我々が、幼いころから、競争主義による洗脳を受け続けてきたことは繰り返し書いている。
すなわち、幼稚園の時代から、お絵かき、かけっこなど、あらゆるカリキュラムが、差別選別の思想の上に築かれていて、子供たちに序列とコンプレックスを洗脳するものだった。
幼い脳にすり込まれた競争主義・差別主義は、もはや人生の血肉と化し、大人になっても序列の色眼鏡をかけなければ人を見ることさえできなくなっている。
多くの人が、初めて対面する人を見るとき、「この人の序列は自分より上か下か?」と探るのだ。
99%の人々が、何かを求める基準として、「自分に本当に必要なもの」と考えるよりも、「よりよいもの、より優れたもの」という序列の優劣を基準に考えるのだ。
そもそも、資本主義の商品は、そうした呪われた洗脳を金儲けのダシに使っている。「必要なものでなく、より序列の上位を買わせる」ことで儲けるわけだ。
それは、家や車、家具という物質的なライフスタイルを彩るものだけでなく、友人や結婚相手の選別基準にもなっている。もちろん学歴のような、自分につけられたラベルも同じだ。
そこには、「今の自分に本当に必要なもの」という視点=選択肢ではなく、「序列を満足させるもの」という選別基準が優先することにより、例えば、友人や妻を得るときに、「自分に本当に必要ではない妻や友人」を選んでしまうミスチョイスが繰り返されることで、離婚や犯罪といった人生の不幸を生み出してゆく結果になる。
「序列」というのは、孔子儒教の核心にある思想で、人々に優劣順位をつける思想であり、人々を教育洗脳することで、最上位に権力者を置いて、その無条件の崇拝と社会体制の安定を作りだそうとするものだった。
だから、東洋史における権力史では、どんなときでも儒教思想が根底に流れている。
例えば、儒教思想のもっとも極端に増幅された結末といわれる、朝鮮半島では、日常生活の深部にまで差別選別思想が浸透し、人に序列をつけることが社会体制の基本になっている。
朝鮮半島では、序列のもっとも大元に、男による女性蔑視があって、「女は男のために子を産む道具にすぎない」という強烈な差別意識がある。そして、それが次々に差別の転化増幅を生み出し北朝鮮では、人々に51階級の序列をつけるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E8%BA%AB%E6%88%90%E5%88%86
韓国でも李氏時代の4階級の上に、現在でも7階級の序列が厳然として存在しているといわれる。だから、韓国人の人生観は少しでも序列の階段の上位にゆくために、学歴に奔走したり、化粧したり、整形手術したり、より大きな車に乗ったりして「自分を他人より上だ」と見せかけるための努力=脅迫観念に染め上げられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BA%AB%E5%88%86%E5%88%B6%E5%BA%A6
日本ではどうかというと、社会全体の根底に、強固な序列差別の価値観がカビのように覆い尽くしているのは、韓国とさほど変わらない。
「どっちが上か?」と優劣を競うことが大好きな人生観の者たちが日本社会を生み出しているといっていい。
その指標として学歴差別社会を生み出している。日本は出身校のラベルだけで、生涯を束縛するような選別価値観が働いている社会だ。
日本人は、このことを正当化するために、「競争主義」の肯定的側面として、「競争による発展、進化」を上げる人が多いのだが、「発展・進化」を絶対的な正義の価値観と信じ込んでしまい「本当に発展・進化が正しいのか?」と疑問を持つ自由な発想がほとんど見られない。
あたかも、日清日露戦争戦勝後に行われた提灯行列で「勝利」を無条件に賛美して盛り上がり、酔いしれて高度な判断力を失った発想をそのまま引きずっているのだ。
日清日露戦争の圧倒的な戦勝こそが、第二次世界大戦の凄まじい惨禍をもたらし、日本人が500万人という死の犠牲を支払わされたことに気づく人は少なかった。
同じように、現代でも「進化・発展」を絶対視することで、そのことで犠牲になったもの、負の要素を直視できる人はほとんどいない。むしろ、進化・発展を否定すれば、社会から異端者として疎外され排除される道しか残されていない。
だが、合理的な人生にとって、本当に必要な判断の基準は決して「より優れたもの=序列の上位」ではなく、「今の自分に必要なもの」であるはずだ。
学歴など、実績に比べれば軽薄で愚かしい価値観なのだが、学歴が人間序列の基準になると勘違いしている人物は無数にいる。
例えば、静岡のlove2mac2002jp/らぶらぶMAC(Twitterアカウント) と称する愚か者は、私を「中卒野郎」と嘲笑する手紙や葉書を十通以上、私に送りつけてきただけでなく、私を誹謗中傷するための根も葉もない虚偽の情報をブログにして、繰り返し上程している。その根底に学歴差別信仰がある。
富士宮市の多摩美大卒を自称しているが全部ウソだ。本当は静岡市の無学歴障害者なのだが、自分が差別される立場でありながら、「中卒野郎」と人を差別したがるののは、どんな洗脳を受けてきたのだろう?
