核実験後に失明 「人いない地」に降る核物質 先住民が見た奇妙な出来事
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6401563
砂嵐が起き、外に干していたおむつが焼け焦げた。
豪州南部の居留地クーニバ。先住民(アボリジナルピープル)たちが奇妙な出来事を体験したのは、1953年10月のことだった。
スー・コールマン=ヘーゼルダインさん(70)は当時2歳。記憶はないが、物心ついたとき、似た出来事がその後もあったと、大人たちが話していたことを覚えている。それが、英国による核実験が原因らしいとわかったのはずっと後だ。(シドニー=小暮哲夫)
突然、立ちこめた黒い霧 直後から異変
豪州では52~57年、英国が12回の核実験をした。冷戦後の核兵器開発競争のなかで、豪政府は実験場を探していた旧宗主国の求めに応じた。自国に対する安全保障上の保護や、埋蔵ウランの輸出などの期待があったとされる。
そのうち9回は、豪南部の砂漠地帯のエミューフィールドとマラリンガで行われた。「人のいない遠隔地」という理由で選ばれたが、合わせて約3700平方キロ、奈良県ほどの大きさの一帯では数万年前から先住民たちが移動して狩猟や採集をしながら暮らし、独自の文化を育んできた。伝統信仰の場もあった。
一方、コールマンさんが生まれたクーニバは英国人らが入植する過程で、先住民を強制的に住まわせた居留地の一つだった。実験場から260~360キロも離れていたが、放射性降下物が及んだとみられている。
そこには、当局が実験場に近い地域から、理由を告げずにトラックの荷台などに乗せて退去させてきた人たちも一時期、滞在していた。だが、実験について説明はなかった。人々は空から降ってきたものが有害なようだと思ったが、何かわからなかった。
当時、先住民は選挙権がなく、国勢調査の対象ですらなかった。「私たちは無視され、虐げられていた」とコールマンさんは憤る。
人口2千人弱 「私の町はがんの首都だ」
先住民に移動の自由が各地で認められ始めた60年代、コールマンさんの家族は40キロ離れた小さな港町セドゥナに移住した。40歳のころ、甲状腺にがんができて切除した。孫娘も15歳で甲状腺がんが見つかった。
人口2千人弱のセドゥナは、4人に1人近くを先住民が占める。周囲でも様々ながんや胃腸の疾患、不妊や死産を経験するケースを見てきた。「私の町はがんの首都だ」。政府が核実験との因果関係についての調査をしたことはない。
実験が行われていたころ、白人の所有する内陸部の牧草地で働かされていた先住民たちもいた。
エミューフィールドから北東に170キロ離れたワラティンナでは53年10月、そんな先住民たちが、黒い霧のような雲が立ちこめるのを見た。その直後から目や皮膚の痛み、嘔吐(おうと)や下痢などで体調を崩した。
カリーナ・レスターさん(46)の父ヤミ・レスターさん(故人)もそこにいた。その後、視力が落ち、失明した。豪政府に核実験の被害と補償を訴える人々の先頭に立ち続け、17年に75歳で亡くなった。
「父は、子どもの私を見ることができなかった。核実験は、私の家族に計り知れない打撃を与えた」
豪政府に健康被害を個別に要求して認められ、補償を受けた先住民は、これまでにヤミさんら20人余りにすぎない。
閉鎖から数十年たって除染 帰れぬ伝統の地
英国は実験場を67年に閉鎖。豪政府は96~2000年に除染が不十分だったマラリンガで、改めて除染作業をした。汚染した表土や固形化したプルトニウムなどの飛散物を地下10~15メートルに埋めた。立ち入りが完全に許可されたのは、14年だ。
ただ、埋められたプルトニウムの半減期は2万4千年。豪政府によると人体や環境への被曝(ひばく)線量は、数百年は同じレベルが続くという。先住民たちが、伝統の地に戻って定住できる見込みはない。
米国の「核の傘」に頼る豪政府は、今年1月に発効した核兵器禁止条約に署名・批准していない。一方で豪州は、条約の実現に貢献した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)が結成された地でもある。
コールマンさんとレスターさんはICANの運動に加わり、海外でも先住民の苦しみを訴えてきた。
日本の被爆者らと交流してきた。コールマンさんは「似た経験をしてきたから、ずっと知り合いだったように感じた」と言う。「世界のヒバクシャたちがともに歩んでいくことは、とても大切だ。そうすれば、核保有国の人たちも加わるかもしれない。その団結の先に、核兵器なき世界を目指す運動の勝利がある
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引用以上
この地球上には、人々の幸せな生活が許せない人たちがいる。絶えず、自分たちが迫害されると恐れを抱き、他人に敵対し、大量殺戮兵器を増やしてゆかねば安心できない。
なぜ迫害を恐れるかといえば、自分たちが他人を迫害し、その財産や土地を奪い続け、憎悪を浴び続けてきたからだ。
