玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

生き物の側に立つ

2017-02-10 09:37:10 | 生きもの調べ
 調査を初めて半年ほど経ったとき、津田塾大学でもっとあるはずのタメフン場を探すことになり、がんばったおかげでよいタメフン場が見つかりました。そこでそこに来るタヌキのようすを撮影するためにセンサーカメラを置きました。これはうまくいって、そこに来るタヌキや糞をするタヌキが撮影されました。同時にネコやシロハラ、キジバトなどの鳥も撮影されました。
 あるとき、カメラに意外なものが写っていました。鎌の歯がノコギリ状になった道具をもった作業の人が写っていたのです。それは3日続き、ハシゴを持って来るようすなども写っていました。これは大学が近所の人との約束で、ヤブが繁ったら刈り取りをすることになっていて4年に一度おこなう作業なのだそうです。実際、タメフン場のまわりのアオキなどのヤブはすっかり刈り払われてさま変わりしていました。
 私はここで継続的にタヌキの糞を回収しようと思っていたので、こんなに刈り払われたらタヌキがここを利用しなくなるのではないかと心配になったのですが、結果的には大丈夫でした。
 写真に写った刈り取り作業をする人を見たときの感覚は今まで感じたことのないものでした。自分の調査に支障が生じると困るという気持ちも少しはありましたが、それよりもカメラに写る対象物をタヌキ、ネコ、キジバトと見たあとに作業の人が出てきたとき、「大きくて怖い存在」だと感じました。そのとき私は自分がタヌキになっているような気持ちになっていたと思います。巨大といってもよいほど大きな人が鎌を持って生活の場に生えている木をどんどん伐っていくことへの恐怖が少しわかるような気がしました。その人はもちろん仕事として作業をおこなっておられるのですが、タヌキの側に立っている私には乱暴なおこないに思えました。
 こういう気持ちを持ったのは、カメラの視点から第三者的に眺めたからだと思います。といっても、人の目とは違うとはいえ、本当にタヌキの視点には立っていません。そうであれば、もっと恐ろしいのだろうと思います。
 私はこの調査を始めたときに、タヌキ目線で玉川上水や都市を眺めてみたいと思い、そうしているつもりでしたが、この経験で、全然そうではできてなかったのだと思い知りました。
 人間とタヌキは違う動物なのだから、それは当然のいたしかたないことなのかもしれません。しかし、そうではあっても、想像することはできます。
 私たちは公園や保育園を設計するとき、使いやすさや安全とともに、子供であればこうなっていればよろこぶだろうと想像します。あるいは老人の施設などでもそうです。自分とは違うが、違う立場の人であればどう感じるかを想像します。そのときに、子供なり老人なりは私たちとどう違うかを知ることが不可欠です。それと同じで、私たちは、タヌキはどういう動物であるかを知ることで、どういう環境を残すべきかを考えることができます。
 私の持っている情報は限られますが、タヌキは下刈りされたところよりはヤブがあるところを好み、直径がせめて100メートル程度の林があることが必要なようです。その林には果実があり、昆虫、哺乳類などがいる必要があります。
 タヌキが暮らしていた林がある日、突然刈取らとられてしまい、そこを立ち退いて別の林に行かなければならないということが起きたはずです。その林も伐られ、また別の林に移動ということを繰り返すうちに、もう逃げ場がなくなったということもあったはずです。でも、私たちはそういうふうに考える機会はなかなかないし、そういう想像力も持ちにくいものです。
 タヌキは食べ物を匂いで感知しますから、食べ物の匂いがするポリ袋や輪ゴムなどは食べ物と思って食べてしまいます。多少腐っているくらいは平気ですし、よほど苦いとかまずい味がしなければなんでも食べます。体重5キロほどの動物が生きてゆくにはかなりの食べ物が必要です。果実は栄養もあり、まとまってあって逃げることもないたいへんありがたい食べ物です。カキやギンナンは自然界には少ない大きな果実でたっぷりと果肉がありますから大喜びで食べます。カキは渋く、ギンナンは臭いですが、だから食べないということはありません。地面を歩く昆虫などは貴重な動物タンパク質ですから狙って食べます。もちろん土をいっしょに飲み込むこともあります。
