気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

運動靴をスニーカーに・・茶に変え元気に歩いた23年間

2017-04-30 10:50:04 | エッセイ

 いま、眼の前に「Rock Port」と書いてある靴箱が2箱ある。         娘が、何時もの靴をみやげにプレゼントとして持ってきてくれたのだ。 これまでは自分で買ってきていたものだ。 Dr.Stopがなければ・・・。この靴との出会いは今から23年も昔のことである。

 

   1994年、6月 単身赴任先のつくば市の街路樹が新緑に芽吹き始めた頃、ひとりで娘に会いに留学先のオハイオ州コロンバスに飛んだ。卒業式に参列し終えて更にフロリダ州オーランドに向かった。

 6月のオーランドは真夏日の暑さである。 至る所に鰐が生息しているだけに湿度が高い。 辺り一面に芝生が広がる地に点在するリゾートホテルに宿をとった。 ルームチャージ $40と安い。何と日替わりには驚いた。 旅行カバンを開けて着替えた。ソファーに座りスニーカーに履き替えていると娘が「お父さま、随分くたびれたスニカーね。買い換えたら・・」「そうだね。記念に買って帰ろうか・・」と他愛のない会話を交わしていて朝を迎えた。2階建ての低層ホテルである。テラスに出て空を見上げた。 遮るものはなにもない。 広いの一語に尽きる。大きな虹も見た。そう言えば無数の気球も観た。長閑だ。

 かねてから機会を狙っていた東海岸にあるケネデイ宇宙センターに行くことが果たせた。しかも、向井千春さんが搭乗する1週間前に遭遇した。この時はまだ日本から履いてきた白の運動靴のままで・・・。

 朝から靴の店を数店案内してくれた。日本で買って履いている靴は革製であっても、当時の私の認識では「スニーカー」でなく「運動靴」である。運動靴だから色は「白」である。「色」の論争になった。論争は「白」と「茶」である。ここでじくじたるものがあったが、変化を求めると言うことで現Pixarのデザイナーである娘婿推奨の「茶」を選択した。それ以来「茶」しか履かなくなった。

 この時、選択した靴のメーカーがRock Portの商品だった。それ以来米国に行く度に1足は買って帰るようになった。サイズはUS8.5に始まり、いまでは9.0である。サイズも色もデザインもおまかせは実に楽だ。こんなユニークな靴もあった。当然、直ぐに買った。靴紐までがwater Proofの雨用靴が売りにでた。異色の商品だ。

 こうして、想い出深い靴になった。

  待てよ、これまでの靴の寿命は2年半だった。これしか履かないから早い。    だとすると、2足で5年は元気で孫たちと遊べと言う意味を込めているのかな。歩けと言うことか。車椅子を使うと靴底は減らないが・・。 

 ま~いいさ。娘のためにも自分のためにも元気を誘う靴にほかならない事には変わりはない。

終わり                       


お爺ちゃんがアメリカで触れた面白見聞記 [加筆版]

2017-04-27 00:08:54 | エッセイ

 会社人生を終えた機に娘家族が住むサンフランシスコに16年間通いつめた。  仕事での訪問と違いまた、旅行のツアーとも違い、普段見ない裏側をみてきた。  それが文化の違いである。 見たまま、感じたままを率直に記述した見聞記である。   

 ・レストランで、まず飲み物をオーダーする習わしだ!
この頃、大分習慣に慣れてきたもののそのコップの大きさには参る。
生ビールの中ジョッキ並みのサイズだ。有料だから、いたしがたない面もある。 でも、変わってきた。
料理の分量も半端ではない。持ち帰れるから気にしない。

・残した料理は「to go」と言って箱詰めにして持ち帰れる
「この料理は買ったんだから店のものではない」と言う。確かにそうだ。
日本でも一部「doggy bag」と言ってた時期があった。
だが、良く考えると「生ものの残飯を自己責任で持ち帰って貰う」と言う都合の良い話ともとれる。
 持ち帰る箱は標準的には店のビニールの包装袋にいれて呉れるもの。高級Caffeでは立派な店名入りの手提げ袋にいれて呉れたのには驚いた。袋を提て歩きたくto goする客もいるそうだ。その時は店内でファッションショーをして半分ほどの客がto go をしていた。そう言う店でもto goできる風土であると言える。

・ 書店には休息用のソファーとカフェがある
あの頃、良く妻の子供の英語教育に関連する本を探しに書店に行ったが疲れたものだ。一般的に、書店では本棚の脇に立派なソファーがあり座って休息しながら読めるようになっている。
子供どもの本の前には広い遊びスペースと本が読める椅子がある。
更にCaffeもある。早くから開いていて、朝食に来る常連が多い。
当時、この光景を見た時は驚いた。
良い事には日本でも普及し始めて来た。