日本でもアメリカでもドイツでも、「優秀なものを求める」という発想チョイスは、必ずファッシズムに結びついてきた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1587.html
「優秀なものを選ぶ」ということは「優秀でないものを排除する」ことを意味している。上のリンクにあるように、「優れたものばかり求める強迫観念」に洗脳されきったドイツでは、障害者が国家発展の邪魔者であり、足を引っ張っていると思い込むようになり、40万人もの障害者をガス室に送り込んで処刑した。
この結果、何が起きたか?
それは、障害者、弱者、老人たち、底辺の人々が支えてきた社会の基礎を破壊しドイツ社会は、恐ろしい倒錯を起こした。
社会的弱者は、弱者だけができる社会の礎、潤滑油を持っている。
それは、例えば、人間に心優しさを与えてくれる。コンプレックスに苛まれて暴走しようとしている若者を引き留めてくれる。「自分よりも不幸な人がいる」という現実認識を与えてくれる。人々の優しさを結びつける接着剤になってくれる。
障害者、弱者だけが支えてゆける社会秩序が存在するのだ。障害者40万人を殺戮したドイツ社会は、その後「弱者排除」の論理が暴走し、社会全体が残酷・冷酷に彩られ、人情を失い、そしてユダヤ人600万人の殺戮へと進み、人々は、この世に、優しさに満ちた安住の地を失った。社会の暴走を止める者は、誰もいなくなった。
いわば血の池、針山地獄の住民へと堕とされたのだ。
このことを教訓にできるなら、我々の社会には、バランス良く弱者と強者が共存できなければ、強者の暴走が止まらなくなり、やがて社会全体が、レミングの群れのように断崖絶壁から集団自殺する運命が待っていると気づくはずだ。
社会の住みやすさ、優しさ、安心感を支えてくれているのは、実は社会的弱者だったのだ。
社会的強者に憧れ、それを前提にした社会を作るなら、ほとんどの人々が、差別社会での奴隷の地位に転落させられてしまう。
序列の上位を求めて、自分の一生を金儲け思想の奴隷として過ごさねばならなくなり、序列の高い人生、高級車や豪邸、美人妻と引き換えに、他人に対する優しさと連帯感を見失ってゆく。
他人を蹴落とし、見下して勝者であることに陶酔する序列の価値観に、大自然の美しさを堪能する心のゆとりが生まれるだろうか?
人を見下すことしかできない人生に、本当の愛の喜びがあるだろうか?
彼らは、人として生まれて、競争に勝つことしか知らず、死ぬまで他人と敵対し、誰からも敬遠されて、人の心の温かさを理解できない寂しい、つまらない人生を送ることしか許されていない。
我々は、「社会の邪魔者」として障害者40万人をガス室に送り込んだ、ドイツ人の例から学ばなければならない。
堀江貴文や、孫正義の人生観を見て、彼らが日本社会に何をもたらしているのか見抜かなければならない。
我々は、限られた人物に富を集中させて、弱者の運命を翻弄するような社会を許してはならない。
序列や優越感の奴隷としての人生を捨てて、人を愛せる「真の自由人」に向かって生きてゆくべきではないだろうか?
