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1945年8月6日、広島市への原爆投下

2021年08月07日 | 未分類
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

 以下、ウィキ解説より抜粋

 広島市への原子爆弾投下は1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分、アメリカ合衆国が大日本帝国の広島市に対して世界で初めて原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。
 https://www.youtube.com/watch?v=BHAhmuyUMws&ab_channel=aokmcht

 原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる。わずか3日後の1945年8月9日には、長崎市へも原子爆弾が投下された。

 広島への原爆投下に至る国際的軍事背景
 1939年8月2日 - ナチス・ドイツのユダヤ人迫害にアメリカへ亡命したユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言する内容の手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)を執筆した。

 1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し(しかし、それを死去したルーズベルトの後継大統領であったハリー・トルーマンが承認した証拠はない)、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。

 広島原爆の破壊力

 広島原爆には約50キログラムのウラン235が使用されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。
 広島原爆はウラニウム型原爆であり、計算上得られる一定量以上のウラン235を「寄せ集める」だけで臨界核爆発を起こす。

 従って分割したウラン235の塊を合わせるだけの簡単な構造のもので、爆発そのものはほぼ確実であることから、複雑な構造を持つ爆縮型の長崎型原爆(プルトニウム型原爆)とは異なり、事前の核実験(爆発実験)による動作の検証はなされず、設計図通りに作られたものがそのまま広島に投下され、後に広島の被災実態から詳細な計算がなされた。長崎型原爆の動作確認であり、人類初の核爆発については「トリニティ実験」(1945年7月26日)参照。
 https://www.youtube.com/watch?v=h4sTU9ma_y8

 1キログラムのウラン235の核分裂によって0.68グラムの質量欠損が生じ、アインシュタインの特殊相対性理論が示す「質量とエネルギーの等価性 E = mc2 」によってエネルギーに変換される。

 爆発で放出されたエネルギーは約63兆ジュール(62.8 [TJ(テラジュール)]、6.28 × 1013 [J])、TNT換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波・爆音)、熱線、放射線となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。

 爆発の瞬間における爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させた。
 爆心地における爆風速は440メートル毎秒以上と推定されている。これは音速349メートル毎秒を超える爆風であり、前面に衝撃波を伴いながら爆心地の一般家屋のほとんどを破壊した。

 比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する。すなわち、原爆の爆風はエネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍であった。

 核分裂で出現した火球の表面温度は数万度に達した。中心の温度は約1,000キロケルビン(℃でも近似可能)であった。
 火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール(5.3兆カロリー)である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に一挙に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチメートルあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。
 比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。

 このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表温度は3,000 - 6,000℃に達し、屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。

 核分裂反応により大量のアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線が生成され、地表には透過力の強いガンマ線と中性子線が到達した。地表では中性子線により物質が放射化され、誘導放射能が生成された。

【アマ註=中性子が原子に当たると、原子核に潜り込んで別の原子に変化し、放射性を持つ場合が多い。例えば塩=塩化ナトリウムに中性子が当たるとナトリウム24になり、2.75MeVもの恐ろしい高エネルギーガンマ線を放射するようになる。鉄に当たるとコバルト60に変化する。
 https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A024_%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A024%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81


 爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチメートルあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。広島電機大学(1999年当時)の葉佐井博巳教授は、爆心地にいて放射線をあびた人々は、爆風や熱戦や閃光に晒されなかったとしてもおそらく全員が亡くなっていたであろうと推定している。

 原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っていた未使用のレントゲンフィルムが放射線によって全て感光していたため、広島へ落とされた新型の爆弾は原爆と決定付けるものとなった。

 原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的なキノコ形になったものとされる。キノコ雲の到達高度は従来約8,000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を基に測定したところ、実に2倍の約16,000メートルに達していたことが判明した。

 低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。熱気は上空で冷やされ雨となった。この雨は大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨で、「黒い雨」と呼ばれる。放射性降下物を含む黒い雨は浴びた人間を被曝させ、土壌や建築物および河川などを放射能で汚染した。

 当日、広島市上空には南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動し、やがて崩壊し、日本海方面へ流れていった。このため市北西部の南北19キロメートル×東西11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降り、この雨に直接当たる、あるいはこの雨に当たったものに触れた者は被曝した。戦後の調査研究で、黒い雨の他、広範囲に放射性の黒い灰状の粉塵が6日15時頃まで降り、郊外にまで広範に放射能汚染をもたらしていたことが判明している。