・ 自宅の郵便ポストから郵送ができる。
外国映画のシーンで見かける自宅前に郵便ポストがある。
そのポストに2×10cm程の札が付いているのを知っているかな。
普段は立てていない。
郵送して貰いたい時に、上向きに立てて置くと郵便物を持って行って呉れる。
大都市は別にして、あの青い郵便ポストは住宅地にない。
郵便局は遠いから・・。局まで行く時間を作るのに大変な仕事だ。敷地の入口にポストがあればよいが建物の玄関口にあると、敷地が広いだけに郵便屋さんの配達は大変な苦労だ。だから、新聞はガレージ前のコンクリートに投げ込んであるのも理解できる。 


・ 学校への送迎は必ず親がいないと子供を引き渡さない
爺も登録して歩きに一役を買った。スクールバスが送迎するのかと思ったが地方都市の話のようだ。
孫の通っていた小学校は2列に迎えの親の車が並び、交互に子供と親を確認し引き渡すと言うシステム。歩行組は先生に声を掛けて引き取る。 

・ 小学校に幼稚園の年長が付属している
州によって違うかも入れないが、したがって幼稚園は年中と年少となる。
呼び方は年長がkindergatonと呼び幼稚園はpreschoolと呼ぶ。
そして、kindergaton+小学は5年。中学は3年、高校が4年となる。
最終的には日本と同じ年数だけど9月進学で半年早い。
Kindergatonは同じ敷地内でも境界には仕切り壁があり、往き来できないようになっていた。    余談だが、大学には入学式はない。


・ スーパーマーケットで現金が引き出せる
買物した商品の精算の時にお金を引き出すことができるとは便利がいい。
買物の袋詰めは立派な紙袋に専任の店員が素早く詰めて呉れる。
要請すれば車まで待せずに運んで呉れるサービスには驚いた。老人には助かる。袋はビニールもあるが厚手の紙袋もある。しかも二重に・・・。勿体ない気がした。 

・ 買った商品はいつでも返品できる
どの店でも衣類など肌に付ける物でも、飴なども袋を破いていても、それぞれ返却の理由があれば30日ぐらいまでは返却できるとのこと。だが、レシートは必須。
要するに不満が残らないためなのか。
なんで此処まで顧客志向なのか「訴訟の国」だからかも知れない。

 

初めて触れた時は、あまりの文化の違いに驚きと好奇でみていたが、理にかなっているのも理解できた。悪戯に、常識とは・・・言えないものだと心に銘じた。 

終わり



脇道で見つけた昭和が薫るピッツア店・・・旅のエピソード

2017-04-23 00:08:01 | エッセイ

 もう、旅を終えて3週間も過ぎてしまった。この話はサンフランシスコの郊外に住む娘親子と旅した「直虎 おんな城主が眠る里」を訪ねた帰り道での出来事である。

 見知らぬ土地での昼食処探しをした時のこと。しかも街中心から車で30分程離れた田舎である。頭から店はあっても所詮、あるのは蕎麦しかない店であろう。 孫娘には可哀想だ。私は車椅子に座りながら中心街までタクシーで行こうと提案するが、娘は黙々とPCを叩く。「いいお店を見つけたわよ」とひと言。 龍譚寺のバス停の傍らにその店の広告看板が偶然にもあった。

 何故か「日本一」が気になった。タクシーを呼んで貰い運転手に行く先を告げた。 「事実ですよ。世界コンクールで日本一ですよ」と御推奨。確かに2015年の日本一を知り驚く。

 先ほどからの雨も雨足が少し強くなってきたようだ。 

すると、タクシーは樹木に囲まれた小さい洋館建ての古い白壁の店の前で止まった。これから春を迎え芽吹くであろう枯色した枝が絡みついた門柱を潜り、雨に濡れた木製の床を踏みしめ、小雨が降る中、店のドアを開けた。カウベルのような音色が響いた。ここ田舎町には期待を超えた佇まいの持つ雰囲気のある店構えだ。一歩中に脚を踏み入れると、若い頃に香いだ何かを感じとった。  

 更に、杖を突きながら期待を込めて店の奥に歩いた。奥に離れて二組の客がひっそりといた。「ここにしましょうか・・」と娘の声。 窓際でない落ち着いた角の席を確保した。 

 

孫娘らも店の雰囲気には満足をしたようだ。 西海岸で人気の高い店を誇るウオルナットクリーク育ちの孫にはご褒美のピツツアになった様だ。

 生地は薄いのと厚いのがあり、娘は薄く、孫娘が厚い生地の2種を注文した。焼き方にもう1種あった。私はスパゲッテイも食味したく注文し、シェアーすることにした。そしで最後に別腹でケーキーと珈琲も食味し満足した。 孫娘は鰻攻めでへきへきしていただけに残ったピッツアをペロリと平らげ、ご満悦の様子だった。