すなわち、幼稚園の時代から、お絵かき、かけっこなど、あらゆるカリキュラムが、差別選別の思想の上に築かれていて、子供たちに序列とコンプレックスを洗脳するものだった。
幼い脳にすり込まれた競争主義・差別主義は、もはや人生の血肉と化し、大人になっても序列の色眼鏡をかけなければ人を見ることさえできなくなっている。
多くの人が、初めて対面する人を見るとき、「この人の序列は自分より上か下か?」と探るのだ。
99%の人々が、何かを求める基準として、「自分に本当に必要なもの」と考えるよりも、「よりよいもの、より優れたもの」という序列の優劣を基準に考えるのだ。
そもそも、資本主義の商品は、そうした呪われた洗脳を金儲けのダシに使っている。「必要なものでなく、より序列の上位を買わせる」ことで儲けるわけだ。
それは、家や車、家具という物質的なライフスタイルを彩るものだけでなく、友人や結婚相手の選別基準にもなっている。もちろん学歴のような、自分につけられたラベルも同じだ。
そこには、「今の自分に本当に必要なもの」という視点=選択肢ではなく、「序列を満足させるもの」という選別基準が優先することにより、例えば、友人や妻を得るときに、「自分に本当に必要ではない妻や友人」を選んでしまうミスチョイスが繰り返されることで、離婚や犯罪といった人生の不幸を生み出してゆく結果になる。
「序列」というのは、孔子儒教の核心にある思想で、人々に優劣順位をつける思想であり、人々を教育洗脳することで、最上位に権力者を置いて、その無条件の崇拝と社会体制の安定を作りだそうとするものだった。
だから、東洋史における権力史では、どんなときでも儒教思想が根底に流れている。
例えば、儒教思想のもっとも極端に増幅された結末といわれる、朝鮮半島では、日常生活の深部にまで差別選別思想が浸透し、人に序列をつけることが社会体制の基本になっている。
朝鮮半島では、序列のもっとも大元に、男による女性蔑視があって、「女は男のために子を産む道具にすぎない」という強烈な差別意識がある。そして、それが次々に差別の転化増幅を生み出し北朝鮮では、人々に51階級の序列をつけるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E8%BA%AB%E6%88%90%E5%88%86
韓国でも李氏時代の4階級の上に、現在でも7階級の序列が厳然として存在しているといわれる。だから、韓国人の人生観は少しでも序列の階段の上位にゆくために、学歴に奔走したり、化粧したり、整形手術したり、より大きな車に乗ったりして「自分を他人より上だ」と見せかけるための努力=脅迫観念に染め上げられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BA%AB%E5%88%86%E5%88%B6%E5%BA%A6
日本ではどうかというと、社会全体の根底に、強固な序列差別の価値観がカビのように覆い尽くしているのは、韓国とさほど変わらない。
「どっちが上か?」と優劣を競うことが大好きな人生観の者たちが日本社会を生み出しているといっていい。
その指標として学歴差別社会を生み出している。日本は出身校のラベルだけで、生涯を束縛するような選別価値観が働いている社会だ。
日本人は、このことを正当化するために、「競争主義」の肯定的側面として、「競争による発展、進化」を上げる人が多いのだが、「発展・進化」を絶対的な正義の価値観と信じ込んでしまい「本当に発展・進化が正しいのか?」と疑問を持つ自由な発想がほとんど見られない。
あたかも、日清日露戦争戦勝後に行われた提灯行列で「勝利」を無条件に賛美して盛り上がり、酔いしれて高度な判断力を失った発想をそのまま引きずっているのだ。
日清日露戦争の圧倒的な戦勝こそが、第二次世界大戦の凄まじい惨禍をもたらし、日本人が500万人という死の犠牲を支払わされたことに気づく人は少なかった。
同じように、現代でも「進化・発展」を絶対視することで、そのことで犠牲になったもの、負の要素を直視できる人はほとんどいない。むしろ、進化・発展を否定すれば、社会から異端者として疎外され排除される道しか残されていない。
だが、合理的な人生にとって、本当に必要な判断の基準は決して「より優れたもの=序列の上位」ではなく、「今の自分に必要なもの」であるはずだ。
学歴など、実績に比べれば軽薄で愚かしい価値観なのだが、学歴が人間序列の基準になると勘違いしている人物は無数にいる。
例えば、静岡のlove2mac2002jp/らぶらぶMAC(Twitterアカウント) と称する愚か者は、私を「中卒野郎」と嘲笑する手紙や葉書を十通以上、私に送りつけてきただけでなく、私を誹謗中傷するための根も葉もない虚偽の情報をブログにして、繰り返し上程している。その根底に学歴差別信仰がある。
富士宮市の多摩美大卒を自称しているが全部ウソだ。本当は静岡市の無学歴障害者なのだが、自分が差別される立場でありながら、「中卒野郎」と人を差別したがるののは、どんな洗脳を受けてきたのだろう?