 黒い雨が降ったエリアについて、被曝者や広島県、広島市は、現在の広島市域外にも及んでいたと主張。日本政府に対してより広範囲の認定を求め、訴訟も提起されている。厚生労働省も再検討に着手している。

 なお、放射性核分裂生成物、核爆発時に生じた大量の中性子線による誘導放射能などにより被曝した者を「二次被爆者」という。上述の、広島市郊外で降った黒い雨による放射線被曝者も二次被爆者になる。

 原爆投下後、被爆者の救援活動などのため、広島市外より広島市に入市し、誘導放射能などにより被曝した者を「入市被ばく者」という。規定では、原爆投下後2週間以内に爆心より約2キロ以内の区域に立ち入った者が入市被ばく者とされている。原爆投下当日、爆心地へ入り数時間滞在した者は約0.2シーベルト、翌日に入った者は約0.1シーベルトの被曝をした。

 その他、被災地域より避難してきた被爆者の放射能汚染された衣類や頭髪に触れて被曝した者も多くいた。当時は放射能や放射線の性質、その危険性を知る者が、物理学者やごく一部の軍関係者、医療関係者程度であったことが影響した。

 原爆の熱線には強烈な赤外線、紫外線、放射線が含まれており、約600メートル離れたところでも(瓦の表面が溶けて泡状になるという現象から)2,000度以上に達したと見られる。
 爆心地から1キロメートル以内では5度の重い熱傷を生じ表皮は炭化し、皮膚は剥がれて垂れ下がった(表皮の水分が気化・膨張したことによるもので、アメリカ側はこの現象を閃光熱傷(Flash burn)と名付けた)。
 熱線による被害は3.5キロメートルの距離にまで及んだ。また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けた者もいた。爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆した者は重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。爆心から20キロメートル離れた呉の海軍基地や可部地区や大野地区では、戸外に出ていた人は熱傷を負わずとも、「熱い」と感じている。

 原爆の爆風により破壊された建物のガラスや建材などが散弾状となり全身に突き刺さって重傷を負う者が多数出た。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物などに叩きつけられ全身的な打撲傷を負ったり、急激な気圧の変化や体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈した者もいた。さらに熱線を浴びた体に爆風を受けたことで、火傷の部位を引き剥がされ致命的な傷につながった。
 このような全身的な被害を受けた者は大半が死亡した。

 爆心地における放射線量は、103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、31.5シーベルト(中性子線)と推定されている。また、爆心地から1.25~1.5kmの距離で発見された被爆者の顎の骨からは推定で9.46シーベルトの放射線が検出されている。
 すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即死(即日死)ないしは1カ月以内に大半が死亡した。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した。

 急性放射線症では、細胞分裂の周期が短い細胞よりなる造血組織、生殖組織、腸管組織が傷害を受けやすい。
 症状は、悪心・嘔吐・食思不振、下痢、発熱から始まる。さらに被爆から2週間後頃に放射能症に特徴的な脱毛が始まる。20日過ぎ頃より皮下出血斑(点状出血)、口腔喉頭病巣を生じる。大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球・血小板の減少など血液障害を起こす。
 6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害(消化管組織の破壊により消化吸収不能となる)により、1カ月以内に大半が死亡した。

 爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3 - 4カ月経過後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起してケロイドを生じた。

 大量の放射線を浴びた被爆者は、高確率で白血病を発症した。なお被爆者の発症のピークは1951年、1952年であり、その後は徐々に下がっている。広島の被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、白血病発症率は被曝線量にほぼ比例している。
 また若年被爆者ほど発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球などの他の血液細胞が減少して障害を招く。さらに白血球の機能も失っていく。

 1950年代、白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。『原爆の子の像』のモデルとなった佐々木禎子は、12歳で白血病のために亡くなっている。
 以降は悪性腫瘍(癌)の発症が増加した。転移ではなく、繰り返して多臓器に癌を発症する例がしばしば見られる。これら被爆者の遺伝子には異常が見られることが多い。放射線などにより回復不能にまで損傷を受けたDNAは、翻訳を介して癌の発病を招くこともあるため、これら被爆者が「原爆により癌を発症した」と主張することも理に適っている。

