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日航123便墜落事件 36回目の夏

2021年08月13日 | 未分類
 1985年8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が群馬県多野郡上野村の山中ヘ墜落した。
 乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人。2021年現在も、歴史上最大の航空機事故である。

 1987年6月19日、運輸省航空事故調査委員会は事故調査報告書を公表。1978年6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切修理による破損が事故原因と公表した。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

 ところが、もしそうならボーイング社は、機体賠償、事故始末費用、一人1億円の損害賠償と考えても、総額2000億円近い賠償費用を支払わなければならないにもかかわらず、そうした賠償が行われたとの具体的情報、報道が存在しない。
 極めて些細な統合的情報である上のウィキ記述にも、賠償の項目がないのだ。
 ボーイング社は賠償をしていないのか? 
 https://jp.reuters.com/article/boeing-insurers-idJPKBN1QT0JS

 以下は、123便事故の後始末に関する国会質疑だ。85%の乗客に賠償が行われたと語っているが、賠償に関係する報道が、どこにも出てこない。
 https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/116/syuh/s116002.htm

 この事故については、ありえないような不審な情報と、政府による明らかな隠蔽工作が確認されていて、事故の真実が明らかにされないまま時間だけが経過し、人々の記憶も風化してしまっている。
 私も、この事故を風化させないため、毎年、ブログを書き続けている。だが反応は鈍い。

 【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
 https://www.youtube.com/watch?v=we4u3DFFlAk&ab_channel=sorairo

 第76回:日航123便はなぜ墜落したのか(森永卓郎)2017年8月30日
 https://maga9.jp/morinaga170830/

 ニュース番組にかかわるようになって20年以上、私の心のなかには、もやもやした疑問がずっとつきまとってきた。それは日本航空123便の墜落原因だ。1985年8月12日18時12分に、大阪に向けて羽田空港を飛び立った日航123便は、同日18時56分に御巣鷹の尾根に墜落した。乗客乗員524人中、520人が死亡するという、一機では、世界最大の航空機事故となった。

 事故の原因は、その後の運輸省の調査で、機体後部の圧力隔壁が破損し、そのときの圧力で尾翼の一部が吹き飛んで、油圧装置も破壊され、そのことで機体のコントロールが不可能になったことだとされた。機体は、過去に伊丹空港で尻もち事故を起こしており、そのときに破損した圧力隔壁をボーイング社が修理した際、十分な強度を持たない方法で行ったため、それが破損につながったとされたのだ。いまでも、この公式見解は一切変更されていない。

 しかし、この事故原因に関しては、当初から様々な疑念が呈されてきた。例えば、圧力隔壁が破損すれば、急減圧で機内に濃い霧が発生する。それは、過去の機体破損の事故で共通して起きている。
 しかし、123便では、薄い霧は発生しているものの、機内が見通せなくなるほどの霧は、発生していないのだ。そしてこの事故で最大の疑問は、墜落現場の特定が大幅に遅れたことだ。

 墜落時間は、8月12日の18時56分だが、地元の消防団員が生存者の落合由美さんを発見したのは、翌日午前10時54分だった。自衛隊が現場を特定したのも、公式には翌朝になってからということになっている。すぐに救出に向かえば、多くの人命が救えたにもかかわらず、現場の特定が大幅に遅れたのだ。

 しかし、内陸部に墜落したのだから、機体は直前まで、確実にレーダーで捉えられていたはずだし、近隣住民も火の手が上がるのを目撃している。当時、地元の自治体からは県や国に通報もなされているのだが、なぜか墜落現場は、現場とは無関係の長野県とされるなど、翌朝まで報道が二転三転し、特定されなかったのだ。

 もっと不思議なことは、米軍が墜落直後に横田基地から輸送機を現場に飛ばし、上空から山が炎上するのを確認し、自衛隊に通報するとともに、米軍輸送機の誘導で厚木基地を飛び立った米軍の救難ヘリが現場に到着しているのだ。
 だが、救援ヘリは、救助開始寸前に作戦中止を命じられ、何もせずに引き返している。つまり米軍は最初から墜落現場を完全に特定していたにもかかわらず、何故か日本政府には伝わっていないことになっているのだ。

