気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

昭和の薫りを残した喫茶店

2016-11-24 20:38:47 | エッセイ

この頃,ブログをご無沙汰している。                        今日は、久し振りの遠でである。杖を突きつき10時に自宅を後にした。バス停まで250mを歩き優待パスで駅へ5分で・・。 電車に乗り換え15分で三軒茶屋駅まで行った。 駅から地上にでるのにエレベーターが完備されていて助かる。それから、たった200mの距離を10分もかけて目的地に歩いた。 

 三軒茶屋と言う街はよくは知らない。 古い街である。 都電のような街中を走る世田谷線の始発駅でもある。記憶されてるイメージはプラットホームが都電並みに低い。素朴なローカルな風情が薫るダイコン畑の中を走るイメージだ。何かが期待できると期待し歩行が許される限り歩いた。 

 やはり、昔懐かしい昭和の薫りが漂う喫茶店をみつけた。 今は、スタバとかタリーズとかCafe流行りである。厚い木製のドアを引いて開けるのだが重くてなかなか開かない。やっと入れた。 腕の筋力が落ちたか・・。店内は薄暗くカウンターの中にいた白ワイシャツにネクタイ姿のマスターがカウンターを勧めた。 厚さ120mmもある1枚板の古色蒼然たるカウンターだ。帽子を脱ぎ、ショルダーバッグを置き暫し落ち着いてから「ホット」とひと言だけマスターに告げた。これでよいのだ。 グアーと豆をミルに・・五月蠅い音だが妙に雰囲気に合うから不思議だ。ドリップのネルの生地を用意しだした。挽いたコーヒー豆を入れたネルの生地を一度湿らせてから白湯を注いだ。 正面の棚にはカップが同じ絵柄がふたつとなく40カップほどが並んでいる。 マイセン陶器のようだ。 「どうぞ、お待たせしました」とマスターの声がしてホットが届いた。 まず、砂糖だけで口にした。 旨い。それから、ミルクをいれた。

 暫し時が過ぎ、椅子席の辺りを見渡した。 客は適時な距離感に散らばっている。 語り手と聞き手の組み合わせの白髪の老婆会これは失礼!。 数人の初老婦人会。 ひとり読書に耽る初老の男性。そして歩き疲れを癒す私の4組。 低い会話しか聴こえない。静かな空間だ。 

 婦人会のひとりが立ち上がりレジで支払いをすませ店を出て行った。 よくレジを見ると、古い年代物の木製の3段引き出し箱が現金出納機のようだ。 カウンターと同じくらい古い遺物の感がした。

 私は疲れを癒し、珈琲を飲み終えると、一杯600円の珈琲代を支払い重い扉を押して外にでた。 忘れかけていた。 喫茶店と言う自分の世界に浸れる静かな空間があるのを・・・。 満足をした一日でした。 

終わり


いざ行かん、午後の散歩に!

2016-11-07 18:03:22 | エッセイ

 やっと、体調不全から脱出に向かったようだ。 一時は欠席と届けた昔の仲間との集いにも参加した。 完熟した柿を鳥に採られまじとばかり、張り切って筋力消耗したりと少々調子に乗り過ぎた。 

 それでも、今朝眼が覚めて感じたことはすこぶる快調のようである。いつもの体操をすませ、メモを見ながら今日やる予定の連絡事項もすませた。

 ふと、この頃、散歩をしていない。 運動にならず、むしろ苦痛になる散歩だからだ。でも、今日は歩きたい気分だ。 昼食をすませ、住宅地にできたスタバに以前とコースを変えて歩いてみよう。坂道をコースに加えても越えられるだろうと考えるだけでも気分はハイになった。 

 いつものラフな外出の姿になって歩き始めた。 首にマフラーを巻き、右手に杖を、左手にデジカメを、肩に一冊の本を入れたショルダーバックを下げ我が家をでた。 右回りに歩くことにした。 170~180mの坂道が最初の難所だ。 ところが、身体が軽い。 信じられな程の歩幅が広い。 ところが100m過ぎた頃、やはり駄目かと・・・。 坂の頂点に到達し、そのまま坂を下るのを避けて平坦な道路を選び、新築の家並みが並ぶ路を歩いた。 

 目標のスターバックが見える交差点に到着した。角にはOGGIと言う自転車専門店がある。単身赴任で還暦を迎えた折、つくばの自転車道を筑波山背景に会社人生最後の想い出に休日に近郊を走破しようと購入したのを想いだした。 単身赴任してすでに7年も過ぎていた。 随分軽快な自転車があるものだ~・・と、しばし感嘆する。 横断歩道を杖を突きながら渡り、コンビニで粗大ごみ収集シール200円を買う。 

