あっという間に四月も終盤となりました。聖週間前の掃除、車のスパイクタイヤの交換、イースター前のあれやこれやをしていて気がつけば五月目前です。
ちなみにスパイクタイヤは四月十四日まで許されていて、それ以降は罰金ものです。ただし雪が降っている、とかの事情がある場合は考慮してくれます。今年はたまたま聖週間と重なっていて、休日だらけの合間に四月十四日が入ってしまいました。
「こういう日程なんだから交換は難しい。猶予期間はないのか?」と警察に問い合わせたのですが「ない」とつれない返事。仕方なく、イースター前日の土曜日にスタンドのメンテに予約を取り、替えてもらいました。
ところで、日本ではゴールデンウィーク突入が間近ですねえ。皆さんはどのようなご予定があるのでしょうか?旅行、温泉巡り、グルメ探訪、写真撮影、ツーリング、登山、競馬、競艇等々いろいろな計画があるものと想像します。
多趣味な方には、こういう連休とかは天の恵みのようなものなのでしょうが、私なんぞは「退屈男」の見本のような無趣味人間なので、休みがあるとかえって考え込んでしまったりします。
そんな私でも、仕事に関係なく、かつ多少の「創造性」がある?と言えるような趣味があり、それが詩作です。詩については以前もいつか書いたことがあるかと思いますが、若い頃から好きで、中学の頃から、邦訳されたワーズワースやアポリネールを結構読んでたりしました。
日本でなら、俳句、川柳、短歌の類が好きで、口語自由詩は苦手です。あの「暗〜い」「理屈っぽくて」「よくわかんな〜い」感が嫌なのでした。すみません。
で、詩や俳句は好きだったものの、自分で一句詠んだり、詩作したことはありませんでした。
それがこちらに移ってきてから、アイスランドの詩に触れる機会を持つようになり、詩集なども買い始めるようになりました。もう十五年以上も前のことになりますが。この点では、アイスランドの「アイスランド語=国の魂」的な環境に、良い影響を受けたのかもしれません。
そのうちに、自分でも詩を書くようになっていったわけですが、詩を書くのはなかなか難しいものです。「余計な言葉を削って」というのがある種の原則だと思うのですが(ラップなどはそうではないのかもしれません。ラップの知識がないので悪しからず)、アイスランド語のような外国語ですと、どれだけ削っても理解可能か?という判断が自分ではつけかねるのです。
ということもあり、文法的な正誤、連想させるイメージの良し悪しなどもあるので、詩が好きな周囲のアイスランド人の人たちの助力を得てのヨチヨチ詩作でした。
詩を読んで理解するのも一苦労あります
2002年くらいから、2010年頃までは結構熱を入れてやった時期もあります。一年を平均して同じように気合いが入るわけではなく、やはり波があるもののようです。
私が作る詩にはそれなりの特徴というかキャラがあります。まず第一に「思想や哲学はない」理由は簡単で、私のアイスランド語のレベルではそんな高尚な内容を盛り込むことは不可能だったからです。単純明快。裏の意味なし。
キャラの第二。「短い」内容的な発想は俳句や短歌のようなものでしたので、写実的に何かに焦点を当てて、感情的な表現を避けて表す、というような形態になりました。アイスランド語で俳句や短歌をたしなむ人もありますが、私はそれはしたくなく、自由律の方を選びました。
キャラの第三。「新聞への投稿やエッセイ、教会での説教などで言えることは題材にしない」エッセイや説教で言えることであれば、それで済んでしまいますからね。わざわざ詩なんかに託さなくてもいいでしょ?
