気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

「厳頭之感」に亡き兄を偲ぶ少年

2017-12-14 22:09:04 | エッセイ

 昭和25年の春。

 少年には7歳違いの長兄がいた。 次兄は戦前に早くに亡くなり、長兄は病弱な上に中国からの引き揚げの労苦が重なり25歳の若さで結核療養所で亡くなった。亡くなった時、病床の枕元には物理学の蔵書2冊が病人の床には不釣り合いに置いてあったと兄と歳の余り変わらぬ従兄が言っていた。物理学の研究者になるのが夢だった兄はこのほかにも良く哲学書も読んでいた姿を見受けられた。少年は休みになると母の代わりに衣類や食料などの運びなど、また兄からは神田の古本屋に専門書を買いにいかされたりした。 そんな折に思春期の悩みに触れ、兄から人生論などを諭され、その中に感銘を受けた同年代の少年の遺書の文言があった。

 1903年の5月22日に栃木県の華厳の滝に投身自殺をした旧制一高生 藤村 操が厳頭の大きなミズナラの樹肌を削って書き残した文言が当時の社会の人々に大きな衝撃を与えたものだった。

 故兄に教えられた文言は多感な同年代の少年の心を揺さぶり、哲学青年の如くに興味をひき、そして諳んじた。    

 

  厳頭之感

悠々たる哉天壌 遼遼たる哉古今 五尺の小躯を以て いま、此の大をはからむとす。ホレーショの哲学 意何等オーソレテイーに価するものぞ 萬有の真相は唯一言にして盡す、曰く「不可解」。

 我この恨みを懐いて煩悶、既に死を決する至る。厳頭に立つに及んで 胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

 

 時には、朗々と弁士の如く少年は詠んで酔っていた。 この碑は華厳の滝にあり。 だが、見たことがない。 社会を憂い、人生を憂う・・・。 この齢を迎えて再び想い起こされた。 

少年は兄を慕い、人として兄を尊敬をしていた。入退院を繰り返していたので写真が残っていない。 唯一、残っていたのは亡くなる4日前に余命を知っていた従兄がベッドの上の兄を撮ってくれたのが、たった一枚の遺影である。

 兄の遺影は少年の家の仏壇に父と母と並んで飾られている。 中國引き揚げ者で自宅病床生活者であった兄には友人がいない。 したがって、本が友人であったのかも知れない。 仏壇の引き出しには今でも小学時代に三国(日本、ドイツ、イタリア)同盟児童絵画展で入賞したことがある兄が肖像画を描いたスケッチブックが残っている。 女優の高峰秀子さん、妹の幼い頃などの数人のスケッチ。 傍には母に贈った5月の節句に入院前のベッド上で千代紙に裏に厚紙をあてて鯉のぼりを作り熱を出した話など封印されて仕舞われている。

 こんな話に転がったのは、いつもの国際電話でサンフランシスコに住む娘から、何を想ったのか、長兄の話を問い尋ねられ想いが少年の如く呼び覚まされたのでしょうか…。

想い出とは、こんなにも細やかなことで触発されるのですね。

少年は亡き兄に心の中で会う事ができたでしょう。

終わり  

 

 

 


冬の弱い陽ざしに誘われて・・・散歩

2017-12-12 13:45:46 | エッセイ

 早々とクリスマスカードが届いた。 と言ってもフォーシーズンズカードである。 出窓から入る冬の弱い陽ざしを浴びながら、妻は仕事である子供たちとのクリスマス会の英語の劇の発表の準備に追われていた。 それを横眼にみながら、ここ数か月はあまり歩いていないのに気づき、差し込む陽射しに誘われ駅前に出かけたい衝動にかられた。 

「調子が良いので駅前にカードを買いにいってくるよ・・・」と言うと早速着替え始めた。 脱ぎ替えするのに20分は掛る。 出かける前に疲れてしまいそうだが、もう止まらない。毛糸のジャンバーを羽織り、妻が選んだハットを被り、娘に贈られた愛用のRockportの靴を履きおろし颯爽と杖をもって門を押して道路に出た。 