 なぜこんな話を書いているのかというと、今年7月に青山透子氏が『日本航空123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社)という本を出版したからだ。青山氏は当時日本航空で働いていた客室乗務員で、事故機には彼女が一緒に仕事をしていた同僚たちが乗り込んでいたこともあって、事故の真相を探ろうと、あらゆる文献を収集整理し、目撃者証言を集めて、いわば人生をかけた調査に取り組んできた。
 そして、書籍のなかで、重大な事実を指摘したのだ。

 予め断っておくと、123便の墜落事故に関しては、これまでもあらゆる陰謀説が唱えられてきた。しかし、青山氏の今回の指摘は、そうした根拠不明の陰謀説とは一線を画すものだ。
 青山氏は、東京大学の大学院を出て、博士の学位も取っている。東大を出ているから正しいというのではない。博士論文は厳密な審査が行われる。そのため論文には明確な根拠が求められる。憶測で書くことは許されないのだ。その論文作成の姿勢は、この本でも貫徹されている。証拠となる文献、そして実名での証言を集めて、青山氏は厳密な論証を行っているのだ。

 この本のなかでまず注目すべきことは、墜落直前の123便を2機の自衛隊のファントム機が追尾していたという複数の目撃証言だ。この証言のなかには、当時の小学生が事故の状況を綴った文集のなかでの証言も含まれている。子どもたちがうそをつくはずがない。しかし、この証言を前提にすれば、日本政府は、当初から墜落現場を完全に把握していたことになる。

 それでは、公式に機体を発見したとされる翌朝まで、自衛隊は一体何をしていたのだろうか。本書に掲載された証言によると、現場にはガソリンとタールをまぜたような強い異臭がしていたそうだ。また、現場の遺体は、通常の事故では、あり得ないほど完全に炭化していたという。自衛隊を含む軍隊が使う火炎発射機は、ガソリンとタールを混合したゲル状燃料を使用している。つまり、墜落から翌朝までの間に、何者が証拠隠滅のために強力な燃料で焼き尽くしたのではないかということだ。

 消すべき証拠とは何か。青山氏の著書によると、123便から窓の外を撮った写真を解析すると、オレンジ色の物体が飛行機に向かって飛んできているという。それは地上からも目撃されている。
 青山氏は、次のような可能性を提示している。自衛隊の訓練用ミサイルなどの飛行体は、オレンジ色で塗られていた。何らかの理由で、その飛行体が123便の尾翼を破壊したため、123便は制御不能に陥ったのだ。

 もしこの推測が正しいとすると、日本政府としては、とても受け入れられる事故原因ではなかっただろう。というのも、事故当時、私は経済企画庁総合計画局で働いていたのだが、国会では、防衛費がGNP比1%以内に収まるのかどうかが、連日、議論の的となっていたからだ。総合計画局の産業班は、「防衛班」と呼ばれるほど、1%問題の国会答弁作成に追われていた。
 当時は、野党が防衛費の膨張を強く非難し、国民の自衛隊に対する感情も、いまほど理解あるものではなかったのだ。そうした環境のなかで、自衛隊の不祥事は許されない状況だった。

 しかし事件から30年以上経過したのだから、政府は国民に真相を明かすべきだ。それは、森友学園や加計学園よりも、はるかに重要な問題だと私は思う。なぜなら、この事件のあと、日本は以前にもまして対米全面服従になったからだ。
 事故の翌月には、ニューヨークのプラザホテルで「プラザ合意」が結ばれ、協調介入によって極端な円高がもたらされ、日本は円高不況に突入した。日本の安定成長が失われた大きなきっかけとなったのだ。

 それだけではない。1993年には宮澤総理とクリントン大統領の間で年次改革要望書の枠組みが決められ、それ以降、日本の経済政策はすべてアメリカの思惑通りに行われるようになった。事故の原因を作ったとされるボーイング社は、もしこれが事件だとすると、罪をかぶった形になったのだが、その後、着々と日本でのシェアを高め、いまや中型機以上では、ほぼ独占状態といってもよい状況を作り上げている。

 123便の事故に関しては、これまで、何度も事故原因の再調査が政府に申し入れられたが、日本政府や日本航空はまったく動く気配がない。しかし、2年前、私の心に希望の光が差し込んできた。あるニュースが飛び込んできたからだ。そのときに保存していたニュースを再掲する。

 123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年
テレビ朝日系(ANN) 2015年8月12日(水)11時47分配信

