気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

大きな鬼の面を逆さに背負う鬼子・・・黒石寺の蘇民祭

2016-04-29 17:09:41 | 小さな旅日記

  入社して数年が過ぎた頃、上司から広報宣伝誌の記事取材の指示がでた。 厳冬の2月14日で、しかも雪深い岩手の水沢である。 山門の天井裏に報道陣と同じ待遇だからと言う。 「日本三大奇祭」或るいは「日本三大裸祭」と言われる「黒石寺の蘇民祭」の取材である。 頃は、昭和30年の中頃であったと記憶している。

 実は、その時の取材したフイルムのモノクロの35mmネガのべた焼きが見つかったので投稿してみようと言う気になったのである。しかし、そのべた焼きからコピーするので解像度は悪いのに決まっている。 当時を振り返るとフイルムの感度はカラーでASA25,ASA10,モノクロでASA50の時代だった気がする。 

 ニコンの35mm一眼レフカメラに大きなフラッシュを旅行鞄に入れて夕刻に会社をでた。 当時は夜行列車であった。 

 紹介された観光課に出向き打ち合わせをすませ午後10時を待った。午後8時ごろから人が山門に集まり始めた。 行く途中で酒に酔った若い女性にからまれ写真を一枚撮ってその場の難を逃れた一コマもあった。 山門の天井裏に大きな梯子を掛け報道陣を上げると梯子は外された。明け方近くまでは降りれない。 随分と高いところにあるには驚いた。(当時の参拝控え室は筵、露店も同じ) まだ、高度恐怖症は現れていなかったのが幸いだった。

 災厄避けの神として、平安時代までさかのぼり信仰の対象になっている。 1000年の歴史がある。 詳しいことは、ものの本に委だねるとして、当時聞き及んだ話では村を東西に2分し、男衆が紫燈松(ひたき)と呼ばれる松明を掲げながら行進する。 午前2時、数え年7歳の男児2人が扮する鬼子が本堂に入り、福物の餅を境内に撒いた。(この当時の男児は数えの5歳に見えた)

   [注] 鬼子の男の子の背には大きな鬼の面を逆さに背負わせられていた。

 午前5時、鬼子が本堂に戻る。そして「袋出し」の「蘇民袋」を男衆が争奪を競う。 蘇民袋の首に近い部分を持った者が、その年の「取主」となり、そして、東西どちらかの土地が豊作になることが決まる。その地の五穀豊穣を祈願する奇祭である。全裸の男衆の裸祭も全国で唯一伝統が続いた黒石寺も2006年で全裸は許されなくなった。(閉じた山門前)

 初めて昭和30年半ばで見た奇祭。伝統行事は続いている。 地方にはまだまだ庶民信仰から生まれた昔話があり、興味が再び涌いた。そして、当時、こんな夜中に子供を起こしているなんて・・と疑念を抱いた記憶を想い出した。

 そして当時は取材を終えると、休む余裕もなく、そのまま東北本線の水沢駅に向かった記憶である。当時の普通列車は背当てに布張りのない、しかも垂直な木造の椅子の三等席で疲れを癒した。余りにも古い昔の話だが不思議にも記憶が残っているものですね。

写真は35mmと言えども鮮明だったが拡大コピーのため無理でした。 

終わり


もっと、歩いておきたかった街  ウオルナットクリーク

2016-04-21 14:01:08 | 小さな心の旅日記

 孫の住む街は米国の西海岸のサンフランシスコにある。             正確に言うとサンフランシスコの中心地ユニオンスクエアーから80km程離れた郊外都市ウオルナットクリークである。 ここはサンフランシスコ湾のイーストベイ地域にあり、車でハイウエイだと1時間の距離にある。 季節的には3月から乾季に入る。 夏場に上着が必要なサンフランシスコと比べ気温は高くなるが、湿度がないのでむしろ過ごし易い街である。

 私はサンフランシスコ国際空港に降り立つと、ロビーで娘の迎えを受ける。    もう、20数回以上も世話になっている。 初めの頃は孫の歓迎も受けていたが、今では孫も大きくなり娘ひとりで迎えでやや寂しくなった。 

 自宅に向かう途中で昼食をとる。 空港から直行でも100km程の距離で一時間半の行程だ。 空港からR100でサンフランシスコの中心を抜けてベイブリッチを渡る。 6車線の山間のフリーウエイを走り、ウオルナットクリークで下りる。        

 この街はある調査で「全米一美しい街並み」に選ばれたと言う。         無料の観光バスが市中を循環コースに沿い走っている。

 小さいエリヤだが、街はずれでも綺麗な並木と歩道と店構えが続いている。  NYのブランド専問店や有名なレストランなどが立ち並び、来店客は店前の歩道でベルボーイにキーを渡すだけ。$7で駐禁道路に駐車とは・・。 Pが足りないだけに特権扱いとは・・・。 

 

 最初の頃は、ひとりで街中を歩き、店を覗き、歩道のベンチに座り、疲れればCafeで一杯のカプチーノで喉を癒し、悠久の時間を楽しんだ。

 市中にあるビングクロスビーピアノ&バーで娘とふたりしてカクテルを手に往年の懐かしい曲に触れたり、スコット爺さんのステーキハウスで傘壽の祝いをして貰ったりしたのもこの街だ。 

 この街を支える自然も豊かで美しい。 時折、お愛居に夫婦鹿や親子連れのワイルドターキーに朝の挨拶をうけることがある。 

ウオルナットクリークは、こんな自然に囲まれた街だ。 

 もっと、もっと歩いて置きたかった街だ。

終わり 

 


