早朝に「統一」をすると、とても気持ちが良いので、習慣化してしまいましたが、
日曜日などは案外、「統一」や印を組まないことがあります。(^^;ゞ
というのは、このブログ日記の記事を書くことに集中できる一番良い時間だからです。(^^;ゞ
それでも、私の頭のなかでは、いつも、「世界平和の祈り」が鳴っています。
あまり、空腹を感じないのも、この「鳴り響き」が原因だと思うのです。
このごろは、お腹に食べ物がない方が、体の調子が良いので、あまり食物を食べなくなりました。(^^;ゞ
体が、そういう状態を望んでいるようです。(^^;ゞ
目の前に、美味しそうな物を出されても、
それを食べた後の「胃腸の苦しさ」を思い浮かべると、たくさんは食べられないのです。(^^;ゞ
「統一」をしたり、「印」を組んだりしていますと、「頭の力み」がすっと抜けて、
丹田に氣が集中して、付和雷同せず、気持ちが良いのです。
ひょっとすると、「人生の目的は、丹田に氣を集めること」かも知れません。(^^;ゞ
「統一」というのは、「意識が、天とつながっていること」なので、
つねに「統一」状態で、日常を暮らしてゆけば、それで良いと思うのです。
世界中の人が、今すぐに、「統一」状態になれば、この瞬間に世界が平和になると思います。(*^_^*)
そして、時間があれば、「呼吸法の印」でも「統一」でもしていれば、
「業(欲)」を出すことありませんから、最小限の「消えてゆく姿」しか起こらないし、
「カルマ」は、小さく消されていくと思うのです。(^^;ゞ
正直な話、「面倒だなあ」と思うこともありますが(^^;ゞ
「感謝行」も「光明思想徹底行」も、自分のためなのです。
「他人や物への感謝」は、自分のためなのです。(^^;ゞ
すべての人は、自分の蒔いた「業の結果」を受け取っているのですから、
「業」を出さなければ、「大調和の光」の中で暮らせるのです。(^^;ゞ
「統一」とは、「天の意志につながること」です。
天の意志につながれば、足るも足らないもないのです。
「足らなくて、ありがとう」という世界が待っています。
つまり、「自分中心の考え」は要らないのです。
常に、「世界平和の祈り」のなかに居れば、良いのです。
死んでも、良い世界に行けるそうです。(^^;ゞ
特に、『印による世界各国の平和の祈り』をしたあとは、いつでも必ず、
自分の「意識」を感じながらも、s思考の停止が起こり、とても心地良いです。
日曜日などは案外、「統一」や印を組まないことがあります。(^^;ゞ
というのは、このブログ日記の記事を書くことに集中できる一番良い時間だからです。(^^;ゞ
それでも、私の頭のなかでは、いつも、「世界平和の祈り」が鳴っています。
あまり、空腹を感じないのも、この「鳴り響き」が原因だと思うのです。
このごろは、お腹に食べ物がない方が、体の調子が良いので、あまり食物を食べなくなりました。(^^;ゞ
体が、そういう状態を望んでいるようです。(^^;ゞ
目の前に、美味しそうな物を出されても、
それを食べた後の「胃腸の苦しさ」を思い浮かべると、たくさんは食べられないのです。(^^;ゞ
「統一」をしたり、「印」を組んだりしていますと、「頭の力み」がすっと抜けて、
丹田に氣が集中して、付和雷同せず、気持ちが良いのです。
ひょっとすると、「人生の目的は、丹田に氣を集めること」かも知れません。(^^;ゞ
「統一」というのは、「意識が、天とつながっていること」なので、
つねに「統一」状態で、日常を暮らしてゆけば、それで良いと思うのです。
世界中の人が、今すぐに、「統一」状態になれば、この瞬間に世界が平和になると思います。(*^_^*)
そして、時間があれば、「呼吸法の印」でも「統一」でもしていれば、
「業(欲)」を出すことありませんから、最小限の「消えてゆく姿」しか起こらないし、
「カルマ」は、小さく消されていくと思うのです。(^^;ゞ
正直な話、「面倒だなあ」と思うこともありますが(^^;ゞ
「感謝行」も「光明思想徹底行」も、自分のためなのです。
「他人や物への感謝」は、自分のためなのです。(^^;ゞ
すべての人は、自分の蒔いた「業の結果」を受け取っているのですから、
「業」を出さなければ、「大調和の光」の中で暮らせるのです。(^^;ゞ
「統一」とは、「天の意志につながること」です。
天の意志につながれば、足るも足らないもないのです。
「足らなくて、ありがとう」という世界が待っています。
つまり、「自分中心の考え」は要らないのです。
常に、「世界平和の祈り」のなかに居れば、良いのです。
死んでも、良い世界に行けるそうです。(^^;ゞ
特に、『印による世界各国の平和の祈り』をしたあとは、いつでも必ず、
自分の「意識」を感じながらも、s思考の停止が起こり、とても心地良いです。
ご迷惑でしたらお赦しください。
自分が日頃から考えていることですが
人は一体、何のために生きているのでしょうか?
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
神の存在、愛とは何か、生きる意味は何か、死とは何かな
どの問題などについて、ブログで分かりやすく聖書から福音
を書き綴っています。ひまなときにご訪問下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
(聖書のことば)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところ
に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11:28)。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛
している。」(イザヤ書43:4)。
私もキリスト教系の「ライフ・ライン」(近畿圏だけかも)という番組は、録画して見ています。
『人は一体、何のために生きているのでしょうか?
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか。』について、
「白光の教え」で、簡単に解釈してみます。(^^;ゞ
「人間」は、霊的な存在でして、
「過去世の業(因縁)」を消すために、霊界から、この世に生まれてきまして、
修行をして霊性を高めた意識を持って、霊界に帰っていくようです。
キリスト教でも、「人間は、神の子」と言われますが、「白光」でも同じです。
違うのは、人間が「原罪を背負っている」とか、「罪人である」、「僕である」という考え方をしない所でして、
どこまでも、自己肯定的(我即神也)なのです。