 カメラを忘れずに持ち、しかもシャッターを押すのを忘れないように気をつけて歩きはじめた。 腕時計の針をみた。2時だ。 バスは2時5分発だ。敬老パスはありがたい。 バス停まで桜並木の下を歩く。 西日を背に時刻表をみた。 駅までは5~600mかな。この頃は老人が乗車して席に座るまで車は動かない。 昔とは大きな変わりようだ。 バスは桜通りを抜けて楓の並木の大通りを走り駅の近くで銀杏の並木にいつしか変わっていた。バスは駅に着いた。ふと、黄色に鮮やかに彩どられた一本の銀杏の木が葉も散らずにあるのが目についた。 ビルの影にあったからか・・。 小さなカードやさんは冬なのに扉を開けてアメリカの海浜の店の雰囲気を漂わせていた。丁度、風が吹き込み並木の枯れた落ち葉が店内に転がってきた。娘家族との最後の旅行先での想い出が蘇った。 そこはカリフォルニアの南下したメキシカン漂う海浜での小さな店だった。日本的なカードを買い店をでた。 

 小さな駅ビルの花やはクリスマスムードだ。 通り抜けてロビーにあるいつもの珈琲とパンを食味するPaulの前で立ち留まった。至福の時間を楽しむか考えた。楽しむに決まっている。

 2番バス停の71系統で大きなタクシーのようなバスで家路についた。バス停を降りると、西日がきつく、でも気持ちのいい久しぶりに味わう陽射しだ。以前はTV局の西日の撮影ポイントだった我が家の前の道路はいまでは静かだ。

妻が主宰している組織の文字が吊下がる玄関扉を開けて「ただいま」妻の声が「大丈夫でした・・・」それに答えて「だいじょうぶだ。気持ちがいいよ」(実は疲れていた)

自室で着替えているうちに、いつしか陽が沈んでいった。

なんら他愛のない平日の日のひとときでした。 こんな平和な日が、あと何日続くのでしょうか・・・。不気味な事柄が首をもちあげてきている。 エルサレム・・、北朝鮮・・

終わり


たかが、墓なれど…風雲ときを告ぐ!

2017-12-10 13:00:57 | エッセイ

  日増しに寒さが厳しくなってきた数日前の或る晩のこと。

 いつもより早い夕食もすませ、少しばかり睡魔に襲われ早くも自室の椅子にもたれ掛かり、うたた寝をしていた。 どれ位過ぎたのか、机の上の子機が鳴った。 

受話器を取ると久し振りに直ぐ下の弟からだった。 「久しぶりだな。どうした、みんな元気か・・・」すると弟は「兄貴の方は皆さん元気か・・・」「ところで友人から相談を受けた話なんだだけど・・・墓の埋葬の話なんだ」

それから延々と話は続いた。「そう言えば兄貴の処も同じ環境なのかな」と言いだした。 そう言われればそうだと気がついた。 

話と言うのは弟の友人は次男坊で、子供が独立し夫婦ふたりだけになりしかも、独立した息子はいるが子どもがいない。そこで友人は先祖の墓に兄と兄弟仲良く埋葬になろうと言う話であった。 子供のいない息子も墓を持つ気がない。 しかも、先祖の墓を継いでいる兄にも息子はいるが孫の代に娘しかいなくなる。脈々と続いた墓も跡取り問題が難しくなるのは必至だ。更に墓を返納となると本来埋葬されない次男の遺骨引き取り手がいない。墓がなく子がいなく・・・。 

そう言えば、お盆の時、息子に連れられ先祖の墓参りに行ったときに気づいたのは、両サイドの墓が消滅されて整理されていたのを想いだした。

「他人ごとではないな、我が家は息子がいるものの次の孫の代になると娘ふたりだ。 娘のところに男はいるにはいる。 アメリカ国籍の孫息子だ。予め対策をしておかないと後2代で消滅は明らかだな」「永代供養墓にするか、それとも散骨かな・・・」と弟と苦笑した。

天から突然降って来た話だが、大事な話だ。 我が家にも現存する跡取りはいるが孫娘である。内孫娘はまだ6歳と1歳と小さい。やれやれ爺のやることは、まだまだ山積している。

外の陽射しは明るい。 散歩にも出かけてみようかと言う気になった。

終わり