一秒もない時間が運命を分けた

2016-04-19 10:19:18 | エッセイ

  手入れを疎かにしている我が家の庭にも春の訪れがある。

 枯れ葉に覆われた地べたに隙間をねらい健気にも芽をだしている。 梅、寒椿、山藤も花を咲かせ彩を見せてくれた。 だが、気になる鉢がある。 昨年も開花がなかった。 この春にも開花がなければ、もう咲かないのかも知れない。 それは30年前にもなるが、栃木を去る時に株分けして貰った「日光きすげ」である。 28年間は咲いていたのに・・。そろそろ限界かな。 数年前にはこのような花を咲かせていた。 

 友人が撮る花の写真をFacebookで見ながら或るコメントに眼がとまった。 それは留学時代の学友との巡り合わせに感謝している娘の友人のコメントがあった。 

 それは米国から子供を連れて里帰りをした時の娘とのことである。          夕刻、買い物に日ごろ遠いので行かないが、売り場の広いスーパーに、この日に限り私の運転で出かけた。 久ぶりな店舗の駐車場なので駐車に苦労した。 娘は「いやね。慣れない駐車場は・・」もたもたしながら、売り場に通じる階段を下り、カートを取り押して中に入った。 店舗内は人込みでごったがしていた。 進む先の通路で小さな女の子を抱いて立ち止まっている3人家族が見えた。 パパはこちらに背を向けていた。 娘は客の流れに沿い近づいた。 両人との距離が3mほどになった時、不意にパパが振り向いた。 両人の眼が合い認識をするまでの時間距離は更に縮まった。 「あ~・・」声にならない声を二人は発し、娘は立ち止まった。 「・・ちゃんでしょう。何でここにいるの・・・」話にならない話をしていた。 

 もし、パパが振り向かなければ・・、振り向いても娘が通り過ぎれば・・その店に行かなければ・・また、里帰りをしなければ・・永遠に会えなかった。 

 20年ぶりの奇遇である。 日本人の留学生の少ない大学で共に肩を寄せ合い、助け合いで頑張った仲間であった。 これを運命と言うべきだと思う。 各人のもつ情報を一本に纏め小さな同窓会を開いた。 どんなにか懐かしく幸せなひと時を抱いた里帰りだったかと思う。

 奇跡とか運命とか、どのようにして導かれるものかは知らない。

 「日光きすげ」にも奇跡が起きれば・・。何も肥料お手当もせずにおこがましい。

終わり  


今日一日の出来事・・・八重桜

2016-04-18 20:42:49 | 日記

 今朝、講演会に向かう妻を駅に送ることになっていた。 

 庭先を見ると、雨に濡れた庭石が乾いていた。 ひとりになるので、あの「スタバ」にでも行くか・・雨も止んだことだしと、カメラを手に運転席に座った。 

 妻を送っての帰路、気持ちもいいので遠回りをした。 八重桜も昨日の雨と強風で散ってしまったと思っていた。 たが、東京と比較して開花が遅く散らずにあった。  ここに永く住んでいながら八重桜の並木が数キロ以上にも続いているとは知らなかった。(時々横になる。首を曲げて見て)

 むしろ、染井吉野桜並木よりも永い道沿いに・・。 歩いて数分の距離に・・近いが坂道沿いは景観が良くても私には無理だ。だんだん歩くことさえ制限が付く始末。

 ぶつぶつ言う前にCafeでもとばかりに「スタバ゛」の駐車場に入った。 どこも満杯。 何で、まだ10時前なのに・・。しかも、ここは住宅地だ。 外国並みにモーニングの文化でもあるのか。  

 しぶしぶと諦め自宅に戻った。 ココアを飲みながらPCにカメラから抜き取ったSDカードを差し込んだ。  

  夕刻近くになり小雨が降りだした。 

携帯が鳴った。 「いま、駅に着いた」 妻からのメッセイジだった。

 今朝、朝日新聞の「熊本11万人避難 死者2人不明10人前後」の記事には心が痛む。ご冥福をご祈念申し上げます。

そのほか「老後破産」、外交問題など問題が多いのには驚くばかり。

今日一日の出来事事でした。

 終わり 


遠くなった昭和・・

2016-04-16 01:30:17 | エッセイ

いま、私の眼の前に三冊の文庫本が見える。 

 その本は 五木寛之著「わが人生の歌がたり・・・昭和の哀歓 昭和の青春 昭和の追憶 」とある。 更に頁をめくるとラジオ深夜番組のテーマ「流れ行く川のように時代は移り、人も変わる。 その後に一つの歌が残り、過ぎゆく季節の記憶を奏でる。とある。 

 わたくし自身、もうひとつのラジオ深夜番組のテ-マに会えたことで、会社人生の中で過酷な試練を味わった時期に希望と癒しをくれた深夜ラジオ番組であった。        注:2015/01/11「希望と癒しをくれた深夜ラジオ番組」に記してある。

 イヤーホンからは同年代の小林 旭さんが歌う声が聴こえている。        誰かと語らなかったら、昭和は遥か遠くなる。 

 時は川のようにうに流れる。 気がつけば、いつしか川下にいる。

誰しも語りあえる想い出はある。 懐かしい想い出は「心のふる里」であり、心を和ませてくれるものだ。

 短いとは言わぬが、永いとも言えぬ残りの人生を爽やかに歩くことで昭和を想いだそう。 

 「船頭小唄」の野口雨情記念館、「青い山脈」の石坂洋次郎博物館、「路傍の石」の栃木市山本有三資料館などへ気持ちだけでも歩いていきたい。

 時計の針は零時を回っている。 明日に延ばせば一日人生は短くなる。

 終わり