そんな人々が支配している国、それがアメリカであり、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルである。
アメリカでは、欧州から移住した人々が、建国以来、1000~2000万人の先住民を虐殺し、彼らの土地、財産を奪い続け、現在に至るまで、他国を侵略し、暴力をふるい続けている。
https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2018/09/post-51.php
欧州の歴史も、タタールのくびき、十字軍、ボグロム、ナチズムホローコストと、大虐殺の歴史といってよい。
冒頭に紹介した、英国による住民の命を虫けらのように扱った豪州核実験は、そんな大虐殺と人命軽視社会の延長にある。
フランスもまた、ポリネシア・ミクロネシア地域で、先住民の土地や命を奪う核実験を繰り返した。
仏核実験、ポリネシアの「ほぼ全人口」被ばく 調査報告書 2021年3月11日
https://www.afpbb.com/articles/-/3336080
「フランスの核実験は人道に対する罪」 ポリネシアの政治家らがICCに提訴 2018年10月10日
https://www.afpbb.com/articles/-/3192695
人類史において、もっとも罪なき普通の人々を大量に、執拗に虐殺し続けたのはアメリカ合衆国だ。
もっとも有名なのは、ウイーン条約で禁止されているはずの、非戦闘員に対する無差別大虐殺としての、広島、長崎に対する原爆投下である。
アメリカ合衆国の戦争犯罪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/44640?page=3
その矛先は、自国民の被差別者にも向けられていた。
アメリカ合衆国における人体実験
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93
1945-47年、原爆開発のマンハッタン計画の一環として、プルトニウムの毒性や体への吸収率を調べるための人体実験が行われていた。
コード番号「CAL1」が付されたアルバート・スティーブンス(当時58歳)は、サンフランシスコの病院で「胃がんで余命半年」と診断され、1945年5月、本人に無断で大量のプルトニウムを注入された。
4日後、胃の3分の2と肝臓を切除する大手術を受け、患部は研究材料として持ち去られた。本人は1966年1月まで生き79歳で死亡、1975年、その遺灰は残存放射能を調べるためシカゴのアルゴンヌ国立研究所に送られた。
ニューメキシコ州の地方紙アルバカーキー・トリビューンのアイリーン・ウエルサム記者が1987年に知り、6年がかりで被験者18人のうち5人を突き止め、1993年11月に報じた。
1950年代-60年代 MKウルトラ計画
1971年8月 スタンフォード監獄実験
ロサンゼルス・タイムズは、1950年代から72年ごろまで、核戦争勃発を想定した被曝兵士の継戦能力を調べる目的で、シンシナティ大学の研究者が治療費を払えないがん患者80人余に大量の放射線を浴びせる実験を行ったと1994年に報じた。
当時、25レム(=250ミリシーベルト)以上の照射は骨髄に危険と考えられたが、一部の患者にはこの10倍も照射され、アメリカ国防総省への実験報告に「実験で8人の死期が早まった可能性がある」「200レム(=2000ミリシーベルト)までの被曝線量であれば継戦能力はかなり維持できる」と記されたという。
同紙の2007年の報道によると、Eugene Saenger博士は、1960-71年、アメリカ国防総省の予算を得て、シンシナティ大学医療センターで、90人以上の貧しい黒色アメリカ人に対し全身放射線実験を行った。彼は同意書を偽造し、本人たちに知らせないまま100ラド(1000ミリシーベルトに相当)の放射線を照射した。その結果、激痛、吐き気、鼻や耳からの出血をもたらし、8~20人がこれにより死亡した。
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引用以上
核兵器の真実 ~それは人体実験だった~ <第1部>第5福竜丸51年目の真実
https://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/special_back/20050807_010.html
広島、長崎に続く第三の被曝者は太平洋で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員たちであった。彼らは「死の灰」を浴びたのである。
1954年3月1日、マーシャル諸島を地獄絵と変えた水爆「ブラボー」。
火の玉の直径は40km、爆発の威力は15メガトン。それは、広島型原爆の約1000倍に上る20世紀最大の地球環境汚染であった。
「西から太陽がはい上がってきた」「雨に混じって白い粉が降り積もった」
水爆の放射能は、第五福竜丸乗組員やマーシャル島民を襲い、被曝の苦しみは21世紀の今も、子孫の世代に渡って続いている。
一体、なぜ彼らは被曝しなければならなかったのか?