道端のなごり雪の合間から蕾が顔を出しているような光景は、詩の題材にはなりますよね。なんで自分の心にそれがアピールしてくるのかを、説明することなく他者にも伝えようとするのが、私に取っての「詩作」なのですが、逆に言うと「道端の雪の合間の蕾が可愛い」なんていうことは、新聞の投稿にも、説教の題材にもならないわけです。
「口語自由詩」のような、社会に問いかけるようなメッセージ性もありません。つまり、何かの役に立つわけではないのです。あくまで自分と、欲を言えば詩が好きな人たちとの間だけのものです。だから趣味としては、かなり良いものだったのではないかと思います。
もう十年前になろうとしているのですが、2007年の十一月には自費出版で初めての(そして今のところは最後の)詩集を出すこともできました。これは詩が好きな若い世代の人たちのサークルのような出版会を通してだったのですが、その発起者は「ドリームランド」等の人気作家、アンドリ·スナイルさんで、これは多少自慢げな話しです。
右の詩集は一番好きな詩人スノリ·ヒャルタソンのもの
数少ない趣味の中の、しかもかなり良い趣味だった詩作なのですが、ここ数年はまったくご無沙汰してしまっています。なぜかというと、うーん、プロファイラー的に自己分析すると、それなりの理由はあるのですが、つまらないでしょうから割愛します。
ところがです。おとといの金曜日、職場へ出向くとオルガニストのグビューズニーさんに「トシキ!」と声をかけられました。「新しい讃美歌を頼まれて創るのだけど、詩もオリジナルでないと駄目なの。
社会の様々な人の視点からの讃美歌集を編むプロジェクトで、例えばツーリストの人の心情や、難民の人たちの視点からとかもあると内容が豊かになると思って。ひとつ詩を書いてくれない?」
手一杯なので断ろうと思ったのですが「待てよ。讃美歌集に名前が載る。作品が世に残る。ムフフ...悪くない」と私の中の「悪い方のトシキ」がほくそ笑んだのでした。
「そういう魂胆で詩を書こうとしたって、いいものができるわけないじゃん」と「良い方のトシキ」が正論で反駁していますが、その「良い方のトシキ」でさえ「でも、きっかけは何であれ、これでまた詩作が趣味として復活するなら、長期的にはいいことかも」などと腰砕けになりつつあります。
どうなりますことやら。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
ちなみにスパイクタイヤは四月十四日まで許されていて、それ以降は罰金ものです。ただし雪が降っている、とかの事情がある場合は考慮してくれます。今年はたまたま聖週間と重なっていて、休日だらけの合間に四月十四日が入ってしまいました。
「こういう日程なんだから交換は難しい。猶予期間はないのか?」と警察に問い合わせたのですが「ない」とつれない返事。仕方なく、イースター前日の土曜日にスタンドのメンテに予約を取り、替えてもらいました。
ところで、日本ではゴールデンウィーク突入が間近ですねえ。皆さんはどのようなご予定があるのでしょうか?旅行、温泉巡り、グルメ探訪、写真撮影、ツーリング、登山、競馬、競艇等々いろいろな計画があるものと想像します。
多趣味な方には、こういう連休とかは天の恵みのようなものなのでしょうが、私なんぞは「退屈男」の見本のような無趣味人間なので、休みがあるとかえって考え込んでしまったりします。
そんな私でも、仕事に関係なく、かつ多少の「創造性」がある?と言えるような趣味があり、それが詩作です。詩については以前もいつか書いたことがあるかと思いますが、若い頃から好きで、中学の頃から、邦訳されたワーズワースやアポリネールを結構読んでたりしました。
日本でなら、俳句、川柳、短歌の類が好きで、口語自由詩は苦手です。あの「暗〜い」「理屈っぽくて」「よくわかんな〜い」感が嫌なのでした。すみません。
で、詩や俳句は好きだったものの、自分で一句詠んだり、詩作したことはありませんでした。
それがこちらに移ってきてから、アイスランドの詩に触れる機会を持つようになり、詩集なども買い始めるようになりました。もう十五年以上も前のことになりますが。この点では、アイスランドの「アイスランド語=国の魂」的な環境に、良い影響を受けたのかもしれません。
