僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/11)あれから1年の今日

2012年03月11日 23時06分45秒 | 東日本大震災
職場の近くのある銀行に掲揚された半旗である。
数日前から掲げられ、
銀行が休みの土日、賑わう道路の上になびいていた。

   

今日は
あれから1年の日だった。
私は普段どおり
日曜とはいえ、早朝の出勤。
日曜は忙しい。
窓から見える通りは
活気あふれる仙台の街だった。

早朝4時ごろの出勤のため
この1年、朝刊を読む習慣がなくなった。
うちでは全国紙をとっているが
職場で
地元の新聞を見る。
あの日、亡くなった方々の名前が記載されていた。
そして
かつて
元の職場の先輩であった方の名前を発見した。
その方が亡くなったことは既に、去年のうちに聞いており
(ブログでも書いた)
信じられない思いだったが
こうして文字を見ると、本当に亡くなったのだ、と
今日この日、思う。
彼女は、たまたま友人宅に遊びに行き、そこで被災、亡くなったとのことだった。
生きること死ぬこと紙一重だった。
遺族の気持ちはどんなだろう。


私は仕事を終えてから
県庁に向かった。
まだまだ冬の気候である。
あの日は
午前中はそれほど寒さを感じなかったと思う。
今日は朝から
みぞれのような雨のような雪のような
初めから寒い。

県庁では
震災犠牲者のために記帳、献花が行われていた。
記帳、献花をしてきた。
多くの方々が列を作っていた。
あの時刻が近づくにつれより多くの
老若男女、ここを訪れる。
皆、哀悼の気持ちを表すために訪れる。

幸い、私たちは生き延びた。
現実には
生き延びたあとの困難がふりかかっているが
生きなくちゃならない。
生きなくちゃならない。
そう思って帰宅。

家にて
あの時刻、追悼。

テレビでは
津波の様子が流れるが
1年経っても
津波の場面は直視できない。
テレビを消してしまう。

95年に
大きな事件があった。
阪神淡路大震災、
地下鉄サリン事件。
それらを忘れないためにも
各新聞社等で発行された「特集」の冊子を
何冊も買い、保存してある。
今回の震災についても
たくさんの本が出ている。
当然、保存しておきたい自分なのだが
未だに
買うことができない。
それを開くことができないような気がする。
もう少し気持ちが落ち着いたら
手元に残しておきたいと思う。

あの日の
今の時刻
街全体が真っ暗な闇になり
夜空は
無数の星が散りばめられていた。
星空が美しいということと悲しいということと。
いろんな思いが交錯した夜。
しかし、それも生ぬるい気持ちだったとは。
被災した人たちはあの夜、どんな思いで過ごしたのかと
考えると
美しいなんて言葉は不謹慎だった。
だが、あの夜の今の時刻
私たちは
情報が全く入ってこず、まさか
津波で多くの方々が亡くなっていたなんて思いもしなかった。
地震の大きな揺れだけが印象に残っていて
まさかあんな事態になっていたなんて
この時刻、想像もできなかった。



コメント
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