolise pour nous une certaine conduite, provoque de notre part des réactions favorables ou défavorables, et c’est pourquoi les gouts d’un homme se lisent dans les objets de s’entourer...(Causeries 閑話SS4 1948年)
訳:私たちが眺めすごす対象物とは単なる単純な物ではなく、一つ一つがある成分を象徴化している物なのだ。その信号成分は受け入れられ、時には受け入れられない。それ故、人の性状は周囲環境のなかに統合されるものだ。
>Ma perception n’est pas une somme de données visuelles tactiles , je percois d’une manière indivisée avec mon être total(La nouvelle psychologie, 新しい心理学1945. SNS88)
訳;私の知覚とは見ている、さわっている、聞いているなどの総合ではない。私は、己の存在全体と一体化しているやり方で知覚しているのだ。
2の引用を通して周囲の事象には信号が備わり、人はそれを、知覚を超えた全身で受け止め、時には排除している。全身とはヨーロッパ哲学の流れから判断すれば「智」、思考となる。知覚のみならず智で事象の信号を評価し、選択する。これが創造である。
選択する信号とは何か;
レヴィストロースの「3分節」を引用する。
神話学第一巻「生と料理」の序曲(序文)で神話の構成を音楽と同じく3の階層とした。それは音素、旋律、楽曲となる。音素とは高さを決める周波数がふらつかず一定し、調の7の音に適合する音である。メロディはそれら音素を響きの長短、強弱の拍を組み合わせたつながりである。作曲家は雑音にあふれる外部環境、音のカオスから音素を取りだし、メロディを口ずさむ。調を選び和音とその進行を考えて楽曲(思想)に昇華させる。これが楽曲創造の3分節で、神話(言語)にしても同様であると指摘する。
メルロポンティは画家がいかにして環境から作品を引き抜くか、セザンヌを例にして解説している。同じ仕組みは文芸にも適用できる。
ここまでを芸術家が創造する過程とする。
工芸との差は思想のあらたな創造に集約される。
芸術家は思想を創る。
有神論では神が作製している誰もそれまで探れなかった思想、これを見つけ出す工程と言う。メルロポンティは耶蘇信徒であるから、前の引用を噛みしめて読めば「神が造りたまわる環境は調和にあふれ、その調和を探しえる知覚の持ち主が作品を物に出来る」となる。
芸術家の「思想」はステレオタイプではない、判定基準がまだないから作品としての善し悪しは、鑑賞者や批評家には即座に判定できない。工芸品と異なる処である。
さらには芸術家が着想し作品に昇華せむとする物の、あるべき姿は神がすでに図面を書いているのである。
芸術作品は道具でないから消耗しない。思想が形成され作品に昇華したら石器とか土壁と異なり「減らないから」そのまま残る。別の芸術品を発表するにはあたらな思想を探し出さなければ、作品とはならない。
焼き直し思想を発表する作者は芸術を語れない。
(以上が2回目)
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