そのうちに、自分でも詩を書くようになっていったわけですが、詩を書くのはなかなか難しいものです。「余計な言葉を削って」というのがある種の原則だと思うのですが(ラップなどはそうではないのかもしれません。ラップの知識がないので悪しからず)、アイスランド語のような外国語ですと、どれだけ削っても理解可能か?という判断が自分ではつけかねるのです。
ということもあり、文法的な正誤、連想させるイメージの良し悪しなどもあるので、詩が好きな周囲のアイスランド人の人たちの助力を得てのヨチヨチ詩作でした。
詩を読んで理解するのも一苦労あります
2002年くらいから、2010年頃までは結構熱を入れてやった時期もあります。一年を平均して同じように気合いが入るわけではなく、やはり波があるもののようです。
私が作る詩にはそれなりの特徴というかキャラがあります。まず第一に「思想や哲学はない」理由は簡単で、私のアイスランド語のレベルではそんな高尚な内容を盛り込むことは不可能だったからです。単純明快。裏の意味なし。
キャラの第二。「短い」内容的な発想は俳句や短歌のようなものでしたので、写実的に何かに焦点を当てて、感情的な表現を避けて表す、というような形態になりました。アイスランド語で俳句や短歌をたしなむ人もありますが、私はそれはしたくなく、自由律の方を選びました。
キャラの第三。「新聞への投稿やエッセイ、教会での説教などで言えることは題材にしない」エッセイや説教で言えることであれば、それで済んでしまいますからね。わざわざ詩なんかに託さなくてもいいでしょ?
道端のなごり雪の合間から蕾が顔を出しているような光景は、詩の題材にはなりますよね。なんで自分の心にそれがアピールしてくるのかを、説明することなく他者にも伝えようとするのが、私に取っての「詩作」なのですが、逆に言うと「道端の雪の合間の蕾が可愛い」なんていうことは、新聞の投稿にも、説教の題材にもならないわけです。
「口語自由詩」のような、社会に問いかけるようなメッセージ性もありません。つまり、何かの役に立つわけではないのです。あくまで自分と、欲を言えば詩が好きな人たちとの間だけのものです。だから趣味としては、かなり良いものだったのではないかと思います。
もう十年前になろうとしているのですが、2007年の十一月には自費出版で初めての(そして今のところは最後の)詩集を出すこともできました。これは詩が好きな若い世代の人たちのサークルのような出版会を通してだったのですが、その発起者は「ドリームランド」等の人気作家、アンドリ·スナイルさんで、これは多少自慢げな話しです。
右の詩集は一番好きな詩人スノリ·ヒャルタソンのもの
数少ない趣味の中の、しかもかなり良い趣味だった詩作なのですが、ここ数年はまったくご無沙汰してしまっています。なぜかというと、うーん、プロファイラー的に自己分析すると、それなりの理由はあるのですが、つまらないでしょうから割愛します。
ところがです。おとといの金曜日、職場へ出向くとオルガニストのグビューズニーさんに「トシキ!」と声をかけられました。「新しい讃美歌を頼まれて創るのだけど、詩もオリジナルでないと駄目なの。
社会の様々な人の視点からの讃美歌集を編むプロジェクトで、例えばツーリストの人の心情や、難民の人たちの視点からとかもあると内容が豊かになると思って。ひとつ詩を書いてくれない?」
手一杯なので断ろうと思ったのですが「待てよ。讃美歌集に名前が載る。作品が世に残る。ムフフ...悪くない」と私の中の「悪い方のトシキ」がほくそ笑んだのでした。
「そういう魂胆で詩を書こうとしたって、いいものができるわけないじゃん」と「良い方のトシキ」が正論で反駁していますが、その「良い方のトシキ」でさえ「でも、きっかけは何であれ、これでまた詩作が趣味として復活するなら、長期的にはいいことかも」などと腰砕けになりつつあります。
どうなりますことやら。
応援します、若い力。Meet Iceland
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