そして、なぜ被曝という事実そのものさえ隠蔽されたのか?
あれから半世紀、情報公開されたアメリカの極秘文書や日本の外交史料が恐るべき真相を語り始めた。「マーシャル島民は被曝者の最も完全なデータセット」であり、「ある種の不幸な実験が第五福竜丸乗組員に対して行われた」と・・・
<第2部>知られざるヒバクシャたち
米国立公文書館で発見された1952年の機密文書にこんな記述がある。
「米軍医療委員会は核戦争の調査に人体を利用する事を満場一致で承認した」
そして、放射能の影響を調べる「実験材料」は福竜丸乗組員やマーシャル島民ばかりではなかった。核開発競争の中で、アメリカは自国民の被曝さえも厭わなかったのだ!
長崎原爆に使われたプルトニウムが製造されたワシントン州ハンフォードでは水蒸気に混ぜた放射能が町中に散布された。墓地には乳児用の小さな墓標が数百並んでいる。
1956年にビキニなどで行われた水爆実験「レッドウィング作戦」では米空軍パイロットがキノコ雲の中を横断飛行し、ネバダ州の核実験場で8回にわたって行われた「砂漠の岩作戦」では、核爆発直後に爆心に向かって部隊を進攻させた。
人体にプルトニウムを注射する実験を指揮していたフリーデル博士は、原爆投下直後の 広島に入り、被曝者の生物学的反応などを徹底調査している。米軍の科学者たちにとっては、広島や長崎さえも「人間が死に至る放射線量」のデータを収集する千載一遇の実験場に過ぎなかったのである。
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引用以上
上のような記述に遭遇すると、人類というのは、ある種の狂気のなかに棲んでいることを思い知らされる。こんな異常者=まるでハンニバル・レクター博士のような人物が無数にいて、核開発に携わってきたことがよくわかる。
日本における核開発も同じだ。日本に核兵器開発を導入したのは、正力松太郎と岸信介、中曽根康弘という人物である。
正力は、関東大震災のとき警視庁警備課長(副総監)の立場で、「在日朝鮮人が、市内の井戸に毒を投入し、娘たちを強姦し、殺害している」というデマを拡散させた。
東京や横浜の記者たちは正力の正体に気づいていたので相手にしなかったが、仙台の河北新報が、正力のデマを信じて関東に情報を逆輸入させた。
これが市井に拡散し、自警団が結成され、罪なき在日者6000名(記録のある者だけ)が、街角で殺害された。
正力は、この事件によって疎まれ、虎ノ門事件の責任を口実に警視庁を追放されたが、その後、読売新聞再興や、日本の核開発の中心人物であり続け、東海原発を建設し、人形峠ウラン鉱や再処理施設の建設にも携わった。
人形峠や六ヶ所村の再処理施設周辺では、大変な健康被害と死者が出ている。
岸信介は、安倍晋三の祖父だが、盟友の里見甫(電通創始者)とともに、戦前、中国や朝鮮、満州でモルヒネやヘロインを大量に売りさばき、日本軍の軍備資金としたことが知られている。
戦後は、自邸敷地に統一教会日本支部を招致、友人の朴正熙を援助し、韓国の軍事独裁にも関与している。
このグループには、里見甫に近い731部隊創始者の石井四郎(成田市芝山里見郷)もいる。
中曽根康弘については、日航123便事件を軸に改めて書かねばならないが、まだ資料が揃わない。
欧州にもアメリカにも日本にも、レクター博士がいる。そもそも国家権力を利用して、自分の利権や蓄財、名誉を拡大したいと願う時点で、人間性を見失った異常者への道が用意されたと思っていい。
権力を得た瞬間、人々の幸せよりも、自分の利権の方が大切に思えるようになり、世界中が自分の利権を狙って襲いかかってくるような強迫観念に苛まれながら、軍備、核武装、強権支配への道を突っ走るのだ。
小さな独裁者
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40722020R30C19A1BC8000/