日本でもアメリカでもドイツでも、「優秀なものを求める」という発想チョイスは、必ずファッシズムに結びついてきた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1587.html
「優秀なものを選ぶ」ということは「優秀でないものを排除する」ことを意味している。上のリンクにあるように、「優れたものばかり求める強迫観念」に洗脳されきったドイツでは、障害者が国家発展の邪魔者であり、足を引っ張っていると思い込むようになり、40万人もの障害者をガス室に送り込んで処刑した。
この結果、何が起きたか?
それは、障害者、弱者、老人たち、底辺の人々が支えてきた社会の基礎を破壊しドイツ社会は、恐ろしい倒錯を起こした。
社会的弱者は、弱者だけができる社会の礎、潤滑油を持っている。
それは、例えば、人間に心優しさを与えてくれる。コンプレックスに苛まれて暴走しようとしている若者を引き留めてくれる。「自分よりも不幸な人がいる」という現実認識を与えてくれる。人々の優しさを結びつける接着剤になってくれる。
障害者、弱者だけが支えてゆける社会秩序が存在するのだ。障害者40万人を殺戮したドイツ社会は、その後「弱者排除」の論理が暴走し、社会全体が残酷・冷酷に彩られ、人情を失い、そしてユダヤ人600万人の殺戮へと進み、人々は、この世に、優しさに満ちた安住の地を失った。社会の暴走を止める者は、誰もいなくなった。
いわば血の池、針山地獄の住民へと堕とされたのだ。
このことを教訓にできるなら、我々の社会には、バランス良く弱者と強者が共存できなければ、強者の暴走が止まらなくなり、やがて社会全体が、レミングの群れのように断崖絶壁から集団自殺する運命が待っていると気づくはずだ。
社会の住みやすさ、優しさ、安心感を支えてくれているのは、実は社会的弱者だったのだ。
社会的強者に憧れ、それを前提にした社会を作るなら、ほとんどの人々が、差別社会での奴隷の地位に転落させられてしまう。
序列の上位を求めて、自分の一生を金儲け思想の奴隷として過ごさねばならなくなり、序列の高い人生、高級車や豪邸、美人妻と引き換えに、他人に対する優しさと連帯感を見失ってゆく。
他人を蹴落とし、見下して勝者であることに陶酔する序列の価値観に、大自然の美しさを堪能する心のゆとりが生まれるだろうか?
人を見下すことしかできない人生に、本当の愛の喜びがあるだろうか?
彼らは、人として生まれて、競争に勝つことしか知らず、死ぬまで他人と敵対し、誰からも敬遠されて、人の心の温かさを理解できない寂しい、つまらない人生を送ることしか許されていない。
我々は、「社会の邪魔者」として障害者40万人をガス室に送り込んだ、ドイツ人の例から学ばなければならない。
堀江貴文や、孫正義の人生観を見て、彼らが日本社会に何をもたらしているのか見抜かなければならない。
我々は、限られた人物に富を集中させて、弱者の運命を翻弄するような社会を許してはならない。
序列や優越感の奴隷としての人生を捨てて、人を愛せる「真の自由人」に向かって生きてゆくべきではないだろうか?