 乗客乗員520人が犠牲となった日本航空機の墜落事故から12日で30年です。墜落した123便は羽田空港を離陸した後、相模湾の上空で圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼など吹き飛んだ機体の多くは海に沈み、今も見つかっていません。ANNは情報公開請求で得た資料などから、残骸が沈んでいるとされる相模湾の海底を調査し、123便の部品の可能性がある物体を発見しました。

 先月29日、静岡県東伊豆町の沖合約2.5km、123便の推定飛行ルートの真下にあたる水深160mの海底で撮影された映像です。右側のパネル状の部分は四角形に見え、側面にある黒い部分には数字などが書かれています。
 カメラとの距離などから調査にあたった専門家は、1.5mから2mほどの大きさではないかとしています。当時、事故調査委員会のメンバーとして墜落の原因を調べた斉藤孝一さんは「この映像だけでは分からない」としたうえで、123便の残骸である可能性を指摘しました。

 当時の事故調査官・斉藤孝一さん:「仮に航空機の部品だとすると、『APU』のまわりに取り付いている『コントロールボックス』といわれてるようなもの」
 APUは機体後部にある補助エンジンで、客室に空気を送ったり電気を付けたりする役割があります。斉藤さんは圧力隔壁の破壊という事故原因は変わらないとしたうえで、残骸が見つかれば事故の状況がより詳細に分かる可能性があるとしています。

 123便を巡っては、相模湾上空でのトラブルの際に機体から落ちた垂直尾翼の大半やAPUを含む機体後部の部品が見つからないまま、事故から1年10カ月後に調査が終了しています。国の運輸安全委員会はこの映像を見たうえで、「当委員会としてのコメントは差し控えさせて頂きます」としています。

 相模湾の海深く沈んでいると言われてきた翼も、この近辺の浅い海に沈んでいる可能性が高いのだ。尾翼が見つかれば、事故原因がはっきりする。もしも、訓練用のミサイルが尾翼を直撃したのであれば、尾翼の残骸にオレンジ色の塗料が付着していると考えられるからだ。
 ところが、日本政府や日本航空は残骸の引き上げに動こうとしない。それどころか、これだけ重大なニュースであるにもかかわらず、テレビ朝日も、その他のメディアも一切続報を出さないのだ。

 日米関係がいったい何に立脚しているのか。本当のことを追及していかなければならない。それが、私を含めたメディアで働く人間の義務だろう。
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 引用以上

 日航123便墜落の暗黒に差し込んだ光 2018年05月08
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-339.html

 日航123便、墜落原因の続報 森永卓郎・青山透子・ベンゼン環 2018年08月14日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-445.html

 私のブログでも紹介したが、最大の問題は、青山透子氏が、墜落現場で集めた証拠から、航空燃料には含まれない「ベンゼン環」が検出されたことだ。
 これは、火炎放射器などに使われる軍用燃料に存在するもので、「焼け跡でガソリンやタールの燃える臭いを感じた」との証言を裏付ける。

 墜落現場に秘密裏に到着した自衛隊特殊部隊が、生き残った人々や、証拠になるカメラなどを火炎放射器を使って焼き尽くしたことをうかがわせる。
 中曽根康弘を首班とする日本政府は、墜落現場における証拠物件を完全に焼き尽くせとう指令を出した可能性が強い。
 また彼らは、現場に徒歩で到着した第二陣を銃撃したとNHKが報道した。(誤報として処理された))
 https://okwave.jp/qa/q9416237.html

 『日航123便墜落の新事実:目撃証言から真相に迫る』青山透子
 https://web.kawade.co.jp/bungei/1478/

 思い出してほしい、あの日の夜を……。
 暗い夜空を眺めてほしい、そこに何が見えるのか……。そして未来のためにともに考えてほしい。今から三十二年前の八月十二日に何が起きたのかを。
群馬県多野郡上野村―。

 あの夜は、山々の稜線が漆黒の夜空に隠れ、ペルセウス座流星群の星たちが次々と流れては消えて、まるで死者の魂が飛び交うようであった。

 ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭にぶつかり、体が宙に投げ出された。左目は砂にまみれて目が飛び出したように痛い。口は乾き、砂でいっぱいだ。シートベルトが体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。
「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまでの身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。

 「ああ、墜落したのだ。大変な事故を起こしたのだ」
周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。
 「おかあさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こえてくる。
すると、闇の中からヘリコプターの音が近づいてきた。夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく揺らしながらゴーゴー、バババーとホバリングを始めた。辺り一面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。

