入社して数年が過ぎた頃、上司から広報宣伝誌の記事取材の指示がでた。 厳冬の2月14日で、しかも雪深い岩手の水沢である。 山門の天井裏に報道陣と同じ待遇だからと言う。 「日本三大奇祭」或るいは「日本三大裸祭」と言われる「黒石寺の蘇民祭」の取材である。 頃は、昭和30年の中頃であったと記憶している。
実は、その時の取材したフイルムのモノクロの35mmネガのべた焼きが見つかったので投稿してみようと言う気になったのである。しかし、そのべた焼きからコピーするので解像度は悪いのに決まっている。 当時を振り返るとフイルムの感度はカラーでASA25,ASA10,モノクロでASA50の時代だった気がする。
ニコンの35mm一眼レフカメラに大きなフラッシュを旅行鞄に入れて夕刻に会社をでた。 当時は夜行列車であった。
紹介された観光課に出向き打ち合わせをすませ午後10時を待った。午後8時ごろから人が山門に集まり始めた。 行く途中で酒に酔った若い女性にからまれ写真を一枚撮ってその場の難を逃れた一コマもあった。 山門の天井裏に大きな梯子を掛け報道陣を上げると梯子は外された。明け方近くまでは降りれない。 随分と高いところにあるには驚いた。(当時の参拝控え室は筵、露店も同じ) まだ、高度恐怖症は現れていなかったのが幸いだった。
災厄避けの神として、平安時代までさかのぼり信仰の対象になっている。 1000年の歴史がある。 詳しいことは、ものの本に委だねるとして、当時聞き及んだ話では村を東西に2分し、男衆が紫燈松(ひたき)と呼ばれる松明を掲げながら行進する。 午前2時、数え年7歳の男児2人が扮する鬼子が本堂に入り、福物の餅を境内に撒いた。(この当時の男児は数えの5歳に見えた)
[注] 鬼子の男の子の背には大きな鬼の面を逆さに背負わせられていた。
午前5時、鬼子が本堂に戻る。そして「袋出し」の「蘇民袋」を男衆が争奪を競う。 蘇民袋の首に近い部分を持った者が、その年の「取主」となり、そして、東西どちらかの土地が豊作になることが決まる。その地の五穀豊穣を祈願する奇祭である。全裸の男衆の裸祭も全国で唯一伝統が続いた黒石寺も2006年で全裸は許されなくなった。(閉じた山門前)
初めて昭和30年半ばで見た奇祭。伝統行事は続いている。 地方にはまだまだ庶民信仰から生まれた昔話があり、興味が再び涌いた。そして、当時、こんな夜中に子供を起こしているなんて・・と疑念を抱いた記憶を想い出した。
そして当時は取材を終えると、休む余裕もなく、そのまま東北本線の水沢駅に向かった記憶である。当時の普通列車は背当てに布張りのない、しかも垂直な木造の椅子の三等席で疲れを癒した。余りにも古い昔の話だが不思議にも記憶が残っているものですね。
写真は35mmと言えども鮮明だったが拡大コピーのため無理でした。
終わり
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