 私たちは「そんなものでも食べるのか」とか「不潔だ」とか感じますが、自然界に生きる野生動物からすれば、自然界にあるものからおいしいものだけを選び、洗い、火熱し、味付けをし、容器に入れて、箸やスプーンで食べることのほうがよほど「異常な」ことです。それを基準に野生動物の食生活を評価するのは意味がありませんし、相手を知らないということです。
 哺乳類であるタヌキでさえそうですから、私たちが鳥やトカゲや昆虫のことがわからないのは当然かもしれません。ましてや植物となるとまったく想像ができません。
 しかしファーブルが徹底的に観察し、実験をして糞虫やハチなどの習性や生活を明らかにしたように、よく見ればその動物がなぜそうするかは理解できるようになります。植物がどういう場所にあるか、どうして受粉をするか、あるいは種子を広げるかは、観察し、調べればわかってきます。
 私たちが玉川上水でおこなったささやかな調査でも、植物の生育地の管理のしかたが草原の花を咲かせ、それを訪れる昆虫を惹きつけることや、多肉質の果実類が、鳥や哺乳類に食べてもらうためにカラフルでおいしくなっていることを示すことができました。私たちは植物になりきることはできませんが、植物が演じている「生きている」ことの意味を読み取ることを通じて、理解をすることはできます。
 そのように、ほかの生き物とまったく同じ立場には立てなくても、その生活を理解することで、その生き物にはこうすることが迷惑なことだということはわかります。
 そのように考えると、過去半世紀に武蔵野台地で起きた雑木林の伐採と畑の宅地化は、タヌキに代表される無数の動物とそれを支えた植物の立場に立つことはおろか、思いやることもなしに、人間が自分たちのつごうだけでふるまってきたことなのだということが痛いほどわかります。
 それはともに地球に生を受けたものとしてよくないことだと思います。野上ふさ子さんはアイヌの民話の例を紹介しています(野上、2012a、「アイヌ語の贈り物」、新泉社)。
 ある貧しい家の娘が山に草をとりにいったのですが、誰かが先に来て全部をとってしまっていたので、何もとらないで帰ってきました。あるとき、お金持ちの夫人が病気になって死んでしまったので、その訳を神様に聞くと、その夫人は欲張りで山に草を取りに行くと食べられないほどとってきて家で腐らせてします。そのことを神様が罰したというのです。そして神様は独り占めすることの罪深さを戒めて言いました。「この世界には人間ばかりが生きているのではありません」と。アイヌは食べ物は人がみんなで分かち合うべきものだと考えているようです。
 それどころか、ほかの生き物への思いやりを忘れることがありません。野上さんが親しくしていて目の不自由なおばあさんは、自分が作った作物を秋になってスズメが食べようとすると、まだ熟さないうちに食べてはいけないよ、人が刈り取ったあとに残った落ち穂を食べなさい、それでも余るほどあるからおみやげに持って帰りなさいと話したそうです。
 アイヌの人々は「ウ・レシパ・モシリ」、つまり「互いに育て合う世界」という世界観をもっているのだそうです。自分がほかの生き物とつながって生きており、自分も育てられていると感じながら生きれば、ほかの生き物に思いやりを持つのはごく自然なことであるに違いありません。それは20世紀後半の北アメリカで興った「土地倫理」という哲学に通じるすばらしい世界観だと思われます。
 ひるがえって、私たちはタヌキのそばに暮らしながら、タヌキといっしょに生きているとか、互いに育てあっているという感覚を持てているでしょうか。
 アイヌの人々の哀しい歴史を思うとき、それを蔑視し、文化を消滅させたわれわれの社会の中に、過度の自尊性、利己性があることを認めなければなりません。民族問題と人と生き物の関係を混同してはいけませんが、根の部分でつながっていることはまちがいありません。私たちに他者への思いやりが欠ける傾向があることをよく自覚し、改めてゆきたいと思います。

つづく


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