鈴鹿医療科学大学の学長を務めさせていただいて、もう4か月近くが経ち、理学療法学科の2年生を対象とした「救急医学概論」の授業も、残すところあと1回になりました。
さて、実は古巣の三重大学から頼まれていた、創立60周年記念誌への原稿ができあがったので、先ほどメールで送ったところです。記念誌ができる前に、ブログの皆さんに原稿をご紹介することにしましょう。僕の肩書としては、三重大学全学同窓会の会長ということでした。
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三重大学創立60周年に想う
三重大学全学同窓会長
豊田長康
三重大学創立60周年、そして、素晴らしい記念誌が発刊されたこと、ほんとうにおめでとうございます。
ただし、前身である師範学校や高等農林学校からの歴史をさかのぼると、60周年どころではなくなります。インターネット上のウィキペディアでは、三重大学の創立は1874年、大学設置が1949年と書かれています。つまり、さらに75年もさかのぼることになり、創立135周年ということになります。
実は、2011年に長崎大学附属病院の創立150周年記念事業に招かれて特別講演をさせていただいたのですが、長崎大学の設置は1946年と三重大学と同じ年ですが、彼らはポンぺが長崎に病院を開設した1861年を附属病院の創立年としているのです。長崎大学のホームページを見ると、大学の沿革として1857年の医学伝習所設置から書かれており、大学としては、その年を創立年としています。そして、長崎大学は創立時の医学伝習所やポンぺの進取の精神を非常に大切にして承継しており、そのDNAは原爆によっても破壊されることはなかったわけです。
三重大学も創立135周年という伝統の重みを、もっと主張してもいいのではないかと感じています。1874年は度会県師範学校ができた年です。1875年には三重県の旧藩校の有造館跡に師範有造学校が設立され、1976年の度会県と三重県の合併に伴って、山田師範学校、津師範学校と改称され、1977年に両師範学校の合併により三重県師範学校と改称されたとあります。創立時から、激動の歴史が始まっていることがわかります。
第二次世界大戦後の1949年に学芸学部(現教育学部)と農学部からスタートした新制三重大学は、1969年工学部設置、1972年医学部と水産学部の県から国へ移管、1983年人文学部設置、1987年生物資源学部設置と、戦後の激動の時代の中で着実に発展をしてきました。この間、歴代の学長先生をはじめ、教職員の皆さんの並々ならぬご尽力があったものと思います。諸先輩方には、よくぞ、ここまで三重大学を発展させていただいたと心から感謝しております。そして、小職が三重大学にお世話になったのは1978年から2009年までであり、激動の60年間の後半の約30年間ということになります。
しかし、ちょっと残念なことに2000年前後から国立大学は次第に縮小のモードに入って毎年予算が削減され続け、小職が学長に就任した2004年からは法人化という荒波をかぶり、現在、国からは国立大学のミッション再定義と称するヒアリングを受け、一部学部の縮小を余儀なくされつつあります。将来、三重大学は他の大学との統合も視野に入れた再編成を考慮せざるをえないかもしれません。
そのような時に、たとえ外形や名称が変わろうとも、世代を超えて伝えることのできる三重大学のDNAはいったい何なのか?この60周年記念誌で三重大学のまさに激動の歴史を振り返りつつ改めて考えてみる必要があるのではないかと思います。
思い起こせば、小職の前任の矢谷隆一元学長も、何度もDNAのことを話題にして挨拶しておられました。伊勢神宮は20年毎に新しく建て替えられますが、その古代建築のDNAが1300年間変わることなく承継されてきたことを例に示されて。
本年は、ちょうど伊勢神宮の遷宮の年ですが、常に新しく造り替えられつつも、この地域の激動の135年間の学術・文化の基盤を支えてきた三重大学のDNAが、着実に未来へ伝えられることを心から祈念したいと思います。