第2次世界大戦でドイツが降伏する直前、ナチス将校の軍服を偶然手に入れた一兵卒が将校になりすまし、権力を振りかざして残虐な大量殺りくを続けた。信じがたい実話をもとにした映画「ちいさな独裁者」が日本で公開されている。
ロベルト・シュヴェンケ監督はアクション映画「RED/レッド」など、米ハリウッドで活躍してきた監督だが、故郷ドイツに戻ってこの題材を映画化した。
監督は「あえて加害者の視点で描いた」と語る。「これまでの歴史映画といえば暴力に立ち向かう英雄の物語が多かった。もちろんそういう映画も必要だろうが、映画を見る観客自身が暴力に対峙し、立ち上がるような作品を作りたかった」という。
兵士ヘロルトは軍服を着て大尉を装い、出会った兵士たちを次々に配下に収める。最初は疑っていた人々も堂々たる姿に取り込まれ、残虐行為に手を染めていく。にせ者と確信した人も、もはやそれを言い出せず、ヘロルトの暴走を許す。
「今、人々の恐怖心や怒りを巧みに取り込む大衆迎合の政治家や国粋主義が世界中で台頭してきている。当時との類似点が多いのではないかと感じている」と監督。エンドクレジットで、現代の街にヘロルトの一団が登場するのは危機感の現れだ。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6401563
砂嵐が起き、外に干していたおむつが焼け焦げた。
豪州南部の居留地クーニバ。先住民(アボリジナルピープル)たちが奇妙な出来事を体験したのは、1953年10月のことだった。
スー・コールマン=ヘーゼルダインさん(70)は当時2歳。記憶はないが、物心ついたとき、似た出来事がその後もあったと、大人たちが話していたことを覚えている。それが、英国による核実験が原因らしいとわかったのはずっと後だ。(シドニー=小暮哲夫)
突然、立ちこめた黒い霧 直後から異変
豪州では52~57年、英国が12回の核実験をした。冷戦後の核兵器開発競争のなかで、豪政府は実験場を探していた旧宗主国の求めに応じた。自国に対する安全保障上の保護や、埋蔵ウランの輸出などの期待があったとされる。
そのうち9回は、豪南部の砂漠地帯のエミューフィールドとマラリンガで行われた。「人のいない遠隔地」という理由で選ばれたが、合わせて約3700平方キロ、奈良県ほどの大きさの一帯では数万年前から先住民たちが移動して狩猟や採集をしながら暮らし、独自の文化を育んできた。伝統信仰の場もあった。
一方、コールマンさんが生まれたクーニバは英国人らが入植する過程で、先住民を強制的に住まわせた居留地の一つだった。実験場から260~360キロも離れていたが、放射性降下物が及んだとみられている。
そこには、当局が実験場に近い地域から、理由を告げずにトラックの荷台などに乗せて退去させてきた人たちも一時期、滞在していた。だが、実験について説明はなかった。人々は空から降ってきたものが有害なようだと思ったが、何かわからなかった。
当時、先住民は選挙権がなく、国勢調査の対象ですらなかった。「私たちは無視され、虐げられていた」とコールマンさんは憤る。
人口2千人弱 「私の町はがんの首都だ」
先住民に移動の自由が各地で認められ始めた60年代、コールマンさんの家族は40キロ離れた小さな港町セドゥナに移住した。40歳のころ、甲状腺にがんができて切除した。孫娘も15歳で甲状腺がんが見つかった。
人口2千人弱のセドゥナは、4人に1人近くを先住民が占める。周囲でも様々ながんや胃腸の疾患、不妊や死産を経験するケースを見てきた。「私の町はがんの首都だ」。政府が核実験との因果関係についての調査をしたことはない。
実験が行われていたころ、白人の所有する内陸部の牧草地で働かされていた先住民たちもいた。
エミューフィールドから北東に170キロ離れたワラティンナでは53年10月、そんな先住民たちが、黒い霧のような雲が立ちこめるのを見た。その直後から目や皮膚の痛み、嘔吐(おうと)や下痢などで体調を崩した。
カリーナ・レスターさん(46)の父ヤミ・レスターさん(故人)もそこにいた。その後、視力が落ち、失明した。豪政府に核実験の被害と補償を訴える人々の先頭に立ち続け、17年に75歳で亡くなった。