 ふっと、気がついた。また、やった・・。 食べるのに夢中になりピッツアの写真撮るのを忘れてしまった。皿上には無残にも・・ 残念。 永年の手脂で輝き古色荘然としたコーナーテーブル席も・・・。

 店の人に聞いてみた。「そうですね。もう、かなり古く歴史ある店です」との返事が返ってきた。

「直虎 おんな城主の里」を訪ねた旅の帰り路で、見つけた遠い昔の昭和の薫りが何処かするピツツア店での昼食のひと時でした。旅の脇道には何かがある。

終わり


車椅子になろう!・・・孫娘と小さな旅2

2017-04-16 08:38:50 | エッセイ

 浜松に旅行に行く前夜、届いた「車椅子」の操作練習と付属品を取り付けていた。取り付けているのは私ではない。

 折りたたんだ「車椅子」を持ってみた。重い!と叫ぶと、娘が「これが一番軽くて10kgしかないのよ。私たちには軽い・・」と言う。娘も大病・・で、もう・・歳だ。なのに・・。 そんなに力がなくなったのか・・・。情けなくなった。

 「まず、使わないよ。無駄だよ。電車に乗れないよ」すかさず「街中はタクシーよ。心配しないで」ときた。何がなんでも持っていく気だ」逆らうのは止めた。

 当日の朝を迎えた。駅まで運んでくれた。たった900mの移動にも車だ。    新幹線の駅までは電車で15分の道程だ。幸い始発駅なので楽だった。

 さ~いざ行かん~! いきこんだが、思わぬところに落とし穴があるものだ。   新幹線に乗車する時、「車椅子」の前輪の小さなキャスターが横になりホームとの隙間にはさまるアクシデントに遭遇。孫娘は車両が揺れるせいか抜けない。慌てるから余計に抜けない。近くにいた大人数人が手を差し伸べて呉れ難を回避できた。私が乘っていなかったのが幸いだった。周りの人の助けで初経験の「車椅子」との旅の第一歩がこうして始まった。

 これから何が起きるか予測がたたない。 もう、既に起きている。泊まったホテルの坂道に「ここは危ないよ」と孫娘の声が。見ただけで、ギブアップだ。重くて動かないよ~。逆走しそうだ。車椅子の利用範囲は可なり限定されるのを知った。      実際に「車椅子」を使ったのは旅の後半に入った龍譚寺を出て山里に下りてからである。 

 まだ、孫娘には車の運転経験がない。これとて車のようなものだ。 人混みが難しく歩いている人の足元をひっかけるかと心配をしたが・・意外とス~と・・。そう言えば、もう学科試験を修得してきて秋には実技試験を受けるんだと張り切ってるだけのセンスはある。米国は条件が付くものの16歳で自動車運転免許がとれる。 

 折角の旅だからと、舘山寺にも足を伸ばし満開の桜に囲まれた浜松城の天守閣に上り駅へと向かった。

 移動の度にトランクルームに「車椅子」をたたみ仕舞い、出しては組み立て平坦なところを選びと、操作する人は大変な苦労だ。   

 私は龍譚寺から車椅子に座っていて、歩くより楽をした。そして早いな~。

 「急ぐ時はやはり乗せるといいね」揶揄い笑いの母娘で会話して楽しんでいた。 つい、そうだろうな~と一緒に笑いの中にはいっていた。           「車椅子」持参はやはり安心の持参に繋がり旅も充実できた。          やはり老いては子に従えか。 

帰りの新幹線の時間が迫ってきた。 

 駅ビルのkiosukuでお土産を娘らが買ったいる間、入口で待つのに座ったままにいられるのは疲れなくて便利なものだ。 しかも、自前の椅子だもの。ご満悦だ。 

 いよいよ、旅の終わりを迎えた。                      駅構内を駅員の介助で車椅子に乗ったまま移動し車内の車掌に引き継がれた。      発車30分前にも拘わらず機敏に対応して頂けた。               目的地に着くと、席までに車掌が迎えに来られ、車掌の介助でホームに降ろされ駅員にバトンタッチをされる。                           駅員は改札を出てタクシー乗り場まで介助をしていただけたのには構内不案内だけに大いにありがたかった。

 後は、一路我が家へとタクシーは走り車椅子の任務は終えた。

 旅を終え、振り返りひとり考えた。私は「車椅子」を押す人と施設内を介助する人のふたりの世話になった。 二人に感謝し、一方たった二人ぽっちの世話でこんなにも行動が広がることも知った。 