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さて、今日僕がブログの読者の皆さんに訴えたいのは、実は、上の原稿の中の、「一部学部の縮小を余儀なくされつつあります。」という部分なんです。これは三重大学教育学部のことです。昨年打ち出された大学改革実行プランにミッション再定義ということが書かれているのですが、三重大学教育学部のミッションは何かと国から問われた時に、「教員養成です。」と答えたとたんに、「では、教員免許取得を卒業要件としていない新課程(いわゆるゼロ面課程)は縮小ですね」ということになるのです。これは、財務省の既定路線ということでしょう。
このロジックにはなかなか反論しにくい面をもっているのですが、ただ、三重大学教育学部の新課程が縮小されるとなると、日本国にとってたいへん残念なことが生じます。
それは、僕が三重大学の学長であった時に、教育学部の先生方がせっかく苦労して創り上げた天津師範大学との学部レベルでのダブルディグリー制度「日本語教育コース」が、教育学部の新課程にあるために、維持できなくなってしまうからです。
海外の大学との学部レベルでのダブルディグリー制度は、極めて珍しいもので、たいへん貴重な存在です。2006年から試行的に始まり、2010年7月には中国政府から合作弁学事業として正式認可され、現在、天津師範大学からは毎年20人の学生が、三重大学に来ています。
このコースは5年間で、天津師範大学と三重大学の両方の学位が取得できるプログラムで、前半は天津師範大学で日本語を中心に学び、後半は三重大学で教育学の授業を日本人学生に交じって受講します。三重大学の先生が交代で天津師範大学に在駐して、日本語を教えています。
このダブルディグリー制度は中国人学生に人気のある競争率の高いコースとなっており、優秀な学生が選抜されています。以前、日本へ留学する中国人学生の質が問題になったことがありましたが、現地のきちんとした大学と提携することで、その問題が解決されるわけです。9月の入学式の時には、三重大学の学長が天津師範大学に赴いて、向こうの学長といっしょに入学式の式辞を述べます。
中国政府も、このようなダブルディグリー制度は経験がなく、最初は半信半疑であったようですが、2011年に、ようやく政府として正式に認可をしたところです。三重大学の努力によって中国政府がせっかく正式に認可した制度を、三重大学自らが潰してしまえば、中国政府は二度と、このような制度を日本のどの大学に対しても認めないでしょう。中国からすれば、三重大学は国立大学ですから、これは国と国との信用問題にかかわることになるのです。
天津師範大学の先生がたが、この前お会いした時に僕たちにおっしゃっていたことは、中国政府は国策として”孔子学院”を世界各国に作って国の戦略として中国語を広めようとしているのに、日本国は、せっかくの日本語を外国人に教える機会を自ら捨ててしまおうとしているなんて、なんてもったいないことをしようとしているのだろうと、あきれ返っていました。
今、中国と日本の関係は冷え込んでいますが、冷え込んでいる時こそ、このような現場レベルでの中日の交流を維持することは、極めて重要だと考えます。海外からの留学生をさらに増やすことを掲げている日本政府が、近視眼的に、たいへん貴重な先進的な国際交流の取り組みをみすみす潰してしまうのは、ほんとうにもったいないことです。
この、ダブルディグリー制度を批判することは簡単です。たとえば、現在中国側からだけ学生が来ており、日本人の学生が向こうに行く制度にはなっていないではないか、という批判です。僕は、だからといって、ダブルディグリー制度をつぶす理由にはならないと思います。いったん潰してしまえば、日本人が向こうへ行けるようなダブルディグリーは永久にできなくなります。まずは、中国からの学生のダブルディグリー制度を確立して、第二段階として日本人学生が中国で学ぶダブルディグリーの拡張に努力すればいいことです。
この三重大学の天津師範大学との先進的なダブルディグリー制度は、日本国としては絶対につぶしてはいけません。国は、近視眼的な教育学部縮小政策を杓子定規に推し進めるのではなく、日本国としての長期的な国益にかなう現場の取り組みについては、柔軟な政策により守るべきです。まずは、三重大学の学士レベルでのダブルディグリー制度を守り、次はそれを全国の大学に広げる政策を打ち出すべきです。それが、優秀な海外の留学生を確保する最も確実な方法であり、今後、内向きと心配されている日本人が海外に出るための有力なシステムに発展すると考えます。