「父は、子どもの私を見ることができなかった。核実験は、私の家族に計り知れない打撃を与えた」
豪政府に健康被害を個別に要求して認められ、補償を受けた先住民は、これまでにヤミさんら20人余りにすぎない。
閉鎖から数十年たって除染 帰れぬ伝統の地
英国は実験場を67年に閉鎖。豪政府は96~2000年に除染が不十分だったマラリンガで、改めて除染作業をした。汚染した表土や固形化したプルトニウムなどの飛散物を地下10~15メートルに埋めた。立ち入りが完全に許可されたのは、14年だ。
ただ、埋められたプルトニウムの半減期は2万4千年。豪政府によると人体や環境への被曝(ひばく)線量は、数百年は同じレベルが続くという。先住民たちが、伝統の地に戻って定住できる見込みはない。
米国の「核の傘」に頼る豪政府は、今年1月に発効した核兵器禁止条約に署名・批准していない。一方で豪州は、条約の実現に貢献した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)が結成された地でもある。
コールマンさんとレスターさんはICANの運動に加わり、海外でも先住民の苦しみを訴えてきた。
日本の被爆者らと交流してきた。コールマンさんは「似た経験をしてきたから、ずっと知り合いだったように感じた」と言う。「世界のヒバクシャたちがともに歩んでいくことは、とても大切だ。そうすれば、核保有国の人たちも加わるかもしれない。その団結の先に、核兵器なき世界を目指す運動の勝利がある
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引用以上
この地球上には、人々の幸せな生活が許せない人たちがいる。絶えず、自分たちが迫害されると恐れを抱き、他人に敵対し、大量殺戮兵器を増やしてゆかねば安心できない。
なぜ迫害を恐れるかといえば、自分たちが他人を迫害し、その財産や土地を奪い続け、憎悪を浴び続けてきたからだ。
そんな人々が支配している国、それがアメリカであり、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルである。
アメリカでは、欧州から移住した人々が、建国以来、1000~2000万人の先住民を虐殺し、彼らの土地、財産を奪い続け、現在に至るまで、他国を侵略し、暴力をふるい続けている。
https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2018/09/post-51.php
欧州の歴史も、タタールのくびき、十字軍、ボグロム、ナチズムホローコストと、大虐殺の歴史といってよい。
冒頭に紹介した、英国による住民の命を虫けらのように扱った豪州核実験は、そんな大虐殺と人命軽視社会の延長にある。
フランスもまた、ポリネシア・ミクロネシア地域で、先住民の土地や命を奪う核実験を繰り返した。
仏核実験、ポリネシアの「ほぼ全人口」被ばく 調査報告書 2021年3月11日
https://www.afpbb.com/articles/-/3336080
「フランスの核実験は人道に対する罪」 ポリネシアの政治家らがICCに提訴 2018年10月10日
https://www.afpbb.com/articles/-/3192695
人類史において、もっとも罪なき普通の人々を大量に、執拗に虐殺し続けたのはアメリカ合衆国だ。
もっとも有名なのは、ウイーン条約で禁止されているはずの、非戦闘員に対する無差別大虐殺としての、広島、長崎に対する原爆投下である。
アメリカ合衆国の戦争犯罪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/44640?page=3
その矛先は、自国民の被差別者にも向けられていた。
アメリカ合衆国における人体実験