 米国で触れた或る出来事を思い出した。それは娘の大学卒業式に参列した時のこでした。スタジアムの4階にエレベーターで上ろうと駆け寄った時、係員の大きな声がした。       「Handicap!]  大きく辺りに反響した。                  一瞬考え、理解し恥じた。    弱者に対しては徹底している。

まだ確か私は齢60だったと思う。階段を静々と4階まで上がった。

いろいろと考えさせられ、楽しかった「車椅子」の旅でした。  

 終わり 

 


NHK大河ドラマ「井伊直虎の墓碑が眠る里」を訪ねる…孫娘と小さな旅1

2017-04-10 12:04:30 | エッセイ

 昨夕、小さな旅を誘いに来日した娘と孫娘は慌ただしくサンフランシスコに戻っていった。 この旅は6か月も前から娘が計画し行き先が志賀高原、高遠桜と変転し、そして私の体調に合わせNHK大河ドラマ「井伊直虎」の墓碑が眠る里・浜松に決めた。   

 まず、体調不測に備え取り寄せた車椅子の組み立てを若干15歳になったばかりの孫娘が組み立て持ち運べるように準備して呉れた。重さは10kg。老いては子に従えとばかり、口出しを挟まず3人の旅が始まった。 

 だが、早々にトラブル発生。新幹線で同じホームの反対番線に並び間違い、30分遅れの次列車のしかも自由席に乘る・・と言う始末。孫娘の要望でゆったりと「こだま号」で時間を掛けて・・。降り立った浜松駅のホームから「井伊直虎」一色の旗めく賑わいには驚かされ期待感に膨らんだ。 

 まず、腹こしらいと・・昼食は「うな重」とばかり、駅前の老舗ののれんをくぐった。だが、席で孫娘の動きが可笑しい。 机の下に物入れの棚があり、脚が入らないと言う。 爺の脚が入ったのに・・。(短いから・・)やっと、理由が分かった。江戸時代の仕様なのか狭い。 うな重が遠くて食べ難いとぼやく孫娘。やれやれ、運勢が悪そうだから今後の行動に自重するよう心したが、その夕餉の煮汁で舌先を火傷をする羽目になる、その後のおみくじでも「末吉」を引き、孫娘は爺孝行に来日したのに意気消沈する。 因みに、娘は小吉、爺の私は大吉を引きホットする。

 初日は、天気に恵まれ湖上遊覧を楽しむ。浜名湖畔までタクシーで40分ほどの距離。駅だけでなく街中がNHK大河ドラマに盛り上がっていたのには驚かされた。 本番の明日に備えて早々にチェックインして就寝。

 タクシーを呼び、「井伊直虎」の墓所へ移動をした。運転手が観光説明員に選抜された人に遭遇し30分間のドライブ中、歴史説明を受けた。 直虎は男か女かの二人説や悲しいおんな城主の数奇な運命と陰謀に翻弄されたテレビドラマにない逸話を聴く。遠江・井伊家お家断絶の危機を救ったおんな城主としての聞けない話を聴けたのには現地に来た甲斐があった。 墓所は龍譚寺にあった。小さな寺にドラマ放映以来、見学者が急増し、当時のままの建造物の補強に努めざるを得なくなったそうだ。 廊下そして濡れ縁などが・・。歩いてみて今にもそこが抜けそうだ。

 寺の瓦に菊の御紋があるのに気づき娘に聞いてもらった。後白河法皇所縁の地との関係がある。神仏合体の時代をえて今日に至っている経緯があるそうだ。

 墓所は人混みが多く小高い起伏のある処に建立されていて、杖を頼りに歩くには限界になってきた。

 更に、昼頃から小雨。傘をさすほどでもない。

 余談だが、、傘を持つ習慣は米国には少ない。だが、しっかり者の孫娘は携帯の小型傘を持っていて爺にさしてくれた。  

 孫娘が「お爺ちゃん なかなか 車椅子使わないね。・・・。どうやって座らせようか・・」と小声でママの娘に囁いているのが聴こえた。やはり、大変でも乗ってやるのがいいのかな~・・・」頭の隅で一寸考えた。

 そろそろ、やはりお世話になりたい。ついに、平坦地になり、使うことにした。「やったあ!」嬉しそうな孫娘の横顔をみて素直に良く育った子になったと感謝した。3年前に会った時はまだ幼い女の子だったのに・・・。今じゃ見た目の背が165cm・・バスケのアスリナー、でも、内面は、まだ甘えの残る思春期の可愛さが残る,あどけない孫娘であるのが嬉しいかった。

最終日も、まだ雨、徳川家康の出世城と言われた浜松城を観て、小さな旅は無事に終わりました。

終わり