仏壇の前に立つと右手に父と母の写真が、左手には亡くなる4日前の長兄の写真が粗末な黒い額縁に収まってある。 母が物資のない戦後間もない時期に精一杯探して兄の遺影を飾り、朝夕眺めガラス越しに兄の写真を擦ったことだろうと母の気持ちを想い眺め線香に火を灯した。
ここの引き出しを開けると茶色く色褪せた古い4つ切りサイズのスケッチブックがある。兄は中國・北京に中学生でいた頃、肋膜炎で1か年間も休学をしていた。その弱った身体で、無蓋車に長時間揺さぶられ中国大陸の冷え冷えとした夜の小雨降る中を耐え祖国に帰国した。無事に祖国に帰国できたものの焼け野原に安住の地が定まるまで5度に亘りリュックを背負い移動した。私は兄の記憶と言えば多くは入退院を繰り返すベッドに伏せている光景でしかない。そんな訳で友人がいない兄は常にひとり空想の世界にいた。ひとつの世界は物理学者になる夢の世界でしかない。そんな環境の中で絵は好きで小学校の頃に日・独・伊三ケ国同盟絵画展に入賞するほどだったようで遺品がスケチィブックが納得できた。だが画材は外出ができず雑誌の写真を模写して楽しんでいたようでだった。
好きな物理の専門書を手に得るには私を神田の古本屋に元気な頃に下見した記憶をメモに買いに行かされものだった。
そして、初秋の或る朝、母ひとり見守る結核療養所のベッドで25歳の人生を終えた。大学のキャンパスで友と語ることもなく、研究室で研究に没頭することもなく・・・夢は果たせぬまま兄の描く人生は未完のまま終えた。
結核療養所のベッドの下からは、隠すかの如く好きな専門書や哲学書の本が出てきた。その本の運び屋は全て弟の私であった。その時母が気づいた。病室の壁の隙間に細い竹竿に、千代紙をハサミで鯉のウロコを一枚づつ切り貼りした全長が13cmの大きさの鯉のぼりを竹竿に結び付けて、子供の様にひとり5月の端午の節句を祝っていたようだ。母には何かを言い残していたようだ。その後、何十年もの間、仏壇の傍らにあった。ところが母が痴呆になってからは何処にいったのか見当たらない。もしかしたら母の胸に抱かれ葬儀社の手によって葬儀の納棺の折に入れられてしまったのかも知れない。余りにも薄幸な長兄への母の愛情の所業だと思うこの頃である。
終わり