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93
1945-47年、原爆開発のマンハッタン計画の一環として、プルトニウムの毒性や体への吸収率を調べるための人体実験が行われていた。
コード番号「CAL1」が付されたアルバート・スティーブンス(当時58歳)は、サンフランシスコの病院で「胃がんで余命半年」と診断され、1945年5月、本人に無断で大量のプルトニウムを注入された。
4日後、胃の3分の2と肝臓を切除する大手術を受け、患部は研究材料として持ち去られた。本人は1966年1月まで生き79歳で死亡、1975年、その遺灰は残存放射能を調べるためシカゴのアルゴンヌ国立研究所に送られた。
ニューメキシコ州の地方紙アルバカーキー・トリビューンのアイリーン・ウエルサム記者が1987年に知り、6年がかりで被験者18人のうち5人を突き止め、1993年11月に報じた。
1950年代-60年代 MKウルトラ計画
1971年8月 スタンフォード監獄実験
ロサンゼルス・タイムズは、1950年代から72年ごろまで、核戦争勃発を想定した被曝兵士の継戦能力を調べる目的で、シンシナティ大学の研究者が治療費を払えないがん患者80人余に大量の放射線を浴びせる実験を行ったと1994年に報じた。
当時、25レム(=250ミリシーベルト)以上の照射は骨髄に危険と考えられたが、一部の患者にはこの10倍も照射され、アメリカ国防総省への実験報告に「実験で8人の死期が早まった可能性がある」「200レム(=2000ミリシーベルト)までの被曝線量であれば継戦能力はかなり維持できる」と記されたという。
同紙の2007年の報道によると、Eugene Saenger博士は、1960-71年、アメリカ国防総省の予算を得て、シンシナティ大学医療センターで、90人以上の貧しい黒色アメリカ人に対し全身放射線実験を行った。彼は同意書を偽造し、本人たちに知らせないまま100ラド(1000ミリシーベルトに相当)の放射線を照射した。その結果、激痛、吐き気、鼻や耳からの出血をもたらし、8~20人がこれにより死亡した。
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引用以上
核兵器の真実 ~それは人体実験だった~ <第1部>第5福竜丸51年目の真実
https://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/special_back/20050807_010.html
広島、長崎に続く第三の被曝者は太平洋で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員たちであった。彼らは「死の灰」を浴びたのである。
1954年3月1日、マーシャル諸島を地獄絵と変えた水爆「ブラボー」。
火の玉の直径は40km、爆発の威力は15メガトン。それは、広島型原爆の約1000倍に上る20世紀最大の地球環境汚染であった。
「西から太陽がはい上がってきた」「雨に混じって白い粉が降り積もった」
水爆の放射能は、第五福竜丸乗組員やマーシャル島民を襲い、被曝の苦しみは21世紀の今も、子孫の世代に渡って続いている。
一体、なぜ彼らは被曝しなければならなかったのか?
そして、なぜ被曝という事実そのものさえ隠蔽されたのか?
あれから半世紀、情報公開されたアメリカの極秘文書や日本の外交史料が恐るべき真相を語り始めた。「マーシャル島民は被曝者の最も完全なデータセット」であり、「ある種の不幸な実験が第五福竜丸乗組員に対して行われた」と・・・
<第2部>知られざるヒバクシャたち
米国立公文書館で発見された1952年の機密文書にこんな記述がある。
「米軍医療委員会は核戦争の調査に人体を利用する事を満場一致で承認した」
そして、放射能の影響を調べる「実験材料」は福竜丸乗組員やマーシャル島民ばかりではなかった。核開発競争の中で、アメリカは自国民の被曝さえも厭わなかったのだ!
