玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

偏見からの解放

2017-02-10 08:35:15 | 生きもの調べ
 タヌキはこの本の「きも」に当たります。タヌキを知らない人はいませんが、それでいてタヌキを実際に見たことのある人は少ないし、ましてやその実像を知っている人はほとんどいません。
 一方、知らないながら、タヌキにはあるイメージがあります。まさかタヌキが化けると本当に思っている人はいないでしょうが、タヌキはお人好しで、小太りで、どこか愛嬌があって、愛すべき動物といったイメージがあります。それに比べればよく「タヌキとキツネ」としてペアでとりあげられるキツネはずる賢いというイメージです。それは、タヌキがよく太っていて、目の周りに黒い模様があって垂れ目の印象を与えるのに対して、キツネは細身で四肢が長く、「つり目」でシャープな印象を与えるためだと思われます(高槻。2016、「タヌキ学入門」、誠文堂新光社)。そうした印象から、同じ化けるのでもキツネは美人に、タヌキは小太りなかわいい娘にということになっています。あるいは「タヌキおやじ」といってでっぷり太った、人生の裏表を知り尽くしたような中年男がイメージされたりします。
 動植物との接点が大きかった時代には人々が実際に動物を見る機会も多かったので、たとえば「タヌキ寝入り」とか「キツネに化かされる」、あるいは「イタチの最後っ屁」などの表現が今でも残っています。かつてはこういうことばがリアリティを持っていたものと思われます。
 ところが、現代生活においては直接野生動物に接することが少なくなってしまったために、実像とイメージがつながらず、むしろイメージが誇大化する傾向があります。
 私たちには直感的に抱く印象があります。ウサギはかわいく、ヘビは気味が悪いとか、パンダはかわいく、ライオンは怖いなどというのがその例です。これは人には大きな目は赤ん坊を連想させてかわいいと感じるとか、鋭い目や牙には恐怖を感じるなどの、進化の過程で埋め込まれたものがあるのかもしれません。
 しかし、スズメはどうでしょう。私たちが子供の頃は動物を人間生活にとって有益であるか有害であるかで区別することがよくおこなわれました。鳥も益鳥と害鳥に分けられ、スズメは害鳥とされましたが、私にはスズメが悪い鳥には思えず、たまたま米を食べる性質をもっているために損をしているのであり、スズメそのものが悪いのではないと思いました。一方、小学一年生のとき、学校から帰る道でコウモリが弱って地面に落ちているのを見つけて、近づいて見たところ、黒っぽい毛が生えた体や鋭いキバからおぞましい動物だという強い印象を受けました。しかし後で知ったことですが、コウモリは漢字で「蝙蝠」と書き、その発音が福と同じなので、中国では縁起のよい動物と考えられていたのだそうです。こうした例は直感と作られた文化的なイメージにはときに乖離があることを示しています。
 本書で、糞虫についてページを割きました。昆虫好きの私には実験するときのイヌの糞に不快感を覚えながらも、糞虫そのものについては観察しながら感動することがたくさんありました。その感動をもたらすものはエンマコガネやセンチコガネの造形美にも、コブマルコガネの動きにもありましたが、それと同時に頭で考えて、生態系の中で物質循環における分解過程に貢献しているという生態学的な役割を知ったということにもありました。
 そのことは、何も知らないで「糞に寄ってくるなんてなんて汚い虫だ」と思うことといかに大きく違うことでしょう。そのように思うと、私たちはつねに動物を勝手なイメージで決めつけて見ているということ、そして、知らないということは偏見につながるのだということに気づきます。
 偏見ということで思われるのはこの十年ほどの世界の人間の動きです。同じ種である人間のあいだでさえ相手のことを知らないことで偏見をもち、それが昂じて暴力をふるうということが横行し、無数の悲劇を生んでいます。私たちは偏見を持たないようにするということを、教育を含めてもっと真剣に考えないといけないと思います。
 人間による動物への偏見は抜きがたくあるものですが、それでもタヌキのようによい印象を持たれている場合はまだよいとしても、ヘビやネズミや糞虫などのようにマイナスイメージを持たれている動物は、いるだけで嫌われ、場合によってはいるだけで殺されます。
 こうしたイメージは置かれた状況によっても変化します。人の親になり、子育てをすることになると、喜びとともにその大変さに気づきます。そして自分もこうして育てられたのだと親のありがたさを感じるものです。同時に、かわいいと思っていたスズメやテントウムシなども、ちゃんとした親であり、誰に教わることもなく子供を産み、育てていることに、改めて驚きます。驚くとともに「えらいなあ」という敬意に似た気持ちを感じます。
 思うに、動物を知るということは、勝手に持っていたイメージによる偏見が正しくないことに気づくことではないでしょうか。春になってさえずる小鳥を「春のよろこびを歌っている」と思うのは直感ですが、研究者はそれが繁殖期のオスが自分の縄張り宣言をしているのだということを明らかにしました。ハトは平和の象徴で、オオカミが残忍な動物の代表と考えられてきましたが、実はハトは種内できびしい殺し合いがあることや、オオカミは狩りをするために厳格な秩序をもち、リーダーは劣位のオオカミにいたわりをもつことなどもわかってきました。
 そういうことを理解すれば、自然科学というと、なにか冷たい、心のない行いのように思われるところがありますが、実は偏見を正すためのすばらしいおこないなのだということがわかります。そしてその底の部分には、動物への敬意があるのだということにも気づきます。「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンは次のような印象的なことばを残しています。

 海について書かれた世間一般の本のほとんどは、観察者である人間の視点から描かれており、その人間がみたものについて、印象や解釈が述べられている。しかし私は、そうした人間の目を通すことによって生じる偏見をできるかぎり排除しようと心にきめた。

つづく


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