 「ああ、私は生きている、これで助かる」
全身の痛みをこらえ、かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。
「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。
「助けて」「帰っちゃいや」「誰か来て」
 そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。

 一九八五年八月十二日(月)。日航ジャンボ機123便(ボーイング747、登録機体番号JA8119)が、東京羽田空港を離陸して、大阪伊丹空港へ向かう途中、突発的非常事態に陥り、「群馬県上野村の御巣鷹の尾根」と後に命名された高天原山系無名の地に墜落した。

 前述は、乗客乗員五百二十四名のうち、四名の生存者の一人、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美さん(二十六歳)が発表した「落合証言」に基づく記述である。
 当時、墜落後に遺体を検死した医師によると、落合さんが救出された場所の周辺には、つい先ほどまで生きていた痕跡のある生温かい遺体があり、早急に救助がなされていれば命が助かっていたのではないだろうかと思われる遺体が百体ぐらいはあった、ということであった。

 墜落現場が不明のまま夜が明け、翌日の十三日、落合さんは地元の消防団員によって十時五十四分に発見されたが、それから灼熱の夏山の山頂で放置状態となった。
 生存者発見の通知をうけた日赤の医師二名と看護婦二名は、警視庁のヘリコプターで十二時十三分に現場上空に到着し、救命用綱で降下した。医師と看護婦による応急処置をしたのだが、その後まったく救護のヘリが来なかった。

 山頂で生存者を見守る地元の消防団からも、「せっかく救助したのだから早く搬送してくれ、自衛隊のヘリに連絡してくれ」という声が次々上がる。医師も声を荒げながら「物資や自衛隊員の降下よりも、救助された生存者を搬送することを優先させてくれ」とその場にいた自衛隊員に詰め寄り、直接交渉をした。

 やっと救護用ヘリが到着し、十三時五分にようやく生存者のヘリへの収容が始まり、子どもから先にヘリコプターで機体に吊り上げられた。落合さんは最後に担架ごとクルクルと回転しながら十三時二十八分に無事収容された。生存者四名を収容した自衛隊ヘリのパイロットは十五分で到着するはずの上野村の本部の場所がわからないという。

 そこで医師が必死に地図や地上の風景を見ながら場所を指示し、十三時五十分にようやく到着した。結局、「生存者発見から猛暑の炎天下で三時間以上もかかってしまった」と述べていたのは、四名を救出した前橋赤十字病院外科部長の饗場庄一医師である。
 さらに上野村役場から救急車で二時間近くも揺れるのは大変危険だと判断をした饗場医師は、子ども二名を再度別のヘリに乗せた。

 最終的に生存者四名が藤岡の多野病院に着いたのは十四時二十分と記録されている。 前日の十八時五十六分二十八秒に墜落してから、すでに二十時間が経過していた。なお、生存者は川上慶子さん(十二歳)、吉崎美紀子さん(八歳)、吉崎博子さん(三十五歳)、落合由美さん(二十六歳)の四名である。

 当時、スチュワーデスと呼ばれていた客室乗務員だった私は、日本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでおり、生存者の一人、落合由美さんと同じフロアに部屋があった。私の同期と落合さんが同じグループで親しかったこともあって、仲間と部屋で開く鍋パーティーにひょっこり顔を出してくれたこともあった。陽気でカラカラと明るい声で笑う親しみやすい先輩であった。

 一九八五年八月十二日のこの日、私は明日からのヨーロッパフライトに備えて寮の食堂で夕食を取っていた。食堂のテレビでは、NHKの七時のニュースが流れていたが、突然、緊急放送が入った。
 日航羽田発大阪行きの飛行機が行方不明という報道であった。その時、食事をしていた全員の箸が一斉に止まった。私も背筋がひやっとしたのを覚えている。そのままテレビを見つめていた直後、スカイハウスのすべての部屋にひかれていた三百三十六台のダイヤル式黒電話のベルの音が一斉に響き渡った。それぞれの家族や友人、知人たちが心配して電話をかけてきたのである。

 ジリリリリーン、ジリリリリーン……。
怒りにも聞こえるものすごい音で、外を歩く人々が建物を見上げるほどであった。一晩中電話が鳴り止まない部屋は、落合さんの部屋であった。そして事故機に乗っていた客室乗務員は、私が新人時代に仕事を教えてもらった同じグループの先輩たちだった。
 
