確かに考えてみますと、『個人などというものは、この世界のどこにもない』です。(^^;ゞ
『自分の意識という感覚』があるだけです。
すべては、『自分の感覚(考え)』なのであり、それしかないのです。(^^;ゞ
池田さんの 文章の中から、いくつかを書き出してみます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★「自分である」ということは、実はそれほど自明なことではない。
端的な直感として、自分は自分である。
しかし、自分の「何であるか」を知ろうとして、そのまるっきり不分明であることを、たちまち人は知る。
★自分が自分であることを自分によって証明することは、不可能であるか、無意味である。
そこで彼らは、自己証明のための他人や社会といった外的契機を求めることになるのだろう。
★人が、自分を自我と同一とするとき、空疎であるか、耐えられないと感じるのは、、
自我というものがその本姓上、世界と自分とを対立するか、別のものと捉えるための形式だからである。
世界、すなわち、さまざまな人格としての他者たちm変転してやまない諸事情、あるいは雄大なる天地と自然、
そういった世界の内実としてのそれらのすべてを、「自分でないもの」「自分とは別のもの」とすることによって、
自分であるような自我は、したがって「孤独」である、 自分以外には「何もない」。
その本性が否定的であるところの自我としてのみ居ることは、苦しいことに違いない。
★じつは性格とは、それ自体で自律した存在、自分から独立した他者ではなかろうか。
自分の性格とは、自分にとっての他者なのではなかろうか。
『自分の意識という感覚』があるだけです。
すべては、『自分の感覚(考え)』なのであり、それしかないのです。(^^;ゞ
池田さんの 文章の中から、いくつかを書き出してみます。
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★「自分である」ということは、実はそれほど自明なことではない。
端的な直感として、自分は自分である。
しかし、自分の「何であるか」を知ろうとして、そのまるっきり不分明であることを、たちまち人は知る。
★自分が自分であることを自分によって証明することは、不可能であるか、無意味である。
そこで彼らは、自己証明のための他人や社会といった外的契機を求めることになるのだろう。
★人が、自分を自我と同一とするとき、空疎であるか、耐えられないと感じるのは、、
自我というものがその本姓上、世界と自分とを対立するか、別のものと捉えるための形式だからである。
世界、すなわち、さまざまな人格としての他者たちm変転してやまない諸事情、あるいは雄大なる天地と自然、
そういった世界の内実としてのそれらのすべてを、「自分でないもの」「自分とは別のもの」とすることによって、
自分であるような自我は、したがって「孤独」である、 自分以外には「何もない」。
その本性が否定的であるところの自我としてのみ居ることは、苦しいことに違いない。
★じつは性格とは、それ自体で自律した存在、自分から独立した他者ではなかろうか。
自分の性格とは、自分にとっての他者なのではなかろうか。