 横断歩道を戻りスタバのガラス戸を押して入った。 まだ、午後1時半を過ぎたばかりで人いきれで店内は元よりテラスもドライブスルーも満席・・。 意外と敬遠されている重厚風な椅子の方に眼を移した。 やはり空いていた。 早速、杖で確保し「カプチーノ」を頼んだ。 マグカップで最初の一杯を口にしながらガラス越しに外のテラスの方を望むと枯れ葉が暫し風に舞っていた。久しぶりの歩きでの疲れか折角持参した本も膝の上で昼寝と相成る。 すっかり、深々とした椅子の助けもあり爽やかな休息を味わえたひと時でした。立ち上がり、スタバを後にした。 

 気づいてはいたが、外車が日本車より大勢を占めてるのに再度認識させられた。 外車が安く買えるようになったのですね。娘家族が住む米国の住宅地の車の国籍は日本車が大勢を占めていて、当初は驚いたものの、昨今は当然のように意にかえしていなかった。面白い現象ですね。 家も個性豊かになりました。 

 道すがら、首を右に左にと振りながら好奇心を満たし、心地よい疲れで我が家に戻った。 

 他愛もない、誰もが歩む散歩を、こんなに嬉しく、爽やかに、心が晴れた気持ちになれたひと時はなかった。 老いては些細なことの達成感がうれしいのですね。

終わり


美味な~食べたい~手描き地図が出てきた。

2016-11-04 19:49:30 | エッセイ

 日本列島では地震が続いている。 時間をかけて自室の倒壊の恐れのある建具や重いものは整理をしてきた。 重いアルバムなどは物置の中に保管されている。いつもの通り保管されているアルバムを取りに行くと、何処かに触れたのかドミノのように崩れて来て致し方なしと言う崩れ方だった。 地震だったら辺りも崩れるので、この比ではないのだなと思った。 

 自室に戻りアルバムのフイルム保管に面白いのを見つけた。 4枚の内3枚は単身赴任地の仮寓に近い市街地の地図だった。 残り1枚が箱根強羅のマンション近くの地図でいずれも手描きである。 ふと、更に思い出した・・・。娘から住んでいるWalnutCreekのDownTownの店街の地図を手描きしてくれと頼まれたことを・・。

 1時間も歩き疲れてスタバのテラスで珈琲を飲み、仕事を離れ、気ままな浮草のような歩きをしていた頃がす~と蘇った。さぼって手描きを放棄した記憶である。 

 恐ろしいことに単身赴任時代の手描き地図は全く記憶にない。 好きでやりそうだが記憶の隅にもない・・・ぶるぶるだ~・・。そろそろ始まったかな・・。

 恐る恐る地図を眺めた。 懐かしい名前を見つけ、店の 記憶が蘇った。

 今から、20年程昔の頃の地図である。 まだ、店があるなら行ってみたいものだ。 篝火の間を案内され、4.5疊程の小屋の炬燵に脚を入れ、琴の音を聴きながら食味する店。ホテルの最上階からBourbonWhiskyを片手にロケットを夜空に眺めたバー。これでもかと具沢山のクリームスープパスターが食べたくて用がなくても営業所に行く。相撲取りのちゃんこ鍋。遊びにきた息子と行った「屋台村」・・この時代か? 宇宙開発センターの夜桜は素晴らしい。農林省は更に黄色い菜の花畑が広大だ。光輪のフランス料理は店舗の造りも良い。台湾人が作るカレー入りの焼き飯は超一品。アイスバインの旨い店が・・。まだまだ想いだされる・・・。 

 眠くなってきた。昨日の庭の柿採りの疲れであろう。だって、高枝はさみ口が開かないので苦労をした。でも、20個はget. 早く息子よ採りに来い!!

明日は、懐かしい集まりがある。体力を温存しておきたい。

終わり


「泥棒・・・」と叫んだ母も今は亡く

2016-11-03 12:18:44 | エッセイ

 「圏外通話」とメッセージが流れて着信音がなる電話が良く架かる。 一時は身元不審と身構えたものだ。 米国に住む娘からである。 

 「もう、一時間以上も喋っているよ・・電話代が・・」と親として心配をする。

 昔、娘の留学時代は1ドル188円、電話は10秒単位❓円忘れた。確か、2800円位/分だったかな。緊急の場合に娘は交換台がコレクトコールで話をしている隙間に割り込み「電話を至急」と、言って切ってしまう悪知恵を働かす始末。交換台は怒るが時は既に遅し。いまや夢のような時代になった。

 単身のあの時、悲しいことがあった。 ひとりの少女の心臓移植手術の募金がテレビに流れた。昔の古い映画を観て翌朝、銀行に寄り送金をした。 

その時、ブログに投稿した原稿です。

「古き時代の映画を観て」

平成8年(1997年)の秋の訪れが始まった頃、古き時代の映画「二十四の瞳」Niju-shi no Hitomi poster.jpgを観た。
その折に記述した日記が残っていた。
読み直し、その頃に立ち戻ってみたいと思った。
    