 心的外傷後ストレス障害など
 原爆の手記を分析した結果によると、被爆者の3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えて挙げられなかった、など)を持っていることが判明している(一橋大学の石田による調査)。「サバイバーズ・ギルト」「心的外傷後ストレス障害」も参照。

 放射線誘発癌

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 精神的影響は、原爆によって直接もたらされた、サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害だけではない。戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による原爆報道統制が日本国民の間に「被爆者差別」を生み、被爆者はこれにも長く苦しむことになった。
 すなわち原爆、放射能、放射線に関する情報不足より、日本国民の間に「被爆者差別」が生まれた。戦後しばらくの間、新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。これらは被爆者の生活に深刻な影響を与えた。

 昭和30年代、例えば他の都道府県で就職の際、「広島出身」と申告すると「ピカ(原爆)を受けたのか」と聞かれるのは常であり、被爆の事実を申告したら、仕事に就けないことが多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らさざるを得なくなり、精神的に永く苦しめられることになった。原爆のことを「ピカドン」とも言うが、転じて「ピカ」は被爆者を示す差別語ともなっていた。

 被爆者差別の存在やその実態については、従来、一部で問題とされていたのみで、広く公にされることはなかったが、ついに2010年に日本放送協会(NHK)は、その原因を、「戦後のGHQによる言論統制を受けた報道機関が、正しく原爆に関する報道を行わなかったため、当時、日本国民の間で放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まり、国民の間に誤った認識が広く蔓延したためである」と分析、過去に存在した被爆者差別とその実態について発表した。

 ただし、連合国軍の占領が終わった後も、NHKを含む報道機関が原爆について決して正しい報道だけを行っていたわけではない上に、これらの報道機関はそのことについて自己批判や謝罪をしたことはない。

 なおその1年前、中国放送の記者であった秋信利彦(秋信は1975年10月31日、昭和天皇に原爆について質問した記者である)は、当時の被爆者差別や被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している。
 多くの被爆者個人が公に自身の被爆体験を語り始めたのは、おおむね、被爆者差別の軽減以降である。

 2008年から2009年の広島市の大規模調査の結果、2008年現在でもなお、被爆者の1%-3%に被爆によるPTSDの症状があることが判明、部分的な症状があるケースも含めると、4%-8%にもなることがわかった。その主要因は、放射線による病気への不安と、差別・偏見体験である。

 胎内被爆
 母親の胎内で被爆することを胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。小頭症とは同年齢者の標準より頭囲が2倍以上小さい場合を言う。脳の発育遅延を伴う。
 諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。脳のみならず、身体にも発育遅延が認められ、これらが致命的であるものは、成人前に死亡した。

 被爆二世の白血病高発症率
 「公式見解」では被爆二世、被爆三世については、永年にわたり健康への影響、すなわち遺伝的影響はないとされてきた。放射線影響研究所は2007年に、被爆二世への遺伝的な影響は、死産や奇形、染色体異常の頻度、生活習慣病を含め認められないと発表した。

【アマ註=放射線影響研究所は、敗戦後、米軍ABCCの管理下で、日本政府が作った機関だが、主に核開発推進組によって担われ、原爆の人体に対する影響を矮小化して報告したと、評価が定着しているが、一方で、胎児が5ミリシーベルト被曝すると、4.4%に重度知的障害が起きると報告している】
 https://www.rerf.or.jp/programs/roadmap/health_effects/uteroexp/physment/  

 一方で、日本国政府などの公式見解となる放射線影響研究所などの発表には以前より疑問の声が多くあり、各大学などでの調査・研究が続けられていた。
 2012年6月3日、長崎原爆資料館で開催された第53回原子爆弾後障害研究会、広島大学の鎌田七男名誉教授らによる研究成果発表『広島原爆被爆者の子どもにおける白血病発生について』では、広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高く、特に両親共に被爆者の場合に白血病発症率が高いことが、50年に渡る緻密な臨床統計結果より示され、少なくとも被爆二世については遺伝的な影響を否定できないと結論付けた。
 鎌田は「これでようやく端緒についた。」と語っている。
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 引用以上

 私は、中国共産党の暴走により、数年以内に、1945年以来、76年以上を経て、新たな核戦争が勃発し、日本列島が攻撃されると予想している。
 原爆(プルトニウム核弾頭ミサイル)は、日本の米軍・自衛隊基地が狙われるので、大きく離れた地域に生活拠点を変える必要があると考えている。