僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(5/5)この空白の4月

2017年05月05日 21時25分14秒 | 日常、仕事、認知症
自分が年を取っていくと
楽しみが激減するということを手に取るようにわかる。
自分と並行して
周りも年を取っていく、老人はより老人に、猫たちも老猫に、身近な者たちはそのようになっていく。
これが子供がいたり孫でもいれば、その若さは、成長と言えるもので、未来の楽しみを抱えて微笑ましく
良い刺激になるのかもしれないが。
しかし私の周りは皆、老体だ。
そして
それがいよいよ具体的に「老齢」の悲しさを目の当たりにすることになる。
これから
どう、「死」に向かっていくのか、すぐにでもそこに辿り着くような感覚である。

自分の誕生の月である4月をふっ飛ばしたブログ。
こんなこと初めてだ。
毎年、自分と山Pと鳩のPちゃんの誕生を祝い、ケーキなども買ってそれなりに
節目を大切にしてきた自分なのに
ずっとブログと遠ざかっていた。

3月下旬
会社の人事異動で、長年いっしょに仕事をしてきたEさんが別な所に異動になった。
驚いた。
彼女もショックを受けたようで
「左遷だ、左遷だ」と言っていた。
昨年入った新人に対する八つ当たりがひどかった。
パワハラに近い言葉を残して去っていった。
そしてEさんの代わりに入ってきた人が「天才的」「芸術的」腕を持ちながら
Eさんに劣らず、パワハラ的パワーを持った人だった。
一応新人なので、先の新人や私が指導をすることになったが
新しいリーダーになった先の新人とは水と油の関係になった。
そしてたった1カ月、研修期間を消化しないままこの職場を去った。
一体何のための異動だったのか。
まさに怒涛の1カ月だった。
その1カ月というのが4月だ。
アルバイトの私でありながら、他の正社員より休みが多い私でありながら
毎日、ミーティングやら彼女たちの仕事の手伝いで、休みなく、サビ残で
こんなはずじゃないと思いつつ仕事をしてきた。

そして今も、その延長で
休みもままならない状態である。

今日は
「死ぬ」と言って帰宅した。
疲れに疲れて帰宅し、そのまま眠ることのできない
今日予定の義母のお風呂、洗髪の仕事に取りかかった。

自分の誕生日の前日4月8日
実家の父の手紙を読んで、母の様子を見に行った。
正月以来の母の様子である。
正月の母は、それまでと変わらぬ様子だった。
連れていった義母と、認知症同士の他愛もない会話を楽しんでいた。
来年もこのままで行けば、まだまだ行けるだろう、と思っていた。
しかし
この4月の様子、一目見て、様子がおかしい、と思った。
病気が進行している、それを我慢している、と思った。
立って見送りする姿さえ、つらそうに見えた。
それが引っかかりながらも、あのように職場がゴタゴタしていたせいで、
またいつ行けるか見当がつかなかった。
ところが
同じ4月末、父から再び手紙が届いた。
投函してくる間隔が短く、父の不安が垣間見えた。
父は性格として、ポジティブ、強引、自分の考えが一番、というもの。
その性格で母の生活にも強要してきた。
なんでもやらせている、やれるものはやらせているが最近はつらそうだ、と書いてある。
ああ、母はその強い父の性格に、必死についていっているんだなあ、と思った。
それが限界になっているのかもしれないが、父はわかってはいない。

私は少しずつ返事を書いていく。
私は、自分の実家にあれこれと言うことを憚っていたと書いた。
なぜなら
このブログを読み続けている人なら覚えていると思うが
数年前
父と母がガンの手術をして私が彼らの病院に通っていたときに
父に言われたこと、
「お前の世話にはならない、相続も放棄してもらう。」と一方的に宣言され念書も書かされたことがあった。
一人っ子の私が相続放棄(父の分、母の分)させられ、家そのものも、父側の親類に贈与する、と父は自分の死後のお金のプランを考えていた。
私と両親は、養子縁組である。
特に、父とは血の繋がりがない。
父は血の繋がりを非常に重視しており、自分の親類を優先する。自分たちのお墓も、父の本家に入ると、もう予約、お金も渡しているそうである。
私はそれに口を出したことはない。
出せば、次にどんなセリフが出るか、ほぼ想定できるからである。

私の周りの人たちにその話をすると、皆驚く。
一人っ子でありながら、幾ら養子とはいえ、相続放棄とは、と。
父たちに実子がいれば、その放棄は想像できるが、いないのに、放棄せよとは、と驚かれたものだ。
遺言書も書いてある。
それを金庫に入れてあるのだが、その鍵を親類2名となぜか私にも渡してある。紛失しそうだ。
その鍵を開けるとき、私は不在にするつもりでいる。
どこまで惨めな思いをさせるのか、という気持ちでいる。
手続き上、判がいるのなら、一人事務的に押すつもりでいる。

今回の私の返事には勿論、そんなことは書いていない。
現実の問題として
ホスピスの段階である母の「自宅療養」の内容について自分の意見を書いた。
具体的に書いた。
批判も含めつつ。
それをどう受け止めるかも、両親次第、と。
お金を誰それにやる、とか考えるより、動けなくなっていく自分たちの「自宅療養」のための安全、利便化したものに投資せよ、と。
例えば。
今、二階に寝室がある。かつての私の広い部屋が父の部屋になり、隣が母の部屋。
二階にトイレがない。
一階のトイレに、真っすぐな階段を降りていかねばならない。
階段の昇り降りも辛そうな母。
もう、二階は老人の寝室向きではないことを自覚せよ、と。
家庭内引っ越しが今、業者もやっているので、一階に寝室を移せ、と書く。
灯油のストーブではなく、エアコンにせよ、と。

などなど、父の言葉を借りるなら「お前の世話にはならない」私があれこれと口出しするのも憚る、ということです。
しかし、こうして父が何度も手紙を書いてくると、気持ちが弱っている証し。
父のあの言葉通りにするのなら、近くに住む親類に頼るべきところを、結局、父は、「養子」の私に頼っているわけです。
明日、それらの話をするために、仕事を休んで行ってくる。
私は利用されているのか、頼られているのか、それは別にどちらでもいいのだが
戸籍上、親子関係なので、やれるだけのことはやろうと思っています。

母は
最近よく、
「お父さんは、あなたの小さい時の、可愛くてしょうがなかったから貰ったんだよ。」なんて口にしますが
「そうですか?本当にそうですか?」なんて、言葉に出さずに、にこにこと「わかっているよ。」と答える自分が偉いと思っています。
養子に来たときは、可愛がられたという実感よりも、母に「私の姉の子供だから厳しく育てる」教育のもとに、甘えることの下手な、ちょっと暗い自分しか
覚えていません。
なぜ、今頃になって恩を着せるようなことを言うのか。
それが本当であれば、「お前の世話にはならない、世話もされたことがない、相続放棄せよ」なんて言葉が出るのか。
初めから、父側の親類の子供を養子にしておけばよかったのに、なんて思うこともあり。



季節は初夏。
しかし、早朝の出勤の肌寒さは、まだ感じています。
この先、また仕事面、家庭面、いろいろとありそうです。
お休みなさい。
今日は久しぶりに11時過ぎまで起きていた。



コメント (4)
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