長崎原爆に使われたプルトニウムが製造されたワシントン州ハンフォードでは水蒸気に混ぜた放射能が町中に散布された。墓地には乳児用の小さな墓標が数百並んでいる。
1956年にビキニなどで行われた水爆実験「レッドウィング作戦」では米空軍パイロットがキノコ雲の中を横断飛行し、ネバダ州の核実験場で8回にわたって行われた「砂漠の岩作戦」では、核爆発直後に爆心に向かって部隊を進攻させた。
人体にプルトニウムを注射する実験を指揮していたフリーデル博士は、原爆投下直後の 広島に入り、被曝者の生物学的反応などを徹底調査している。米軍の科学者たちにとっては、広島や長崎さえも「人間が死に至る放射線量」のデータを収集する千載一遇の実験場に過ぎなかったのである。
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引用以上
上のような記述に遭遇すると、人類というのは、ある種の狂気のなかに棲んでいることを思い知らされる。こんな異常者=まるでハンニバル・レクター博士のような人物が無数にいて、核開発に携わってきたことがよくわかる。
日本における核開発も同じだ。日本に核兵器開発を導入したのは、正力松太郎と岸信介、中曽根康弘という人物である。
正力は、関東大震災のとき警視庁警備課長(副総監)の立場で、「在日朝鮮人が、市内の井戸に毒を投入し、娘たちを強姦し、殺害している」というデマを拡散させた。
東京や横浜の記者たちは正力の正体に気づいていたので相手にしなかったが、仙台の河北新報が、正力のデマを信じて関東に情報を逆輸入させた。
これが市井に拡散し、自警団が結成され、罪なき在日者6000名(記録のある者だけ)が、街角で殺害された。
正力は、この事件によって疎まれ、虎ノ門事件の責任を口実に警視庁を追放されたが、その後、読売新聞再興や、日本の核開発の中心人物であり続け、東海原発を建設し、人形峠ウラン鉱や再処理施設の建設にも携わった。
人形峠や六ヶ所村の再処理施設周辺では、大変な健康被害と死者が出ている。
岸信介は、安倍晋三の祖父だが、盟友の里見甫(電通創始者)とともに、戦前、中国や朝鮮、満州でモルヒネやヘロインを大量に売りさばき、日本軍の軍備資金としたことが知られている。
戦後は、自邸敷地に統一教会日本支部を招致、友人の朴正熙を援助し、韓国の軍事独裁にも関与している。
このグループには、里見甫に近い731部隊創始者の石井四郎(成田市芝山里見郷)もいる。
中曽根康弘については、日航123便事件を軸に改めて書かねばならないが、まだ資料が揃わない。
欧州にもアメリカにも日本にも、レクター博士がいる。そもそも国家権力を利用して、自分の利権や蓄財、名誉を拡大したいと願う時点で、人間性を見失った異常者への道が用意されたと思っていい。
権力を得た瞬間、人々の幸せよりも、自分の利権の方が大切に思えるようになり、世界中が自分の利権を狙って襲いかかってくるような強迫観念に苛まれながら、軍備、核武装、強権支配への道を突っ走るのだ。
小さな独裁者
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40722020R30C19A1BC8000/
第2次世界大戦でドイツが降伏する直前、ナチス将校の軍服を偶然手に入れた一兵卒が将校になりすまし、権力を振りかざして残虐な大量殺りくを続けた。信じがたい実話をもとにした映画「ちいさな独裁者」が日本で公開されている。
ロベルト・シュヴェンケ監督はアクション映画「RED/レッド」など、米ハリウッドで活躍してきた監督だが、故郷ドイツに戻ってこの題材を映画化した。
監督は「あえて加害者の視点で描いた」と語る。「これまでの歴史映画といえば暴力に立ち向かう英雄の物語が多かった。もちろんそういう映画も必要だろうが、映画を見る観客自身が暴力に対峙し、立ち上がるような作品を作りたかった」という。
兵士ヘロルトは軍服を着て大尉を装い、出会った兵士たちを次々に配下に収める。最初は疑っていた人々も堂々たる姿に取り込まれ、残虐行為に手を染めていく。にせ者と確信した人も、もはやそれを言い出せず、ヘロルトの暴走を許す。
「今、人々の恐怖心や怒りを巧みに取り込む大衆迎合の政治家や国粋主義が世界中で台頭してきている。当時との類似点が多いのではないかと感じている」と監督。エンドクレジットで、現代の街にヘロルトの一団が登場するのは危機感の現れだ。