 二十五年経った二〇一〇年四月、私は、乗客を励ましながら最後までプロとして行動をした先輩方のこと、当時の新聞報道や資料を読み込むうちに湧き出てきた事故原因への疑問をまとめて『天空の星たちへ―日航123便あの日の記憶』(マガジンランド)を出版した。

 圧力隔壁修理ミスが事故原因だと公式発表されているが、現場でこの事故に関わった人たちの中には、腑に落ちない出来事が多数あり、それが今なお心の奥底に大きな疑問となって渦巻いていることにも気付かされた。
 事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえって再調査への道を妨げていることもある。

 私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。しかしながら、現場を知る人たちへのインタビューや膨大な新聞等の資料を読み込み、目撃情報や現場の証言をもとに考察を深めると、公式発表に対して違和感を覚えるようになっていった。そして、それを語るとすぐに陰謀説と烙印を押されかねない状況を感じた。

 もっとも、一般の人々には圧力隔壁修理ミス説が事故原因という報道しか届いていないこともあってしかたがないが、三十二年前の事故時の情報や状況にいまだに疑問を持ち続けている人たちがいることを知った以上、私の果たすべき役割はなにかを考えてきた。

 逆に事実を一つずつ積み重ねていけば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。そう思い、墜落現場となった上野村へ行き、当時の村長や消防団の方から話を聞いた。
当時の上野村の村長・黒澤丈夫氏には、取材時にあの日の記憶を語っていただいたが、十二日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり、村民にも村内放送をして情報提供を呼び掛けていたという。

 上野村に落ちたと政府関係者や県に連絡してもまったくテレビに反映されず、長野県やら小倉山やら偽の情報が流れていたことに怒っておられた。
 また、川上慶子さんら生存者を最初に発見して救出した地元消防団の方や、歯型から遺体の身元を確定して検死を行った群馬県警察医の大國勉氏にもお会いして、たくさんの資料を見せていただき、話を聞かせていただいた。大國氏も遺体の状況に大きな疑問をお持ちだった。このように詳細に調べていくと、ますます事故調査委員会発表の事故原因は違うのかもしれないと大きな疑念を抱いた。

 ちょうどその頃、日本航空が経営破たんし、負債総額二兆三千二百二十一億円というとてつもない金額で、会社更生法を申請したのである。
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 引用以上 著書の序文なので、全編は掲載できない。

 上の引用では、政府が上野村からの墜落通報を無視した事実が明らかにされているが、本当は無視したのではなく、証拠隠滅のための自衛隊特殊部隊を急行させ、他の救援部隊が現場に到着することを徹底的に妨害したのだ。
 特殊部隊の任務は、現場の生存者を殺し尽くすこと、カメラや録音機など証拠物件を焼き尽くすことであった。

 こんなことを指令できるのは、当時の首相である中曽根康弘しかいない。彼は日航123便の秘密を墓場まで持って行くと語り、何一つ語らないまま墓場に入った。
 https://rapt-neo.com/?p=28575

 生存者を殺害してまで隠蔽し、守らなければならなかった秘密とは何なのか?

 森永氏は、事件後に結ばれた不可解なプラザ合意を挙げている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E5%90%88%E6%84%8F

 日の出の勢いにあった日本経済に、壊滅的打撃を与えた円高ドル安をもたらしたプラザ合意は、その後、現在に至るまで35年以上にわたって、日本経済を沈没させる歴史的な役割を果たした、安政のペリー条約に匹敵するほどの不平等不可解合意であった。
 この事件が大きな意味を持っているのではないか? との指摘は多い。
 http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/core/memodata/1500/m1534.htm

 https://jp.quora.com/%E5%BE%A1%E5%B7%A3%E9%B7%B9%E5%B1%B1%E3%81%AB%E5%A2%9C%E8%90%BD%E3%81%97%E3%81%9FJAL%E6%A9%9F%E3%81%AF-%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E5%90%88%E6%84%8F%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%99%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E3%81%8C

 1985年9月22日、今こそプラザ合意を問う   青山透子
 https://tenku123.hateblo.jp/entry/2020/09/22/153245

 不可解な謎を秘めたまま、昨日、墜落から36回目の記念日を迎えた日航123便事件。
 この事件は、関係者も大半が死亡し、深い霧に包まれたまま風化してゆく一方だが、私は、可能な限り、毎年、これについて触れてゆきたい。