 痴呆が進んだ母を介護し、いつもの通り車で目黒の白金から高速に乗り、ひとり住まいのつくばの仮寓に戻った。 今朝は遅く起きたせいか母は穏やかで時折りヒステリックになるものの優しく接すると柔和な笑みをしていた。
 終戦後、北京からの引き揚げの苦労で病弱な兄を亡くした事が母の悔やみである。
私は良く、その兄の代わりをさせられた。
 戦後の混乱の時に祖父の納骨に盛岡の先祖の墓所に夜汽車で行った。 余談だが、納骨なのに本に飢えていて車内のぼんやりとした薄明りの下で借り集めた本を一睡もせずに読み更けてしまった。

 墓は武士の墓らしく素朴なものだ。 帰る途中、仙台にある母方の墓所に寄った。
素封家の墓に相応しく数段上がらねばならぬほど大きく立派な墓に子供心ながら驚いた。

 会社に勤めて数年後、奈良、神戸、京都と母と二人旅をした。
また、軽井沢に父と母との三人で旅行をしたこともあった。 父も亡くなり母の体力からして最後の墓参りになるのではと昭和の終り頃、盛岡、仙台、白河と旅にでた。

 齢50を迎える頃になると、血がそうさせるのか、盛岡や仙台には単身赴任しても良いとすら感じる。
不思議なものだ。盛岡には故兄が眠り、仙台には戦後数か月住み学校にも通った地でもあるからかも知れない。

 しかし、単身赴任先は幸か不幸か、綺麗な美しい街 つくばになっていた。

 お米が生憎なく近くのセブンイレブンで夕飯の物を買い求め、更にささやかな色添えにドイツワインも買い求め食膳を賑わした。 
 米国に住む娘から土産に貰った18.6度のカリフォルニアのナパワインを探したが輸入されていない。
食事を終え、いつもの通りソファーに身を沈めTVのスウイッチを押した。
 有線放送で映画「二十四の瞳」が始まっているのを知りチャンネルを変えた。
昭和29年制作とある。


映画は昭和29年制作とある。
 当時の私は受験浪人時代でまだ都内には都電が走り戦後の後遺症がやっと癒えた時代だ。


 映画は昭和の初期の頃の小豆島の分校での先生と子供たちの交流の話で前にも観てると思うが、この頃記憶が薄くなってきた。 きっと、そんな昔に観たのではないと思う。
 時代が大きく変わったとは言え貧しさに心が痛む。

 会社生活にそろそろ終わりが見えてきたせいなのか。 それとも数年前に還暦を迎えたせいなのか、前から思っていたが人生を終えるのに会社に使われぱなしで終えるのは生きた事にはならないと思っている。

 或る経済雑誌に或る会社の相談役が90歳台が二人もいるのには驚くとともに、名誉欲と地位欲の飽くなき欲に哀れさえ覚えた。
 制度もさるものの辞退する者がいないのには情けない一言に尽きる。 
 仕事の責任を果たしたら自分の人生を飾るためにも思い切り自由に気ままに、心が踊りそして感激し、心を満たし残り少ない人生を何倍にも膨らませて生きるのが人間としての生きざまではないかと思う。

 心豊かに人生を送る事に意義を感じない者には貧しさに心は痛まない。 
 心の貧しさに哀れを感じる。

 この頃、歳のせいか涙もろく特に幼い子供には弱い。 
この間もカリフォルニアに臓器移植で渡米した幼い女の子に僅かばかりの寄付をしたが役にたたなかった。
 この映画を観終え、いろいろと考えさせられた。 
一日も早く仕事を終え人生計画を実行したい。
 心は常に青春で若々しく、これからが本当の人生の始まりだと思っている。

 大好きな つくば の街にもう直ぐ秋の訪れが始まる。
 この秋と来年の秋しか味わえない。任期満了を迎えるので・・・。

 生きていてこそ人生、感動があってこそ人生、好奇心に満ちてこそ人生、生き方に自信持たせて呉れた古い時代の映画でした。
 
 
 当時を振り返り思う事は、今も20年近になる記述した頃と考え方は変わってはいない。
人生とは歩いた路を振り返り振り返り観て、遠ざかって行くものですね。
 

 懐かしくなんども読み返した。

 母の呆けの進み具合を肌に感じた一齣があった。私が実家につくばから介護に来ていた或る日、郵便物を取りに玄関先にでた時の事でした。

   「泥棒です。電話をしてください」

 老いた母は裸足で丁度、自転車で通りかかった若い女の子に私の肩越に声を掛けた。携帯電話が普及し始めた頃で若い女の子は自転車を止め、今にも110番に電話を掛けようとした。

   「待ってください」

と言う私。

   「お願いします」

と、再度懇願する泣きそうな顔で母の声が・・・。

いまにも、泣きそうな顔と声で

   「わたし、どちらを信じたらいいのですか」

やっと、状況を悟った女の子は母を納得させ、その場を離れた。          その母もいない。

 数年前につくばを訪ね、共に仕事をした部下たちと旧交を温めた。懐かしき地は変わらず昔のまま息遣いていた。故郷を持たね私には、この地は懐かしき故郷にほかならない。

終わり