今までに出会った人たち、訪れた場所、印象的だった時間や風景、幼い日の感情…。「記憶」という名の宝石箱から紡ぎだされ、集積された、36篇の短い文章。繊細な五感と、幼子のようにみずみずしい感性が、眩しく、切ない。イギリスの桂冠詩人、アルフレッド・テニスンの同名の詩よりタイトルを採った、著者にとってはじめての、そして“30歳記念”のエッセイ集。
「書く」というより、「少しずつ冷凍する」という方がしっくりする作業とあとがきに記されているように、江國さんのきらめきが閉じこめられているシャーベットを1つまた1つ口に放り込んで味わう感じです。
安っぽい色の飴の色…安っぽい色の物だけが持つ儚さが好きだ。飴だけじゃなく、兵児帯の色合いはとても哀しい、浅はかなピンクや黄緑が、水に溶けるみたいにぼかしこまれていく。さわった感じも心もとなく、ふあふわとどっちつかずの曖昧な余白、まだ決心をつけられないその隙間を、いいよそのままでいいよと許してくれる帯という気がする。
カルピスとワンピース…人を無防備にさせてしまうものの1つに、水玉模様があると思う。どうしてだかわからないが、つい気を許してしまうのだ。なんとなく懐かしく、なんとなく憎めない。お弁当の卵焼きみたいに。
母が作った水玉模様のワンピース…カルピスの水玉模様と茶色のびん
雨に濡れた物の色が、冴え冴えとして、ドキドキする。輪郭を鮮やかにぼかし、匂い立つような色っぽさ。
バラは、花瓶より庭に似合う花だと思う。沢山の花びらを無防備に開き、しゃわしゃわした花心を露わにして、高貴と言うよりのんびりした風情の娘の表情だ。
夏の緑は気持ちがいい。しゃきっとして、背筋が伸びるような気がする。お皿の上のパセリみたいな、街の緑は心楽しい。「大丈夫外はこんなに綺麗なのだから」「現実をうけいれよう」という気持ちになる。
空港に行くとホッとする、自分のいる場所がはっきり確認できる、世界地図の中の1点。いつでも出て行ける、でも、今はここにいるという事実。
子供が階段を好きなのは、「一人になれる」感じのせいだと思う。階段に腰掛けてゆっくり思い出してみるに、子供は、孤独を、それはそれは愛しているのだ。
海の中では、みんな子供になってしまうのだ。無防備で無力、何の経験も無いちっぽけな生物。
音楽はどうしてあんなにまっすぐ届くのだろう。見えない手で魂をぎゅっとつかまれるみたいな感じ。言葉の持つ力(イメージの喚起力、時間も空間も支配されない生命力)を信じているが即効性という点で、言葉は音楽にかなわない。
旅先の朝。一人は限りなく無に近い。無に近いので、歩きながら肉体を忘れてしまう。ただの「目」「皮膚感覚」「気持ち」になって知らない土地を歩けるたまらなく好きなのだ。
お茶の時間が好きだ。お茶を入れるとそれだけで、仕事中でも何でもそこにぽっかり空白が出来る。その空白は「どこでもない場所NEVERLAND」居心地のいい無重力地帯だ。
アメリカの冬。歩きながら不思議な気持ち。宇宙の中にぽつんと一人で存在しているような気持ち。私は誰で、ここはどこで、何をしているうだろう。夜は果てしなくひろがっていて、なくすものなんて何にもない。孤独はうっとりするほど気持ち良い。歌いながら歩いたりもした。
風をきる、というのが快感なのだ。風をきり、目をつぶって耳をすます。風がおでこ、鼻に触れ、まぶたやほっぺたや唇を流れて、耳や首や髪の毛に絡まる。魚が水を柔らかくくぐって泳ぐみたいに、私は風邪をくぐってブランコにのった。
風には色がある。茫漠とか香料とか寂々そういう言葉のふさわしい色、広くてとらえどころがなくて、寒くて自由な色。そよ風じゃなく、耳元でぼうぼうと鳴る強い風が好きなのだ。
同年代の私は、江國さんのみずみずしい感性と一緒に幼い頃のワンピース、庭の薔薇の花を思い出し、その言葉の力に、自然と溶け込んでしまう感覚を覚えます。
でも、これを30歳の時にさらっと書く江國さんは、すごいなあ~。
紅茶が好き・・・・雨が好き・・・
なんとなく しん・・・とした感じの江國ワールドに
ぞっこんでした・・・・
あんまり 最近はなぜか江國さんの小説 読めないんだけれど
ホントすごい人だよね
言葉の魅力。宝石箱って感じ